作成:2015/10 更新:2016/3

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-37_1

今に残る震災復興橋(その1) --- 大井橋、鶴巻橋、蒔田橋(中村川分岐点より上流の大岡川) ---

  • 震災復興橋所在地:横浜市南区
  • 対象河川名:大岡川
  • 河川区間:中村川分岐点より上流
  • 残存震災復興橋:大井橋、鶴巻橋、蒔田橋(まいたはし)
  • 残存率*:/10で、%

残存率*とは架け替えられず、撤去されずに残っている震災復興橋の割合である。補修などがなされても残存しているとしている。

写真1 左岸より大井橋を望む 上流側の橋の脇には地蔵尊が祀られている

写真1

左岸より大井橋を望む 上流側の橋の脇には地蔵尊が祀られている


写真2 左岸下流側の大井橋の親柱と高欄

写真2

左岸下流側の大井橋の親柱と高欄


写真3 下流側より大井橋を望む


写真3 下流側より大井橋を望む


写真4 鶴巻橋の下流側の親柱と高欄を望む

写真4

鶴巻橋の下流側の親柱と高欄を望む

写真5 鶴巻橋の親柱と高欄


写真5 鶴巻橋の親柱と高欄

写真6 下流側より鶴巻橋を望む

写真6

下流側より鶴巻橋を望む

以上、2015/10撮影


大岡川に架かる震災復興橋

中村川の分岐点より上流の大岡川に架けられた震災復興橋は本川に7橋・支川に3橋の計10橋あり、その内の3橋はほぼ当時のまま残っています。

中村川の分岐点より上流の震災復興橋を本川と支川別に上流側より順に挙げると次のようになります。

本川

  • 越戸橋(木桁橋) 昭和41年9月 架け替え
  • 観音橋(鉄筋コンクリート桁橋) 昭和41年3月 架け替え
  • ・大井橋(鋼板桁橋) 昭和3年2月竣功の震災復興橋
  • ・鶴巻橋(鋼板桁橋) 昭和3年8月竣功の震災復興橋
  • ・蒔田橋(鋼板桁橋) 昭和7年10月竣功の震災復興橋
  • 井土ヶ谷橋(I形鋼桁橋) 平成25年8月 架け替え
  • 清水橋(鋼板桁橋) 昭和62年3月 架け替え)

支川

  • 千保橋(木桁)架け替え・暗渠?
  • 宿前橋(木桁)埋立
  • 十二天橋(木桁)埋立

( ・印付太字で示した橋梁は今なお使用されている震災復興橋。( )内は復興橋の橋種。竣功年月日等は橋名板による。当時の震災復興橋は全て横浜市施工。 )

大井橋

橋種:鋼板桁橋⇒桁橋(プレートガーダー橋)

(注)「⇒」の左側は竣功当時の橋種で資料*1による。右側は現在の表現に書き直し。 以下、同様。

竣功:昭和3年2月(親柱の銘板による)昭和3年2月24日(資料*1による)

位置:横浜市南区井土ヶ谷中町-大橋町

その他:左岸上流側に地蔵尊あり

写真1~写真3


大井橋 親柱意匠

親柱の意匠
資料*1より

親柱は資料*1によると左のような意匠が残されていますが、現在は照明器具は付属していません。

高欄には流水に浮かぶイチョウの葉がデザインされています。優れたデザインですが斬新さもあり、当時の意匠を引き継いでいる可能性は少ないと思われます。


昭和40年代はドブ川であった大岡川も水質は改善されてコイの泳ぐ川となり、遊歩道の整備もあって環境が大きく変わりました。観音橋から下流側、桜木町までの約2kmの間は昭和55年より遊歩道が建設され、大岡川プロムナードと呼ばれています。川の両岸には桜が植えられ、枝が川に向かって延びています。春には花見客でにぎわい、川面には大量の花筏が浮かび緩やかに流れます。

さくらは古くからの大岡川の名物であり、平成13年に南区の花としてさくらが制定されました。

鶴巻橋(つるまきはし)

橋種:鋼板桁橋⇒桁橋(プレートガーダー橋)

竣功:昭和3年8月(親柱の銘板による)昭和3年9月22日(資料*1による)

位置:横浜市南区井土ヶ谷中町・井土ケ谷下町-大橋町・中島町

その他:右岸上流側に公衆トイレあり

写真4~写真6


鶴巻橋 親柱意匠

親柱の意匠
資料*1より

鶴巻橋について

鶴巻橋は井土ヶ谷町鶴巻の字名を採って名づけられました。(資料*1による)

鶴巻橋は第18号路線が通る橋梁であり、幅員は主要道路の一般的な幅22mとなっています。上流側の大井橋や下流側の蒔田橋の幅員が7.3mであるのと比べると3倍の幅があります。(幅員の数値は資料*1による)

