カルタウォーク  古堤街道を歩く2 赤井から中垣内
旧南郷中学校地→泉勝寺・北野神社→赤井の段蔵→

赤井の大峯堂→赤井の中の島→
寝屋川・恩智川

住吉神社→道しるべ→御供田八幡宮→安楽寺地蔵前→

平野屋へ 銭屋橋→
平野屋会所→座摩神社→

中垣内の弥生遺跡(関西電力)→東高野街道→道しるべ→

鳳字寺・庚申塔→須波麻神社→道しるべ  (鍋田川遺跡)

寝屋川から南郷小大正期 後南郷中

      改築された泉勝寺

     左北野神社 右地蔵堂
旧南郷中学校跡地
 カルタの句 『 南郷中 かるた遊びで 郷土知る 』

泉勝寺・北野神社・地蔵堂
 カルタの句 『 平成の 大改築や 泉勝寺 』
 浄土真宗東本願寺末 天文八年(1539)正月六日と裏書の「方便法身尊像」が保存。
 山門の左側に北野神社も大改築されている。祭神(さいじん)は菅原道真。赤井はもともと氷野地域と一体。北野神社は大東町(桃山時代の形式を残している象鼻一対、蟇股かえるまた三個が保存)にある。少し距離があるので、地元赤井に分祀。
 近くに地蔵堂もある。
 カルタの句 『 知恵さずく 菅原神社に 手をあわす 』 
高須那大神

     段蔵

      大峯堂と道しるべ

    現在の中の島跡付近 
赤井の段蔵
 カルタの句 『 水害から 家財を守る 河内段蔵 』
 
三つの蔵を階段状につないだような形をした蔵が北河内に多くある。水害の時の家具や米等の避難所。

赤江
 カルタの句 『 赤江びと 都の御厨 調進す 』
 
赤井は古くは氷野と併せて「赤江」と呼ばれていた。御厨(みくりや)とは、皇室領で内膳司に属し、主として魚貝や果物を供膳・堤祭物として調進するのが任務。寛平四年(892)平安時代の古文書に「河内国堤外の赤江と堤内の赤江は、是まで御供江として朝廷に貢献していた。・・」と記述。堤内と堤外の何れの方が今の赤井かは不明。堤は深野池の存在を示し、御供江はここで採れた魚介類を朝廷に献納していたことがわかる。深野池は後に淵として残り、氷野淵を白淵、赤井淵を赤淵と呼ばれていた。

赤井の大峯堂  記念石碑・道しるべ 「右大峯山上三十三度道すみのどうのざき中垣内くさかほし田八はた山な し木づ ひらおかいこま宝山寺ならいがいせ」 「左大坂」
 カルタの句 『 街道の 辻に赤井の 大峯堂 』
 
大峯山は修験道の中心地で、河内の人たちが度々修業に行ったことを示す記念碑といえる。明治18年建設の銘がある。

赤井の中の島
 カルタの句 『 恩智川 合流するまで 中の島 』
 寝屋川と恩智川の合流点は、江戸時代には下流の鴻池堰付近まであった。両河川の間に細長く続く砂州状の土地を中の島と呼んでいた。その後、中の島は後退していった。昭和47年(1972)の大洪水の後、川幅を広くして水害をなくすために中の島は削り取られ、現在のコンクリート護岸壁に囲まれた風景になった。
 かつては深野池、大和川の流れ込んでいたところである。水害の対策として大阪府は遊水地を造成する。江戸期の深野池は干拓され水田になってしまった。その水田を埋めて、寝屋川の水を引き遊水地をつくった。深北緑地である。

住道駅前・時計塔
  カルタの句 『 東方に 光りあれと 市のマーク 』
  大阪市の東に位置する。「光りは東方より」という将来の発展を祈っている。図案は《大とう・光》

