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 田原小学校沿革誌に 「明治6年5月10日の創立に係り法元寺本堂を 仮用し、 堀溝郷学校田原分校と称す」とあります。明治11年9月に上田原・下田原の境界である、農協前のところに移転し、平成2年9月に現在地に移りました。法元寺の開基は、江戸初期以前ではないかといわれていますが、明らかではありません。 真言宗で、大日如来が本尊です。「幕末期には秀盛和尚なる傑僧あって、寺子屋を開き、地域社会の啓蒙に務めた」と語り伝えられています。
  旧田原小学校跡地に 「田原育英の地」 の石碑が建立されています。

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  初ものを神に献ずる秋祭りは、収穫前に行われます。 田原は江戸期以来旧暦の9月16日を、 明治22年になって10月16日に改められました。住吉神社の、この祭りの前日15日が宵宮、当日が本宮で宵宮といっても一日は夜に始まって翌日の日暮れまでをさしたものであるから、 宵宮は 本宮の始まりとなります。だから、15日の夜が山場です。 最近、田原でも住吉神社の秋祭りが、地車(だんじり)を出すのに人手がいるので、土、日曜日になったりしています。また、 農作業をする人も少なくなり、 本来の豊作の感謝と村人の繁栄の祭りとは違ってきています。 神との結びつきより、 人々との交流の場となってきています。

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  江戸期には、 各村落に年貢の米を収納する倉庫がありました。その郷蔵(ごうくら)は上田原にも、下田原にもありました。 その面影を残すのが下田原の集会所の横にある倉庫です。(ここも平成13年に壊されました。) 以前の集会所は、 昭和初年に建てられました。 それまでは体育場とよばれる広場で、相撲場や鉄棒などもあったようです。上田原村の郷蔵は、森山バス停付近にあったそうです。年責米納入期ともなれば不寝番がつきました。 藁葺(わらぶき)屋根の多い民家の中でひときわ目立つ瓦茸(かわらぷき)の倉庫です。

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 西国三十三ケ所巡礼碑をよく見かけます。田原では、下田原の天満宮前の大師堂の横、上田原の住吉神社の境内にあります。三十三の数字は、観世音菩薩が迷いから救うために 33種に姿をかえたという伝説に基づいているといわれています。すなわち人を見て法を説く姿が33変することから、 霊場を33ケ所を選び巡礼するようになったそうです。 聖地の巡礼は世界共通です。 三十三ケ所巡礼は平安中期に始まっています。 西国三十三ケ所巡礼は、 紀伊(和歌山)の那智・青厳渡寺(せいがんとじ)が一番の霊場です。 そこから、三十三番の美濃(岐阜)の華厳寺
(けごんじ)に至るまでの往復路を巡ります。村中にある巡礼碑は、巡礼の満願の喜びを記念したものですが、その碑文に手を合わすことによって、村人は観音さんの功徳をたくし、日々感謝の思いを新たにしていたのでしょう。

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 田原城跡の南側8mのところに石組みの井戸が見つかった八の坪遺跡がありました。 八坪(やつぽ)は、八壷で水の豊富なところを意味します。古老の話では、「この天野川上流に、八つの壷を並べておき、殿様が手足を洗って登場されたから”やつぼ”というのです。」といわれています。伝説として南北朝時代の殿様屋敷があったということです。 りっぱな石組みの深い井戸は、 それを物語るかも知れません。

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