田原の里 カルタウォーク 上田原コース

  散策コース 約2時間

  @グリーンホール田原
     ↓
  A正傅寺
     ↓
  B道しるべ古堤街道
     ↓
  C両国橋
     ↓
  D住吉神社
     ↓
  E田原城跡
     ↓
  F月泉寺
     ↓
  G千光寺跡
    千光寺跡広場
   キリシタン墓碑
     ↓
  H田原対馬守の墓
    (月泉寺墓地)

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           砂絵

←グリーンホール田原

hougennji

          正傳寺

1 グリーンホール田原
    
カルタの句 『 さえ渡る グリーンホールの 鐘の音 』
 
 行政のサービスの拠点として平成5年(1993)4月に開館。塔にカリヨンが4つ設置され、1日4回鐘が鳴る。時間によってメロディがちがう。 午前7時(スウエーデン民謡・朝露の山への1節を編曲)、正午(ロンドンのウエストミンスターのチャイム)、午後5時(オリジナル・メロディ)、午後10時(ウエルディのオペラ・ナブツゴの小節を編曲)。

   
砂絵  カルタの句 『 万石と 豊作ねがい 砂絵かく 』
         
 農家では、今でも豊作をねがい、庭に砂絵をえがく伝統行事がある。
 

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           腰痛地蔵

正傳寺の薬師さんさん

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          水ポンプ

 2 正傳寺(しゅうでんじ)
   
 カルタの句 『 地高き里 正傳寺 平安の薬師さん 』


 正傳寺は佛法山と号して融通念仏宗で、本尊は阿弥陀如来。 カルタの句でうたっている如来さんは、本堂の東側に安置されている。 高さ約2m光背2m50。もと森福寺(もりふくでら)と号する上田原所在の真言宗寺院であったことが天保15年(1844)明細帳に見える。現在廃寺で明治初年に遷座した。四條畷郷土史カルタでは、『 地高き里 正伝寺 鎌倉仏の薬師さん 』とうたっている。 田原のカルタをつくるまでは、鎌倉期の薬師如来として親しまれていたが、最近の鑑定によると鎌倉期より古いといわれているので「平安後期の如来さん」としたが、村民から「薬師さん」として親しまれているのでに変更した。
頭部は如来の印、釈迦か、阿弥陀か、薬師か、両手は後になって作られている。左手に薬壺(やっこ)、一般の如来像は右手を上げるが、珍しく下にのぼしている。(復刻版刊行後、平安後期ではなく、10世紀前半ではないかと、それで「平安の薬師さんに訂正する。)
    右のカルタは四條畷郷土史カルタ(復刻版) カルタの立て札設置→

    カルタの句 『 腰痛地蔵 数珠を廻して 念仏唱える 』
 境内ににある、下半身だけの地蔵さんがある。「為身体堅固腰痛平癒祈願之塔」という札がかかっている。「数珠(じゅず)くり」といって、ひろげると周囲10mほどある数珠をにぎり、20人ばかりが輪をつくり、「般若心経(はんにゃしんきょう)にあわせて口々に念仏をとなえながら、百回ぐらいまわす。
   カルタの句 『 火の用心 正傳寺に残る 雲龍水 』

  縁側の天井に水ポンプがかかげてある。幕末に発明された雲龍水の消火器。「雲龍水、水立昇ること数丈、呼吸なくして水勢強く、火消第一の器なり」と宣伝され、明治末まで使用していた。


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    愛宕の常夜燈

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     六字名号碑


市内最古の個人墓塔

宝篋印塔

カルタの句 『 火から 世を守る 愛宕の常夜燈 』
 境内に1基の「愛宕山」と彫られた常夜燈がある。昔も今も火事ほど恐いものはない。ことに藁葺き(わらぶき)の屋根構造であつた江戸時代には、延焼を防ぐには隣の家をたたきこわすしか火勢をくいとめることができない。また、神仏にたよるしかない。京都の北西にある愛宕山の防火神・愛宕神社にお参りにいく。 しかし、遠方なのでなかなか出かけることができない。そこで、村ごとに常夜燈を祀っている。また、村の代表が愛宕さんにお参りし、みんなのお札をいただいてくる。こんな行事もまだ残っているところがある。
 境内に「 六字名号碑(南無阿弥陀仏) 」もあるが、住吉神社のところで説明。
カルタの句 『 年老いて 六字名号碑 心寄せ 』(ろくじみょうごうひ)
 本市最古の墓石 光背型五輪塔 地輪の部の左右に「慶長十一年(1606)、午七月廿日」中央に「祐院禅定門」(年号と法名)。各輪には大日如来の真言たる梵字。
 宝篋印塔 「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔。森福寺(もりふくでら・真言宗)跡から移建。田原地区の墓地にも多く見られる。

