作成:2015/10

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-37

今に残る震災復興橋 --- はじめに ---

震災当時の横浜市

図 1 震災当時の横浜市 第二回(第2次)市域拡張
横浜復興誌(資料*1) 附図(市域拡張図)を編集

震災時の横浜市の市域

現在の横浜市は、明治22年に市制が施行された後、第1次~第6次の市域拡張を経て形成されたものです。

明治34年の第1次市域拡張では、久良岐郡戸太町、本牧村、中村、根岸村、橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町の一部が、明治44年の第2次市域拡張では橘樹郡子安村の一部、保土ケ谷町の一部、久良岐郡屏風浦村の一部、大岡川村の一部が編入されました。

関東大震災当時の横浜市は、第2次市域拡張によって形成された市域(図1を参照)であり、市域は横浜関内地区の外縁を大きく取り巻くように拡張していました。

なお、区が誕生したのは、大震災からの復興期の第3次市域拡張が実施された昭和2年で、同年4月に橘樹郡鶴見町、旭村、大綱村、城郷村、保土ケ谷町、都筑郡西谷村、久良岐郡日下村、大岡川村、屏風浦村が横浜市に編入され、同年10月に区制の施行によって、鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区が誕生しました。





図2 起工・竣功時期

図2 起工・竣功時期(データは資料*1より)


図3 震災復興橋の材料による区分

図3 震災復興橋の材料による区分
(データは資料*1より)


図4 震災復興橋の構造による区分

図4 震災復興橋の構造による区分
(データは資料*1より)


図5 震災復興橋の長さ 頻度分布図

図5 震災復興橋の長さ 頻度分布図
ただし、不明1を除く(データは資料*1より)


震災復興橋について

震災被害と震災復興橋

関東大震災当時、横浜市には、鉄橋35、コンクリート及び石橋16、木橋203の合計254の橋梁があり、約8割が木造でした。関東大震災による橋梁の被害は焼失37橋、墜落11橋、著しい破損49橋で、合計97橋でした。

ここで言うところの震災復興橋とは、当時の横浜市域(図1参照)における関東大震災の復興及び復旧事業によって新設・改築及び修築した橋梁を指し、横浜震災誌(*1資料*1)によれば、その総数は178橋梁になります。なお、178橋の震災復興橋のうち、国施工(復興局)が37橋、横浜市施工が141橋です。

震災復興橋の架橋の最大の目的は、交通網を復興・復旧することであり、将来の横浜市の発展を描きながら(都市計画)も急ぐ必要がありました。震災復興は道路、橋梁、河川、港湾を始めとして、市役所などの公共施設から個人の住宅に至るまで、全てが同時進行というようなあわただしさの中で、さらには第3次市域拡張も同時的に進められました。

今に残る震災復興橋とは

震災復興橋は当時想定されていなかった交通量の増加とその荷重にも耐え、その一部は今なお使用されています。また、新しく架け替えられても震災復興橋の親柱が移設あるいは復元されたりしており、当時の意匠を凝らした親柱は現在の横浜市の景観の一端を担っています。

ここで取り上げる、「今に残る震災復興橋」とは、補修や改築を含めた残存震災復興橋であり、これを主に河川別として次ページ以降に示します。架け替えられた橋は残存震災復興橋には含まれませんが、当時あるいは復元された親柱などが残っていることもあり、代表する写真を一覧として示すことにします。

震災復興橋の起工と竣功時期

図2は資料*1より、震災復興橋の起工と竣功の時期を年単位で示しています。起工の最多は昭和2年(1927年)で70橋、竣功は昭和3年(1928年)で86橋であり、震災復興橋の施工時期は大正14年から昭和4年の5年間が殆どを占めています。折れ線グラフは、起工累計から竣功累計を引いた値であり、施行中の橋梁数を示しています。昭和2年の年末には76橋が施行中でしたが、翌々年(昭和4年)の年末には殆どの工事が終了しています。

震災復興橋の材料による区分

震災復興橋178のうち、130橋(73%)が鉄橋であり、鉄筋コンクリート橋を含めると141橋(84%)(図3参照)になります。木橋は21%を占めますが、小さい橋が主体であり、震災復興橋の長さが15m以上という条件を付けると、全体114橋のうち鉄橋と鉄筋コンクリート橋が106橋(93%)を占め、主な橋梁のほとんどが耐震・耐火性を高めた材料になりました。震災前は鉄橋が35橋、コンクリート及び石橋が16橋であったことを思うと、震災によって大きなレベルアップが図られたことが分かります。震災では同時的に多地点で発生した火災により、橋が焼け落ちて逃げ場がなくなり被害が拡大したことのへ反省が、不燃材の橋梁を一挙に増大させることになりました。

震災復興橋の構造による区分

震災復興橋の構造(橋種)は図4に示すように桁橋が主体であり、不明とされるものの大部分も桁橋と思われることから、80%以上が桁橋と予想されます。桁橋はガーダー橋とも呼ばれ、現在でも最も一般的なタイプです。桁橋の例として、大岡川に架かる道慶橋を写真1に示します。道慶橋は河川中に二本の橋脚があり、橋梁の荷重を分散させるような構造が採用されています。

桁橋の他にはアーチ橋とトラスト橋がそれぞれ12橋と方丈橋3橋があります。写真2にアーチ橋、写真3にトラスト橋の例を示します。方丈橋の3橋は何れも長さ20m未満の木橋です。 写真4の新田間橋はアーチ橋と桁橋が組み合わされた複合橋ですが、中央の桁橋が主体であるため、図4の構造による区分では桁橋に含めています。