親柱と高欄の意匠

親柱は資料*1によると左のような意匠が残されていますが、現在は照明器具はありません。高欄のデザインは複雑で他に例がないような模様でつくられた珍しいものです。資料*1の親柱の意匠の照明部と写真4の高欄の模様を見比べると両者はそっくりであり、高欄のデザインは親柱の照明器具を平面で表したものと考えられます。





写真7 右岸側より蒔田橋を望む(右方向が下流)

写真7

右岸側より蒔田橋を望む(右方向が下流)


写真8 右岸下流側の蒔田橋の親柱と高欄

写真8

右岸下流側の蒔田橋の親柱と高欄

写真8 上流方向から蒔田橋を望む

写真9 上流方向から蒔田橋を望む

2015/10撮影

蒔田橋(まいたはし)

橋種:鋼板桁橋⇒桁橋(プレートガーダー橋)

竣功:昭和7年10月(親柱の銘板よる)昭和3年7月29日(資料*1による)

位置:横浜市南区井土ヶ谷霜町-花之木町

写真7~写真9


蒔田橋 親柱意匠

親柱の意匠
資料*1より

蒔田橋の親柱は資料*1の左の図と似ているものの、かなり違います。また、親柱の銘板には「昭和七年十月竣功」とあるのに対し、資料*1では、昭和2年6月18日起工、昭和3年7月29日竣功となっています。4年弱という竣功時期の大きな違いは何か事情があるのでしょうか。


蒔田橋は金沢八景に通ずる古道である金沢道(かなざわみち)が通っていました。横浜市のホームページには金沢道について、次のように記述されています。

金沢道(保土ヶ谷道)

東海道保土ヶ谷宿から、能見道を経て金沢に至る道を金沢道と呼びます。
江戸市民にとっての身近な行楽地、金沢八景へのコースとして、万治2年(1659)刊行の『鎌倉物語』は次のように述べています。

「江戸より見物せんと思う人は、先かたひらより金沢へ来て、鎌倉に行ば見物の次第よきなり」つまり、金沢八景を鎌倉・江ノ島とセットにして位置づけています。景勝の地としてのピークは、文化・文政年間頃からであり、能見堂をはじめ、各寺院や料亭が競って刊行した「八景案内図」「一望之図」など沢山の刊行物がその留時を今に伝えています。

支川に架かっていた震災復興橋

支川には次の3つの震災復興橋が架けられていましたが、現在は次のようになっています。これらの橋が架かっていた付近の写真は一覧写真に示します。

千保橋:千保橋が架かっていた支川と思われる跡が大岡川の右岸最戸橋上流側脇に残っています。橋のようにはなっていますが、ボックスカルバートのような形状のようです。当時は最戸下橋はなく、道路や橋梁位置はかなり異なっています。

宿前橋、十二天橋:同一の支川に架かっていました。大岡川への流入箇所付近に十二天橋があり、その上流に宿前橋がありましたが、現在は埋立てられたのて何も残っていません。橋の名であった字名の宿之前は地名としてはなくなりましたが、宿之前公園の名として残っています。




残存震災復興橋及び架け替えられた橋の親柱など

中村川の分岐点から上流の大岡川に架かる震災復興橋は4橋が架け替えられ、3橋が残っています。これら、7橋梁の親柱を主体とした写真を一覧写真として上流側より順に表示します。

本川

写真10 越戸橋

写真10 越戸橋 震災復興橋は木桁で

現在の橋は昭和41年9月竣功 親柱なし

写真11 観音橋

写真11 観音橋 弘明寺参道(商店街)

昭和41年3月 架け替え

写真12 大井橋

写真12 大井橋

昭和3年2月竣功の震災復興橋

写真13 鶴巻橋

写真13 鶴巻橋

昭和3年8月竣功の震災復興橋

写真14 蒔田橋

写真14 蒔田橋(まいたはし)

昭和7年10月竣功の震災復興橋

写真15 井土ヶ谷橋

写真15 井土ヶ谷橋

平成25年8月 架け替え

写真16 清水橋

写真16 清水橋 昭和62年3月 架け替

え 親柱は引き継がれている




支川

写真17 

写真17 最戸下橋の脇に支流の思わ
れる暗渠が見える その付近に千保橋
があったようだ

写真18 

写真18 この付近に宿前橋があった
前方の橋は大岡川に架かる蒔田橋

写真19 

写真19 この付近に十二天橋があった
埋立てられたのか、左側の大岡川の護
岸堤に支流と思われる流入口はない






参考資料

資料*1 横浜復興誌 昭和7年3月 横浜市役所

横浜市ホームページ 歴史息づく横浜金沢 http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/rekishi/otona/landscape/oldroad.html

かながわの川(上) 神奈川県高校地理部会編 神奈川新聞社かなしん出版 1989

その他の資料

時事新報付録 復興局公認 東京及横濱復興地圖 大正13年4月発行 時事新報社