「大東のふるさと」 カルタウォーク 古堤街道を歩く@ |
古堤街道(ふるづつみ/こてい/こて) カルタの句 『中垣内越え 河内から大和へ 古堤街道』 大東市内の東西を諸福から中垣内までの古道。元禄期以来「野崎まいり」も盛んであった。 古堤街道は、京街道(明治18年国道に定める國道第二號路線)の大阪城北側(現片町1丁目)付近から寝屋川沿いに、今福・徳庵を経て、諸福、太子田、赤井、下野、御供田を通って中垣内、龍間、そして、2つに分かれ、右は、暗峠越えの道と合流する。左は田原の古道より生駒へ。大阪から奈良北部に続く大和街道。明治時代になって古堤街道と正式に命名。 |
1 諸福橋跡 (鴻池新田駅から寝屋川を渡ってすぐ。川は埋められている。) 白龍大神 このあたり一面は池であったという。この渕あたりで、昔娘が度々にわたり行方不明になったので、この渕に住む龍に呑み込まれたのではないかといわれ、その霊をなぐさめるためにか「白龍大神」として祀る祠が、この渕の西にある。 |
2 「勿入渕」跡(昭和六年三月建之 大阪府) カルタの句 『沼のそば ないりその渕と 枕草子』 平安時代 清少納言『枕草子』第十七段 「淵は かしこ淵は、いかなる心の底を見てさる名をつけむとをかし。ないりその淵 誰にいかなる人の教へならん」 勿入渕伝説 昔、神功(じんぐう)皇后が浪速の国を視察に来られ、亀岡の穴太寺(あのおじ)より能勢の山を越えて池田の久安寺に落ち着かれた。その折、お付の高官が亡くなられたので、この渕に水葬にされた。そして、この渕に入る勿れとの碑を立てられた。そして子孫に伝え、この附近は下馬(げば)の高札が最近まであったと伝えている。また、この渕のあたりを落合といっていた。大和川の二つの流れが合流していて、この渕に流れ込んでいた。そして、西北200mにある大成高校あたりを打上といい、土砂が打上げられ高くなっていて、大阪市茨田町あたりまで一面の池であったという。 平安時代には東大阪市あたりにかけて大きな池があった。――江戸時代にはこの池はさらに縮小し、「新開池」と「深野池」の二つにわかれる。勿入淵とよばれる方は「新開池」である。(河内名所図会に記されている)延喜式によると、蓮は河内の名産として朝廷に献上されていた。 浅くて広い深野池と呼ばれる大きい池があり、その池の中に三つの島(三箇の地名)があり、西側に大きな沼(新開池)が広がっている。一度入ったら出られないという大きな底なし沼があったようだ。 カルタの句『 にこやかに 旅する益軒 南遊紀行 』 江戸時代 貝原益軒 『南遊紀行』に 「内助が淵は大池なり、ふかうの池の西南にあり、ふかうが池とは別なり、方八町ばかり有、蓮多く、魚多し、三ケより漁人行つ採る。又其辺にも漁屋少しあり 」 平安時代「勿入渕」と呼ばれていた池が、江戸時代には「内助が渕」と称された。 諸福遺跡(松下電器諸福工場) 弥生中期土器・石器・鹿骨製品等 3 鴻池の堰跡(昭和9年閘門完成 昭和31年電動式鉄扉 現在護岸壁) カルタの句 『水運の 難所治める 鴻池の堰』 江戸中期新田開発によってつくられた寝屋川。堰を閉め水位を高め田畑に水を引くため設置。6月から9月の灌漑用水を確保するため堰が閉鎖され、堰をさかいに上下流の船を運航させた。(大正時代は板敷通路で小舟はそのまま、人力で、大型船は荷物を移動して運航していた。昭和になって堰に閘門を設置。) 寝屋川は、大和川付替えが行われ新開池、深野池はなくなったが、上流からの水の流れは寝屋川として残された。深野池から新開池へ、そこから徳庵川へ流れ、今福で旧大和川水系と合流、ここから旧大和川は寝屋川と称された。交野市星田村に源を発し、西に流れる。寝屋川市内で南に転じ、大東市で再度西に向きを変え、大阪市内で旧淀川(大川)に合流する。 カルタの句 『豊作だ 井路を行き交う 三枚板(田舟)』 田に水を入れるため、寝屋川から溝を作って流す。これを井路(いじ)という。農家では、その井路を三枚板といわれる舟(舟底と両舷各一枚の板からなる小舟)に農具を入れたり、刈り取った稲を積んだりして、家と田の間を行き来していた。田仕事やレンコン掘りには、田舟はなくてはならないものであった。) |
