かるたウォーク     清滝街道を歩く
巣本・鶯地蔵→蔀屋・自然石道しるべ→岡部川・水みらいセンター→

蔀屋浜、雁屋泊→愛宕常夜燈→本泉寺→

消防署→雁塔・西南の碑→正法寺→

農協→道しるべ→清滝川→旧正法寺跡→正円寺→

国中神社→弘法大師堂→清滝瀑布→大師堂→天満宮→

役行者堂→五輪塔・茶屋の跡→逢阪の巨石→

地蔵道しるべ→田原へ



遺跡関係 蔀屋北遺跡 鎌田遺跡 中野遺跡 奈良井遺跡 四條畷小学校内遺跡 木間池北方遺跡 城遺跡 清滝古墳群 正法寺跡 大上古墳群 上清滝遺跡
清滝街道の起点 自然石道しるべ(堀溝との境界、蔀屋・池村酒店前)カルタの立て札
 カルタの句 『 ぬれながら 旅人守る 道しるべ 』 立て札・カルタの句碑
 四條畷市内に往時の東高野街道、河内街道(枚方道)、清滝街道(奈良・伊勢への道、清滝峠越え大和街道)がある。道筋には、角柱道標、墓型道標、地蔵道しるべなど数多くある。清滝街道の起点である蔀屋にある自然石の道しるべが、市内で最古といわれている。
 正面に「やハたみちすじ これより東清瀧越」 裏面に「延宝三乙卯年七月五日(1675年)」
 堀溝の道しるべ「守口街道」「右守口街道田原」「左守口街道守口」「すく守口街道」「明治三十七年一月」 (行基道・奈良の都平城京への重要な交通路。行基は高瀬寺・現守口市にある高瀬の里から東に向かって道路をつくる。この清滝峠越えを行基みちともよぶ。)
    カルタの句 『 堀溝に 鶯の関跡 行基みち 』 (「ふるさと寝屋川かるた」より)
 道しるべ 「右大峯山なら いせ道」「左大坂 も里口道 右やハた 柳谷道」「慶應弐丙寅仲春建光明講(1866年)」
 大念寺(堀溝) 融通念仏寺 一石十三仏碑 二基

巣本・鶯地蔵
 鶯関と呼ばれる関所があった。この関所は戦略的というより料金取りを目的としたもの。近くにある大念寺はもと鶯関寺(おうかんじ)と称した。後、今は「一心山 鶯関院 大念寺」となっている。清滝街道と寝屋川沿いの守口―八幡道が交錯する要所。野鳥の「巣くう本(もと)」。村境の道祖神。鶯地蔵は錫杖を持つ坐像。磨滅風化した古仏。地蔵の横に二体並んだ小地蔵は顔、胸部の彫りは磨消。男女像を型どった道祖神ではないか。現在も8月23・24日の2日間地蔵盆が行われている。享保年間の河内志に「鶯関」と記され、市内岡山村文書にも「甲可岡山より十町南蔀屋村に、うぐいすの塚あり〜」と。23日には季節物を供え西国三三ヶ所の御詠歌に始まり、盆踊りを催し、24日に子どもたちに供え物を分配する。

蔀屋・道しるべ

鶯地蔵

岡部川八丁提に立ち寄る

道しるべ(岡部川、四條畷・寝屋川市の境界道路脇)
 「大峯山上三拾三度先達甚(兵衛)」「右八幡宮道」「左大坂道」「弘化四丁未年九月上旬 光明(真言講)」 ( )埋没部分 1847年
 カルタの句 『 岡部川 車いきかう 八丁堤 』
 岡部川とは、岡ノ辺(べ)を流れる川を意味するのであろう。砂、中野の境界を流れる。川脇を固める土堤道(どてみち)は八丁堤と呼称され、砂村から堀溝(ほりみぞ)への主要街道である。

 岡部川  左側に蔀屋北遺跡

蔀屋北遺跡


製塩土器と塩づくり
蔀屋北遺跡 (府立水みらいセンター  カルタの立て札
    カルタの句 『 塩づくり 河内湖畔に 馬の牧 』 
縄文後期〜弥生時代の遺物、古墳時代の土抗、平安時代の屋敷跡、平安〜江戸時代の条里水田跡。製塩土器(約1500個体分)が出土。粗塩(あらじお)を精製していた。海辺で作った塩の半製品を仕入れ必要に応じて小さな容器に移して焼塩にする。馬一体分の骨格、馬の歯、木製あぶみ、鞍、鉄製のくつわの一部、百済系の陶質土器、韓式系土器など出土。掘立柱建物跡。朝鮮半島から船に乗って馬と渡来人がわたってきた。馬飼い集団の牧場であった。日本書紀に記されている「河内馬飼」集落だったのではないかと思われている。(古墳時代中・後期)

