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 羽衣橋は、下田原の北側、交野の磐船神社にさしかかるところにあります。 天の川に架かっている橋です。 「天の川」の地名は、日本地名大辞典によると、「昔仙女あり、この川に浴せしがその羽衣を少年にかくされる。 依って留りて少年と共に夫婦になり、年を経て天に帰る.故に天の川と號する。」 とあります。 おそらく天の川に因んで名付けられた橋で、ここに当時の人が「羽衣伝説」のロマンを創ったのでしょう。

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  正伝寺の縁側の天井に 水ポンプがかかげてあります。 幕末に発明された雲龍水の消火器です。「雲龍水、 水立昇ること数丈、呼吸なくして水勢強く、火消第一の器なり」 と宣伝され、 明治未まで使用していました。江戸期の火事対処法としては、「出火これあり候は、 声をたて、 太鼓を打ち、村中の者馳せ集まり精を出し火を消すべし」 という文書も残っています。木造建築のわが国においては、 地震、雷、火事はとても恐いものでした。 これらの災害は 出火を伴い、すべてが消失してしまうからです。

  天神は、平安時代にはもっぱら怨恨(えんこん)の神で、風、雨、水、火を支配し、悪をこらす神であったそうです。 本来は天を司(つかさど)る神、 天候の神で農民が 豊作を祈願するものでありましたが、菅原道真(すがわらみちざね)と同一視され全国いたるところに天満宮として祀られています。 道真は、時の政権の敵として太宰府(だざいふ・九州)に流されます。 「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」 の歌をよみ、 太宰府で没しました。その死後、 京都には落雷がしきりに起こりました。 これは道真の怨霊のなせるものだと恐がられ、その霊をなぐさめるため、「天満大自在天神」の名で北野天神に合祀(ごうし)されたそうです。 天満宮が、学問の神さまといわれるのも道真が祀られているからです.  下田原のお祭りは、7月24日宵宮、25日が本宮です。昭和26年につくられた太鼓台が残っていたので、それを平成4年に前の台座を「ふとん太鼓」につくりかえました。太鼓と鐘を鳴らしながら、みんなで山車〈だし)を引いて巡行します。

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 中番は、上田原住吉神社から矢の石まで、古堤街道沿い山系に開けた集落。 台帳には登場しない小字集落。八ノ坪とも地名として台帳には「土居の内」となっています。 中番は、「辻にある番所を辻番というのに対して、 辻と辻との中程のある番所の称」 「木戸番ニ同ジ。 町ノ中程ニ設ケタルヲ中番ト云ヒシガ、 後ニハ広ク番所ヲ中番ト云ヒキ」とあり、番所を意味します。田原対馬守が八ノ坪に城を構えた時、城の前面にある小集落の一角に番所を設けました。これを機縁として、この集落を 「中番」と称したと考えられるそうです。

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  毎年1月11日に 「ほうじさし」 という行事があります。まず最初に竹くいを刺すのが田原中西側の山のなかで、上・下田原2本ずつさしていきます。 その場所を「ほうじ坪」といいます。 室池まで 10ケ所行くと上田原の人は、 南野、 中垣内、 生駒 (南田原)の境界に、下田原の人は逢坂、 交野 (星田)、 私市の境界40ケ所に1本ずつ打ち込んでいきます。 天の川を境にして、大和田原と河内田原に分かれ、当地は西田原村を称します。 江戸初期、天の川の上流・下流をもとに、上田原・下田原村に分村します。その境界は旧田原小学校(農協の近く)と 室池の東堤を結ぶ線となります。 このころから、「ほうじさし」 が行われたとなれば、400年近い行事ではないでしょうか。

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