十津川水害と北海道移住の続き

災害地遠望
本文 「暴風雨の襲来と通過」より

8月18日
 にわか雨のあった翌日である。
 夜明けの空は雲の流れが極めて速く、湿った空気が谷間を吹き抜けていった。徐々に雨を伴った強い風が吹くようになり、空は暗雲で満たされた。夜に入ると雨にもまして風の勢いはますます強くなり、農作物がなぎ倒されるほどの強い風になった。

8月19日
 雨は激しさを加え、午後からはまるでバケツをひっくり返すような勢いとなった。
 夜に入ると風は次第に衰える気配を見せた。しかし、雨の勢いはさらに激しさを増し、雷鳴と稲光が飛び交う状態になった。
 ありとあらゆる谷間は濁水で溢れ、増水した天ノ川や十津川は激流となって雷鳴さえ掻き消すほどに轟音を発した。
 増水した激流は山裾を侵食し、雨水の浸透した斜面は足元をすくわれるようになだれ打って谷間に突入した。その震動は山を震わし、激流となった河川を閉塞した。
 斜面の崩壊と河川の閉塞が各地で発生し、大海のような新湖がいくつも出現した。
 土砂が人家を埋め、大波のような濁流が人家を襲うようになって、住民は貴重品や食料を持ち出す余裕もなく身一つで闇夜の中を避難した。

8月20日
 朝になると風雨ともに収まった。しかし、渓流や河川は増水して溢れ、激流による侵食は止むことがなかった。激流は山裾をえぐり、斜面の崩壊は続発した。新湖の発生と決壊はなお続き、災害はさらに拡大した。


水災誌原文より
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水災誌原文1 豪雨の来襲
山岳重畳の被災地(天辻峠北側上空から南方を望む)
国土地理院数値地図(注)を使用してカシミール3Dで作成・編集

豪雨
1日雨量1,000ミリメートルを越える記録的な豪雨が山間地の集落を襲う

救助に向かう村民
救助に向かう村民

林新湖
現在の十津川と林新湖
8月20日の朝には小雨に変っていたが、「中山」の斜面が大きく崩壊して林新湖がに発生した。
(マウスが画像の上に来たとき林新湖の画像になる)

十津川本流を閉塞して生じた新湖はいくつもあるが、林新湖は最大規模の新湖である。

  (注)この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平17総使、第431号)
林新湖写真林新湖跡に筏を浮かべて対岸に渡る
 林新湖は発生の当日の夜半に決壊したが、決壊後も写真のような大き水たまりが残り、宅地や田畑は水没したままになった。

写真は水災誌復刻版より(写真師中島喬木の撮影)


本文 「林新湖の出現」より

大字高津(十津川左岸)
 8月20日の朝、増水した十津川の激流が「中山」の山裾を激しく洗っていた。山地斜面の土砂は雨水を大量に含み重量を増すとともに岩盤の分離面となる亀裂内には雨水や地下水が浸透し、その水圧は密着していた岩盤を引き剥がすかのように作用していた。さらに、激流が風化した山裾をえぐり、山地斜面は今にも足元をすくわれるような状態になっていた。
 大砲を撃ち放したような異様な音が川筋に響き渡った。
(中略)
 その後、高津の住民は思わぬ光景を目にした。湖には数十の家が連なるように浮かんでいたのである。


 当日(8月20日)の夜11時ごろ、決壊したと大声で叫ぶ声が聞こえた。元気盛りの男がタイマツを手にして岸辺に確かめに行くと、 泥水の水位は50メートル余り減水していた。
 避難先でこの様子を見た婦人はタイマツが川に映るのを鬼火と思い、決壊を知らせる声を霊魂が泣いていると思った。そして、いろいろな噂話が広まった。

田畑の被害
田畑の被害
 宅地や田畑という生活基盤そのものがなくなったのがこの災害の特徴でもある。
 どうにか命が助かり住宅が残っても、田畑の流失により生活手段が失われたことに茫然となった。
 この土地に従来の人口を養う地力はなくなっていた。


本文 「荒れ果てた山河」より

 新湖の下流側では決壊を心配し、亀裂の入った集落では崩壊を恐れた。
 雨が降ると各河川の上流や支流は、茶色に変色した濁水を吐き出した。
 夜ともなると山々に忌まわしい音がこだまし、時には悪夢にうなされるように飛び起きた。
 山はなお崩壊し、川はなお氾濫した。
 被災民は思い悩みながらも何をするでもなくその日を暮らし、残された少しばかりの畑があっても種まきの時期を逸するようなことも少なくなかった。
 救助米や義捐金の分配があっても一時の喜びであり、今後の生活の目途(めど)が立たないままであった。
 災害の傷跡は深く、仮小屋や崩壊したままの集落は荒涼とした景色の中に沈んでいた。
 飢えたカラスが騒ぐところには死体が発見された。一陣の風の中に悲しく泣く死者の声が聞こえるようであった。