写真1 桁橋の例 大岡川に架かる道慶橋を上流側より望む

写真1

桁橋の例

大岡川に架かる道慶橋を上流側より望む


写真2 アーチ橋の例 大岡川に架かる長者橋を上流側から望む 石橋を思わせるような雰囲気がある

写真2

アーチ橋の例

大岡川に架かる長者橋を上流側から望む 石橋を思わせるような雰囲気がある


写真3 トラスト橋の例 中村町側より浦舟水道橋を望む

写真3

トラスト橋の例

中村町側より浦舟水道橋を望む
震災時、西之橋に架けられていたトラスト橋で、西之橋の上流2つ目の翁橋に震災復興橋として再利用された
現在はさらに上流に移動し、浦舟水道橋(歩道橋)として使用されている


写真4 新田間川に架かる新田間橋の例で、中央が桁橋、両サイドがアーチ橋 中村川に架かる吉野橋も同じ構造である。

写真4

その他の例

新田間川に架かる新田間橋の例で、中央が桁橋、両サイドがアーチ橋 中村川に架かる吉野橋も同じ構造である


写真5 親柱の例 谷戸橋の親柱(左岸上流側)

写真5

親柱の例 谷戸橋の親柱(左岸上流側)


写真6 銘板の例 「昭和二年五月 復興局建造」の銘(山王橋より)

写真6

銘板の例

2015/8~10撮影

震災復興橋の長さ

横浜市には東京の隅田川のような大きな河川はありません。横浜を代表する大岡川も帷子川も水源域から河口までの距離は15~20km程度であり、流域面積は小さく、川幅は河口周辺を除いて20~30m程度以下が主体です。また、大岡川も帷子川も下流部には江戸時代に始まる干拓地や埋立地が広く分布しており、今は埋立てられて消滅している水路がいくつもありました。このような環境のため、震災復興橋の数は多いものの、長さ10m未満の小さな橋も多く含まれています。図5に示すように、長さ30m以下が大部分を占め、40m以上は少なくなっています。長い橋梁は、既存の道路や河川および鉄道などをまとめて跨いでいます。

親柱や高欄の意匠

一般に橋は川の上を跨ぐことから、開けた空間に存在し、構造に由来する形状と共に親柱や高欄の造形によって、重厚感、軽快感、安定感、優美さなどの快い雰囲気を提供します。特に市街地の橋およびその袂(橋詰・橋際)は、憩を感じる空間でもあり、親柱と高欄の意匠がその効果を増大させています。

震災復興橋は関東大震災からの復興というあわただしさの中で架橋されたものですが、大正末期から昭和初期は土木構造物が近代化した時期にあたり、親柱には当時流行していたアール・デコ様式と呼ばれる様々な意匠が取り入られました(写真5参照)。アール・デコ様式とは、1910年代後半から1930年代にかけて欧米、特に米国で流行した様式であり、幾何学的(直線と円)、対称的、立体的な造形を特徴とするものです。大正デモクラシー、大正ロマン、昭和モダンと呼ばれる自由な時代を反映して、新しい造形が親柱に採用されました。震災復興橋の親柱の意匠は今日においても飽きられることはなく、震災復興橋が架け替えられても親柱は移設や復元される例が多いように、現在もその意匠が大切にされています。災害からの復興という、環境の厳しい中で、震災復興橋が単に交通の手段としではなく、景観を含めた都市機能として認識されていたと思われます。かっての汚れた水と浮遊するごみに川面が見えないような時代には人は川に背を向け、りっぱな親柱もほとんど意味をなさなかったものですが、川がきれいになり、周辺が整備されることによって親柱や高欄の効用が再認識されるようになりました。

橋名板、銘板など

金属製の橋名板、竣工年月表示板、河川銘板などが親柱などに設置されており、橋梁の情報源になっています。国施工の橋梁には写真6に示すような銘板が設置されています。写真6は、大岡川に架かる山王橋の例で、「昭和二年五月 復興局建造」と記され、竣工年月と施工主体が分かるようになっています。また、時には、請負業者社名や氏名が記されている例もあります。

照明器具や高欄などの金属部の喪失

残存震災復興橋と言えども当時の親柱の照明器具や高欄などの金属部の多くは失われており、照明器具などを固定するために穿たれたと思われる親柱の穿孔穴がモルタルで充填されていることも珍しくありません。金属の劣化が原因なら、補修や復旧をしなかったということでしょうが、主な原因は戦時中の金属回収(昭和16年の国家総動員法にもとづく金属類回収令)ではなかったかと思われます。小学校の二宮金次郎の銅像が金属回収令によって供出されたことでもわかるように、お寺の釣鐘から家庭の鍋釜・子供のおもちゃに至るまで金属回収の対象になった過去があります。

詳細は不明ですが、当時の意匠のまま現存するものは、当時のものと復元したものが混在していると思われ、架け替えられた橋梁は復元された可能性が大きくなります。橋名板はほとんどの橋梁に残っていますが、金属回収の対象にされなかったか、あるいは回収されたとしても無いと橋梁を管理するうえで不便であり、後に復元されたとも考えられます。




参考資料

資料*1 横浜復興誌 昭和7年3月 横浜市役所

その他の資料

羽野暁 大正.昭和戦前期橋梁の親柱・高欄デザインサーベイ 第一工業大学研究報告 第26号(2014)pp.63-71

時事新報付録 復興局公認 東京及横濱復興地圖 大正13年4月発行 時事新報社