福祉文化会館

 

 

 

 

 

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「耳の日の集い」について

もう直ぐ3月3日。
あなたの街でも、「耳の日」にちなんだ行事が予定されていますか?

私の街では、一足速く2月25日に予定しています。
〔岡山市中央公民館5階ホールにて)
市の中途失聴・難聴者協会が主催ですが、
医師会の共催を得て、
今までとは一皮向けた新しい「耳の日の行事」を組むことが出来ました。

これまでも、聴覚障害関係の他の団体との共催で
とりおこなってきていましたが、
どちらかと言えば、聴覚障害者向けの意味合いが濃いものでした。
例えば、人口内耳についてとか、聴覚障害者の体験談を元にしてとか…。

でも、今回は岡大耳鼻咽喉科小倉名誉教授の講演を中心にして、
「高齢化社会と聴覚」と題したテーマでまとめます。
小倉先生は、高原先生の後を継いだ名誉教授です。
(高原先生は、私がお世話になった内山下小学校の難聴学級を
設立するに当たって尽力を尽くされた方です)
人づてに聞くところ、大変意気込みが入っているそうです。
楽しみにしましょう。

先に述べたように医師会が共催ですから、
今までよりもより幅広く多くの方々に参加していただきたいと思います。
講演の後の午後の部でも、
引き続き医師の方々に、無料検診・相談をしていただけることになっています。
他にも、業者の方には、補聴器の無料相談、日常生活機器の展示なども、
していただく予定があります。

この「耳の日の行事」に関わるようになってからはや数年が経ちますが、
いつも一般の健聴者の方々の関心を引き起こすのにどうしたらいいのだろうと、考えさせられます。
手話を交えたドラマ等で大きな飛躍がある一方で、
耳の遠いことを隠しながら働いている若い人もまだまだいます。

今まで大きな効果のあったのは、どうしてもマスコミで取り上げられたケースですね。
ドラマであったり、聴覚障害者として初めて何かをした人だったり…。
でも、この一年で新しい窓口を確認しました。
そうインターネットです。
これまでにも、関心を持ち始めたものの後が続かなく、
それっきりになっていた方も多いと思う。
そんな人にうってつけの窓口が、インターネット上にある
聴覚障害関係の諸HPではないでしょうか。

直接関わらなくても、直に当事者やその身近な人のお話を読めるし、
又、彼等の幅広い様々な人としての側面を窺えて、
今までの広報とは違い、緩やかに深く認識していただけるのではないのかなぁと、感じます。
拙HPも、その中の一つで、
私の好きなものを、好きな文章で書いて、
楽しみながら、時には聴覚障害のこともその中で読んでもらえたらな、と考えているのです。

このHPをご覧になる方はやはり聴覚障害者もしくはその関係者の方が多いのでしょうか?
そうでない方も、読んでるよと、メッセージ下さったら、
ききみみずきん、欣喜雀躍として一杯やりそう!(^^ゞ

この拙HPに限らず、他の聴覚障害関係HPでも、どんどんメッセージを送ってくださいね。
我等が同志の方々、これからも一緒に頑張っていきましょう。
そうして、まだ声を上げてない聴覚障害者の仲間達も、
どこかの掲示板から、小さな声を上げ、
みんなの声を合わせて、社会へ確実に届く声にしていきましょう。

 

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聴力って何でしょう?

 

先週、女房が自分のことで耳鼻科の門を叩きました。
結婚以来、初めて聞く話題です。

いつも補聴器の電池を買っているお店に行って、
「今の補聴器はもうそろそろ寿命だから、買い換えませんか?
聴力を測ってみましょう」
そう言われて、調べると、聴力が落ちていました。

2、3年前に、聴覚障害者のキャンプに参加した時、
「あなた、6級の聴力じゃないよ。」と言われたのですが、
笑って取り合いませんでした。
でも、今回はマジに受け、耳鼻科を訪れた次第。
その夜から、しばらく何度も同じせりふを聞きました。
「そんなに(聴力が)落ちているとは思わなんだわ」

聴力検査の結果、
よく聞こえる低音部は、20dbから30dbに、
聞こえにくい高音部は、70dbから90dbになっていた由。
それで、身体障害の等級は6級から3級になりました。