                       角堂浜

          野崎まいり

           住吉神社
寝屋川・恩智川 角堂浜
 カルタの句 『 寝屋川の 剣先船着く 角堂浜 』
 大阪と京都を結ぶ近道となる角堂浜(今の浜町あたり)は、船宿も多く、集荷場として栄えた。さきのとがった剣先船(刀の先長さ22mぐらい)が使われていた。底は浅く楽に進めるように平たくしてある。寝屋川、恩智川で使われていた。三箇、中垣内、北条、龍間から荷物が集められ、大阪(京都)まで運ばれた。
 肥船(こえぶね) 大阪の下肥(しもごえ)は北河内の一円の大切な肥料であり、下肥を専門とする肥屋があった。

 カルタの句 『 屋形船 野崎まいりは 花ざかり 』
 
大阪天満橋の八軒家浜を出発した屋形船は大川〜寝屋川を遡り、徳庵・諸福を通って角堂浜(石切、生駒聖天へは角堂浜で降りる。)に着き、ここで剣先船に乗り換えて北におれ、やがて西村橋付近に着く。ここに「のざき道」の道しるべがある。一説には、乗りかえて観音井路を東に進み、観音浜で舟をおり、現四条農協の端を通り、まず専應寺さんにお参りし、それから野崎観音にお参りしたといわれている。江戸時代後半に出された『河内名所図会』には菜の花や桜の咲くころ、野崎まいりの往来のにぎやかさや参詣者の浮かれた様子が描かれている。

 住吉神社  舟運を守る水神
 駅前広場から寝屋川と恩智川にはさまれたところにある。寝屋川に他力橋、恩智川に戸関橋があつた。この二つの川を利用して、船による運送が栄えた。
歴史民俗資料館
 考古資料、古文書、生活民俗資料の展示。土器や古墳の副葬品。「弥生式短頚(たんけい)大型壷形土器」(右の壷)、5世紀中頃の堂山古墳群から出土した「太刀と剣の復元品」など貴重なものがある。江戸時代の地図や帳面、民具なども展示。入口には、江戸時代の水郷地域で見られた水車や三枚板の川舟を製作・展示しており、水とともに生きた人々の暮らしぶりが伺える。
道しるべ 
 「古堤街道 距高麗」 「距大和國界」 「明治三十五年五月改」「距國道第二號路線分岐」
 商店街にある。三分の一埋まっている。河内街道の分岐を示す標識があるので、もともと住道本通西入口付近にあったものと思われる。近くに地蔵堂。
 カルタの句 『 右ひだり 「すぐ」と教える 道しるべ 』

雨水貯留池公園

地蔵堂

古堤街道道しるべ

         八幡宮

         安楽寺

          地蔵堂
御供田 八幡宮 
 祭神(さいじん)は誉田別命(ほんだわけのみこと)・息長帯比賣命(いきながたらしひめのみこと)・比淘蜷_(ひめおおかみ)。
 平安時代に京都石清水八幡宮より当地に氏神として勧請(かんじょう)したものと伝えられている。
 御供田の地名は、石清水八幡宮への寄進地。

安楽寺 地蔵前石碑
 浄土真宗本願寺派。正徳四年(1714)の記録あり。この頃に創建とみる。本堂前の地蔵堂の石碑には「安政三歳丙辰久月□調」 「願主角ノ堂米安」と刻まれている。

銭屋橋

平野屋会所

まんだかるた
平野屋 銭屋橋
 江戸時代に新田経営の大阪の両替商平野屋又右エ門が銭屋と称していた。
樋門 さんだんものの樋 銭屋川の水路 新田の井路川(水路)に農業用水の調整する樋門。

平野屋新田会所(深野南新田会所) 高松邸  
  カルタの句 『 舟入場 千石倉残る 平野屋会所 』
 宝永元年(1704)大和川のつけかえ後、東本願寺難波別院の手で新田開発され、工事完了後の正徳四年(1714)に平野屋又右衛門に譲られた。その後所有者は助松屋、天王寺屋、高松長左衛門と移った。会所とは、年貢の徴収と管理に当たる所。この平野屋会所は深野南新田を中心に73町歩ほどを支配していた。平成20(2008)年1月解体。敷地には舟入場・千石倉などが残り、母屋は江戸初期と推定され広い土間と大引天井で居室と書院があった。なお屋敷内には瓢箪型の池をもつ庭園もあった。現在、数十戸の住宅が建っている。会所の北西の米蔵、道具蔵、船着場石段が残る土地を市が購入。現在、その整備方法を検討中。
 深野北新田の深野会所跡、名残りとして会所橋がある。
 (鴻池新田会所の屋敷は現在も重要文化財指定として残っている。)