子安地蔵 |
段蔵 |
4 西諸福子安地蔵(出産を守護するという地蔵尊) 地蔵さんは、右に錫杖をつき、家を訪れてまで願いごとを聞いてくださる。<カルタの句 「そこに立つ 願いかなえる 地蔵さん」「にこやかに 笑みをうかべる 地蔵さん」> 5 段蔵(だんぐら) カルタの句 『水害から 家財を守る 河内段蔵』 3つの蔵を階段状につないだような形をした蔵が北河内に多くある。水害のときの家具や米などの避難所。 6 乗得寺(浄土真宗) 子安地蔵 |
天満宮 |
勝福寺 |
羅漢さん |
7 諸福天満宮(菅原神社) (寛永20年1644)本殿は、江戸時代初期の建築様式ながら桃山建築の雰囲気。祭神は、菅原道真。 カルタの句 『知恵さずく 菅原神社に 手をあわせ』 天神さんは菅原道真と同一視されるが、本来は天を司る神、天候の神と考えられたから、農民は豊作を祈り全国のいたるところに祀った。道真が政敵藤原時平に讒言(ざんげん)されて大宰府に没した後 「 東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ 」 の歌を詠み、大宰師として配所の月を見つつ逝く。死後、京には落雷しきり、道真の怨霊のなせるものとして天満大自在天神の称を賜り、 北野天神に合祀(ごうし)された。 歯神大権現 延享二年の灯籠 「河内国茨田郡諸福村五人組伊勢講中」伊勢神宮への信仰 8 境内に地車(だんじり) カルタの句 『村祭り われらの地車 誇りもつ』 < 「宵宮の だんじり祭り かね太鼓」 「累年の 地車祭り なお続け」> 9 勝福寺(しょうふくじ) 曹洞宗 本尊 十一面千手観音菩薩 慶長元年1596に当地の東治左右衛門が創建 羅漢寺とも呼ばれている。本堂の鴨居(かもい)に五百羅漢の木像(仏教修行の聖者151体 → 座像135体高さ60cm前後 立像16体) カルタの句 『羅漢さん 祖先の供養 勝福寺』 明治18年(1885年)の淀川左岸決壊により大洪水で多くの木像が流された。いずれも江戸時代中期につくられたもので、祖先精霊菩薩のため、個人が各々寄進したもの。木札に羅漢名とその寄進者名を記している。大阪、京都、小田原藩等からの施主がみられる。羅漢とは阿羅漢の略で尊敬供養を受けるに価するという意味で仏教修行の最高段階に達した人をいう。後に仏の尊称「菩薩」として崇拝された。 |
おかげ灯籠 |
道しるべ |
戎大黒橋 |
10 石灯籠 (「天照太神宮」「天保卯ニ月吉日」「河州諸福村」おかげ踊りの記念碑) カルタの句 『ええじゃないか お伊勢参り おかげ灯籠』 大東市のおかげ燈籠は七ヶ所ある。おかげ燈籠とは伊勢皇太神宮への献灯を意味する。江戸期には神仏詣でが民衆の間に浸透し中でも盛大なのがお伊勢参りがあり、沿道の人々の施しをうけて参拝したのでおかげ参りと呼ばれている。伊勢参りは60年周期に起こったとされるが文政十三年(1830)の場合は、おかげ参りと共に河内大和一帯ではおかげ踊りと呼ばれ、阿波踊りに似た民衆の乱舞があった。枚方に始まり当地に及び大和に波及し、北河内に環流する。この乱舞、流行の鎮まりを見た天保二年(1831)当村の村政指導者たちは安堵し、村中安全を祈念して、この石燈籠を建立した。当市のおかげ燈籠七基のうち五基までは、文政十三年のおかげ踊りを契機に造られた。 11 道しるべ ((東)すぐ大坂住吉堺 左八尾久宝寺 (南)右京やはた星田妙見山 (西)すぐのざきいがいせなら郡山 明治二巳年正月吉日施主) カルタの句 『右 ひだり 「すぐ」と教える 道しるべ』 「すぐ」とは、まっすぐのこと。 <「ぬれながら 旅人守る 道しるべ」> 12 戎大黒橋(えびすだいこく) 中の島跡 カルタの句 『恩智川 合流するまで 中の島』 川の中に島があって、戎橋と大黒橋に分かれていた。江戸時代の絵図には、赤井の中の島から鴻池堰あたりまで細長く島が続いていた。寝屋川と恩智川を南北に分けていた。 |