 千手観音菩薩坐像(平成22年)


 道しるべ古堤街道

   府県境界碑

 両国橋   天野川

3 道しるべ 古堤街道(ふるつづみ・こてい・こて)
   
カルタの句 『 中垣内越え 大和に続く 古堤街道 』  
 
大東の寝屋川沿い(野崎まいりなど有名)から中垣内、龍間、そして田原への古道が大和に続いている。住吉神社前の道が古堤街道。田原には、大阪から奈良に続く街道が、もうひとつ清滝峠越え大和街道(清滝街道)がある。下田原の「西川大吉」墓型の道しるべの前の道。
 中垣内峠越え大和街道(古堤街道)は、山間道で、明治30年代に拡張工事があり、大正12年(1923)に完成。その記念碑が住吉神社内にある。また、平成に入って、より大きく拡張された。「 右古堤街道・明治三十九年五月建立大阪府 」「 すぐ古堤街道 」(すぐとはまっすぐのこと)と彫ってある。高さ130センチの角柱。森山の交差点にある。

 上田原郷蔵跡
 森山遺跡 古墳時代後期の土器が多く出土。

4 両国橋
  
 カルタの句 『 両国の 橋のたもとに 府県境界碑 』
 
天野川が、大阪と奈良の国境。古堤街道と磐船街道が接している天野川の上流に、上田原から奈良県南田原に架かる橋がある。これが両国橋である。そのたもとに二基の府県境界碑が立っている。一つは年号が書いていない。明治のもので、もう一つは、「 從是西北大阪府管轄 」「 大阪府奈良縣境界標 」「 住道郡山線北河内郡田原村大字上田原 」「 大正十二年十月建設 」とあり、高さ170センチ幅27.24センチの角柱。

 カルタの句
    『 天の川 河内大和の 国境 』


 
府県境界碑が両国橋に二基、高橋のところに一基ある。「 川中央国界 」とあるから、川の中央が国境。天野川は、生駒山系東斜面のしたり水を集め、水系を整え、磐船神社の秘境をつくり、交野、枚方を経て淀川に注いでいる。この水系は文明発祥地域として重視され、国境となった。大和(奈良)は東田原、河内(大阪)は西田原、西田原は水系の位置により、上田原と下田原に二分された。

      右のカルタは四條畷郷土史カルタ(復刻版)カルタの立て札(ポンプ場前)設置

 

        住吉神社

       石の風呂

  十三仏 西国三十三ヶ所巡礼碑

5 住吉神社
カルタの句
 『 霊こもる 住吉神社に 石の風呂 』
住吉神社は、磐船神社から分祀されたと伝えられている。創建は江戸初期であろうといわれている。祭神は住吉四神、海の神。境内にある石の風呂は、天野川から出土している。縦2m、幅1mの花崗岩でつくられ、深さ80cmにくりぬかれている。鎌倉時代のもので、浄身用として身の潔斎(けっさい→神仏につかえる前に身をきよめること)につかわれていたようだ。大阪府の指定有形文化財である。水吐けの穴については、古老の話によると、大正時代に村人が開けたということだ。
          右のカルタは四條畷郷土史カルタ(復刻版)カルタの立て札 

  カルタの句 『 追善供養 生前に祈る 二基の十三仏 』
  人間が死んで、あの世へ往生するまでに33年かかるそうだ。そのために亡くなった人の供養をする。向かって下段右から左へ、初七日(しょなぬか)の不動明王、ニ七日(ふたなぬか)の釈迦如来、三七日(みなぬか)の文殊(もんじゅ)菩薩、そして下二段左から右へ、四七日(よなぬか)の普賢(ふげん)菩薩、五七日(いつなぬか)の地蔵菩薩、六七日(むなぬか)の弥勒菩薩、そして下三段右から左へ、七七日(なななぬか・49日)の薬師如来、、百ヵ日の観音菩薩、、一周忌の勢至(せいし)菩薩、そして下四段左から右へ、三年忌の阿弥陀如来、七年忌の阿しゅく如来、十三年忌の大日如来、上段が三十三年忌の虚空(こくう)菩薩の13回の追善法要。十三仏は、死後の法要を、生前、自分でしておこうという逆修(ぎゃくしゅ→あらかじめ)の意味するものが多い。

