墓地は移設しましたが、月泉寺(曹洞宗)の北に木々が生い茂る小山があって、鬱蒼(うっそう)とした苔むすところに古い四基の五輪塔がありました。 中央の三基の五輪塔の台座は 、30基を越える五輪塔(地・水・火・風・空)の地輪の部分が並んでいました。むかし、このあたりに多くの五輪塔が散在しており、それらを集めて五輪塔を組み立てたのか、 みんなちぐはぐでした。その中で一番大きいもので古い室町期のものを田原対馬守の墓としたそうですところが、 田原の開発でここに広い道路ができ 、墓地も 新しい道路を横切ったところに 移設しました。 「山中・・」ではなく、「苔むす・・」もなく、青空のもとに西日をあびて五輪塔が並んでいます。カルタの句は、旧墓地の情景をうたっています。 月泉寺は、かつては千光寺(真言宗)で田原対馬守の菩提寺でしたが、明治維新後、無檀家となって廃寺になりました。その後寝屋川市・寝屋の月泉寺が移り、禅寺尼寺へと転じました。現在の月泉寺は、平成8年に再興落慶されたものです。本尊は、千手十一面観世音菩薩です。「世の中の困っている人々の音を観て助けてくださる菩薩さま」といわれ、十一面の小仏を配して十一面観音、そして千本の手をさしのべてくまなく救うので千手観音と呼びます。 月泉寺に田原対馬守のお位牌があります。 「義俊院殿節山良忠居士没年延元丙子三月五日」 とあって、南朝方の年号 「延元」が使われています。
 
復刻版は「山中に 苔むす五輪塔 月泉寺墓地」

 、学研都市線忍ヶ丘駅から 西方に木々の茂る丘陵が見えます。 そこが、 忍陵 (しのぶがおか)神社です。そこに 忍岡(しのぶがおか)古墳があります。1934年の室戸台風で壊れた神社の修復工事のときに社殿の中から 前方後円墳の石室が発見されました。前期の古墳です。 円部の直径は 50メートル、前方は、北側の大正寺におよんで 主軸は85メートルです。 石室は、竪穴式で、大きさは長さ63メートル、幅1メートル高さ75センチメートルです。 構造は、安山岩質の板石を小口積みしておます。石室の内部から剣身、鉾、太刀、鎌、刀子、鏃、石釧、防錘車、鍬形石などが出土しています。
 復刻版は「勇壮な 豪族ねむる 忍岡古墳」

  中野にある正法寺に 長さ156センチ幅79センチ高さ 40センチの貯水槽があります。 これは石棺の身の部分です。 小さな感じがしますので、子ども用のようです。 その蓋の部分は、国中神社南側入口の手洗鉢の後にたっている背石であることがわかりました。 なぜ、別々なっているのか分かりませんが、旧正法寺付近にあった双子塚から出土したものと伝えられています。 それで、「よりあえば 一つの石棺・・・」とうたったということです。
 中野正法寺へ入るところに、小さな石橋がある。古墳時代の石棺の身を転用したもの、その蓋石は境内に建つ六字名号碑、土台の石は石棺の身の一部であることがわかった。
 復刻版に「念仏の 六字名号碑に 手をあわす」を追加しました。