カルタウォーク 龍間を歩く |
龍間バス停→道しるべ→龍光寺・延徳銘地蔵→ 龍間不動尊・役行者像→称迎寺・十三仏・観音堂→ 一石六地蔵→龍間寺跡→龍間神社→バス停 水道完成記念碑 石切り場跡 大坂城石切出し跡 |
道しるべ |
龍光寺の石柱と地蔵尊 |
龍光寺跡仮本堂 |
本堂兼庫裏の鬼瓦 |
延命地蔵と弘法大師 |
右の弘法大師石造座像 |
道しるべ カルタの句 『 右ひだり 「すぐ」と教える 道しるべ 』 左の道しるべ「右 たハら たかやま きづ いが いせ道 左 経寺山龍光寺道」 右の道しるべ「左 天・・・」 龍光寺 曹洞宗。『河内鑑名所記』には「経寺(きょうじ)山龍光寺は敏達天皇(572〜585)の開基である。その後、源頼朝が建立されたが、度々の兵乱で焼け、今は本尊ばかり草堂に入れ奉っている。本尊はの十一面観音は秘作である」と記している。また別の記録によると正保二年(1645)僧玄光が再興したとあるが無住のため荒廃。本堂兼庫裏は倒壊し、仮本堂をつくり、本尊を祀っている。かつての本堂の鬼瓦が十三重塔のところに置いてある。往時をしのばせる地名として付近に「土堂(つちんどう)」「無念堂」が残る。 カルタの句 『 旱魃に 龍の身を裂き 雨ふらす 』 「龍間寺縁起」―”落ちてきた龍」”より およそ1250年前、聖武天皇の時代、この地方は、大かんばつにみまわれ、人々は水に苦しみました。人々は、雨乞いを行いましたが、一向に雨は降りませんでした。その時、行基菩薩があらわれ、水の枯れた滝壺で法華八講という儀式を行いました。その時、若い龍があらわれ、「私は天に住む龍です。大龍王様は、『人間は欲深く、自分さえよければという悪い心を直そうとしない。人間をこらしめるため雨を降らさない』と言っています。私は、あなたの仏恩に報いるため雨を降らせましょう。大王様は、怒って私を殺すでしょう」と言うや、たちまち天は真っ暗になり、雨が降り出し、山野の草木はよみがえりました。ところが、雨がやむと、空から龍の体が三つに裂けて落ちてきました。頭の落ちたところが龍光寺、腹の落ちたのがところが龍間寺、尾の落ちたところが龍尾寺(四條畷市南野)といわれています。 延徳銘地蔵 弘法大師の石造坐像 カルタの句 『 世に生きる 人の業いやす 延命地蔵 』 大東市内最古のもの。「延徳二年庚戌三月(1490)」。舟型光背をもつ延命地蔵(市指定文化財)。 右手に錫杖(しゃくじょう)左手に宝珠(ほうじゅ)をもつ。当時の民間信仰を知る貴重なものである。その頃は戦国武将による覇権争いと共に土一揆が頻繁におこっていた。また一方では、仏教色の濃い東山文化の時代である。時は戦乱の世、地蔵尊は延命(えんめい)を本旨としつつも死後の守り仏として、また、神仏習合により防疫神として民衆の間に根をおろしはじめた。 カルタの句 『 まだ遠い 東高野街道 弘法大師 』 |
不動尊 役行者像 不動の滝 |
称迎寺 |
一石十三仏 |
役行者像 龍間不動尊 不動の滝 カルタの句 『 土地の人 みんながうやまう 行者さん 』 (四條畷郷土史カルタより) 石段の登り口の左に不動の滝、右側に十三重塔などがある。その奥に大聖不動王尊、役行者尊(えんのぎょうじゃ)、八大竜王尊がある。境内の左にも十三重塔がある。 役行者は、奈良時代の修験者役小角(えんのおづぬ)のことである。葛城山で修行し、神通力をもつという伝説があり、修験道の祖とされている。飛翔に似た像は、永禄十年(1567)三月七日の銘がある。北河内最古のもの。龍間公民館は、龍間小学校跡地。 称迎寺 一石十三仏 称迎寺(しょうこうじ)は、文禄三年(1594)佐太・来迎寺の分派として全誉和尚により創建。当時は、戦国時代の末期で、人々は戦乱・疫病・飢饉に苦しんでいた。この頃、六斎念仏(六斎―毎月8、14、15、23、29、30日に念仏を唱え、精進・慈悲の行を行えば当世、来世にわたり福楽をうける)が盛んになった。龍間地区では、十数人が、念仏講をつくり、小さなお堂を建て、六斎念仏の法要をつとめた。これが称迎寺の始まりである。守口の佐太来迎寺が大念仏宗であったが、来迎寺が浄土宗知恩院派に転じたとき、本寺に従った。近年まで一石六地蔵のある右側の道を登り、右に折れて石段を登ったところにあったが、本堂の老朽と地盤崩壊の危険にさらされたため、平成6年に阪奈道路を隔てた反対側(北側)に新築された。