讃良郡条里遺跡
 近畿最古の弥生土器、井戸 市内最古の米づくり
鉄鍛冶(古墳時代中期 イオンモール四條畷) 鉄鍛冶関連遺物 鉄素材を加工する鍛造(たんぞう)鉄器製作
大将軍社跡(イオンモール四條畷) 16世紀中ごろ(室町後期〜1911年明治44)忍陵神社に合祀。
  方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一神である大将軍神を祀っている。

元の蔀屋に戻る
蔀屋浜、雁屋泊
     カルタの句 『 深野池 雁屋泊・蔀屋浜の 舟つきば 』
大和川が北流して深野(ふこの)池ができた。18世紀の初め、大和川のつけかえ、深野池干拓後の寝屋川舟運(しゅううん)こそ、 当地と大阪を結ぶ主要動脈であった。その舟つき場は、南野の雁屋泊と中野地区の蔀屋浜にある。昭和10年代まで続いている。江戸期に入った雁屋は、寝屋川舟運の拠点で、舟運に携わる家は勘三郎を襲名し、雁勘の名で親しまれていたそうだ。また、年貢米収納庫(郷蔵)が建ち不寝番も立ったそうだ。舟運を利用した交通の便により蔀屋(しとみや)にも蔀屋浜がつくられ発展した。 カルタの立て札(蔀屋本町10)
「雁屋濱跡」石碑(雁屋西町6・雁屋歩道橋付近)昭和10年頃まで船着場あり、倉庫4棟建っていた。舩橋聰人建立(平成14年)

船着場

船着場

蔀屋浜跡

本泉寺・常夜燈

白龍大神

愛宕の常夜燈・大師堂
蔀屋から離れて北出町、二丁通町へ立ち寄ると
白龍大神と大力大神祠堂
 白龍大神は、天の使者とされる白蛇を化身となる水神である。案内板に「昭和25年9月3日のジェーン台風に樹齢700年の榎木の大木が倒壊し、昇天し、再び降りてこられた厄除開運・白龍大神。力づけの神・大力大明神は、大木の倒壊の跡に降下され流行病を防ぎ、村人の諸病平癒の神。」と書いてある。
愛宕の常夜燈と弘法大師堂   カルタの立て札
   カルタの句 『 火から 世を守る 愛宕の常夜燈 』

 昔も今も火事ほど恐いものはない。ことに藁葺きの屋根構造であった江戸時代には、延焼を防ぐには隣の家をたたきこわすしか火勢をくいとめることができなかった。また、神仏にたよるしかなかった。京都の北西にある愛宕山の防火神・愛宕神社にお参りにいくが、遠方なのでなかなか出かけることができない。そこで、村ごとに常夜燈を祀っている。また、村の代表が愛宕さんにお参りし、みんなのお札をいただいてくる。
本泉寺・常夜燈(国中神社の常夜燈江戸末期・遥拝所)
 浄土真宗 明治30年に北区より移転、当地の教光寺と合併して本泉寺を称する。
←鴈塔 西南の碑・旧鴈塔
市役所・道しるべ

皇太神宮・太神宮常夜燈
消防署
鴈塔   カルタの句 『 まこと 夫婦の愛を説く 鴈塔婆 』 カルタの立て札
 河内の雁塚は、文明年間(1469〜1486)のもので、四條畷にとっては、貴重な民話のひとつである。「一人の猟師が雁(がん・かり)を射落とすと、首のない雌雁。数旬後射落とした雄雁は、雌雁の首を羽交(はがい)に暖めていた。愛する者のなきがらを温め、悲哀のどをつまらせてやせ衰えた雄の雁、連れ添うものの愛の深さに胸はつまり、猟師は弓矢をおり、雁の霊を弔った」という話である。この雁塚を建てたのは寛延二年(1749)寺尾幸助という人で、綿糸仲買人として、この地域を行商していた。そして、大阪北浜で財をなした。(この雁塚の横に2m強の板碑がある。上部中央に梵字〈多分金剛界大日如来のバンと読む〉中央に「当所古老伝雁石塔婆也」下部に「正保二年(1645)六月中野村」とある。百年前に板碑があって、風化してきたので寺尾幸助なる人が雁塚の由来文をも加筆して建てかえたものであろう。また、雁は「水草」を食べるので、子どもの「おでき」をなおしてくれるともいわれている。

