カルタウォーク 忍岡古墳から小楠公墓地 |
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岡山南遺跡
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忍岡古墳・忍陵神社(しのぶがおかじんじゃ) 駅から西へ300m 木立の茂った丘陵 カルタの句 『 勇壮な 豪族ねむる 忍岡古墳 』カルタの立て札 1934年(昭和9)の室戸台風で壊れた神社の修復工事のときに社殿の下から石室が発見された。前期の前方後円墳である。標高35mで後円部の直径約45m、前方部は北、大正寺に及んで全長87mである。石室は、竪穴式で、大きさは長さ6.3m、幅1m、高さ75cm。構造は、安山岩質の板石を小口積みしている。石室の内部から剣身、鉾、太刀、鎌、刀子、鏃、石釧、紡錘車、鍬形石などが出土している。江戸期の古地図には「王子の墓」と記されている。 カルタの句 『 豊作祈願 わが町に三つあり 式内社 』 忍陵神社は、920年にできた延喜式にのる式内社の一つである。もと東方にある赤山にあった津鉾(つぼこ)神社(祭神は藤原鎌足・品陀和氣命<ほむたわけのみこと>・熊野大神・)が江戸期に移建され、明治の末に馬守(まもり)神社、大将軍社を合祀し、忍陵神社となっている。市内に三つの式内社がある。岡山の忍陵(津鉾)神社に、中野にある国中神社、南野にある御机(みつくえ)神社、それも南北2000mの距離内にある。<カルタの立て札は御机神社> カルタの句 『 もはや勝利は 岡山の陣の 御勝山 』 忍岡丘陵は標高36m、中世期には、地方豪族の丘城(おかじろ)であっただろうと思われる。四條畷の戦いのときには、北軍の大将・高師直(こうのもろなお)が、この丘に本陣を置いたことは容易に想像できる。また、大坂夏の陣のときは、徳川家康・秀忠は東高野街道を南下し、大坂めざして押し寄せ、慶長二十年(1615)5月5日、家康は京都を出て、洞が峠を越えて交野の星田に本陣をおき、これより先に秀忠は5月3日伏見を立ち、岡山の高橋孫兵衛宅を本陣とし、この忍が岡はその戦闘指揮所となった。5月7日、家康は、天王寺口の茶臼山に布陣、秀忠は、生野の岡山口に布陣し、決戦。大坂城落城。「旗かけ松」と呼ばれた老松もあった。江戸期には、忍が岡を御勝山(おかちやま)と呼んでいた。カルタの立て札 カルタの句 『 土地の人 みんながうやまう 行者さん 』 もともと坪井の赤山にあった。昭和37年(1962)ごろに移った。修験道の祖役行者は、天空を飛翔する神通力(じんつうりき)を得た験者として崇拝された。 岡山行者堂は宝暦期(室町期市内最古)より4月、9月7日に十数人の山伏が集まり、護摩(ごま)供養を行い、村中安全を祈願する。<立て札・カルタの句碑は上清滝> 経塚(経典を後世に残すため、地中に埋めた所) 千手観音 豊川稲荷 北辰妙見宮灯籠 |
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大正寺 聖観音(しょうかんのん) カルタの句 『 聖観音の 大正寺 さえわたる鐘の音 』 大正寺(だいしょうじ)の本堂に向かって左側に観音堂があって、そこに藤原期の聖観音像が安置されている。市内最古のものといわれている。大正寺(だいしょうじ)の本尊は阿弥陀仏で、元久元年(1204)に始まると伝えられる浄土宗。法然の弟子西仙房によって創建されている。カルタの立て札 聖観音は、7世紀の白鳳期に建立されたという讃良寺(さらでら)の本尊ではないかといわれている。鎌倉期になり、その後、聖観音は、忍岡にあった廃寺(はいじ)見性寺(室町期の地蔵菩薩を見性寺地蔵尊という)から大正寺へと伝わったのではないかといわれている。 寺内の梵鐘は、宝永8年(1711)の銘があり、造形美、音色の美しさ、余韻の長さに定評がある。