また十三仏も移転された。 カルタの句 『 追善供養 生前に祈る 十三仏 』 慶長十一年(1606)龍間の逆修講の人々が建立。市指定文化財。 人間が死んで、あの世へ往生するまでに三十三年かかるそうだ。そのために亡くなった人の供養をする。初七日(しょなぬか)、二七日、三七日、四七、五七日、六七日、七七日(なななぬか・49日)、百ヵ日、一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、三十三年忌の13回の追善法要。十三仏は、死後の法要を、生前、自分でしておこうという逆修(ぎゃくしゅ・あらかじめ)の意味するものが多い。 |
龍間寺観音堂 十一面千手観世音菩薩 → |
龍間寺観音堂 龍間寺は、行基菩薩が創建。平成13年5月に称迎寺境内に移転。 十一面千手観世音菩薩 承応三年(1654)山口宇兵衛の作といわれているが、衣文の彫り方や仏体のお姿は、鎌倉時代の作風を残している。延宝七年の「河内鑑名所記」や享和元年「河内名所図会」には、「御長二尺五寸」と記されている。現在、大東市に残る最古の木造の仏像である。 |
一石六地蔵と地蔵尊 |
一石六地蔵 | 龍間寺跡 |
龍間神社鳥居 |
龍間神社 後方が天然氷記念灯籠 |
おかげ灯籠 |
一石六地蔵 カルタの句 『 六斎日 来世を祈る 一石六地蔵 』 永禄十年(1567)二月二十三日の六斎日に六斎念仏の講衆たちが、自身をふくめた世の人々の供養のために建立したもの。 六斎念仏というのは六斎日つまり毎月8・14・15・23・29・30の6日は仏教では生きものを殺したり、悪いことしてはならないとされているので、この日に踊り念仏を行うことをいうのである。中世の頃になると、この日にはかねや太鼓をたたいて、念仏を唱えながら踊ることがはやり、こうすることによって、人々は来世を祈った。上に大念仏宗称迎寺(しょうこうじ)があったので、その寺のものであろう。市指定文化財。 廃寺の龍間寺跡 龍間寺は龍起山と号し、河内三十三所霊場の第四番で「あしひきのやまをのぼるたつまてらながれも清き谷川のみづ」という御詠歌もあった。古く聖武天皇の天平時代に行基菩薩が開基。元禄5年(1692)の寺社改帳によると、真言宗、本尊は木造の十一面千手観音立像、鎌倉時代の作、大東市最古のもの。明治5年住職の良海が没してから廃寺になった。その後、隣家の人が福の神鎮宅霊符(ちんたくれいふ)神教本部をおいたが昭和三十四年解散。龍間寺観音堂は、平成13年5月称迎寺境内に移転した。 龍間神社 天然氷記念灯籠 八王子宮と呼ばれ、祭神は天忍穂耳命。本殿は春日造。由緒は不詳。末社に天照大神、天児屋根命、中筒男命を祀る。鳥居のそばの灯籠には延享(えんきょう)元年(1744)をみることができる。石段を登ると明和五年(1768)の灯籠と龍間で生産されていた天然氷の記念灯籠(昭和五年一月吉日)がある。鳥居の近くにはおかげ灯籠もある。 カルタの句 『 天然の 氷製造 氷室跡 』 生駒山地上の龍間地域は水が清澄のうえ、標高が高く、気温が低いので、昭和の初期まで厳寒の候には農家の副業として、良質の天然氷をつくっていた。龍間には80軒余りの集落であったが、氷をつくる家は30軒余り。氷倉は7軒余りあつた。製氷は大体年3回行った。氷池は一度つくれば何年も使用した。つくる時期は1月〜2月の節分のころまで、その後は氷に白い線が入って売れないそうだ。 氷については仁徳紀の中で「熱き月に当たて水、酒に漬して用ふ」とある。食用の他に遺体の防腐用や、氷の厚さによりその年の豊凶を占ったりしていたことが記録に残っている。延喜式で讃良に氷室が二ヶ所設けられていることが記されているがはっきりした場所はわからない。たぶん飯盛山付近と思われ、讃良北御室が室池、南御室は龍間と考えられる。実際龍間東谷には、昭和初期まで氷をとっていたという池が残っている。氷は荷車で中垣内におろし、舟で大阪へ送っていた。 |
石切り場跡 大坂城切出し跡 カルタの句 『 渓谷の 龍間大東の 歴史秘める 』 大阪城築城に際しては、善根寺、日下(くさか)の石材を多く使用されていることは 今もその痕跡を残しているが、飯盛山から石材も切り出されているといわれる。 |