南野を流れる権現川の名称起源となる滝で、高さが20メートルあります。 その源は龍間付近に発し、生駒水系のしたり水を集めて 渓流となっています。寝屋川へと注ぐ上流にあります。 権現とは、 権(かり)に現われる神を意味します。昔から多くの修験者が祈願をこめた滝であります。 大正期の龍尾寺 和尚哲明は、 「 1200年前の天平の昔、早魅あって里民大いに苦しむ。時に行基菩薩、当地に至りて滝壷に衣を敷き、雨降らせ給えと祈願すれば、 これに感応した一龍王が、 一老翁嫗(ろうおう)となって 姿を現わし、 われ!民を救わんと。 たちまち消えて、大雨沛然(はいぜん)たらしめ、里民の愁眉(しゅうぴ)を開いた。行基菩薩の祈り給ふはこの滝なり、これより権現の滝といふ」と。 

 千年をさかのぼる市内の寺院として、讃良寺、正法寺、龍尾寺があります。 龍尾寺には、こんな伝説があります。 天平の世、早魅(かんばつ)があって、里の人は たいへん苦しみます。 行基があわれんで山間に立ち法華経をとなえて 雨乞いすれば、 大雨が降り出し、 里人が助かりました。 龍王は身をさいて里人を救ったのでしょう。龍の身は三分されて落ちました。 龍の頭、龍の胴は 大東市の龍間というところに、 尾の落ちたところに龍尾寺を建立して、 その霊を弔ったという話があります。

 秋祭りには、鉦(かね)太鼓を鳴り響かせながら地車(だんじり)が 村なかをねり歩きます。 地車とは、木車の上に神座を乗せたもので、若者がかつぎ、子どもらがひいて氏子地(うじこち)をまわります。氏子は五穀豊穣(ごこくほうじょう)・村内安全を感謝します。地車は、明和年間(1760年代)よりできはじめたらしく、市内に11台ほどあります。

   住吉神社は、磐船神社から分祀されたと伝えられています。創建は江戸初期であろうといわれています。祭神は住吉四神、海の神です。境内にある石の風呂は、天の川から出土しています。 縦2メートル、幅1メートルの花崗岩でつくられ、深さ80センチにくりぬかれています。鎌倉時代のもので、四天王寺にあるものと同型であるといわれています。浄身用として身の潔斎(けっさい→神仏につかえる前に身をきよめること)に使われていたようです。府の有形文化財考古資料に指定されています。水吐けの穴については古老の話によると、大正時代に村人たちが開けたということです。

  絵札は、照涌墓地の一石六地裁です。墓地の入り口に は、必ず六地蔵さんがおられます。普通、六石六地裁です が、 とくに照涌墓地にある一石六地蔵(元禄9年1696)は めずらしいものです。近くには、大東市の龍間に一基あり ます。「人間は、前世の業(ごう)によって、地獄、餓鬼(が き)、畜生、修羅(しゅら)、人間、天上界の六道を輪廻(り んね)するという.この六道世界での苦しみを軽減すべく、死後の守り神として六地蔵を祀るのである。」といわれています。市内にはニ十八ケ所の墓地があります。

   四條畷神社大鳥居の北100メートルのところに、楠木正行(まさつら)の家臣であった和田賢秀(源秀)が祀られています。 高さ1メートルの墓石、正面に「和田源秀戦死墓」、裏に「昔とへばすすき尾花のあらし吹く 天保二年九月浪速の人永田友之」とあります。古文書では、当地、字(あざ)地を薬師と呼び、歯神さんとしてあがめられていました。和田賢秀は、南朝方の将、楠木正行と北朝方の高師直(こうのもろなお)との決戦(四條畷の戦い)の日(正平三年一月五日1348)、正行方にあって勇敢な戦死をとげたと伝えられている人です。
   歯神さんといって信仰されているのは、一説に、賢秀戦死のおり、怒りの姿もものすごく、敵のよろいにかみついて、死後も離れなかったといわれ、この強い歯にあやかろうという気持ちが、このような信仰になったといわれています。

復刻版 追加の読み札


 奈良井遺跡から古墳時代の中・後期の祭祀場(馬まつり)を発掘。大切な馬をいけにえとして神に捧げる。七頭の馬の骨、いけにえの代用として土製人形・土製馬形・ミニチユア土器など出土。馬の祭祀場は、最初の牧場の中心であった鎌田遺跡から奈良井遺跡に移る。奈良井遺跡から、その後5世紀後半に中野遺跡および南山下(みなみさげ)遺跡へと広がっていく。敷石炉跡(製塩炉の遺構)。製塩土器。周辺から韓式土器。

 弘法大師空海が816年、高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を建立、京都の東寺を823年に下賜(かし)されてより、この両地を結ぶ高野道と呼ばれる聖地巡礼への道。四條畷の南北する古道は、忍ヶ丘駅前→トンボ池公園→三徳稲荷→現東高野街道→道しるべ・清滝街道と交差→三坪橋を南に→墓ノ堂古墳→和田賢秀の墓

 


 古墳時代の中・後期、生駒西麓と古代河内湾(湖)との間の海辺に位置する蔀屋北遺跡から馬に与える塩をつくる製塩土器が大量に出土。馬一体分の骨格、馬の歯、木製のあぶみ、鞍、鉄製のくつわの一部、百済系の陶質土器、韓式系土器など出土。掘立柱建物跡。朝鮮半島から船に乗って馬と渡来人がわたってきた。馬飼い集団の牧場であった。日本書紀に記されている「河内馬飼」集落ではないかと思われている。

 六字名号とは、「南無阿弥陀仏」をいい、阿弥陀仏に帰依(きえ)する意味。これを唱えれば、必ず極楽浄土にいけるという。中野正法寺のものは江戸期以前の「天文五年」(1536)で、古墳時代の石棺を利用した石塔で、大阪でも一番古いものではないか。金石文字は大阪随一。

 千光寺跡の寺口遺跡から、安土桃山時代の石製のキリシタン墓碑が2002年に発掘。花崗岩で五角形、長さ約43センチ、幅約25センチ。「十字と(エータ・イエズス会を示す)」に「天正九年辛巳(かのとみ) 礼幡 八月七日」と刻まれている。フロイスの書簡に河内のキリシタン武将の名前がある。そこに田原城主・レイマンの名が出ている。「礼幡」は、飯盛城主・三好長慶のもとで布教をうけた田原レイマンの洗礼名と思われる。

四條畷かるたウォーク