作成:2016/2

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-37_12

今に残る震災復興橋(その12) --- 打越橋、櫻道橋、霞橋(陸橋) ---

  • 残存震災復興橋:打越橋、櫻道橋、霞橋
  • 残存率*:3/7 42%

残存率*とは架け替えられず、撤去されずに残っている震災復興橋の割合である。補修などがなされても残存しているとしている。

道路や鉄道を跨ぐ震災復興橋 陸橋(跨道橋(こどうきょう)、跨線橋(こせんきょう))

道路や鉄道を跨ぐ震災復興橋として、次の7橋梁が架けられました。

  • 打越橋(鋼拱桁/鋼アーチ橋)) 昭和3年8月竣功の震災復興橋(跨道橋)
  • 櫻道橋(鉄筋コンクリートアーチ橋) 昭和3年竣功の震災復興橋(跨道橋)
  • 霞橋(鉄筋コンクリートアーチ橋) 昭和3年竣功の震災復興橋(跨道橋)
  • 塩田橋(鋼板桁) 昭和57年3月 尾張屋橋として架け替え
  • 塩田陸橋(鋼板桁) 昭和57年3月 尾張屋橋として架け替え
  • 上台橋(鉄筋コンクリート橋) 昭和31年3月架け替え(跨道橋)
  • 青木橋(連続式鋼板桁橋) 昭和46年3月架け替え(跨線橋)

( ・印付太字で示した橋梁は当時の橋が今なお使用されている橋です。当時の震災復興橋のうち、櫻道橋、霞橋、青木橋が復興局施工で、その他が横浜市施工です。( )内は橋種。)

台地と地質

横浜市の中区、西区、南区などの関内を取り巻く横浜市の中核部の地形は低地と台地に区分され、残存震災復興橋の打越橋、桜道橋、霞橋はいずれも台地の切通しに架けられた跨道橋です。

台地は下末吉台地とよばれ、約12万5千年前の世界的な海進期(温暖期)の下末吉海進による波食台や堆積面を起源としています。下末吉台地は上総層群と呼ばれる新第三紀鮮新世~第四紀更新世前期の堆積物を基盤とし、下末吉海進および海退に伴って堆積した堆積物やロームがこれを被っています。

地質と橋種

資料*1によると、地質の比較的良好な個所では青灰岩が分布していることが記述されていますが、青灰岩とは青灰(暗青灰)色を呈するやや深い海で堆積したシルト~泥岩を意味し、この付近の基盤を形成している上総層群の特徴を表しています。

上総層群は細砂~固結状態にあるシルトや泥岩を主体としており、構造物の基礎としては良好であって埋立地の高層ビルも杭基礎などでこの層を支持層としています。

打越橋、櫻道橋、霞橋ともに、台地を開削した切通しの道路に架けられた橋であり、上総層群が橋梁の基礎になることから、橋種としてアーチ橋が選択されています。地質が良好であることがアーチ橋を選択する第一の理由です。


写真1 市道横浜駅根岸道路に架かる打越橋 

写真1

市道横浜駅根岸道路に架かる打越橋


写真2 打越橋

写真2

打越橋 アーチリブと起拱部および石貼りの橋台


写真3 打越橋 トラス補剛桁の上部構造

写真3

打越橋 トラス補剛桁の上部構造


写真4 打越橋の路面を南西から北東方向に望む

写真4

打越橋の路面を南西から北東方向に望む


写真5 打越橋

写真5 打越橋の親柱


写真6 打越橋上より北方を望む 打越橋は台地の切り通しの市道を跨ぐ

写真6 打越橋上より北方を望む

打越橋は台地の切り通しの市道を跨ぐ 遠方のビルはみなとみらい地区のランドマークタワー

2015/12撮影

打越橋(うちこしばし)

位置:中区打越・南区唐沢-中区打越・南区唐沢

跨ぐ道路:横浜駅根岸道路

橋種:鋼拱桁⇒鋼アーチ橋(鋼ランガ―橋)

(注)「⇒」の左側は竣功当時の橋種で資料*1による。右側は現在の表現に書き直し。以下同様。

竣功:昭和3年8月(親柱の銘板による) 昭和3年8月9日(資料*1による)

その他:横浜市認定歴史的建造物 土木学会の選奨土木遺産 かながわの橋100選

写真1~写真6


(参考)土木学会の選奨土木遺産

1923年の関東大震災後に整備され、現在横浜市で管理している山手隧道、櫻道橋、西の橋、谷戸橋、打越橋が、「元町・山手地区の震災復興施設群」として、平成27年度の土木学会の選奨土木遺産に認定されました。(横浜市記者発表資料より)

下記は土木学会の関東の土木遺産 元町・山手地区の震災復興施設群 https://www.jsce.or.jp/branch/kanto/04_isan/h27/h27_4.html による打越橋の概要です。

(打越橋)

