作成:2015/5
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-33
写真1 塩釜公園
写真2
塩釜公園の門柱 右側に「塩釜公園の沿革」と題した花崗岩の石盤(説明板)がある 中央奥に鹽竈神社の鳥居が見える
写真3
鳥居とその手前右側の鹽竈神社と刻まれている石碑 建立は鳥居・石碑共に平成12年10月
写真4
狛犬や天水桶、鳥居風の石柱門と社殿
写真5
稲荷神社、秋葉神社の縁起碑
写真6
稲荷神社の状況
塩釜公園・鹽竈神社に慰霊碑や復興碑などの関東大震災に直接まつわるようなものがあるわけではありませんが、塩釜公園は災害時の避難場所という視点を含めて関東大震災後に整備された公園であり、鹽竈神社の稲荷神社秋葉神社縁起碑には復興碑と碑銘を変えてもいいような内容が記されているなど関東大震災と深い係わりがあるようです。
震災当時、鹽竈神社は愛宕下町4丁目にあり、周辺は起震当日の夕方から翌日の未明にかけて北からの延焼によって焼失しました。(帝都大震火災系統地図より)
塩釜公園は鹽竈(しおがま)神社の境内を公園として整備されたものです。鹽竈神社は、仙台藩内(現宮城県塩竈市)にある鹽竈神社本社から分霊を勧請して創建された神社であり、もともとは仙台藩伊達家の私的な神社でした。
塩釜は塩竈あるいは鹽竈などと記述されています。
< 塩釜公園の沿革 案内板より >
江戸時代、この公園の場所は、仙台藩主伊達家の中屋敷内にあり、鹽竈(しおがま)神社の境内になっていました。
この神社は、はじめ元禄八年(1695年)に今の東新橋にあった伊達家上屋敷内に、領地の鹽竈神社本社から分霊を迎えて祀(まつ)られていたものが、安政三年(1856年)に移転され、邸内社として私に祀っていました。その後一般の人々にも参拝を許し、本社に同じく安産の神様として信仰を受けました。
明治になり、大名屋敷がなくなってからも神社は存続しましたが、大正12年の関東大震災の後、災害時の避難場所の確保と町民の安息や子供の遊び場もかねて、昭和5年に東京で唯一の町立*1鹽竈公園として開園しました。
その後昭和46年、港区が区立塩釜公園として整備しましたが、敷地拡張に伴い、この度、全面改造を行いました。
昭和59年12月
東京都港区
*1 町立とは、愛宕下町立です。公園の敷地は仙台藩伊達家の所有でしたが、関東大震災復興後、町民が憩える公園をつくろうという計画を伊達興宗伯が聞き約400坪の敷地を愛宕下町会に寄付したものであり、昭和5年に東京で唯一の町立公園として開園しました。その後、昭和47年に区立公園となりました。(港区ホームページを参照しました。)
鹽竈神社境内には稲荷神社秋葉神社縁起碑があり、この碑文によると
- 当町の守護神である稲荷神社と秋葉神社がこの地に鎮座せられていたが、関東大震災で1基の石灯篭を残して全滅したこと、
- 当町は古来より火災が極めてまれであり、食にも困窮することなく安心して住むことができたのは二神のおかげであること、
- 両社を再築し、昭和5年7月4日に神霊奉安の式典を挙げたこと、
- 二神の御利益により、当町の福祉が益々充実することを願い、碑を建てて社再築の由来を記したこと、
などが刻まれています。
稲荷神社および秋葉神社は鹽竈神社の末社と考えられ、関東大震災後に復興しました。また、鹽竈神社の狛犬の台座には大正15年と刻まれており、鹽竈神社は稲荷神社や秋葉神社に先立ち、震災直後に再建復興したものと思われます。その後、昭和20年の空襲で鹽竈神社は焼失していることから、縁起碑に記されている稲荷神社も秋葉神社も状況が変わったと思われます。現在は、稲荷神社は写真6のように敷地内に祀られていますが、秋葉神社は見当たりません。また、倒壊した石灯篭や石材の散乱状況などから、かなり荒れた状況にあります。