作成:2016/2

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-37_11

今に残る震災復興橋(その11) --- なし(禅馬川およびその周辺の水路) ---

  • 震災復興橋所在地:横浜市磯子区
  • 対象河川名:禅馬川(ぜんまがわ)及びその周辺の水路
  • 残存震災復興橋:なし
  • 残存率*:0/4 0%

残存率*とは架け替えられず、撤去されずに残っている震災復興橋の割合である。補修などがなされても残存しているとしている。

写真1 

写真1

暗渠となった禅馬川 磯子区岡村・久木町・広地町の境界となる交差点

禅馬川は写真1の前方から斜め左後方向かって流れていた このあたりに広地橋があったのだろうか


写真2 この付近に南川尻橋があった

写真2

この付近に南川尻橋があった

手前は一段低くなった禅馬川跡で、階段とスロープがある 道路向こうの左側には浜バス停が見える


写真3 暗渠となった禅馬川

写真3

暗渠となった禅馬川

レンガ色の陸橋は磯子産業道路を跨ぐ禅馬歩道橋

禅馬川は産業道路の海側では開渠となっている

2016/2撮影

禅馬川およびその周辺の水路に架かる震災復興橋

禅馬川およびその周辺の水路に架かる震災復興橋として広地橋、南川尻橋、葦名橋、安藤橋がありましたが、いずれも暗渠にあるいは埋立てられて橋はなくなりました。

安藤橋は親柱が記念モニュメントとして、葦名橋は欄干が芦名橋公園の柵として残りました。


当時の震災復興橋を挙げると次のようになります。

  • 広地橋(木桁橋)、南川尻橋(鉄筋コンクリートおよびI形鋼桁混用) → 暗渠(禅馬川)
  • 安藤橋(鉄筋コンクリートおよびI形鋼桁混用) → 暗渠(水路) 親柱がモニュメントとして残る
  • 葦名橋(鉄筋コンクリート桁) → 暗渠(芦名川) 欄干が公園の境界柵として残る

禅馬川の旧流路と南川尻橋・広地橋

禅馬川は磯子産業道路より海側では開渠となっていますが、それより上流は暗渠になっています。産業道路より禅馬川の上流に向かって辿ると、国道16号線までは水路跡が歩道になっています。現在の国道は当時は県道で市電が通り、ここに震災復興橋の南川尻橋が架かっていました(写真2参照)。国道を越えると住宅地に入り、道路になっている屈曲した川跡は磯子小学校の手前まで追跡できます。これより上流は道路幅が広くなり川跡らしさは無くなりますが、地元のひとの説明によると、磯子小学校の西側に回り込み、磯子腰越公園及び磯子区久木町・岡村町・広地町の字境界付近を経て村岡町を北西方向に延びていたようです(資料3で確認済み)。

震災復興橋の広地橋の名は広地という字名から採られています。禅馬川は久木町・岡村町・広地町の字境界付近(写真1参照)を通過するものの、それ以外では流路が広地町から離れていることから、写真1付近に広地橋が架かっていたものと思われます。

震災復興橋と市電通り

震災復興橋の南川尻橋、葦名橋、安藤橋は国道16号(当時の県道)に架かっていた橋であり、橋幅はいずれも20.12mです。資料*1によると、この3橋梁の施工は電気局となっていますが、この道路には市電が通っていたため、電気局が施工を担当したのだろうと思われます。なお、電気局は現在の横浜交通局の前身で、当時は市電を運営していました。また、昭和初期には現在の磯子1丁目の埋立も電気局が担当しました(資料2による)。

電気局施工の震災復興橋はこの3橋梁と新吉田川に架かる千歳橋の4橋梁です。




安藤橋と葦名橋の残映

禅馬川およびその周辺に架かる震災復興橋は無くなりましたが、安藤橋と葦名橋の親柱や欄干がモニュメントまたは再利用されて残っています。

資料*2によると、

海岸沿いの平坦な道路を造ろうとした葦名金之助が、東京の大手建設業者、安藤庄太郎の資金援助を受けて、浜から今の区役所付近までの海を埋めた。県道(現・国道16号線)が開通し、住宅用地も完成。