戎大黒橋をわたり、灰塚へ立ち寄る。また諸福に戻り、太子田へ。 |
地蔵堂 大峯山上三十三度 13 素盞鳴神社(すさのお)祭神は素盞鳴命。産出神(うぶすながみ)ともいわれている。 現在も宮座が存続している。 毎年 2月 7日弓座と客座に分かれて、射的式をおこなっている。 比枝(ひえだ)神社(歯神さん) 常宗寺(浄土真宗) 水神宮(すーじんさん) 小さな池があるが、昔はもっと大きく池の水は地下から湧き出していた。創建不詳。江戸時代のものであろう。 楠木弁財天・楠木大権現・八大龍王 |
14 おかげ燈籠 カルタの句 『ええじゃないか お伊勢参り おかげ灯籠』 大東市のおかげ燈籠は七ヶ所ある。おかげ燈籠とは伊勢皇太神宮への献灯を意味する。江戸期には神仏詣でが民衆の間に浸透し中でも盛大なのがお伊勢参りがあり、沿道の人々の施しをうけて参拝したのでおかげ参りと呼ばれている。伊勢参りは60年周期に起こったとされるが文政十三年(1830)の場合は、おかげ参りと共に河内大和一帯ではおかげ踊りと呼ばれ、阿波踊りに似た民衆の乱舞があった。枚方に始まり当地に及び大和に波及し、北河内に環流する。この乱舞、流行の鎮まりを見た天保二年(1831)当村の村政指導者たちは安堵し、村中安全を祈念して、この石燈籠を建立した。当市のおかげ燈籠七基のうち五基までは、文政十三年のおかげ踊りを契機に造られた。 |
太子堂 |
大神社 |
樋門の石材 |
15 聖徳太子堂 堂内には聖徳太子十六歳時の木像が安置されている。孝養像(きょうよう) カルタの句 『累代の 信仰をもつ 太子堂』 聖徳太子信仰ははやく奈良時代に起こり、鎌倉時代になると盛んになり、太子像や太子堂を造った。それが室町から江戸時代に入ると庶民の信仰対象となり、庶民間でも太子講など結んで信仰を強めていった。 16 大神社(だいじんじゃ) 天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っている。文久3年1863灯篭1対、地車、イチョウの木。 樋門の石材 「八ヶ庄弐十箇村立曾悪水□石門樋」 (右下の写真) <悪水は排水のこと> 17 太子田樋建設記念碑(「紀念弘化二乙巳年十二月樋門開鑿(かいさく)」「安政五戊午年二月石材ヲ以テ改 明治二十九丙申四月待樋改 明治三十四辛丑年四月樋管両側改」)弘化ニ年(1845)安政五年(1858) カルタの句 『樋門たつ 水位合わせて 舟がゆく』 (舟の運行現在ポンプ小屋) 6月に入ったら鴻池の堰をいれて、寝屋川の水位をあげる。舟の運行にあたって水位が異なるため、樋門を片方ずつ開けて水位合わせて出入りする閘門形式。 白壽弁財天 18 明福寺(浄土真宗) 聖徳太子堂を管理している。聖徳太子信仰が浄土真宗と結びつく素地はすでに親鸞よりあったと考えられる。 |
19 元南郷中学校跡 当時の正門の門柱だけ残っている。最近、ここに住宅が建ち、現南郷中玄関に移転する。 昭和22年9月1日 南郷村立中学校(南郷小学校内に) 昭和26年6月〜昭和38年3月 旧ミラノニット地に(旧南郷小学校が明治37年〜昭和10年まであった。) カルタの句 『南郷中 かるた遊びで 郷土知る』 南郷中グランド 丸池跡 蓮の花 カルタの句 『れんこんの 花をさかすは 南郷地域』 「南郷」の地名は、明治22年(1889)南郷村の成立時に名付けられる。水利で結ばれた八ヶ庄二十ヵ村に属し、その南の地域という意味から南郷とされた。旧南郷村で、主として、新田、御領、諸福、氷野などの湿地帯では、むかしから”れんこん”を植えていた。新田地区は8割まで”れんこん畑”であった。 |