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『続群書類従・河内国小松寺縁起』によると、「当初、荒山寺と称した。元 明 天皇の和銅5年(712)、田原郷の住人宇紀八の子若石丸(13才)、宗次郎の子熊王丸(11才)、 中四郎の子松若丸(17才)の3人がこの山に遊び、方5尺の草堂をつくったのが開山の始まりである。」とあります。また、「延長3年(925)、小松寺と称する.秦の姉子(40才)なる人が、亡夫の小松景光供養のために、 七間四面の堂一宇を建てた。そのために荒山寺改まって、以後、小松寺と称するにいたる。」「保延5年(1139)の再建にあたっては、 近郊農村たる田原・大坂(逢坂)・甲可(四條畷)・星田等荘官級有力農民が募金、寄進をしている。」 出土の瓦(かわら)は、平安から鎌倉期のものが主であるところから、 小松寺は鎌倉期までは盛大をきわめたものとおもわれます。戦国期には、山城化した小松寺を小松城とよんだそうです。この地に星田・水本・田原・四條畷・四条・住道の六ケ材組合立の北河内郡公立飯盛青年学校ができました。戦後旧田原中学校が、この校舎を借りて開校しました。 あまりの寒さに、その年度内に移転しました。

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平成3年(1991年)4月、新設四條畷市立田原中学校として四條畷中学校から分離して開校しました。「田原中学校」としたのは、昭和22年(1947年)4月、新学制発足により開校した田原村立田原中学校を復活しています。 この旧田原中学校は、 昭和41年(1966年)7月に四條畷中学校に統合され、 田原分校となり、 29日、 田原分教場と改名されました。 昭和42年3月終業式と同時に閉校となりました。 生徒は、4月からバスで四條畷中学校へ通うようになりました。 閉校にともない 旧田原中学校の講堂内の図書室を記念館として残し、自彊館(じきょうかん)と名づけられました。これは、現在JA大阪東部花井(かき)センターになっています。ここに「自彊館」と書いた看板が数年前までかかっていましたが、今はありません。もしあれば、旧田原中学校の名残りとして、新設の田原中学校の図書室にかがけたいと思っていました。この話を知ったひとが、毛筆で「自彊館」と書いてくださいました。これを額装にして、新設田原中学校創立10記念として寄贈しました

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  小楠公(しょうなんこう)とは大楠公 (楠木正成まさしげ)に対して、 その子楠木正行(さつら)をいいます。 四條畷の戦いの立役者です。南北朝の戦乱が続き、四條畷の戦いがくりひろげられました(1348年・正平3年正月5日前10時〜夕方6時)。 正行が戦死し、80年たって2本のくすの木がうえられ、 そのあいだに小石碑がたてられました。年月がすぎて2
本のくすの木は1本にがっして、その石碑は木のなかにはいりこんでしまいました。現在ある墓の前の1メートルほどの自然石碑は天正12年のものです。「南無権現なむごんげん」としるされています。 左手には、 四面に2000字あまりの碑文がきざまれている石碑があります。 これは文化5年のものです。そして、右手には巨大な墓碑(ぼひ〉が高くそびえています。 「贈従三位楠正行朝臣の墓」の文字は、大久保利通の筆によるもので、ほるのに5カ月をようしています。 また、 この巨岩は秀吉が、 大阪城築造のとききりだせなかったもので、 大東市龍間から5カ月もかかってきりだされ、 運搬に半年以上はかかり、 3年という年月をかけ、明治11年、戦いのあった正月5日に建碑式をおこなっています。 昭和7年、甲可村を改め、四條畷村となり、楠木正行戦死の地として急激に発展しました。

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1348年(正平3年)1月5日、世にいう四條畷の合戦がありました。南朝方楠木正成(まさしげ)の子、正行(まさつら)と足利尊氏(あしかがたかうじ)の命をうけた高師直(こうのもろなお)との決戦は、 巳刻(午前十時)から申刻〈夕方六時)まで8時間にもおよび、 敗色のこくなった楠木正行以下34人は腹かききって自害しました。正行の家臣和田賢秀(わだけんしゅう・源秀)の墓である、 南野の塚脇(つかわき〉の墓石は、高さ1m20cm幅4cmほどの位牌(いはい)型で、 江戸末期の天保2年(1831)の建立(こんりゅう)となっています。 正面に「和田源秀戦死墓」裏面 「 むかし問へはすすき尾花のあらし吹く 天保二年九月 浪華 永田友之誌」とあります。ここの字(あざ)名は薬師(やくし)といわれ、 村の人は歯神さんとして信仰しています。 下田原(ゴルフ場なか)の墓石は、舟型光背(ふながたこうはい)の一石に五輪塔を陽刻(ようこく→うきぼり)したもので、表に「和田賢秀之墓」とかすかに読みとれます。 高さ1幅35cmです。 賢秀の菩提(ぼだい)を弔うために、小松寺にも建立したのでしょう

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 正伝寺の境内(けいだい)にある、下半身の地蔵さんです。「為身体堅固腰痛平癒祈願之塔」という札がかかっています。 「数珠くり」といって、ひろげると周囲10メートルほどある数珠をにぎり、20人ばかりが輪をつくり、「般若心経(はんにやしんきょう)」にあわせて口々に念仏をとなえながら百回ぐらいまわします。

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