河内の雁塚は、文明年間(室町1673〜1486)のもので、四條畷にとっては、貴重な民話のひとつです。  「 1人の猟師が雁(かり)を射落とすと、首のない雌雁です。数旬後射落とした雄雁は、雌雁の首を羽交(はがい)に暖めていました。 愛する者のなきがらを温め、 悲哀のどをつまらせてやせ衰えた雄の雁、連れ添うものの愛の深さに胸はつまり、猟師は弓矢をおり、雁の霊を弔つた 」 という話です。大和と河内を結ぶ清滝街道沿い、清滝川の流れる、消防薯の横にあります。 この雁塚を建てたのは寛延二年(1749)寺尾幸助という人で、綿糸仲買人として、この地域を行商していました。そして、大阪北浜で財をなしました。(この雁塚よりも百年前にも碑があって、「 当所古老伝雁石塔婆也 」 「 正保2年(1645)六月中野村 」とあったそうです。また、雁は「水草」を食べるので、子どもの「おでき」をなおしてくれるともいわれています。)

  畑というところに弥勒寺があります。この寺に30〜40cmぐらいの舎利吹観音がおられます。縁起によれば、延宝年間(1673〜1680)、17歳の美女・音羽は、 全身悪瘡 (あくそう→できもの)におかされ、当人、家人の嘆き限りなし。観音堂にこもって、悲を救いたまえと祈った。満願の日、夢よりさめれば、花のごとき顔立ちに帰りたり。 そして、尊像を拝するに御身より汗を流し、胸に舎利を現わして音羽が悪瘡に替らせ給うという話があります。

 「延書式」(920年)に 「 讃良郡氷室一処」とあり、室池は、 江戸期まで氷室池(ひむろいけ)と呼ばれていました。 氷室とは、 氷を貯えるところを いいます。この地名は、枚方、交野にもあります。山深く夏でもひんやりとしており、冬の間に池の氷を切り出し”室(むろ)”に貯蔵しておきます。 それを夏になって取り出し、宮廷に献上したのです。 標約 270mにある室池は、 砂溜池、 中池、古池、新池からなっています。 面積は、17ヘクタールあります。 四條畷の上水源の大部分を賄っていましたが、 平成10年 4月からは 淀川の水に切り換えたので、 室池の水は使わなくなりました。 現在、 国定公園で、関西文化学術研究都市の指定をうけ、「 緑の文化園 」として市民の憩いの場になっています。

 四條畷は考古学的遺跡が多くあります。学研都市線(片町線)の複線工事が始まった頃から 忍ヶ丘駅を線路に沿って岡山南山下(さげ)、中野・岡山の奈良井遺跡等とよばれる 数ケ所から、 縄文から室町期へかけての土器、 石器、家型埴輪、木簡、下駄、田下駄、 井戸跡など貴重な資料が 続々と姿をあらわしています。 とくに井戸の形が豊富であるのもめずらしいことです。

  忍岡(しのぶがおか)丘陵は標高 35メートル、頂きはけずられて平らになり、 今は忍陵(しのぶがおか)神社、会館などが立ち並ぶが、中世期には、 地方豪族の丘城であっただろうと思われます 。  四條畷の戦いのときには、北軍の大将高師直が、この岡に本陣を置いたことが想像できます。 また、大坂夏の陣のときには、 徳川家康・秀忠は 東高野街道を南下し、 大坂めざして押し寄せ、1615年5月3日家康は星田に本陣をおき、秀忠は岡山の高橋孫兵衛宅を本陣とし、 この忍ケ岡は その戦闘指揮所となりました。 「旗かけ松」と 呼ばれた老松もありました。 江戸期には、忍岡を御勝山とも呼んでいました。