私も妙に感心して聞き入りました。
そおか、聞こえることにはそういう死角があるのだなぁ!
聴こえやすい音域の聴力だけしか自覚できず、
その他の部分では分からず、自分で思っている以上に、
聴力が落ちているというわけです。

それから、3級になったら、2級はもう直ぐ?
と思いきや、それは無いと、お医者さんに言われたそうです。
この辺りの等級のつけ方も、いろいろ考えさせられます。

聞こえについて、理解するには、いろいろと綾があり、
聞こえの世界の奥深さを示していると言えるのではないでしょうか?

こんな事を考え出した折、
テレビで、映画「Shall we ダンス?」の放送があり、
好きな作品なので、見ているうちに、
主人公が思いを寄せるヒロインの父親役の俳優さんの声を聞いて、
ウン!と膝を叩きました。
魅力的な声の、その所以はどこにあるのだろう?
音域と音量だけでは測れないものがそこにある。
人の声って不思議だし、凄いなぁと、感じました。

楽器でも然り。
シンセサイザーの音も素敵だけど、
昔からある弦楽器・管楽器・打楽器の音・響きの膨らみも、
聞き直せば素敵な音色と言えますね。
音色という言葉が何故あるのか。
音という言葉では言い表せない何かを示しています。

音楽の世界には、他にも和音といった表現もあり、
それを逆手にとった不調和音が表現の世界を広げているということも起こっています。

そんなこんな音という言葉だけでは、言い尽くせない世界を聞き取る人間の耳。
皆さん、聴力という言葉をもう一度見直してみませんか?
そして、聞こえないのはそう単純なことではないと思い直せていただけたら、
聴覚障害の理解ももう少し進むのではないでしょうか。

2001.2.4記

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君の手がささやいている 第四章 を見て

 

 

これは、ラブ・ストーリーです。
でも、聴覚障害者を主人公にしたドラマで、それを聴覚障害者が見ると、
どうしてもわが身に引き寄せて見てしまいます。

 

このドラマのシチュエーションについて。
ここでは、家族の中の一人が聴覚障害者です。
そして、主婦です。
これが、主人であったり、子供であったり、
親であったり、老人であったらどうなるか?
また、兄弟がいたらどうか?
それから、聴覚障害者が一人だけではなく、
他にもう一人、二人いたら、
更に、一人だけ健聴者がいる家族や、
家族全員がろうあ者の場合と、ほんとうに数多くのバリエーションが想定されますね。

私の場合、結婚するまで、家族の中で一人だけの聴覚障害者でした。
結婚後は、二人いる状況です。
一人だけいるというのは、ストレスが溜まりやすいように思えます。
なんでもない話から一人取り残される事が、多いので。
これが、もう一人いると、しょうもない話でも聞きなおしたり、
言い直したりすることがそれ程気になりません。
これは、今のところ次のように考えています。

コミュニケーションの次元が異なるから、と。

娘が幼い時、紙に何か書いていて、
「下に何か敷いて書きなさい」と注意しても、聞かなかった時がありました。
しばらくすると、勢い余って畳に書いてしまいました。
その時私は直ぐ傍にいて、
娘がうつむいたまま「ごめんね」と小さい声で謝ったのが、
かろうじて聞き取れました。
面と向かって言えない事、小さい声でしか言えない事とが娘の気持ちを表現しています。

しかし、聞こえず「何?」と聞き返したり、「ほら、言ったでしょう!」と言ってしまうと、
最初の娘の表現・気持ちが変わってしまいます。
面と向かい、はっきりと謝る気持ちまでの、距離が必要になり、
これは、とっさの反応として健聴者には難しいようです。
健聴者は、言葉以外に、
顔を見ないこと、声の強弱、イントネーション、タイミングなどでも、
感情を表現します。

これが、難聴者になると、主に言葉と表情が表現の手がかりになってしまい、
健聴者の側からすると、
多くのその他の表現が抜けて
言いたいことが上手く伝わらないもどかしさになるのではないでしょうか?
だから、何気ない話を繰り返すときに、
最初の表現から外れていくので、
「いや、どうでもいいこと、なんでもないことだから」と話さないことになるようです。

