作成:2015/2

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横須賀 YS-12

横須賀市浦賀 --- 関東大震災慰霊塔 ---

  • 所在地:横須賀市西浦賀町1丁目
  • 碑銘:関東大震災慰霊塔
  • 建立年月日:昭和47年9月1日
  • 建立者:再建者 野澤恒良
  • 交通:JR横須賀線「浦賀」から「紺屋町」バス停直ぐ(行程1.3km)
関東大震災慰霊塔全景

写真1

関東大震災慰霊塔全景 慰霊塔の左は浦賀の渡しで右は浦賀警察署浦賀港交番

関東大震災慰霊塔

写真2 関東大震災慰霊塔

関東大震災慰霊塔

写真3 愛宕山を望む

関東大震災慰霊塔

写真4

愛宕山より浦賀湾を望む

右側が浦賀湾湾口で浦賀水道

ペリー来航地、咸臨丸出港地として知られる浦賀は現在横須賀市です。関東大震災慰霊塔は横須賀市西浦賀1丁目にありますが、震災当時は三浦郡浦賀町でした。

被害状況

<資料 西坂勝人著 神奈川県下の大震災と警察 より> 旧字体や送り仮名どを変更 漢数字をアラビア数字に変更

浦賀町浦賀、殊に西海岸は古き商港たる関係上、老舗軒を並べ、その建物には土蔵造多く概して構造堅牢だったに拘わらず、約8割は倒潰または半潰したのであって、浦賀船渠株式会社の大工場も無残に倒潰し、約4千名の職工は、昼食時で作業していなかったので、死者10名傷者100余名を出したに過ぎなかったが、普通民家では住民何れも野外に逃れ出たけれども、道路が狭隘なのに一方は海、一方は山で避難の場所なく、狼狽を極めているうちに、同町蛇畑*1では、背後に屹立する愛宕山(浦賀公園*2もその上に在る)の絶頂中央部高さ20余丈*3の所から決潰し、轟然たる大音響と共に落下して街路の両側に建ち並んだ人家74戸と住民100余名とを地下深く埋め、地積数丁*4に亘り道路と港湾の一部とをも埋没して崖地と化してしまった。

  • *1 同町蛇畑→浦賀町蛇畠 愛宕山ふもとの地名 慰霊碑の碑文には蛇畠町々内会長が再建協力者に挙げられている
  • *2 浦賀公園→浦賀園で現在の愛宕山公園のことか
  • *3 20余丈→1丈は3.03mで、60m余り
  • *4 数丁→1丁は109mで、数100m

上記の資料に記載されている愛宕山は慰霊塔の前面の道路および住宅地を挟んだ背後の丘陵です。(写真3参照)

愛宕山公園の入り口にある案内板によると、

  •  明治24年(1891)に開園した市内で一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれていました。
  •  浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され篆額の題字は榎本武揚によってかかれました。開園に出 席した人たちの提唱によって浦賀船渠(株)が創設された話は有名です。
  •  咸臨丸出港の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
  •  与謝の鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
  •  江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。
  • 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

とあり、崩壊に関する説明はありません。


関東大震災慰霊塔には「再建者 野澤恒良」とあり、再建協力者(3地区の町内会長)や後援者を得ながら、個人で再建されているようです。

震災後に慰霊塔を建設して供養していたが、終戦後に撤去されたままになっていたので、50周年にあたり再建したことがわかります。

 ⇒ 碑文を見る


浦賀湾は細長く陸地に入り込んだ湾であり、その周辺は写真4のように丘陵地が海に接するような地形を呈し、人家などは海岸際の狭い平坦地に集中しています。関東大震災では上記の愛宕山以外にも多くの崩壊が発生しました。当時の浦賀町は神奈川県では横浜市、横須賀市、小田原町に次ぐ人口を擁し、家屋の倒壊・火災・崖崩れなどによって307名の死者*がでました。なお、慰霊塔の碑文にも「関根弥一外296柱の霊を弔うため」とあります。




*307名の死者  諸井孝文,武村雅之 関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定 日本地震工学会論文集 第4巻 第4号 2004の付表より