西征戦死招魂碑(西南の碑)  カルタの句 『 平穏な 世にこそしのべ 西南の碑 』カルタの立て札
「西征戦死招魂碑」「河内国三大区中斉者建立」「明治十一四月」「出身の戦死者名」 (三大区とは、讃良郡・交野郡・茨田郡)
 戦争のことを「役」とも呼ぶが、役とは労働奉仕を意味するもので、庶民の労働、犠牲の上に戦争は行われてきた。近代戦の最初とされる西南の役の、戦没者慰霊碑が、消防署の前にある。北河内出身の16名の戦死者が、四條畷市の人はいない。征韓論に敗れた西郷隆盛は、明治六年(1873)郷里に帰って、私学校を創設。私学校は、編成された武力をもち、しかも、その力は中央政府と対抗できるほどだった。廃藩置県後、政府は鹿児島藩から海軍造船所と陸軍火薬庫を接収して、それぞれに兵器弾薬を収蔵していた。政府に襲撃を加えた。死闘50日、城山で隆盛以下300名、自殺あるいは戦死した。
鎌田遺跡 カルタの句 『 馬の骨 神にささげる 祭祀跡 』 市民総合体育館(近世・中世・古墳時代の水田跡や弥生時代の方形周溝墓と溝が主な遺構)
給食センター(日本で最初の馬牧場。この遺跡から馬の祭祀場が見つかる。神様に供える木鏃、それをのせる飾り台,楽器スリザサラ、馬の顎や歯や骨、製塩土器など出土) 馬は草ばかり食べるので塩分が不足、それを補うため両手一杯の塩を与える。
道しるべ(市役所)「右 いせ なら 左 京 やハた」
中野遺跡
 東庁舎のところから、古墳時代後期のカマド形土器出土。他に須恵器の杯、高杯や製塩土器(100点以上)など出土。馬の下顎。
中野 太神宮常夜燈 皇太神宮遙拝所(こうたいじんぐうようはいしょ) 
 中野の常夜燈は明和八年(1771)のおかげ参りから七年後に建てられた。
 カルタの句 『 ええじゃないか お伊勢参り おかげ灯籠 』(郷土史カルタ「大東のふるさと」より)

         中野・正法寺

←金毘羅大権現の常夜燈

正法寺石柱・准檀林の結界石

石棺

六字名号碑・十三仏

大峯山三十三度碑・役行者像・弘法大師像
金毘羅大権現常夜燈
 海の神、海上安全の神さま。香川県の「金刀比羅宮(ことひらぐう)。江戸時代、廻船航路。
正法寺(しょうほうじ)   カルタの句 『 天平の 正法寺の灯 今も燃え 』
 聖武天皇の勅願寺として建立されたと寺伝。中古に至って真言宗寺院となり、近世に浄土宗に転ずる。天平に始まって室町期に至る遺物を出土させた清滝の旧正法寺、七堂伽藍を備えた寺院であった。現在地に移ったのは元和八年(1622)。
 明治5年より17年まで中野小学校、同22年より大正7年までは村役場が同寺内に設置されて明治村政の府となる。
「准檀林(じゅんだんりん)」の結界石(門前) 檀林とは仏教の学問所。結界石とは堂塔・伽藍の境域を定める石。

石棺   カルタの句 『 よりあえば 一つの石棺 ここにあり 』 <カルタの立て札は国中神社
 中野正法寺に、1500年前 古墳時代 長さ156センチ、幅79センチ、高さ40センチの貯水槽がある。。旧正法寺付近にあった双子塚から出土したものを搬入。国中神社石段上り口の石棺蓋をあわせば家型石棺で貴子の子どものものではないだろうか。
 また、中野正法寺へ入るところに、小さな石橋がある。古墳時代の石棺の身を転用したもの、その蓋石は境内に建つ六字名号碑、土台の石は石棺の身の一部であることがわかった。

十三仏   カルタの句 『 追善供養 生前に祈る 十三仏 』 カルタの立て札
 高さ180センチ、幅80センチ、厚さ30センチ。右側に「奉造立十三佛逆修念佛講一結 天正十八季」左側に「諸衆八十一人同本願観海上人 六月八日敬白」 (観海上人のもとに集まった念仏信徒八十一人は、死後の三十三回忌法要ごとのため、十三仏を造立し奉る。天正十八年(1590)六月)。南北朝時代から江戸初期まで、庶民のなかに広く普及したもの。人間が死んで、あの世へ往生するまでに三十三年かかるそうだ。そのために亡くなった人の供養をする。向かって下段右から左へ、初七日(しょなぬか)の不動明王、二七日(ふたなぬか)の釈迦如来、三七日(みなぬか)の文殊(もんじゅ)菩薩、そして下二段左から右へ、四七日(よなぬか)の普賢(ふげん)菩薩、五七日(いつなぬか)の地蔵菩薩、六七日(むなぬか)の弥勒菩薩、そして下三段右から左へ、七七日(なななぬか・49日)の薬師如来、百ヵ日の観音菩薩、一周忌の勢至(せいし)菩薩、そして下四段左から右へ、三年忌の阿弥陀如来、七年忌の阿しゅく如来、十三年忌の大日如来、上段が三十三年忌の虚空(こくう)菩薩の13回の追善法要である。十三仏は、死後の法要を、生前、自分でしておこうという逆修(ぎゃくしゅ・あらかじめの意味)の意味するものが多い。一石に十三の仏さんが彫られている。四條畷に7基ある。自治体では日本一多い。

