作成:2015/8
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-36
写真1
篠原八幡神社入口周辺状況 ケヤキの大木がある
写真2
現在の鳥居は震災後に再建された鳥居で、昭和2年3月の銘がある
写真3 社殿と境内の状況
写真4
篠原八幡大神と刻まれた社号標と石柱などで、これらは関東大震災で倒壊した鳥居である
写真5
倒壊鳥居全景(左端が社号標で前面に横たわっているのが笠木)
写真6
社号標の背面にはそのいわれが記されている
撮影:2015/8
<境内の案内板より>
由緒 篠原八幡神社
御神号及変遷
篠原八幡神社は御鳥羽院の建久3年(西暦1192年)に武蔵野国太知波奈郡(むさしのくにたちばなごうり)(橘樹郡)鈴木村の鎮守とし鎌倉鶴岡八幡宮より歓請(かんせい)され鶴崎八幡と奉称し同村会下谷(えがやと)に始めて鎮斉(ちんせい)された。寛永8年(西暦1666年)更に社殿の再建されるに及び若宮八幡と奉称した。当時、鈴木村代官は伊奈半十郎との記録がある。後に鈴木村は篠原村と改称され、社名も八幡大神と奉称された。天保6年(西暦1835年)社殿の再建の為10年の年月を要したと謂われ現在の社殿構造は当時のものである。
大正12年9月1日関東大震災の為被害を受け拝殿に傾きを生じ昭和3年拝殿の再建が行われ此のとき往右の草葺屋根を拝殿のみが初めて銅板葺と改められた。昭和48年、篠原地区(10町会)住民篤志者の浄財により本殿幣殿の修復工事実施に伴い、屋根は全部銅板葺となり郷土唯一の文化財として其の尊厳と美観を維持するを得たのは地区住民の喜びである。
御祭神誉田別命 ほんだわけのみこと(應神天皇)
御事蹟は古事記や日本書紀に詳述されて居ります。命は極めて慈愛深く、勇武の方であられたと謂われて居ります。神話によれば生まれながらにして歩き御成長に従い、いよいよ逞(たくま)しく身の丈七尺余り。衆に優れた偉丈夫となり、一生涯一度の病気もなさらずお齢も百十歳迄長生きされたとの伝説があります。このような御祭神でありますので昔から子育て八幡と謂われ、村人は子供が丈夫に育つように祈り、又、戦に臨む者は武運長久を祈って出兵する者が多く永い間世人の信仰を得たのであります。
篠原八幡神社の入り口の石段を上ると、鳥居の手前右側(石段の右脇)に「篠原八幡大神」と刻まれた社号標が建っています。この社号標とその他の2本の石柱は倒壊した鳥居の柱であり、その前には笠木が並べられています。(写真4,5参照)
社号標 左正面 右背面
行数及び1行の文字数は実際の通り
写真6は社号表などの石柱を後ろから眺めたものであり、3本の石柱(縦柱)が並んで建っています。右側の石柱が社号表で、長さは2m70cmあります。この石柱の正面には「篠原八幡大神」とあり、その背面にはいわれ(上記参照)が刻まれています。
最も短い中央の石柱は貫が通る穴が空いており、最下部に明治四十の文字が見えます。また、最も左側の石柱の最上端には四年十一月吉日の文字があります。
これらの倒壊した鳥居や現在の鳥居の文字からすると、明治44年11月に建立した鳥居が、大正12年の関東大震災で倒壊したため、昭和2年3月に再建し、この鳥居が現在に至っていることが分かります。
明治22年の町村制により、篠原村は周辺の村と合併して大綱村となり、震災当時は橘樹郡大綱村でした。
大綱村では、795世帯中86世帯が全壊し、人口は4,731人でそのうち14名が死亡しました。
橘樹郡最大の人口を擁する川崎町での死亡率は1.5でしたが、これに比べると大綱村での死亡率は0.3であり、川崎町の数分の1でした。それでも14名が死亡するような被害が発生しました。
死亡者数等の数値は「諸井孝文,武村雅之 関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定 日本地震工学会論文集 第4巻 第4号 2004」の付表を基にしています。