作成:2003/4
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-03
写真1 回向院 山門と参道
写真2 回向院 案内板
山門に向かって右側には案内板があり、それには次のように記されています。
案内板にある、明暦3年(1657年)江戸大火(振袖火事)とは、死者は十万人以上に達した江戸期最大最悪の火災です。この火事で火は江戸城本丸・二丸・三丸におよび、天守閣ほかを炎上させました。(国立公文書館所蔵資料特別展 天下大変 資料より)
写真3 回向院の石碑群
江戸時代の回向院は、正式名称を「諸宗山無縁寺回向院」といいました。・・・中略・・・ こうして開かれた回向院には、その後、火災・風水災・震災などで横死した無縁仏を葬るならわしが、幕府や市民の間に生まれました。 ・・・(回向院のしおりより)
大火、大地震、海難などの多彩な石碑群があります。また、この写真の後方には鼠小僧次郎吉の墓もあり、独特な寺院です。関東大地震による横死者の墓は、写真の最前列石碑群の最も左の石碑です。
写真4 関東地震横死者の墓
撮影:2003/3
石碑の中央には「大震災横死者之墓」とあり、右側には「大正十二年九月一日 九十有餘名」、左側には「施主相主理髪業組合」、そして香台には「両國署管内 大震災死者 石碑保存會」と刻まれています。
なお、大震災横死者の墓の向かって右隣の石碑には、「時維天明三年癸卯七月八日 信州上州 地變横死之諸靈魂等」と刻まれており、1783年の浅間山の噴火*による犠牲者の慰霊碑です
1783年の浅間山の噴火*
この噴火では火山灰降下、火砕流流出、溶岩流出があり、典型的な火山災害が発生しました。火砕流が鎌原村の集落(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原)を襲い、高所の観音堂に避難した93人を除いて477人が犠牲になるとともに吾妻川をせき止めました。天然の貯水池が出現し、さらに決壊して大洪水をもたらしました。その後の洪水対策、気温低下による農作物の減収と飢饉など噴火の影響は広範囲に及んでいます。
『利根川沿岸のこの洪水による被害はニ三カ村に及び、流失家屋一〇六一戸、死者一〇五一人、死んだ馬五〇〇頭であった。その当時、利根川は東京湾に流れていた。この時河口近くまで流れていた死体もあり、東京都葛飾区の柴又帝釈天にはこの時流れ着いた人々の墓がある』(大矢雅彦他、自然災害を知る・防ぐ 第二版 古今書院 1996)