農民感謝碑 
地主の高松氏らに感謝するため農民賛同者一同が建立明治25年
境界石 平野屋の所有になったとき、他家との境界に「又」(平野屋又右衛門)の刻印の入った境界石が設置された。

坐摩神社

東大阪変電所
  カルタの句 『 うれしいと 深野新田 開発す 』
 大和川のつけかえ後、洪水が少なくなった。川や池が浅くなり、水がなくなり、できた土地を平らにして田んぼにつくりかえた。町人請負・農民寄合請負・寺院請負などによって新田開発が始まった。深野池の開拓は東本願寺難波別院の手で宝永2年(1705年)開発され、完了後平野屋又右衛門に譲られ、助松屋、天王寺屋、高松長左衛門と移った。深野新田等14ヵ所の新田ができ、深野池は干拓され、水田地帯になって、池はなくなってしまった。新開池の方は同年、大和屋六兵衛と庄屋長兵衛が落札し、開発利権を鴻池善右衛門宗利が譲り受け、鴻池新田として開発された。ここで新開池もなくなってしまった。

石碑「坐摩神社参道」・坐摩神社

 会所の東隣にある。祭神は阿須波神(あすはがみ)・阿比祇神(あひぎがみ)を祀る。深野新田の開発にともなうもの。大阪中央区の式内社坐摩(いかすり・ざま)神社を勧請したものと思われる。住居守護・旅行安全・安産の神として信仰されている。

外環状線(国道170号線)を横断し、さらに東へ。右手に東大阪変電所の鉄柱を見る。
中垣内の弥生遺跡
  カルタの句 『 石包丁 弥生の米づくり 中垣内 』
 
昭和34年(1959)関西電力建設の際に発見。前期の弥生式土器や磨製石斧・石包丁・打製石鏃・獣骨・淡水産の貝殻・炭化米など発掘。

       2基の道しるべ

         覺順寺

       庚申塔
東高野街道 道しるべ2基
  カルタの句 『 まだ遠い 東高野街道 弘法大師 』
 
東高野街道は、平安時代に空海(弘法大師)が高野山に金剛峯寺を創建して以来、多くの参詣者が往来した街道である。京都から高野山まで通じている。

  カルタの句 『 右ひだり「すぐ」と教える 道しるべ 』
 
1基は、「すぐ京やわた道のざき柳谷」「右大峯参上」「すぐ大峯山上三拾三度」「嘉永二酉年三月建之」「発起人新五郎」と刻んである。
  もう1基は、小さな道しるべで「龍間山不動尊たつまへ」とある。古堤街道と東高野街道の交差点にある。



覺順寺 (かくじゅん)
 浄土真宗大谷派。当時の教如上人画像裏書には寛永十八年(1641)の年号がみられるところから、創建は江戸初期だろう。また深野新田開拓時に創建されたもと深廣寺(じんこう)の本尊も安置されている。 
善宗寺(ぜんそう)
 浄土真宗本願寺派。記録によると、平安中期の後、朱雀天皇の頃大和斑鳩の中宮寺が縁あって中垣内に一宇を建立したという。その後失火や兵火にあったが、再建に努力した善了・宗円の名にちなみ善宗寺に改めたという。