念仏名号  ねんぶつみょうごうひ
 カルタの句 『 念仏の 六字名号碑に 手をあわす 』  カルタの立て札
 カルタの句 『 年老いて 六字名号碑に 心寄せ 』  (カルタ「田原の里」より)
 六字名号(ろくじみょうごう)とは、「南無阿弥陀仏」の六字をいう。「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀仏に帰依(仏を信じ、その力にすがること)する意味。善導(ぜんどう唐の僧)はこれを称念(しょうねん南無阿弥陀仏と唱えること)すれば必ず極楽浄土にいけることをいい、浄土真宗では、南無は「たのむ」、阿弥陀仏は「たのむ者をたすける」と解釈している。これを唱えるのを念仏という。中野の正法寺に江戸期以前の六字名号碑がある。碑の石塔は古墳時代の石棺の蓋石の転用、土台は身の一部。(石棺の見は寺へ入る小さな石橋に転用)天文五年(1536)としては大阪でも一番古いものではないか。(高さ150センチ 幅90センチ 厚さ15センチ 板状型 金石文字は大阪随一。「三界二十五有六道四生含識」「南無阿弥陀佛」「于時天文五天四月吉日敬白」→われわれの生死流転する欲・色・無色の三界と、この三界をさらに分けた二十五の領域、衆生(しゅじょう)が業によって生死をくり返す六つの世界、胎生、卵生、湿生、化生の四つの世界に命あるもの。すなわち、生きとし生ける衆生のために、南無阿弥陀仏。時に天文五年(1536)四月 敬白)

西国三十三ヶ所巡礼碑
 カルタの句 『 霊場を 紀伊から美濃へ 巡礼す 』(カルタ「田原の里」より)
 4つの石碑(元禄十六年1703 享保四年1719 同七年1722、元文二年1737)「奉供養西国三十三所順禮」
 三十三の数字は、観世音菩薩が迷いから救うために33種に姿をかえたという伝説に基づいているといわれている。すなわち人を見て法を説く姿が33変することから、霊場を33ヶ所を選び巡礼するようになったそうだ。聖地の巡礼は世界共通。三十三ヶ所巡礼は平安中期に始まっている。西国三十三ヶ所巡礼は、紀伊(和歌山)の那智・青岸渡寺(せいがんとじ)が一番の霊場、そこから、三十三番の美濃(岐阜)の華厳寺(けごんじ)に至るまでの往復路を巡る。村中にある巡礼碑は、巡礼の満願の喜びを記念したものだが、その碑文に手を合わすことのよって、村人は観音さんの功徳をたくし、日々感謝の思いを新たにしていた。

役行者像(役小角像えんのおづぬ カルタの句 『 土地の人 みんながうやまう 行者さん 』
 高さ110センチ、幅70センチ、厚さ20センチ自然石中央を彫り刻む。岩座に腰かける像容は、口と目元に微笑をたたえている。右側に「大峯山三十三度」左側に「寛政元年」(1788)、下側に十数名の名前を彫り付けてある。奈良大峯山に三十三回修業した山岳修業の験者・先達となった人が、この修験道の開祖たる役小角像を造ろうとした。その時造塔の共鳴者が現れ、十四、五名の援助者の名前を、先達・験者名の下に書き連ねたものであろう。市内に4つの役行者像があるが、文字の記載はここだけである<立て札・カルタの句碑は上清滝>
 弘法大師像(石造) 大峯山三十三度石碑

農協前・道しるべ

旧正法寺・片山長三画

正円寺
中野駐在所
 明治7年当地域警察発祥地
三坪橋(みつぼ) 古い石橋。東高野街道。

道しるべ 農協前 清滝街道 東高野街道
 カルタの句 『 往来の 弘法大師の 高野道 』  カルタの立て札は歴史民俗資料館
 カルタの句 『 ぬれながら 旅人守る 道しるべ 』 
『 右ひだり <すぐ>と教える 道しるべ 』 
 南北する古道は、京都と高野山を結ぶ東高野街道。京都行きに利用する人は京街道と呼ぶ。東西する清滝街道との交差点。
 三体の道しるべ。@高さ130センチ角柱に「右清滝街道 すく東高野街道」(「すく・すぐ」とはまっすぐのこと)A石碑型道標に「鶴澤亀(異体文字で)窓(松の古文字で文字がない、正しくは心が木である。)(かめまつ) 右いせなら 南か(こ)うや 門弟中」(文楽三味線師匠の遺徳を顕彰したのであろう。)B1m大の地蔵道標「右なら いせ道 左京やハた道 寛政十午天十一月日、中野村願主」(1798年、中野惣中によって建立)(昭和初期に清滝街道から移転か。)