切通しに架けられた橋梁で、当該地区周辺の多くの外国人居住者を意識して建設された優れた土木遺構の一つである。上部工はアーチリブとトラス補剛材で構成される鋼ランガ―橋である。アーチリブはカーブが急でリブ断面は中央が大きく両端のヒンジに向けて小さく変化しており、リブのカーブがより鋭く見え、特徴的なものになっている。リブとトラス桁の間は垂直材のみで簡潔にまとめられており、さらに、創建当時の横浜での流行ともいえる、端部の縦桁に意匠的な装飾がなされている。また、切通しに建設された橋梁のため、身近に感じられる橋台も屋根の軒先をモチーフにしたクラシックな装飾が施されているなど、細部までしっかりと作られた美しい鋼橋である。

橋梁の道路幅

打越橋は幹線道路を跨ぐ生活道路となる橋で、有効幅員は7.3mです。車道としてはセンターラインがなく、片側にのみ白線と淡緑色でペイントした歩行者用の路側帯があります。橋の両側は住宅地であり、静かで交通量は多くありません。橋上を車がゆっくり通過しており、路側帯にいても危険を感じません。

下の横浜駅根岸道路から眺めた打越橋の派手さに比べ、道路としての打越橋は目立ちません。




写真7 南側より櫻道橋を望む

写真7

南側より櫻道橋を望む コンクリートアーチ橋で表面は石貼り

前方のトンネルは山手隧道 山手隧道(1928年 昭和3年)も横浜市認定歴史的建造物である


写真8 

写真8

櫻道橋の親柱および起拱部周辺


写真9 東側より櫻道橋路面を望む

写真9

東側より櫻道橋路面を望む


写真10 櫻道橋の親柱

写真10 櫻道橋の親柱

2015/12撮影


櫻道橋(さくらみちはし)

位置:中区山手町と中区麦田町の境界

跨ぐ道路:本牧通り

橋種:記載なし⇒鉄筋コンクリートアーチ橋

竣功:銘板の記載なし、昭和3年(横浜市歴史的建造物の銘板より)、資料*1に記載なし

その他:山手隧道とともに横浜市認定歴史的建造物 土木学会の選奨土木遺産

写真6~写真10


櫻道橋と山手隧道

震災復興トンネルである山手隧道に付随する橋として櫻道橋が架けられ、完成は櫻道橋も山手隧道も昭和3年です。下記に土木学会と横浜市道路局による対象物等の概要を引用します。


山手隧道・櫻道橋

山手隧道、櫻道橋の整備は、市内の復興事業でも最大級の規模である。

山手隧道は元町と本牧をつなぐ隧道であり、震災後の本牧地区の発展を支えた。また当時の先進土木技術である大断面掘削が可能になった初期の隧道である(戦前の道路トンネルとしては最大幅員)。坑門はアーチ型の縁取りを行って全体を石貼りで仕上げ、地表面との処理は円弧で側壁を一体化されたデザインが施されている。

櫻道橋は山手隧道の建設によって山手地区にある櫻道の分断がないよう架けられた陸橋で、上路式アーチ形式の採用、山手隧道と同様に化粧石貼りにより隣接する山手隧道との景観調和が図られている。

(土木学会 関東の土木遺産 元町・山手地区の震災復興施設群 https://www.jsce.or.jp/branch/kanto/04_isan/h27/h27_4.html より)


山手隧道

震災復興に一環で作られ、戦前の道路用トンネルとしては最大の幅員をもつ。鉄道用であった隣接する第2山手隧道とともに、関内地区と本牧を結ぶ交通を支えてきた。外観表面は隣接する桜道橋とともに石張りで仕上げており、昭和初期を代表する意匠といえる。

桜道橋

この橋は山手隧道とともに市内最大級の震災復興事業として建造されたものである。復興のシンボルともいえるこの事業では、橋と隧道の意匠が調和するようにデザインされ、本牧地区から関内地区へのゲートとしての空間を形作った。

(横浜市道路局橋梁課 歴史的建造物の保全 http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kyouryou/rekishiteki/ より)

親柱と高欄

親柱の上面には円形のくぼみがあり、照明器具が付属していたと思われますが、現在は失われています。




写真11 霞橋 左側が西区霞ヶ丘

写真11

霞橋 左側が西区霞ヶ丘


写真12 霞橋 三春台側

写真12

霞橋 三春台側を望む 橋の向こうにトイレ、電話ボックス、昇降階段の門柱、久保山のバス停などが見える



写真13 霞橋 霧が丘側より霞橋の路面を望む

写真13

霧が丘側より霞橋の路面を望む


写真14 霞橋の親柱と高欄

写真14

霞橋の親柱と高欄


写真15 霧が丘側の昇降階段の門柱とレンガ壁

写真15

霧が丘側の昇降階段の門柱とレンガ壁 この階段を上ると橋際に出る


写真16 中区新山下町の運河に架かる同名の霞橋

写真16

中区新山下町の運河に架かる同名の霞橋でプラットトラス橋(同じ橋名による混同に注意!!)