  カルタの句 『 霊場を 紀伊から美濃へ 巡礼す 』

 
十三仏の右隣に西国三十三ヶ所巡礼碑がある。紀伊(和歌山)の那智・青岸渡寺が一番の霊場。そこから、三十三番の美濃(岐阜)の華厳寺に至るまでの往復路を巡る。巡礼碑は、巡礼の満願の喜びを記念したもの。その碑文に手を合わすことによって、村人は観音さんの功徳をたくし、日々感謝の思いを新たにしている。

  子安観音   地蔵さん  六字名号碑


       地車

    住吉神社 地車  秋祭り

   カルタの句 『 年老いて 六字名号碑 心寄せ 』
 六字名号(ろくじみょうごう)とは、「南無阿弥陀仏」の六字をいう。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とは、阿弥陀仏に帰依(きえ→仏を信じ、その力にすがること)する意味。善導(ぜんどう→唐の僧)は、これを称念(しょうねん→南無阿弥陀仏と唱えること)すれば必ず往生(おうじょう→極楽浄土に)することをいい、浄土真宗では、南無は「たのむ」、阿弥陀仏は「たのむ者をたすける」と解釈している。これを唱えるのを念仏という。

  カルタの句 『 にこやかに 笑みをうかべる 地蔵さん 』

  カルタの句 『 手にとって 子宝ねがう 子安観音 』
  子安は安産の意味。むかしは医療技術や設備が未発達で、無事赤ちゃんが産まれ、健やかに育つということはなかなか困難なことである。観音さんのご利益(ごりやく)をいただきたいと、手を合わす人々の思いが伝わってくる。自分ではどうしょうもできないとき、神や仏に手を合わす人間の生き方がこうして生まれてきたのだろう。

  カルタの句 『 累年の 地車祭り なお続け 』
  秋祭りには、鉦(かね)太鼓を鳴り響かせながら地車(だんじり)が村なかをねり歩きする。地車とは、木車の上に神座を乗せたもので、若者がかつぎ、子どもらがひいて氏子地(うじこち)をまわる。氏子は五穀豊穣(ごこくほうじょう)・村内安全を感謝する。地車は、明和年間(1764〜1771)よりできはじめたらしく、四條畷市内に10台ほどあり、田原には住吉神社にある。

   カルタの句 『 豊作の 感謝を祝う 秋祭り 』
 初ものを神に献ずる秋祭りは、収穫前に行う。田原は江戸期以来旧暦の9月16日を、明治22年になって、10月16日に改まった。住吉神社の、この祭りの前日15日が宵宮、当日が本宮で宵宮といっても一日は夜に始まって翌日の日暮れまでをさしたものであるから、宵宮は本宮の始まりとなり、だから、15日の夜が山場である。

 
 中番   カルタの句 『 平穏に 中番夜まわり 土居の内 』
 
中番は、上田原住吉神社から矢の石まで、古堤街道沿い山系に開けた集落。台帳には登場しない小字集落。八ノ坪とも地名として台帳には「土居の内(どいのうち)」となっている。中番は、「辻にある番所を辻番というのに対して、辻と辻との中程のある番所の称」「木戸番ニ同ジ。町ノ中程ニ設ケタルヲ中番ト云ヒシガ、後ニハ広ク番所ヲ中番ト云ヒキ」とあり、番所を意味する。田原対馬守が八ノ坪に城を構えた時、城の前面にある小集落の一角に番所を設けた。これを機縁として、この集落を「中番」と称したと考えられる。
 愛染明王堂(平成22年)

   佐水   カルタの句 『 嫁にゆく さみずの清水 おいしかろ 』
 
佐水(さみず)は、正伝寺裏側から見える集落。とてもさびしいところで、家は数軒しかなかった。大昔は、「さみず三軒さびしかろ」とうたわれていた。『大阪府全志』には「三水」と書かれている。佐水は、清水(しみず)の変化したものだろう。標高160mの山系から湧き出るおいしい水は、佐水の人たちを喜ばせたことだろう。田原はおいしい水が湧き出ている。旧村の水道は、今も地下水を利用している。

   田原城跡     古堤街道

   矢の石


        隠井戸

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本丸跡・八ノ坪の住吉神社
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夜泣き地蔵