清滝川   カルタの句 『 清滝川 大和を結んで 道に沿う 』 <カルタの立て札は上清滝
 清滝川の源は、逢阪の龍王川(りゅうおうがわ)に発し、流れ流れて中野、二丁通を経て寝屋川に注ぐ。この川に沿って、大和と河内を結ぶのが清滝街道。古道のおもかげは、上清滝付近にわずかに残っていたが、トンネルが開通したため、なくなってしまった。テレビ大阪「ふるさと四條畷」に、この古道や開発前のものを収録している。<「清滝街道」石碑農協前>

奈良井遺跡祭祀遺構(市民総合センター) カルタの句 『 馬の骨 神にささげる 祭祀跡 』 
  古墳時代の中期から後期にかけての祭祀場(馬まつり)。大切な馬を “いけにえ”として神に捧げる。7頭以上の馬の骨。土製人形(ひとがた)・土製馬形・ミニチユア土器など出土、“いけにえ”の代用。石敷炉跡(いしじきろあと・製塩炉の遺構)。製塩土器。周辺から韓式土器。馬の祭祀場は、最初の牧場の中心であった鎌田遺跡から奈良井遺跡に移ってきた。奈良井遺跡から、その後5世紀後半に中野遺跡および南山下(みなみさげ)遺跡へと広がっていく。

カルタの立て札
市民総合センター
                         

馬飼いのまつり
イラスト・資料館より

人形・馬形・土器のミニチュア

四條畷小学校内遺跡 韓式土器(陶質土器・渡来人が故郷から持ってきた土器) 

木間池(こまいけ)北方遺跡 土製馬形(土馬・雨乞いや厄除け) 奈良・平安時代の祭祀。水とのかかわりの場所から出土。

城(じょう)遺跡
 ヒスイ製獣形勾玉

韓式土器

土製馬形

ヒスイ製獣形勾玉

大上
古墳群 おおがみこふんぐん
 馬は朝鮮半島から運ばれ牧が築かれた。馬飼いも大勢やって来た。渡来系の人々の墓地とした場所。
 古墳時代中期から後期の前方後円墳が見つかる。 韓式土器(須恵器の甕)が発見。
 横穴式石室(古墳の形は不明) 古墳時代後期 鎌倉時代に石室が開かれ、副葬品は持ち去られる。金銅装中空耳環(耳飾)
前方後円墳(帆立貝式・墳丘部長さ約35m、全長約45m、周濠約5m)

旧正法寺跡 
   カルタの句 『 天平の 正法寺の灯 今も燃え 』
聖武天皇の勅願寺として建立されたという寺伝。このとき古墳群が破壊される。中古にいたって真言宗寺院となり、近世に浄土宗に転じた。天平に始まって室町期にいたる遺物を出土。白鳳時代の軒丸瓦、最近では鴟尾(しび)の断片が見つかっている。清滝の旧正法寺は七堂伽藍(薬師寺式伽藍配置)を備えた寺院で、中野の現在地に移ったのは元和八年(1622)。明治五年より十七年まで中野小学校、明治二十二年より大正七年までは、村役場が同寺内に設置されて明治村政の府となっていた。
 カルタの立て札
清滝古墳群
 径23〜26mの円墳を主とした古墳群、奈良時代前期の正法寺の造営で破壊。講堂と思われる礎石(3個)や基壇が見つかる。基壇は壊れた瓦をリサイクルしたもの。その中に円筒埴輪の破片が敷いてあつた。古墳を造成して寺が建立されたのがよくわかる。地元では双子塚、家型石棺が出土と伝えられている。