旅立ち
本文 「北海道への旅立ち」より

 災害をもたらした豪雨の日から2ヵ月後、十津川郷6か村の村長が会合で北海道移住を決定してから1ヵ月後のことである。
 移住者は移住請願書の提出および財産の処分や移住準備などに奔走してこの日を迎えた。
 快晴の秋空であった。
 移住者一行は隊列をくみ、銃を背負い、先祖伝来の日本刀を携えて進んだ。
 各自の左胸には、朝廷から賜った(ひし)(じゅう)の紅章を付け、赤白の大旗を立てて、威風堂々と行進した。
 沿道には残留を決めた住民が並んで見送り、親戚や友人は何キロもの道をともに歩き、別れを惜しんだ。
(中略)
 移住者は二隊に分かれ、一隊は北十津川村の(なが)殿(との)より天辻峠および五條町を経由し、もう一隊は小辺路をたどり高野山および橋本を経由する。この2つの道は急報者が駆け援助米が届いた道である。
 この夜、五條町に向かう一隊は大塔村の(とじ)(きみ)に宿泊し、高野山に向かう他の一隊は野迫川(のせがわ)村の大股(おおまた)に宿泊した。
 19日は故郷の峠を越えた。
 十津川郷から大阪までは徒歩、大阪から神戸までは汽車であった。
23日には神戸に到着した。
 この間どこでも暖かい歓迎と大きな声援を受けた。
 24日に遠江丸に乗り、北海道の小樽港に向かった。

水災誌原文より
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原文2 旅たち
十津川の堆砂  災害前の十津川はV字形の深い渓谷であったが、現在は広い河原の河川へと変貌している。

 その原因の大部分は明治22年の災害にある。
現在の十津川の容貌
十津川村宇宮原の郡長遭難地碑付近より十津川の下流を望む
河原のほとんどは堆砂で写真では砂礫が白く写っている
                           2004年11月撮影




本文 「おわりに」より

 1889年(明治22年)の4月に地方行政組織の再編成があり、十津川郷の55村が合併して6か村(北十津川村・十津川花園村・中十津川村・西十津川村・南十津川村・東十津川村)となり、十津川郷6か村と呼ばれた。この年に発生した災害および北海道移住が契機となって翌年の明治23年には十津川郷6か村が合併して十津川村となった。これが現在の奈良県吉野郡十津川村である。
 北海道移住の勧告およびその実行が十津川郷6か村を対象として展開されたのは、単に被害が大きかったというだけではなく、地域社会のつながりが強く十津川郷という共通の意識が形成されていた特殊な地域であったことが大きい。
 災害のあった明治22年といえば、大日本帝国憲法が発布された年である。幕末から明治維新にかけての担い手が新しい国家を着々と形成していた時代であり、幕末・明治維新の余韻が未だ消えない時代でもあった。

 十津川郷士は、幕末の御所警備・蛤御門の戦い・天誅組の挙兵、そして明治元年の戊辰戦争などに関わってきた。戊辰戦争では200余名が北越に転戦し、激戦のうちに24名の戦死者を出している。そして、その結果として、十津川郷士は中央での社会的な地位と要職を手に入れ、地方では指導的な地位を占めた。

 郡長の玉置高良は東十津川村の出身で、明治維新以前は勤皇の志士として十津川郷と京都間を繰り返して往復し、郷士の御所守衛に際しては私財を投じている。救助活動を指揮した郡書記の西村晧平および上杉直温はそれぞれ南十津川村・西十津川村の出身であり、両者は戊辰戦争その他の軍事任務に参加している。 宇智吉野郡役所の指導者にとっての十津川郷は自らの出身地というだけではなく家族の住む土地であり、災害においても十津川郷の問題あるいは自分自身の問題として捉えて自ら生きる道を選択した。政府その他の要人とのパイプを生かし、政府から手厚い保護を勝ち取ることによって活路を北海道移住に求めたのである。十津川郷の指導者は十津川郷を守るために全力を尽くし、被災者はその指導者たちを信じて団結してこれに答えた。ここで十津川郷6か村とそれ以外の村の間に違いが生まれた。
 …… 一連の行動は幕末から続く十津川郷士の自らの戦いという側面を感じさせる。 ……