6 田原城跡
 カルタの句 
『 そそり立つ 田原城 門口矢の石隠井戸 』

城といえば、大阪城のような天守閣を連想するが、中世にあっては、山城(やまじろ)・丘城(おかじろ)をいう。戦いになるとここにこもる。(上の左端の写真)田原城は、田原対馬守の拠点で、この山を村人は城山という。「門口」といわれる付近には、小さな川に3m幅の橋がかかっている。頂上の本丸跡から古堤街道を見ると道の向こうに大きな石が見える。それを的に弓を射る練習をした「矢の石」がある。(上の真ん中の写真)また、本丸跡の近くに隠井戸がある。(右端の写真)

  右のカルタは四條畷郷土史カルタ(復刻版)カルタの立て札設置→

   
 カルタの句 『 戦国の 田原対馬守 本丸館を築く 』
 田原対馬守(たわらつしまのかみ)は、田原城の城主として田原をおさめていた土豪といわれているが、詳しいことはわからない。文献としては、江戸末期の上田原村明細帳に「 永禄の頃、当地守護田原対馬守様御城跡と申伝候 」とあるぐらいで歴史的な人物像として、はっきり現れてこないそうだ。

     カルタの句 『 弓矢なく 本丸跡に 八の坪の住吉さん 』
 八ノ坪は、小字(こあざ・地名)としてはない。台帳では、「土居の内」となっている。標高150mの水田地帯より、30mほどの土のとりでをめぐらした中世の城郭(じょうかく)。いわゆる丘城(おかじろ)の田原城。ここを八ノ坪といっている。また、この山は、生駒山系にあり、村人は城山とはいわないで、「住吉さん」といっている。本丸跡に、古い小さなお社(やしろ)がある。(下の写真)磐船神社の分祀(ぶんし)で、古堤街道沿いの住吉神社より古いものである。

    カルタの句 『 健やかに 育てとねがう 夜泣き地蔵 』
 田原城跡の個人の田畑のところに30センチぐらいの小さな地蔵さんが石に囲われてある。これが夜泣き地蔵といわれている。夜泣きする子どもの健康を地蔵さんにねがい、親の気持ちを癒していたのであろう。

   八の坪遺跡  殿様屋敷跡 深井戸
    
カルタの句 
   『 殿様は 八つの壷で 手足洗う 』

 田原城跡の南側8mのところに石組みの井戸が見つかった八ノ坪遺跡がある。八坪(やつぼ)は、八壷で水の豊富なところを意味している。古老の話では、「 この天野川上流に、八つの壷を並べておき、殿様が手足を洗って登場されたから“やつぼ”という。」といわれている。伝説として南北朝時代の殿様屋敷があったということだ。りっぱな石組みの深い井戸は、それを物語るかもしれない。田原台8丁目・仙女橋の手前を右に入ると殿様屋敷跡。天の川に下りる石段のところにマンホールがある。その下は7mの深い井戸。
 
土鈴(江戸時代のもの、心地よい音がする。古墳時代と同じ作り方。)
 岩奥遺跡(飯盛山系の山中)縄文後期の土器、矢じり。鎌倉時代の烽火(のろし)場があちこちで見つかる。



殿様屋敷跡・深井戸

          月泉寺


       改築された山門

       改築前の山門

7 月泉寺
 曹洞宗・本尊千手十一面観世音菩薩。かつては千光寺(真言宗)で田原対馬守の菩提寺。明治維新後、無檀家となって廃寺になった。その後寝屋川市・寝屋の月泉寺が移り禅宗尼寺へと転じた。現在の月泉寺は、平成8年に再興落慶されたもの。上の右端の写真は、それまでの建物。千手十一面観世音菩薩は、「世の中の困っている人々の音を観て助けてくださる菩薩さま」といわれ、十一面の小仏を配して十一面観音。 そして千本の手をさしのべてくまなく救うので千手観音と呼ぶ。月泉寺に田原対馬守のお位牌がある。「 義俊院殿節山良忠居士 没年延元丙子三月五日 」とあって、南朝方の年号「延元」が使われている。