正円寺
 浄土宗。由緒不詳。正法寺が清滝村より中野村に移った江戸初期、清滝村の檀那寺として造られたと考えられる。 

国中神社

算額

石棺の蓋

如在寺
国中神社 鳥居   カルタの句 『 豊作祈願 わが町に三つあり 式内社 』 <カルタの立て札は御机神社
 周囲に民家が多く存在するから「山中」に対して「国中(くなか)」であろうか。人里のなかであるが樹木が生い茂る高地にある。千年以上の古社である。928年の「延喜式」に国中(くなか)神社で式内社と記された古社。わが町の式内社の中で鎮座地を変えていないは当社のみ。
 祭神は由緒不詳。中世に天神さんを祀るため「天満宮・天神宮・大蛇宮(龍神・雨神の意)と呼ばれる。明治維新の神社制度確立の中で「国中(くになか)神社と復古名称して現在に至る。大正6年2月逢阪の大上宮を合祀した。氏子は中野、清滝、蔀屋。末社菅原社(菅原道真)、三神社(天照大神・八幡大神・春日大神)両宮社(天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)・豊受皇大神)、祇園社(素盞鳴尊スサノオノミコト天照大神の弟で大神をして天岩戸に隠れさせた荒ぶる神、後に出雲に天降って八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した>)、猿田彦社(猿田彦大神<天孫降臨の道案内のカミ>)、吉備社(吉備大神<奈良時代の学者政治家、遣唐使として名高い吉備真備キビノマビキ>)、天神社(天照皇大神)、稲荷社(稲荷大神)が合祀。
 牛の安全を祈った石造牛(菅公ゆかりの撫牛)。正徳三年(1713)大上山(てんじょうざん)天満宮等の手洗鉢。神社の守護獣たる狛犬が2対(天保八年1837と嘉永元年1848)。遥拝所。
 國常立命(クニトコタチノミコト)を祀る天神社(アマツカミのヤシロ)と菅原道真を祀る天神社(テンジンシャ)との間違いではないかと・・・。本来の祭神は大蛇すなわち龍で水神・農業神ではなかったか、といわれている。
 鳥居のわきに正法寺跡の礎石。(鳥居の改修時に正法寺跡説明板の西側に移動)
算額(さんがく) 『宅間流算法』 明治25年(1892) 宅間流算法の森本市太郎を顕彰するため奉納
 算額とは、神社・仏閣の拝殿や絵馬堂に奉掲されている数学の絵馬をいう。算額は江戸時代に研究発表の手段あるいは難問が解けた喜びや感謝として社寺に奉納される。
 宅間流とは宅間能清を始祖として、大阪で始まった和算の一流派で、宅間流円理(えんり・西洋の微積分)としてもよく知られている。市太郎正盛はソロバンが達者であったが、大正8年(1919)米相場で没落した。大坂城によく出入りし、災禍にあった大坂城の修復にも尽力したという。
 算額は近畿に86面、北河内に2面、国中神社と枚方の意賀美(おかみ)神社。

石棺の蓋    カルタの句 『 よりあえば 一つの石棺 ここにあり 』  カルタの立て札
 中野のある正法寺に長さ156センチ幅79センチ高さ40センチの貯水槽がある。これは石棺の身の部分。小さな感じがする。子ども用のようだ。その蓋のの部分が、国中神社南側入口の手洗鉢の後にたっている背石であることがわかった。なぜ、別々になっているのか分らないが、旧正法寺付近にあった双子塚から出土したものと伝えられている。「よりあえば・・・一つの石棺・・・」とうたったということだ。

地車  カルタの句 『 累年の 地車祭り なお続け 』 カルタの立て札

里山の復元(環境センター) 伊香型民家(筑150年以上・滋賀県から)
         清滝浄水場跡 四條畷の水道水は室池の限りない恵みを受けていたが、1998年(平成10)3月末をもって閉鎖。
如在寺(日蓮宗 山号は三剣山 戦後間もなく大阪より移り来る。)
大師堂
 弘法大師を祀る。京都の東寺、高野山を結ぶ東高野街道筋に位置することから、その影響を受けて古寺院の清滝正法寺は真言宗であったことがあり、下田原法元寺は真言宗寺院として信仰を集めている。

清滝街道・小祠堂

清滝街道

清滝瀑布

清滝瀑布以前の立て
小祠堂(ほこらどう 堂内に廻国修業中の弘法大師像)
土中に埋まっていた自然石道しるべ(現在・国道163号清滝第一トンネル前200mに設置)
 上清滝集落数軒は、古道に沿って開け、200mほど行くと、古道が二つに分かれる。そこに埋まっていた道標があった。大きさは高さ1m50、幅60cmぐらいのもので「左あう坂 右いが いせ なら 郡山 きづ遍」と書いてある。大和街道逢坂越えと大和街道清滝峠越えとは異なっていたものとも考えられる。この分岐する両道が再び合致するのは、逢阪の地蔵道しるべのあるところである。

清滝瀑布きよたきばくぶ   カルタの句 『 渓流を 集めて落ちるや 清滝瀑布 』 カルタの立て札
 国道163号線に沿う清滝池より、山道を南へ500mの森閑のところに高さ20mの滝がある。(瀑布は滝のこと)滝にうたれて不乱の祈りをささげ、現状打開の啓示をあたえてくれた神々の碑が多くある。滝に向かって左側に不動明王(忿怒の形相威力で悪をこらす仏として、一切衆生を救済する如来の使者)。他に二体の不動明王、観音菩薩が一体、黒龍大神、白龍大神(天の使者とされる白蛇を化身となる水神、黒龍も同じく黒蛇を化身)、八大龍王(請雨経法に崇拝される諸龍王、その形像は人身蛇尾、頭に三ないし九個の龍頭)、白光大神(白狐大神、狐を化身とする神)、白玉大神、白米大神(稲作の神)、住吉大神(白衣の衣冠束帯形に笏を持つ老人としてあらわれ、本地は薬師如来とされる)、黒吉大神(仏法の守護神)などと大書した板碑の神々が十数体。20年前に郷土史カルタの立て札を建てたが、榊が手向けられていた。信者の人が、立て札に神聖なものを感じられ、大切に思っていただいたのかも知れない。今はどうなっているか、木製なので朽ちてしまったかも知れない。
清滝川  カルタの句 
『 清滝川 大和を結んで 道に沿う 』