とあり、2人の名前が安藤橋と葦名橋の由来となっています。


写真4 大和橋(やまとばし)の親柱

写真4

国道沿いにある安藤橋の親柱と案内板


写真5 宮前橋の親柱

写真5

安藤橋跡地 下流方向に向かって旧水路を望む 

安藤橋は現在の国道が通過する橋でした


写真6 産業道路の磯子浜西郵便局の前にある安藤橋の親柱

写真6

産業道路の磯子浜西郵便局の前にある安藤橋の親柱

2016/2撮影

安藤橋

竣功:大正14年3月(親柱の刻字による) 大正15年11月5日(資料*1による)

跡地位置:横浜市磯子区磯子2丁目

写真4~写真6


モニュメントとして残る親柱

モニュメントとして残る安藤橋の親柱は、国道沿いと下流の産業道路沿いの2カ所に2柱ずつ分けて設置されています。

2か所の親柱のモニュメントには案内板(金属板)があり、橋が設置されていた箇所が図示されています。これによると、国道沿いのモニュメント脇を流れる水路が国道(当時の県道)を横断しており、ここに安藤橋が架かっていました。国道沿いのモニュメントの位置は安藤橋の右岸海側の親柱の位置にほぼ相当するようです。

国道脇のモニュメントから、暗渠となっている旧水路跡(歩道)に沿って海の方向に100m少々進むと産業道路に出ます。産業道路への角に磯子浜西郵便局があり、その前に産業道路沿いのモニュメントがあります。産業道路は、磯子区役所が面する海岸に平行な道路であり、広い歩道は遊歩道となって、モニュメントのそばにも植え込みやベンチが配置されています。

安藤橋の由来とモニュメントについて

国道沿いの安藤橋の親柱には「安藤橋の由来」と題する石板が埋め込まれており、これには磯子の海浜埋め立て工事が明治37年に着手され大正13年に完成したこと、埋立地に架設された橋は埋立て工事の中心となった安藤組(現安藤建設株式会社)の名をとって安藤橋と名付けられたこと、安藤組初代社長安藤庄太郎氏・二代目社長安藤徳之助氏の偉業をしのび「安藤橋」の親柱を記念保存することになったことなどが記されています。また、モニュメントの案内板(金属板)には次のように記されています。

安藤橋は、明治の終わりから大正にかけてこの付近の旧海岸線が埋め立てられた際に、県道(現在の国道16号)が整備され、県道を横切る水路をまたぐ橋としてかけられました。この橋の名前は、埋め立てに尽力された人の名をとって「安藤橋」と名付けられました。

それまでの海岸線は、断崖が海まで迫っていたため道をつくることができず、当時の人々は山あいの道を上り下りするなど、八幡橋*1から森*2方面への往来に大変不便をしていました。

県道や橋が整備されたことにより、多くの区民が海岸線を通って往来できるようになり、区内の交通の便は飛躍的に良くなりました。

その後、昭和30年代の根岸湾の埋め立て時に水路は暗きょとなり橋はなくなりましたがそれまでの間、安藤橋は磯子区の発展に大きく貢献しました。

磯子区役所

八幡橋*1 磯子区の掘割川に架かる橋

森*2 久良岐郡屏風ヶ浦村大字森で、現在の磯子区森町のこと

安藤橋の親柱には「大正十四年三月成」とあり、電気局(現横浜市交通局)施工の震災復興橋として架けられました。




写真7 芦名橋と刻まれている柵

写真7

芦名橋と刻まれている柵

芦名橋の高欄を使用したといわれる柵


写真8 西ノ谷橋と上野橋のモニュメント

写真8 芦名橋公園

国道側から海側を望む


写真9 芦名橋バス停

写真9

芦名橋の交差点脇にある芦名橋バス停

この付近に葦名橋があった

葦名橋は国道が通過する橋であり、水路(芦名川)は国道を横断していた

2016/2撮影

葦名橋(あしなばし)

竣功:大正15年11月5日(資料*1による)

芦名橋公園の位置:横浜市磯子区2丁目

写真7~写真8


葦名橋と芦名橋

葦名橋は埋立業者の葦名金之助に由来(資料*2)しますが、葦名橋があった付近に残る芦名橋公園やバス停名などは全て芦の文字が使用されています。写真7に示すように、葦名橋の欄干を使用したといわれる柵にも芦名橋の文字が入っています。




参考資料

資料*1 横浜復興誌 第二編 昭和7年3月 横浜市役所

資料*2 浜・海・道 あの頃、そして今…磯子は 横浜市磯子区役所 昭和63

資料*3 1/3,000地形図「磯子」 昭和8年測図昭和10年製版 横浜市土木局