作成:2004/10
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-34
写真1 東漸寺山門
写真2 故大川常吉氏の碑
鶴見地区は東海道沿線では被害はが小さい地区であり、火災も消し止められています。被害が小さい地区とはいえ、潮田町のように522戸の約九割が倒壊して18名が圧死した町もありました。(神奈川県下の大震火災と警察より)
通信手段が途絶え、食料が不足する状況下で横浜市では強盗団が横行しました。このような状況から「朝鮮人放火す」といったうわさが流れ、強盗団は朝鮮人ではないかという憶測と結びつき、うわさは急速な速度で広がりました。このうわさは膨張し、朝鮮人が「井戸水に毒を入れた」、「火薬庫を襲った」、「婦女を殺害した」など全く事実のないさまざまなうわさが乱れ飛びました。やがて町々には自警団が結成され、一般人が日本刀、匕首、猟銃、拳銃などで武装して、罪のない朝鮮人を殺害する暴徒集団に変わっていきました。
この朝鮮人虐殺事件は警察や軍隊までも巻き込みましたが、中心になったのは一般人でした。その中で大川常吉鶴見警察署長は約300人の朝鮮人を鶴見署に保護し、殺気立って警察署を取り囲む群集と相対しました。
大川署長の命がけの説得により一人の犠牲者も出すことがなかったという。
神奈川県史 通史編5 近代・現代(2)よると、
鶴見に居住せる朝鮮人は潮田・鶴見を中心に約300人に達し、・・・(中略)・・・ 各自警団は凶器を持って警戒の任にあたり険悪の気がみなぎったので、保護のため朝鮮人308名を安全の箇所に収容し極力その流言浮説を説示し民心の沈静に尽くしたが、遂に随所に争闘を演じ殺傷者を出してしまった。
横須賀市在住の朝鮮人に百五十名が警察署の指示で市内の不入斗(いりやまず)練平場に救護収容されたのと、大磯・平塚方面の十数名の朝鮮人が相模紡績会社の死体発掘など労務に服して外出しなかったために、朝鮮人虐殺に巻き込まれなかった数少ない例外であるが、川崎・鶴見・戸塚・茅ヶ崎・小田原方面で事件が発生したことは、流言と通達が一気に朝鮮人蔑視と彼らに対する敵対感情をあおりたてていたかを推測することができよう。
とある。
鶴見警察署に収容された人々からは一人の犠牲者も出なかたのか、それとも犠牲者が出たのだろうか。