 災害の翌年には、北海道の様子を伝え聞き、天川村の106戸と大塔村の8戸(計約560人)の住民が北海道移住を希望した。5月には宇智吉野郡役所に移住を請願し、引き続いて請願書を奈良県に提出した。時は既に遅く郡役所も県も動かなかった。議題として検討されることはなく、言わば門前払いであった。これから間もない7月には概に移住が決まっていた十津川郷民が最後の移住者(第四回)として故郷を後にした。北海道移住の流れに乗れなかった天川村や大塔村の人々に再びその機会が訪れることはなかった。

菱十の記章

 移住者にとっても移住した年の冬は厳しいものであった。災害を生き抜いても、その冬を越せずに病死する人が相次いだ。当時の戸籍簿の調査によると移住の年の11月から翌年7月までに69名が死亡しているという。被災者にのしかかる精神的および肉体的な重圧の一端を示しているように感じられる。
 北海道への移住者は入植地を新十津川村と名付けた。これが現在の北海道樺戸郡新十津川町である。 北海道への移住を前にして、十津川郷6か村の村長の交わした「北海道に移住して新しい村を造っても、十津川本郷とは幾世代に亘ってその因縁を保ち、由緒を相続する」という誓いは、新十津川町の町名および両村町のシンボルマーク(菱十)に象徴されている。


目 次

   はじめに
一、 災害地その山河
    山岳重畳の災害地/世界遺産の小辺路
二、 川は轟音を発し、山は震える
     豪雨の前兆/暴風雨の襲来と通過/山地崩壊と新湖の発生
三、 人家を襲う土砂と濁流
     大災害の序曲/集落の放棄と避難/逃避行と近隣集落からの救助/「柳谷」の崩壊
四、 生と死の狭間
     死地からの生還者/死との直面
五、 災害激甚地の北十津川村
     被害状況/長殿の悲劇/林新湖の出現/郡長の遭難
六、 災害地に向かう救援者
     野を駆けた急報書/県および郡役所の対応と救助ルート/五條倶楽部と吉野倶楽部/新聞報道と広がる支援の輪
七、 災害以後
     新湖の決壊計画/荒れ果てた山河/移住計画
八、 北海道への旅立ち
九、 災害地の地質
     奇異な現象と不安の広がり/巨智部技師の地質踏査/現在から見た災害地の地質
十、 十津川の流れと警戒碑
     十津川の堆砂/警戒碑
十一、土砂災害からの回避
     斜面崩壊と死者数が意味するもの/防災を考える/自然現象として崩壊は続く
    おわりに
  ・参考文献
  ・参考「吉野郡水災誌」概容
   @水災誌の構成 A各巻の構成 B被害数量などについて C水災誌の特徴 D復刻版について
  ・索引

シリーズ日本の歴史災害 
巻頭言より抜粋 小林芳正(京都大学名誉教授)

 「天災は忘れたころに来る」という警句は寺田寅彦のものだといわれている。災害が頻発するので「災害は忘れないうちに来る」などという人もこの頃はいるようだが、これは取り違えであろう。災害とは単なる自然現象ではなく、本質的に社会的な現象で、過去の教訓を忘れたときに起こるものだとの戒めだからである。  この意味で過去の災害の教訓は社会に定着しているだろうか?われわれは、ほんの少し前の災害の実相も簡単に忘れてしまってはいないだろうか?筆者は長年、災害調査・研究に携わってきたが、先人の被災経験が人々にあまり生かされていないことを繰り返し体験してきた。「こんなことはお爺さんからも聞いたことがなかった」というせりふを何度聞かされたことか!先祖たちの痛切な体験がたちまち風化して子孫に伝わらないのは悲しいことである。  科学者の行う災害の分析や理論化は間違っていないとしても、多くの場合、一般市民に訴える力が足りないのではあるまいか?知識は人々の心に響いてこそ始めて防災力の向上につながる。その意味で、災害研究者としての筆者も、自身の無力を認めざるを得なかった。そして「理論としての防災知識」を「実感できる防災知識」に脱皮させる必要を感じてきた。それはいつか自分がやらなければならないと考えてきた。  「シリーズ日本の歴史災害」はこのような意図から生まれたものである。そのきっかけは、筆者がかつて奈良県十津川村を訪れて明治二十二年の大水害その記録「吉野郡水災誌」に接したときにさかのぼる。これこそこのような力を持った文書だと直感した。事実としての災害経過の記述の中から災害の生々しい実態がひしひしと伝わってきたからである。これはぜひ多くの人々に見てほしいと思った。

 以下略

※ 本ページの画像は「十津川水害と北海道移住」より編集しておりますが一部異なる場合があります。

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