今でも正午を知らせる鐘の音には情趣がある。 大正寺から北をみると大きな池がある。 新池 讃良川(さら・さらら・ささら・さんらがわ) 讃良川川床(かわどこ)遺跡 更良(さら)岡山遺跡 カルタの句 『 千古の 歴史を秘める 讃良川さらがわ 』 江戸時代に米をつくる田んぼの水不足を解消のため遺跡のまん中に新池をつくる。 池岸に更良岡山遺跡という大きな石碑が建っている。旧石器時代の石鏃、石斧、石皿など発見され、縄文期の高杯、深鉢や注口土器など出土している。北陸産の石英安山岩でつくられた彫刻石棒(せきぼう)が発見。縄文時代後期初めに破壊されている。別の石棒が完全な形で発見。この石材は生駒山頂あたりに産する斑レイ岩。野山の恵みや子孫繁栄を祈る男性の性器を石で形づくっている。縄文時代の墓も見つかる。カルタの立て札 新池西側に石仏二体(阿弥陀坐像一体は新しく造立) 近くに阿弥陀三体笠塔婆・阿弥陀坐像と地蔵の二尊仏
カルタの句 『 白鳳の甍 ロマンいざなう 讃良寺さらでら 』 池の近くを流れる川が讃良川である。白鳳期の軒丸瓦が讃良川遺跡から出土した。古代寺院は、川の北に位置するのが通例とすると、現在の讃良寺共同墓地付近と考えられる。その讃良寺が鎌倉期まであったと文献にも見られるが、明白ではない。四條畷では、1000年以上前の寺院は、讃良寺跡と正法寺跡、そして、龍尾寺がある。立て札・カルタの句碑 更良岡山古墳群 讃良川の両岸に古墳時代中期〜後期 円墳、方墳。 |
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光円寺(浄土真宗) 天正四年(1576)僧行顕の創建。本尊阿弥陀如来像。その右側に宗祖親鸞の座画像、聖徳太子立画像。左側に真宗中興の祖・蓮如上人座画像、浄土教を広めた印度・中国・日本の高僧・七高僧各像。光円寺の隣りに「本行寺(真宗)」があったが、明治十五年に合祀した。境内に「本行寺跡」の碑がある。 妙法寺
門柱石「南無妙法蓮華経」 三十番神堂 一ヶ月三十日にわたり、国家人民を守護する三十柱の善神を三十番神と呼ぶ。 |
河内街道 道しるべ 妙法寺前 |
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奈良田遺跡石碑 岡山1丁目 |
奈良田遺跡 6世紀の住居跡と井戸。6世紀初頭土器、石器が出土。奈良田とは、ならした田んぼ・平地を意味し、早く開墾された土地。条里制区画でいえば、八条となる。 条里制とは、大化改新の班田収授に当たって、土地を班給する区画した土地制度。大東市の中垣内を一条、寺川二条、野崎三条、北条四条五条、四條畷市の南野が六条、中野が七条、北野(砂・岡山)が八条となり、寝屋川市秦の十一条で終わる。。 岡部川・八丁堤 八丁は約900m カルタの句『岡部川 車いきかう 八丁堤』 岡部川とは、岡ノ辺(べ)を流れる川を意味するのであろう。砂、中野の境界を流れる。川脇を固める土堤道(どてみち)は八丁堤と呼称され、砂村から堀溝(ほりみぞ)への主要街道である。カルタの立て札(岡部小) 蔀屋北遺跡(カルタの句「塩づくり河内湖畔に馬の牧) |
岡部川 八丁堤 |
カルタの句 『なぞ秘める 銅鐸出土の 四條畷』 農耕の始まった2000年前頃の弥生文化時代「楽浪海中に倭人あり、分れて百余国。」と中国史書に語られるように原始国家が成立していた。支配者が祭祀用に用いると伝えられている。写真入りで紹介されているのは、京都大学教授小林行雄著『日本考古学入門』だそうだ。紹介の手がかりは、梅原末治の銅鐸の研究(大山書店昭和2年)で、発見は明治44年、四條畷の砂山銅鐸。入れ子の状態で二個発見。総高42.2cmだそうだ。どこから出土したか、はっきりしない。「市内の隆起した砂山で土砂を採掘中偶然発見された」と伝えられている カルタの立て札(岡部小) |