 清滝川の源は、逢阪の龍王川に発し、流れ流れて中野、二丁通を経て寝屋川に注ぐ。この川に沿って、大和と河内を結ぶのが清滝街道。古道のおもかげは、上清滝付近にわずかに残っていたが、トンネルが開通したため、なくなってしまった。テレビ大阪「ふるさと四條畷」に、この古道や開発前のものを収録している。カルタの立て札

句碑・天満宮石碑

天満宮
清滝天満宮
 
もとは清滝街道の古道辺りにあった。祭神は菅原道真。天神さんは道真と同一視されるが、本来は天を司る神、天候の神と考えられたから、農民は豊作を祈り、全国いたるところに祀られた。
芭蕉らの句碑
 剣先型の自然石。当碑は現在地の真下清滝川に沿う古道筋の旧宅から移したもの。・いささらに雪見にころふ所まで 芭蕉 ・天長くちひと讃(ほむ)るや秋の月 貞徳 ・なかむとて花にハいたし首の骨 宗因 いずれも当地と関係ないもの。5,6軒の上清滝集落に俳句のたしなむ風流人があって、当地域の風景に適した句を彫って建てたものであろう。

役行者堂   カルタの句 『 土地の人 みんながうやまう 行者さん 』 カルタの立て札
 もとは清滝街道の古道のそばにあった。役行者(役小角えんのおづぬ)は修験道の祖。天空を飛翔する神通力をもった験者として、ひろくたっとびあがめられている。木造作りの漆塗り、右手に錫杖、左手に経巻を持ち、高下駄を履く、眼光はあくまで鋭く、材質はガラス玉を思わせる。神力、神通力にふさわしい眼光、山型の頭布を被り、逆三角に垂れ下がった顎髯の姿態、高さ80センチ、この肖像は役行者42歳の姿。今から280年前ほどにたてられた。
 役行者は、役小角(えんのおづぬ)といい、634年奈良県南葛城郡茅(ち)原に生まれた。そして金峰山(きんぷくせん)、大峰山などを開き修行したが、彼の呪術は世間の人々をまどわすとされ、伊豆に流された。701年(68歳)に京にもどったが、その後の消息は不明、神変大菩薩の号をうけた。
 8月7日(戦後は9月7日)の行者祭りには村人集まって護摩をたき、季節の野菜を供え、般若心経を奉唱した後に会食する。
上清滝遺跡 
清滝街道の「塔の坊」は平安時代の終わりから鎌倉時代にかけての寺跡。木製聖観音像二体やお経の書いてある木簡が出土。巻物の芯となる題箋軸に寿永三年(1184年)と書かれてある。「はせのたね」という木簡は「早稲の種」であることも分かる。瓦器碗(がきわん)を焼いた窯跡(かまあと)、木樋管(水田)、街道沿いの大きな岩下から和鏡が見つかる。湯釜や茶臼、茶碗(室町)。貨幣が最も多く出土(次が中野遺跡)

逢阪の五輪塔

東光寺
逢阪の五輪塔   カルタの句 『 延元の 年月きざむや 逢阪の五輪塔 』 カルタの立て札
 逢坂に高さ180センチの五輪塔がある。古さと美しさで府指定有形文化財に指定。基部から地・水・火・風・空輪と名称される。大日如来の供養塚として平安期に始まり、室町時代には墓標として、一般化しつつ現在にいたる。地輪部中央に「大坂一結衆 延元元丙子年三月 日造立之(・えんげんがんねんひのえね・・これをぞうりゅう)」の銘がある。「延元」は南北朝時代の南朝年号(1336)であるから、争乱初期の当地は南朝勢力圏であったようだ。大きさと美しさと古さを、ぜひ見てほしい五輪塔。実は、移動したとき、間違って水輪を逆さまにして置いてしまったそうだが、その後また移動したとき正しくしたと聞く。。

