白鳳期の丸瓦が譜良川遺跡から出土しました。古代寺院は、川の北に位置するのが通例とすると、現在のサラ寺墓地付近と考えられます。 この寺は、鎌倉期まで存続したとの文献も見い出されるが、 それ以後は、明白ではありません。大正寺の聖観音も讃良寺の本尊だったとも言われています。          寝屋川市と境する讃良川からは、1 万年前の旧石器、 縄文期の高杯・深鉢・石鏃類が出土しています。
 
復刻版では「讃良寺」を「さらでら」としました。

  「愛宕山」と彫られた常夜燈がよく見られます。昔も今も火事ほど恐いものはありません。ことに藁葺き(わらぶき)の屋根構造であった江戸時代には、延焼を防ぐには隣の家をたたきこわすしか、火勢をくいとめることができませんでした。 また、神仏にたよるしかありません。京都の北西にある愛宕山の防火神・愛宕神社にお参りにいきますが 、遠方なので なかなか出かけることができません。そこで、村ごとに常夜燈を祀っています。  また、村の代表が愛宕さんにお参りし、みんなのお札をいただいてくるのです。 こ んな行事も まだ残っているところがあります。 愛宕常夜燈でりっぱなものは中野本町と二丁通にあるものです。

  大和川が北流して深野池ができました。 18世紀の初め、 大和川のつけかえ、深野池干拓後の寝屋川舟運こそ、当地と大阪を結ぶ主要動脈でありました。 その舟つき場は、 南野の雁屋泊と中野地区の蔀屋浜にあります。 昭和10年代まで続いていました。江戸期に入った雁屋は、寝屋川舟運の拠点で、舟運に携わる家は勘三郎を襲名し、 雁勘の名で親しまれていたそうです。また年貢米収納庫(郷蔵)が建ち不寝番も立ったそうです。 舟運を利用した交通の便により 蔀屋にも 蔀屋浜が つくられ発展しました。

  戦争のことを 「役」 とも呼ぶが、役とは労働奉仕を意味するもので、庶民の労働、犠牲の上に戦争は行われてきました。近代戦の最初とされる西南の役の、戦没者慰霊碑が、消防署の前にあります。北河内出身の 16名の戦死者ですが、 四條畷市の人はいません。 征韓論に破れた西郷隆盛は、 明治6年(1873)郷里に帰って、私学校を創設しました。私学校は編成された武力をもち、 しかも、その力は中央政府と対抗できるほどでした。 廃藩置県後、 政府は鹿児島藩から 海軍造船所と陸軍火薬庫を接収して、 それぞれに 兵器弾薬を収蔵していました。 政府は明治10年(1877)1月に、この火薬の積込みをはじめました。 私学校党は 政府に 襲撃を 加えました。死闘50日、城山で隆盛以下 300名、自殺あるいは戦死しました。

  920年にできた延書式にのる古社が、 四條畷市内に3つもあります。 岡山にある忍陵(しのぶがおか・津桙つほこ)神社・中野にある国中神社・ 南野にある御机(みつくえ)神社です。 それも南北 2000メートルの距離内に3つもあるのはめずらしいです。 河内で式内社は113社あります。 これで、 四條畷は古くから開化していたことを物語っています。 神社にいくと昔の人たちの稲の豊作を祈るおもいが伝わってきます。