作成:2015/3
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-04
写真1
戸部警察署横浜駅東口交番横の広場
写真2
交番横の広場から見える二代目横浜駅舎の遺構
遺構への入り口は広場角のトイレを回り込んだマンションの敷地にある
写真3
遺構への入り口
遺構はマンションの敷地内にある
写真4 遺構とその説明板
写真5
二代目横浜駅舎の遺構の状況
新橋-横浜間に鉄道が開通したのは明治5(1872)年であり、その初代の横浜駅は現在の桜木町駅の位置にありました。明治22(1889)年に新橋-神戸間が開通し、東京と関西を結ぶ大動脈の東海道線が完成しました。
当時も今も横浜駅は東海道線の駅ですが、当時の横浜駅は東海道から南にずれた現在の桜木町駅の位置にあり、横浜駅で一旦スイッチバックが必要でした。明治27(1894)年の日清戦争が迫る中、兵員・物資輸送の効率化を図るために、路線の見直しが行われました。これが、新横浜駅誕生のきっかけとなり、大正4(1915)年に二代目の横浜駅が開業しました。この横浜駅が関東大震災当時の横浜駅で、現在の横浜駅(三代目)の南、直線距離で約700mの位置にありました。
横浜駅の位置はより滑らかなより直線的な東海道線の形状に合わせるように、2度北上しました。東海道新幹線の新横浜駅は港から離れ、さらに北方に位置します。
遺構はマンションの敷地内にありますが、公開空地のため自由に見学することができます。案内板には次のように記されています。
この公開空地は、横浜市市街地環境設計制度に基づく建築物の許可条件として設置されたものでどなたでも日常自由に通行又は利用できるものです。
平成19年4月
公開空地管理者
横浜市西区高島2丁目1番10号
ロワール横浜レムナンツ管理組合
< 資料_1* より >
横浜駅は四万からの乗降者のある大停車場であるが、当時は東京発横須賀真鶴行の列車が著(着)車に間もない時刻だったので、百数十名の乗客と見送り人等は下りホームに、その他、階上の待合室や省電のホームにあった人々も百名を越えていたが、幸い建物は新しい堅牢な建物であったから、倒潰を免れ、無事避難することができた。(旧字体、送りかななどを変更)
< 資料_2* より >
大正十二年九月一日午前十一時五十八分、俄然激震起こり、之に次ぐに火災四方に発した。時に第十三列車は構外に停止して居たが、旅客は構内を見掛けて避難した。更に西部構内は付近から押しかくる避難者で、殆ど余地なきまで群集していた。事態は容易ならずと思ったが、構内は先ず安全と見て、市中を偵視せんとした。時に火勢は漸く駅舎に接近し、風の方向は駅舎を斜めに通過し、高架線堤防に火粉をを吹き付けて居た。間もなく構内郵便局に火が付いたとの報があったので、直ちに現場に駆けつけて見たところ、火は倒壊した局舎に吹付けて、遂に同局も最期を遂げた。時に風は俄(にわか)に変じ、愈々(いよいよ)駅舎に吹付け、危険頓(とみ)に迫るの状況であった。そこで居合わせた助力者及び駅員と共に、橋の破壊に努めたが、猛火には敵し難く、遂に破壊の目的を達することができなかった。一去一来、烈火は遂に橋脚に燃焼し、此火の爲め遂に横浜駅本屋は忽(たちま)ちにして舐め盡されたのである。当駅の最後は正に午後四時半であった。(旧字体、送りかななどを変更、( )内追加)
写真6 二代目横浜駅 説明板より
以上の撮影:2015/3
写真7
横浜駅の惨状(大正震災志写真帳より)
写真6の下部の説明文
写真8
ホームへの階段側壁 初代横浜駅
写真9 二代目横浜駅のイラスト
写真10 桜木町駅東口からみなとみらいのビル群を望む
撮影:2015/3
初代の横浜駅は現在の桜木町駅であり、駅構内および駅前広場には初代横浜駅を偲ぶ様々な展示物があります。
この説明板は写真10の掲示板の右端にある
参考資料
*資料_1 横浜震災誌 第二冊p42 横浜市役所 大正15年
*資料_2 横浜震災誌 第三冊p121 横浜市役所 大正15年
中西隆紀 日本の鉄道創世記 幕末明治の鉄道発達史 河出書房新社 2010