古戦場 四條畷の合戦 弥生時代中期から後期にかけての集落と墓地跡。稲作開始、石庖丁出土。方形周溝墓(人骨・11本の石鏃が胸あたりに散乱)、木製四脚容器、鳥形木製品、担架、分銅形土製品、木工工房など出土。 銅鐸の舌(ぜつ・弥生時代中期)竪穴住居から石でつくられた舌が見つかる。(石は吉野川の河原石) 江蝉川 府立四條畷中学校(明治36年開校)昭和23年府立四條畷高校に。 |
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雁屋遺跡 ヒノキ材の棺 ←双頭渦文付木製四脚容器 |
四條畷の合戦絵図 |
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雁屋川(現在暗渠になっている。川の名前も地図上から消えている) |
小楠公墓地 カルタの句 『 くすの木の こもれ日あびる 小楠公 』 小楠公とは大楠公(楠木正成)に対して、その子楠正行をいう。四條畷の戦いの立役者である。戦死し、80年たって2本のくすの木が植えられ、その間に小石碑が建てられた。年月が過ぎて、2本のくすの木は1本に合し、その石碑は木の中に入り込んでしまった。現在ある墓の前に1mほどの自然石碑は天正12年(1584)のもの、「南無権現」としるされている。左手には、四面に2000字あまりの碑文が刻まれている石碑がある。これは文化5年(1808)のもの。そして、右手には巨大な墓碑が高くそびえている。「贈從三位楠正行朝臣之墓」の文字は、大久保利通の筆によるものである。明治11年(1878)、戦いのあった正月5日に建碑式が行われた。昭和7年(1932)甲可村を改め、四條畷村となり、楠正行戦死の地として急激に発展した。(墓碑は父の姓「楠木」から「楠」をつかっている)カルタの立て札 元禄期の貝原益軒『南遊紀行』 (刈屋村有り。此処に楠正行、正時兄弟の墓あり。大道のほとりにはあらず。大なる楠の木あり。) 楠公夫人碑(碑文の作者・下田歌子1854〜1936) カルタの句 『 雁屋川 家並み競って 寝屋川 』カルタの立て札(小楠公)
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四條畷神社 小楠公墓地から四条畷駅を通って四條畷神社へ(主神楠正行。合祀者24名。当初明治22年6月小楠公神社として出発、その後四條畷神社と改称。) 表参道 松並木。 石灯籠 竿部に「如圭・如璋」(じょけい・じょしょう) 注連縄門柱 「有孚顕若」(ゆうふぎょうじゃく) 狛犬 御妣(みおや)神社 祭神は正行の母。大正十四年(1925)鎮座。 楠天神社 菅原道真を祀る。 四條畷神社大鳥居の北100mに「和田賢秀の墓」もある。 |
四條畷神社 |
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飯盛城跡 カルタの句 『飯盛城 拠りて長慶 覇をきそう』 飯盛山は生駒山系より北西へ飛び出し、東はV字型谷の谷、西・北低地に聳え立つ自然の要塞をつくっている。南側が生駒山系に続いている。飯盛城は中世を代表する山城で、戦国時代の豪族たちの拠点であった。カルタの立て札 室町幕府の権力は家臣細川氏へ、細川氏の実権は家臣の三好氏へと下剋上する。三好長慶は1560年、飯盛城に拠って畿内に君臨した。江戸元禄期に、当地を旅した貝原益軒は「飯盛の城址、北麓よりみれば、山の形飯を盛たるが如し、故に飯盛山と号す。山の西より見れば、さやうには見えず」とある。 楠正行の銅像 飯盛山史跡碑 登山参百回記念碑
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飯盛山頂 |
参照 四條畷神社・飯盛城跡については、四條畷・大東の郷土史カルタウォークもご覧ください。 |