 道しるべから覺順寺を通って右に入る。そして、善宗寺の角を左に入ると・・。
鳳字寺 庚申塔寺の前にある。江戸時代のもの。鳳字(ほうじ)寺は禅宗。 
  カルタの句 『 平穏へ 祈る三猿二鶏の 庚申塔 』
 庚申塔の上部に、みざる、いわざる、きかざるの三猿が刻まれ、下部には、つがいの鶏が刻まれている。庚申信仰とは、十干十二支の組み合わせによる庚申(かのえさる)の夜にまつられる民間信仰で、六十日に1回まわってくる。庚申信仰は、中国の道教の思想で、平安時代に日本に入り、江戸時代に流行した。人間の体内には三匹の虫がいて、日夜絶えずその人の行動を監視している。庚申の夜には、人間が眠っている間に身体から抜け出して昇天し、天帝にその人間の悪事を報告する。天帝はそれを聞き罪状によって生命を取ったり縮めたりする。庚申の日は、夜に眠ると命が縮まり、眠らずに身を慎めば災難が除かれるとされ、人々が、当番の家に集まって、飲食をともにし、話や遊芸を楽しむなどの行事を行われた。今は、この日にこんにゃくを食べると病気にならないとされている。(三匹の猿は、悪い事は何事も見ざる、聞かざる、云わざるを表しており、三尸の虫もこの猿のようにして貰いたいという願をこめたものだという。)
 鳳字寺(ほうじ)は、市内唯一の尼寺で曹洞宗永平寺末。もと禅僧の隠居所で、寺になったのは昭和十七年(1942)である。開創は江戸中期の円隋文心(えんずいもんしん)大和尚の時という。
 行者さん
  カルタの句 『 土地の人 みんながうやまう 行者さん 』
 役行者は修験者の祖。天空を飛翔する神通力をもった験者として、ひろくたっとびあがめられている。役小角(えんのおづぬ)といい、634年奈良県南葛城郡茅原(ちはら)に生まれた。そして吉野の金峰山(きんぷせん)、大峰などを開き修業したが、彼の呪術は世間の人々をまどわすとされ、伊豆に流された。701年(68歳)に京にもどったが、その後の消息は不明、神変大菩薩の号をうけた。
 

鳳字寺

おかげ灯籠と須波麻神社

中垣内越え道しるべ
須波麻神社・おかげ灯籠
  カルタの句 『 式内社 千年続く 須波麻神社 』
  祭神 大国主命(おおくにぬしのみこと)。平安時代の延喜式神名帳に記載。市内唯一の式内社。
  カルタの句 『 ええじゃないか お伊勢参り おかげ灯籠 』
       
東高野街道の道しるべを兼ねた伊勢参りの記念灯籠
「大神宮 東 なら木津」「北 京 御影踊連中建之」「西 大坂 □文政十三年寅十二月吉日」「南 高野山 世話人若中□」
伊勢参宮はもともと抜け参り。誰にも告げないで旅立つ者が多かった。旅費の用意も服装の準備もない者が多かったから、沿道の施しだけによって参宮したが、沿道の住民もよくその面倒をみた。こうした参宮を「おかげ参り」といっている。江戸時代が盛んであった。

中垣内越え 道しるべ
   「すく いこま道  左 新道」と 
   「生駒寶山寺是与五十八(丁) 明治三十二年九月建之 建石発起人 大阪 飴金」 58丁約6327m
  カルタの句 『 中垣内越え 河内から大和へ 古堤街道 』
 大和と河内や摂津を結ぶ道は、南から暗(くらがり)峠越え・辻子(ずし)峠越え・善根寺越え・中垣内越え(生駒越え)が東大阪市にあり、大東市からは中垣内越え、四條畷市からは清滝道がある。中垣内越えの道は、大阪天満橋から今福・徳庵を経て大東市に入り、諸福→太子田→赤井→下野→御供田を通って中垣内に至り、そこから山路を登って,龍間、2つに分かれ、左は北を迂回して田原の古道より生駒へ。右は、龍間の入口の大文字屋からやや東南に向かい、なだらかな丘陵の間を荒池の南側に抜けて大和に入り、南条→中筋→東山を経、砂茶屋で暗峠越えの道と合流する。
鍋田川遺跡  中垣内3丁目
  カルタの句
 『 目をさます 土師器須恵器の 鍋田川遺跡 』

龍間方面から流れてくる鍋田川に架かる大東橋あたりの扇状地で、土師器(はじき)や須恵器(すえき)が採集。