作成:2015/3

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-03

西区 --- 願成寺の地蔵尊と大震災風水害殃死者供養塔 ---

  • 所在地:横浜市西区西戸部町3-290 願成寺(がんじょうじ)内
  • 対象:地蔵尊と大震災風水害殃死者供養塔
  • 碑銘:大震災風水害殃死者供養塔
  • 供養塔建立年:昭和11年10月
  • 交通:京浜急行「戸部」駅より徒歩約12分(行程750m)
  • 相模鉄道「西横浜駅から徒歩15分(行程約1km)
写真1 願成寺の山門を石段下から見上げる

写真1

願成寺の山門を石段下から山門・本堂方向を望む

写真2 石段下の広場左側にある地蔵堂

写真2

石段下の広場左側にある地蔵堂と案内板

地蔵堂の左側に供養塔が見える

写真3 地蔵堂に安置されている3体の地蔵尊

写真3

地蔵堂に安置されている3体の地蔵尊

願成寺について

< 説明板 願成寺とその周辺 より>

願成寺は、法亀山地福院と号し、高野山真言宗の寺院で、本尊は秘仏の延命地蔵尊です。「新編武蔵風土記稿」に、開山は元祐(天文7年(1538)此の地に住す)と記されています。寺伝に、「天平年間(729-49)行基がこの地を通りかかった時、渇を覚え水を探していると渓谷より1匹の亀がはい出てきた。路傍を掘ると清水が湧き出てきたので、これを飲用し渇を癒した。これよりこの周辺を法亀山と名付け、草堂を創った。この草堂が願成寺の始まりである。」とあります。また、延命桜と呼ばれた行基の杖が根付いたという桜の古木がありましたが、大正時代に枯れてしまいました。寺の南側にある井戸が、行基の飲んだ清水の湧きだした跡と伝え、延命水と呼ばれています。

墓地には、外国人を殺傷して戸部刑場で処刑された清水清次・間宮一(元治元年(1864)に起きた鎌倉事件の加害者)、鳶の小亀(慶応2年(1866)に起きたフランス水兵殺害事件の加害者)、の墓があります。

願成寺の前の道は、保土ヶ谷道と呼ばれ保土ヶ谷宿から戸部村・横濱村に通ずる道で、この先の坂は「くらやみ坂(暗闇坂又は鞍止坂と書く)」といい、安政6年(1859)開港と共に取締り上重要として設けられた関門がありました。

またくらやみ坂脇には牢屋敷が建てられ処刑場も設けられました。その後牢屋敷は、根岸、笹下へと移転しました。

横浜市教育委員会文化財課

財団法人 横浜国際観光協会

平成9年3月

地蔵尊について

< 地蔵堂前の案内板より >

願成寺地蔵尊縁起

大正十二年(一九二三年)九月一日の関東大震災の直後、焼野原となった藤棚一丁目角に残された延命地蔵尊石像と、戸部岩亀横町焼跡の子育地蔵尊石像を願成寺に奉安し、それに古く徳川時代から当時境内にあった日限地蔵尊石像を加えて、ご三体を奉安合祀して今日に至っている。

お地蔵様のご真言

オンカカカビサンマエイソワカ

平成四年(一九九二年)卯月吉日

第四十七世山主敬白




大震災風水害殃死者供養塔

写真4 大震災風水害殃死者供養塔

写真4 大震災風水害殃死者供養塔

大震災風水害殃死者供養塔 正面の碑文

大震災風水害殃死者供養塔 正面

大震災風水害 被災状況

供養の対象となっている大震災や風水害が具体的にどれを指すのか、あるいは日本で起こったすべての大震災や風水害がイメージされているのかは不明ですが、石碑が建立された昭和11年という時と願成寺という場所を考えると、大震災といえば関東大震災、風水害といえば神奈川県下で死者26名を出した昭和7年11月の風水害を指すものと思われます。


< 関東大震災 >


願成寺のある西戸部町では家屋全壊が半数で、残り半数が半壊程度でした。火災が発生しましたが、最初は安全と思われていた願成寺も延焼により全焼しました。主な建物は本堂・庫裏・地蔵堂等でした。

横浜震災誌 第二冊42~43ページには、西戸部町の惨状を極めた場所が次のように記されています。

又地勢が悪いため避難することが出来なかったので、無残の焼死を遂げたものもあった。西戸部町御所山俗称鵯越の険峻な九十九折の坂上に約70名、中坂に約60名の焼死体が晒された。(旧字体を新字体に変更、漢数字をアラビア数字に変更)

なお、当時の西戸部町御所山は昭和2年に御所山町として分離しました。

< 風水害 >

昭和七年十一月風水害志 神奈川県学務部社会課 昭和8年 より

14日朝来よりの風雨は午后に至り益々猛烈となり大暴風雨と化し各所の被害頻々たるものあり、各警察署に於いては署員を督励して被害調査、警戒、救護等に専従せるが夜に入りて猛威一段と加わり全県下に亘り崖崩れ、家屋、工作物、樹木等の倒壊頻発し遂に死傷者を出すに至りたるが風速は刻一刻と尚も其の度を加え災禍益々続発するの兆しありたるを以って午后全県下非直警察官の非常出動を命じ消防組合、在郷軍人、青年団員等の応援を得て徹宵(てっしょう 徹夜の意)警戒救護に当たり以って災害の防止に努めたり。

14日午后9時50分市内壽警察署長より同管内中区中村町*1,316番地先稲荷山の一角崩壊し、崖下なる沖縄村と称する同番地一帯約40戸のバラック部落埋没し多数の死傷者(死者6、重傷者8、軽傷者111、計125名)ある旨の報告に接したるを以って警察部長は関係各課長と共に曩(読みは「のう」で、前もっての意)に招集待機し居たりたる警察部各課員を引率して直ちに現場に急行、更に市内各署より約百名の警察官を出動せしめ警察部長自ら之を指揮して負傷者を付近の第三隣保館に収容応急手当てを施すと共に地元諸団体の応援を得て、豪雨暗夜の中に埋没者並埋没家屋の発掘作業を行い6名の屍体(したい)を収容、更に引き続き徹宵警戒罹災者の救護に従事せしが、日出と共に風雨漸く静まり危険去りたるを以って午前8時少数の残留員を置きて警戒を解除せり。(旧字体を新字体に変更、漢数字をアラビア数字に変更、一部の送り仮名を変更、( )内は追加)

* 中区中村町 現在の南区中村町で、1943年(昭和18)に中区から分離。願成寺のある現在の西区は1944年(昭和19)年に中区から分離。当時は中村町は中区にあり、願成寺も同区にあった。

なお、中区は昭和2年の第3次市域拡張と区制の施行によって誕生した5区(鶴見・神奈川・中・保土ヶ谷・磯子)の1つです。