農耕の始まった2000年前頃の弥生文化時代「楽浪海中に倭人あり、分れて百余図。」 と中国史書に語られるように原始国家が成立していました。 支配者が祭祀用に用いると伝えられています。 銅鐸が、四條畷出土として、銅鐸の研究書に記載されています。 市内のいずれか定かではないということです。 写真入りで紹介されているのは、京都大学教授小林行雄著「日本考古学入門」だそうです。 紹介の手がかりは梅原未治の銅鐸の研究 (大山書店昭和2年 ) で、発見は 明治44年、総高42.2cm だそうです。どこから出土したか、はっきりしないので、「なぞ秘める」とカルタでうたっています。

  地蔵さんの普通の形は、右手に宝珠(ほうしゅ)、左手錫杖(しやくじょう)をもち、 頭は 丸坊主、 袈裟(けさ)と衣の僧侶の姿です。 地蔵は死後の世界にかかわる菩薩ですが、生前の世界には、あらゆる庶民の悩みを聞いてくださる仏さんです。これらの地蔵さんは、村ごとに、 あるいは道々の辻に立ち、 錫杖をつきながら各戸を訪ねて 願いごとを 聞き入れてくださる仏さんです。 数が多ければ 多いほど功徳(くどく)も多かろうと各所に建立しました。 地蔵信仰は鎌倉期以降、 庶民に密着したのが江戸期が最高潮です。

 四條畷市内を走った往時の東高野街道、枚方街道、清滝街道の道筋には、角型道標、地蔵道しるべなどが数多くあります。訪ねていくと、楽しい市内ウォークになるかもしれません。中でも現存する最古の道しるべは、清滝街道の起点が蔀屋の池村酒屋前にある、自然石道標です。正面に「やハたみちすじ これより東清滝越」裏面に「延宝三乙卯年七月五日(1675)」とあります。

 下田原の法元寺の境内にあります。高さ30センチぐらいで、年代は究められないが、室町か江戸時代のものです。地蔵さんはお堂のなかに安置されていますが、その前に木箱があって、そのなかに手向けた小石が山のように積まれています。その小石をよく見れば、どれも小さな穴があいています。ときに糸を通しているものもあります。耳をわずらった人が一週間余り願をかけ、この穴のあいた石を家に持ち帰り、石を祭り、朝夕、わずらっている耳を石でさすりお祈りをします。治してもらったら、どこかで穴のあいた石をもうひとつ探し出してお礼に来ます。石を増やすことは、耳のわずらった人に施しをしようということです。法元寺から10メートルほど行ったところに、「耳なし地蔵是より北へ一丁」という石碑が見えます。その道しるべの横にも30センチぐらいの耳のない地蔵さんが置いてあります。なぜ大きな道しるべがあるかといえば、かなり遠方の人たちまでご利益(りやく)にあやかっていたことがうかがえます。
 絵札の地蔵さんは実際の30センチより高くなっています。

  貝原益軒は、「山路十八町行て、清滝嶺の茶屋一宇あり、是大坂越の嶺なり」と書いています。元禄の昔に語られた茶屋一宇は、江戸末期まで存在したらしいです。古老たちは「おまん茶屋」と呼んでいました。「一度しおれて二度咲く花は、峠おまんさんかビバの花」と、女主人の美貌を語り伝えています。清滝街道をのぼりつめ一休みする昔の旅人が目に浮かんできます。