霞橋は 明治29年に架設された隅田川橋梁(東京都足立区北千住~小菅)が最初で、江ヶ崎跨線橋(横浜市鶴見区江ヶ崎町~川崎市幸区小倉)を経て、平成25年に現在のこの位置に移設された再々利用の橋梁である

霞橋は平成25年に横浜市歴史的建造物に認定され、平成26年には土木学会田中賞を受賞した栄誉ある橋である

写真16は2015/5、他は2015/12撮影

霞橋(かすみばし)

位置:西区霞ヶ丘-南区三春台

跨ぐ道路:藤棚浦舟通り

橋種:鉄筋混凝土拱橋⇒鉄筋コンクリートアーチ橋

竣功:昭和3年(親柱の銘板による) 昭和3年11月(資料*1による)

レンガ壁・門柱は大正2年

その他1:横浜市認定歴史的建造物 かながわの橋100選

その他2:トイレ及び昇降階段がが付属する 

写真11~写真16


霞橋の概要

下記に、横浜市道路局橋梁課 歴史的建造物の保全 http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kyouryou/rekishiteki/ より霞橋の概要を引用します。

(霞橋)

現在の霞橋は、震災復興事業として建造された二代目のものである。市内の鉄筋コンクリート・アーチ陸橋を代表する重厚な佇まいを呈し、歩道橋としての機能を兼ねるため両側に階段を配置するプランが特徴的である。同時期に建造された公衆便所や初代創建時のレンガ壁・門柱と合わせ、大正から昭和のシビック・デザインがよく残されている。

親柱と高欄

曲線で仕上げられた石貼りの親柱と石造りの高欄が同じ高さで一体化されており、下から見上げると写真12のように西洋の城壁を思わせるような景観を呈しています。

親柱の上面には照明器具が取り付けてあったかのでしょうか、モルタルで充填した痕が残っています。震災復興橋の照明器具は失われたものが多く、前掲の櫻道橋の場合も同様です。

高欄の最上部の石材は角に丸みをもたせて曲線的な親柱から延びるように調和的に仕上げられています。単純な石材の単純な配置具合が優れたデザインになっています。

霞橋と櫻道橋などの震災復興橋の意義

霞橋と櫻道橋の共通点を挙げると、復興局施行、架道橋、鉄筋コンクリートアーチ橋であることに加え、橋種が同じであることや石材の使用状況から受ける印象の類似性などがありますが、それにもかかわらず、両者の違いを設計者が意図しているようにも感じます。

両橋梁は建造から90年近い年数が経過していますが、丁寧に施行されているのか目立った劣化や損傷はありません。

しかしながら、架道橋は川に架かる橋梁と異なり、高欄からの石材の剥落は重大な事故につながる懸念があります。風化は橋梁の劣化や破壊する方向に常に働いていることを考えると、石材が浮いていないか、亀裂が発生していないかなどの日ごろの点検と維持管理が重要でしょう。

震災復興橋は震災復興という特殊な環境下にありながら、意匠を重要視した高品質の橋梁が多数建造されていることに驚きます。その後、高度成長時代には味気のない橋梁に架け替えられましたが、現在は当時の意匠を残したまま架け替えられたり、補修によって寿命を延ばすような方向に向いているようです。

多くの震災復興橋は劣化による寿命とは関係なく、交通量の増加や交通・運搬手段の変更という環境変化によって架け替えられ、川は埋め立てられたり暗渠となって消えていきました。

古ければ良いというものではないことは当然ですが、震災復興橋の多くは大正末期から昭和初期の意匠を残した魅力的な建造物であり、都市環境の一端を担った文化財として後世に残ってほしいと思います。




以下、改めて親柱などの写真を表示します。

写真17 打越橋

写真17 打越橋

昭和3年竣功の震災復興橋

写真18 櫻道橋

写真18 櫻道橋

昭和3年8月竣功の震災復興橋

写真19 霞橋

写真19 霞橋

昭和3年8月竣功の震災復興橋

写真20 塩田橋、塩田陸橋

写真20 塩田橋、塩田陸橋

昭和57年3月尾張屋橋として架け替え

写真21 上台橋

写真21 上台橋(かみだいはし)

昭和31年3月架け替え

写真22 青木橋

写真22 青木橋

昭和46年3月架け替え

2015/12撮影




参考資料

資料*1 横浜復興誌 第二編 昭和7年3月 横浜市役所

時事新報付録 復興局公認 東京及横濱復興地圖 大正13年4月発行 時事新報社

横浜市都市整備局 横浜市認定歴史的建造物一覧

かながわの橋100選 神奈川県土木部道路整備課 平成4年

横浜市記者発表資料 元町・山手地区の震災復興施設群が土木学会の選奨土木遺産に認定されました 平成27年9月17日 道路局橋梁課

横浜市記者発表資料 霞橋が土木学会田中賞を受賞しました 平成26年6月19日 道路局橋梁課 中区中土木事務所

青木梢他 横浜打越橋の意向調査研究 http://www.jsce.or.jp/library/eq10/proc/00061/27-0626.pdf

アーチ橋のお話し http://www.nakanihon.co.jp/gijyutsu/Shimada/arch_bridge.pdf