    千光寺跡広場展示場

     千光寺の土塀の基礎

展示看板 千光寺想像図と出土品

青磁袴腰香炉

   千光寺跡の田原対馬守の墓

  移設された田原対馬守の墓

 8 千光寺跡  千光寺跡広場
   
カルタの句 『 南宋の 青磁香炉出る 千光寺跡 』
 南北朝時代の田原対馬守の墓と伝えられる五輪塔のあった旧墓地(現在は道路になり移転)を1994年(平成6年)発掘調査(寺口遺跡)すると、千光寺の刻印のある瓦や仏具の懸仏、茶道具の茶臼と天目茶碗、灯明具などが出てきた。現在ある月泉寺は廃寺になった千光寺の後を明治になって継いでいるが、以前は、この旧墓地あたりにあったことがうかがえる。青磁袴腰香炉(せいじはかまごしこうろ・府指定有形文化財)が出土したのもこのときで、香炉の腰のふっくらみが、袴をはいた形に似ていることから名付けられた袴腰香炉は、中国の南宋時代(13世紀代)に龍泉窯(りゅうせんよう)でつくられたもので貴重なものが発見された。2001年(平成13年)に千光寺跡広場ができ、そこに土塀の基礎や寺跡が展示されている。

  
9 月泉寺墓地  田原対馬守の墓
    
カルタの句 『 山中に 苔むす五輪塔 月泉寺墓地 』

 今は移転されたが、月泉寺の北に木々が生い茂る小山があって、鬱蒼とした苔むすところに古い四基の五輪塔があった。中央の三基の五輪塔の台座は、30基を越える五輪塔(地・水・火・風・空)の地輪の部分が並んでいた。むかし、このあたりに多くの五輪塔が散在しており、それらを集めて五輪塔を組み立てたのか、みんなちぐはぐであった。その中で一番大きいもので古い室町期のものを田原対馬守の墓にしたそうだ。ところが、田原の開発でここに広い道路ができ墓地も新しい道路を横切ったところに移設した。「山中・・・」ではなく、「苔むす・・・」もなく、青空のもとに西日をあびて五輪塔が並んでいる。(写真は新設の墓地のもの)カルタの句は、旧墓地の情景をうたっている。
   右のカルタは四條畷郷土史カルタ(復刻版)カルタの立て札設置→
   カルタの句 『 くすの木の こもれ日あびる 小楠公 』
 小楠公とは大楠公(楠木正成くすのきまさしげ)に対して、その子楠正行(まさつら)をいう。四條畷の戦いの立役者。南北朝の戦乱が続き、四條畷の戦いがくりひろげられた。1348年・正平3年正月5日午前10時から夕方6時まで。正行が戦死した。80年たって2本のくすのきがうえられ、年月がすぎて1本にがっした。
 カルタの句
  『 書簡にのこる 田原キリシタン なぞのこる 』

  田原地区がキリシタンとして登場するのは、1576年8月のフロイスの書簡(手紙)に「 コカ(甲可→四條畷のこと)、三箇、若江、タワラ(河内田原)および堺の市のキリシタンの大多数の・・・ 」の一節のみに出ている。くわしいことはまったくわからないようだ。
  ザヴィエルの来航に続いて、数多くの宣教師がきて、各地に布教。四條畷では、砂、岡山に3500人(1582年には国内信徒数15万)の信徒があり、教会、十字架が建って盛況だったことなど領主・結城(ゆうき)氏の名とともに耶蘇(やそ)会士通信文の中に伝えられている。四條畷郷土史カルタでは、『砂・岡山の キリシタン 異国の文にのる』とうたっている。

四條畷郷土史カルタ(復刻版)

 カルタの句
   『 レイマンの キリシタン墓碑 寺口遺跡 』
 千光寺跡の寺口遺跡から、安土桃山時代の石製のキリシタン墓碑が平成14年(2002年)見つかる。花崗岩で五角形、長さ約43センチ、幅約25センチ。「十字とH(エータ・イエズス会を示す)」が彫られている。また、「天正九年(1581)辛巳(かのとみ)礼幡 八月七日」と刻まれている。フロイスの書簡には、織田信長を表敬訪問した河内のキリシタン武将の名前があげられている。その中に田原城主・レイマンの名が出ている。墓碑には、「礼幡」という洗礼名が記されており、田原レイマンのものと思われる。 飯盛城主三好長慶のもとに布教された。墓碑は、人物が特定できる唯一のもの、日本最古のもので府指定有形文化財。 

キリシタン墓碑
千光寺跡出土地


四條畷郷土史カルタ
(復刻版)

カルタの立て札設置
(千光寺跡移築広場)

カルタの絵札字札