作成:2016/9
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-02
写真1
慈光院の木造の旧鐘楼と本堂
写真2 慈光院の木造の旧本堂
向かって右側の門柱には「震災記念 慈光院」とあり、左側の門柱には「築地本願寺 江東学園幼稚園」とある
正面には写真3の香炉が見える
写真3 香炉の背後の説明板
撮影:2006/9
東京都慰霊堂のある横網町公園の南側には道路を1つ隔てて慈光院と江東学園幼稚園があります。横網町公園も慈光院のある場所も関東大震災で3万8千人の人々が亡くなった旧陸軍被服廠跡地に含まれています。
本願寺は震災直後から、救護所などの社会事業を展開しました。慈光院は説教場が始まりであり、江東学園幼稚園は託児所が始まりです。
本願寺によって設けられた8カ所の託児所の1つである江東託児所は最初亀沢町に設置されましたが、区画整理により1924(大正13)年3月に現在の敷地(亀沢の西側隣接地)に移転しました。託児所は宗教法人を経て、2016年からは「学校法人築地龍谷学園 江東学園幼稚園」となりました
昭和3(1928)年9月1日の震災5周年には、本堂が新築され、木曾檜を材とし震災遭難者の遺骨粉を塗り込んだ阿弥陀如来像が本尊として納められ、入仏法要が執り行われました。
この阿弥陀如来蔵は京都美術学校教授の森鳳声のよって造られたものであり、遭難者の遺骨粉が塗り込められ、漆蒔金粉が施されています。また、体内にも長さ30㎝直径3㎝の筒に遺骨が収められています。塗り込められた遺骨枌は震災1か月後の大正12年10月1日に上野公園で行われた追弔法要の際に、市内各地から集められたものです。
創建当寺からの本堂(写真2)は解体撤去され、2016年3月に写真4の新しい本堂が完成しました。
< 香炉背後の案内板(写真3)より >
縁起
当院は大正十二年の関東大震災に最も悲惨を極め焼死者五万余を出した本所被服廠跡に築地本願寺が遭難者追悼と、聞法の道場として建立したものであります。御本尊阿弥陀如来は名匠森鳳聲氏が齊戒沐浴一刀三禮の苦心謹彫にかかるもので同年十月一日上野公園に於て厳修せる追悼大法要の際各方面より収蔵遭難者の遺骨を佛像に塗布し其の体内に収めた他に類例のない尊像であります。右の様な次第で宗旨の別なく皆様の御先祖御遺族御親戚知友の方々の御遺骨が混ざって居り誠に御縁の深い尊い御本尊で御座います。何卒御懇に、御参詣ください。合掌礼拝 南無阿弥陀佛
写真4 建て替えられた慈光院
工期は2015年3月~約1年で、新築後、最初の9月1日に撮影
写真5 慈光院と併設されている江東学園幼稚園(左の三階建の建物)
写真6 慈光院
建築主は築地本願寺であり、モチーフとして築地本願寺に倣ってインド様式が用いられている 仏教寺院独特の鐘楼にあった梵鐘は2階のテラス風の空間に設置されている
撮影:2016/9
慈光院の案内板によると、梵鐘と鐘楼は、「関東大震災および第二次世界大戦の一切の犠牲者をしのび昭和34年広く一般のご協力をえて完成されたものです。」とあります。旧鐘楼にあった梵鐘は、現在は新築された本堂2階のスペースに設置されています(写真6参照)。梵鐘にはその由来が次のように鋳造されています。ただし、文字は縦書きで1行の文字数は実際の通り。
慈光院は関東大震災を
記念して建立せられた
聞法の道場である茲に
有縁の懇念により鯨鐘
の鑄造を成就した願わ
くは慈光のもと梵音長
しえに一切の群萠を惠
みたまわんことを
昭和三十四年三月十日
築地本願寺輪番 太田淳昭
慈光院 主任 内手俊弘
門信徒 並 地元有志
釋正惠敬書
滋賀縣愛知郡湖東町
鑄匠 黄地佐平謹鑄
参考資料
資料1 江東学園幼稚園ホームページの あゆみ・沿革および慈光院 http://www.kohtoh-gakuen.ed.jp/contents/history.php
武村雅之(2012)関東大震災を歩く 現代に生きる災害の記録,328p