清滝峠の茶屋の跡   カルタの句 『 のぼりつめ 清滝峠の 茶屋の跡 』 カルタの立て札
 貝原益軒は、「山路十八町行て、清滝嶺の茶屋一宇あり、是大坂越の嶺なり」と書いている。元禄の昔に語られた茶屋一宇は、江戸末期まで存在した。古老たちは「おまん茶屋」と呼んでいた。「一度しおれて二度咲く花は、峠おまんさんかビバの花」と、女主人の美貌を語り伝える。
逢阪千軒
 地元逢阪が大坂の文字で登場したのが、小松寺縁起に保延五年(1139)「大坂郷」。江戸期の公文書に「逢坂村」。明治15年「逢阪」に・・。
 東光寺
 浄土宗。佐太来迎寺(守口)の出張寺院。厨子には、中央に本尊阿弥陀如来、右に小松観音、左に鐙擢(あぶみずれ)地蔵尊。
 あぶみ地蔵 旧清滝街道に立っていた。田原俵太がここを通るとき、鞍の両脇にさげた足をのせる馬具の鐙が触れる所に立っていた。大正6年に堂内に移された。
 大上(神社 (おおがみじんじゃ)貞享元年(1684)に式内社国中神社(字名大上山)から分祀し、大正6年(1917)に再び合祀。中野村から独立、中野村逢坂郷と称す。(龍王池の神さん)

逢阪の巨石信仰・行者像

逢阪の地蔵道しるべ

逢阪の巨石 役行者像   カルタの句 『 幸多かれと 原始の祈り 巨石につた茂る 』
 3メートルほどの巨石が双立する、女性の性神信仰のひとつではないかと思われる。性神は縄文期の土偶に始まる生殖多産、五穀豊穣の呪術となっている。―男性の性器・石棒(せきぼう・縄文時代後期)は更良岡山遺跡で発見。また、木間池北方遺跡から男性の性器の形をした把手(古墳時代)が見つかっている。―この原始人の性神信仰に基づく聖地に、なぜか多様なものが点在している。巨石が双立する間に役行者があり、その外に、観音像、如来像、弘法大師像、墓石、首なし地蔵、西国三十三ヶ所巡礼碑等が置いてある。カルタの立て札
地蔵道しるべ  
  カルタの句 『 にこやかに 笑みをうかべる 地蔵さん 』
 
古道の大和街道逢坂越えと大和街道清滝峠越えの両道が再び合致する地点。地藏さんに「東なら 西大坂 道下かたのえ」 左側に「為六道衆生法界念生念仏」と記されている。像容の美しい地藏さん。清滝街道は奈良・伊勢への道であり、逢阪から旧163号線に重なり、田原に入る。 カルタの立て札
清滝城・小松寺跡・飯盛青年学校
 小松寺は鎌倉期まで盛大をきわめていたが、戦国期には、山城化した小松寺を小松城とよんだ。この地に星田・水本・田原・四條畷・四条・住道の六ヶ村組合立の北河内郡公立飯盛青年学校ができた。戦後旧田原中学校が、この校舎を借りて開校したが、あまりの寒さに、その年度内に移転した。
下田原の墓石型道しるべ カルタの句 『 ぬれながら 旅人守る 西川大吉翁 カルタ「田原の里」より
 「右なら郡山 左やましろ道」 「弘化二歳(1845)巳七月上浣(上旬)」「家紋・西川大吉」「油若中」高さ120センチ角柱型の石塔道しるべ。故西川大吉の衆生(しゅじょう)への善行、追善供養として、故人を偲ぶ油若中の人たちが建立したものであろう。(西川大吉・琵琶三味線を用いて音曲語りする浄瑠璃を嗜む風流人)。蔀屋本町から清滝川をさかのぼり、下田原の山腹をぬいながら戎川沿いに天の川を越えるまでの道を大和街道清滝峠越えといった。清滝峠越えは何時ごろできただろうか。逢阪が「大坂郷」として文献に登場するのは保延五年(1139)の小松寺奉加帳。郷を称するのは古い集落。平安期初期。(当地で大いなる坂道となるために、大坂の地名が起こり、二つの坂が出会うために「相坂」とも書かれ、江戸期には逢坂、逢阪の混同となり、明治より「逢阪」に統一される。)
 田原を通る清滝街道は、西川大吉の道しるべから二手に分かれる。高橋の方と下田原集会所の方へ、そして天の川に・・。

高橋・道しるべ(国境碑)

 カルタの句
 『 天の川 河内大和の 国境 

 清滝街道が奈良県側へ入る境界の天野川に架す橋を「高橋」という。ここに「国境碑」がある。「従是東大(阪府)」「従是南奈良(縣)」「距奈良縣四里二(丁) 距生駒郡郡山町柳三丁元(標)」「大正八年三月建設」「川中央国界」と角柱に彫られている。<カルタの立て札は田原の両国橋付近上田原ポンプ場前

下田原の道しるべ

カルタの絵札字札
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