作成:2003/4

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 東京 T-03

墨田区両国の回向院 -- 大震災殃死者の墓 ---

  • 所在地:東京都墨田区両国2丁目8-10 諸宗山 回向院(えこういん)
  • 碑銘:大震災横死者之墓
  • 形状など:墓石
  • 交通:JR総武線「両国」西口より徒歩4~5分(行程300m)
回向院の参道

写真1 回向院 山門と参道


回向院説明板

写真2 回向院 案内板

回向院

山門に向かって右側には案内板があり、それには次のように記されています。

  • 諸宗山 回向院
  • 明暦三年(一六五七年)江戸大火(振袖火事)に依る死者十万八千余人を弔うために建立された
  • 本尊 阿弥陀如来 東京都重要文化財指定
  • 安政大地震(一八五五年)の死者二万五千人余を初めとして 江戸府内の無縁佛、天災地変に因る死者も埋葬され 近くは大正十二年の関東大地震の死者十万余人の分骨も納骨堂に安置されています
  • 江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地がある
  • 明暦三年 大火石塔
  • 安政二年 大地震石塔
  • 鼠小僧次郎吉墓
  • 水子塚(寛政五年)松平定信建立
  • 猫に小判の話 猫塚
  • 勧進相撲発祥の地記念 力塚
  • 呼び出、定火消墓、木遣塚
  • 諸動物供養塔
  • 竹本義太夫墓
  • 岩瀬京傳、京山、加藤千陰墓

案内板にある、明暦3年(1657年)江戸大火(振袖火事)とは、死者は十万人以上に達した江戸期最大最悪の火災です。この火事で火は江戸城本丸・二丸・三丸におよび、天守閣ほかを炎上させました。(国立公文書館所蔵資料特別展 天下大変 資料より)




回向院の石碑群

写真3 回向院の石碑群

江戸時代の回向院は、正式名称を「諸宗山無縁寺回向院」といいました。・・・中略・・・ こうして開かれた回向院には、その後、火災・風水災・震災などで横死した無縁仏を葬るならわしが、幕府や市民の間に生まれました。 ・・・(回向院のしおりより)

大火、大地震、海難などの多彩な石碑群があります。また、この写真の後方には鼠小僧次郎吉の墓もあり、独特な寺院です。関東大地震による横死者の墓は、写真の最前列石碑群の最も左の石碑です。




回向院の関東地震横死者の墓

写真4 関東地震横死者の墓

撮影:2003/3

関東大地震の横死者の墓

石碑の中央には「大震災横死者之墓」とあり、右側には「大正十二年九月一日 九十有餘名」、左側には「施主相主理髪業組合」、そして香台には「両國署管内 大震災死者 石碑保存會」と刻まれています。

 なお、大震災横死者の墓の向かって右隣の石碑には、「時維天明三年癸卯七月八日 信州上州 地變横死之諸靈魂等」と刻まれており、1783年の浅間山の噴火による犠牲者の慰霊碑です




参考 浅間山の噴火

1783年の浅間山の噴火
 この噴火では火山灰降下、火砕流流出、溶岩流出があり、典型的な火山災害が発生しました。火砕流が鎌原村の集落(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原)を襲い、高所の観音堂に避難した93人を除いて477人が犠牲になるとともに吾妻川をせき止めました。天然の貯水池が出現し、さらに決壊して大洪水をもたらしました。その後の洪水対策、気温低下による農作物の減収と飢饉など噴火の影響は広範囲に及んでいます。
 『利根川沿岸のこの洪水による被害はニ三カ村に及び、流失家屋一〇六一戸、死者一〇五一人、死んだ馬五〇〇頭であった。その当時、利根川は東京湾に流れていた。この時河口近くまで流れていた死体もあり、東京都葛飾区の柴又帝釈天にはこの時流れ着いた人々の墓がある』(大矢雅彦他、自然災害を知る・防ぐ 第二版 古今書院 1996)