「聴覚障害者の心理臨床」の中で、
聞こえる親が、「聞こえなかったら聞こえるまで聞き直すのよ」と、
聞こえない子どもに言いながら、
親の何気ない話を子どもが聞き直すと、
「いいや、なんでもない、たいした事じゃない」と話さずにすましてしまい、
子どもの心に傷を負わせてしまっている症例があったように思います。
これは、聞こえないものと聞こえるものとのすれ違いです。
家族の中での、聴覚障害者の比率が低いほど、
聴覚障害者にとって、ストレスのたまる場面が多くなるのではないでしょうか。
このドラマでは、主人と娘との気配りが主人公を救っていますが、
現実問題・日常問題としては、難しいと思います。

反対の場合を考えてみましょう。
聴覚障害者が、手話を交えて表現する時、
顔の表情や、手話の順序、手話のオリジナリティなどが、
言葉以外の表現となります。
これを、手話を習ったばかりの人や、日本語対応手話しか知らない人が受け取る時、
手話だけを見て、その他の表現を見落としてしまう事になるのと、似ているようです。
これは、斎藤さんの「もうひとつの手話」からの、受け売りなのですが、
健聴者にも判り易い例だと思います。

 

今回の話では、夫婦の初心に帰ることを、主人公が夫に気づかせました。
主人公が、自分からしてあげられることを手探りして、手紙を書きました。

現実問題として、多くの聴覚障害者はそれぞれの人生、その居場所で、
耳が聞こえないにも関わらず出来ることを手探りしながら、求めつづけ、
悪戦苦闘している事と思います。
それが得られた時に、ようやく、聴覚障害を受け入れる事が出来、
自分に自信を持ち、胸をはって、人に接するのではないかと思います。

耳が聞こえない事でいろいろな災難が降りかかる。
「何故だろう、どうしよう」と、悶々とします。
それでも時は流れ、心は様々に変転します。
その積み重ねの中から、それまで気づかなかった事が見えてきます。
心理学的に、トラウマの受容の過程が解き明かされていますが、
これは私には手に余るので、これ以上立ち入りません。

私の場合、前の会社で、日々の仕事の中の問題に立ち向かううちに、
少しづつ、自分自身の力を得てきたように思えます。
ともかく与えられた仕事を精一杯やる。
勿論、失敗もあり、誤解もあり、力不足もあり、
泣いたこともあります。
でもその経験を土台にして、先へともかく進まねばなりません。
文字通り悪戦苦闘の日々です。

そんな日々を乗り越えて力が得られるにしても、
どうしたら乗り越えられるか?
これは、私の場合、好きなことと、非日常とが一番有効な手立てでした。

好きな本を読みふける、映画を次々と見入る。

その一方で、それまで触れたことの無い世界に入ってみる。
野鳥の会に参加したり、水泳を始めてみたり、
古都の一角に立ち歴史の中に意識を持ってきたりして、
心機一転を図ります。

そうした後に、不思議と、日常の困難に再び立ち向かう力が出てきました。
とりわけ読書が好きなのが自分自身にとって幸いでした。
あの本この本で、こう考えたらどうだろうか、こんな考え方もあるのではと、
いろんな事を学びました。
非日常に遊ぶのは、
高い山に登って遥か下に日常を見下ろすような心持ちにつながり、
それまで悩んだ事がとても小さく見えてくる効き目があります。


自分に出来ることを増やし、確実に把握して自信が持てれば、
耳が聞こえなくても卑屈にはなりません。

電話の呼び出し音が聞こえなくても、周りの人が代わりに受けて伝えてくれます。
そして、それを聞いて新しい事態に対処する手はずを指示します。

聞き間違えても、相手が笑って「否、そうでなくこうなんだ」とフォローしてくれます。

以前は、聞こえない、聞き間違える事を気にしていたのに、
今では、聞こえないのは既定の事実、その上でどう対処するかを最優先させます。
これは、彼我ともに私の障害を受け入れた状況です。

聴覚障害の問題は、当事者と周囲の人とで一緒に解決すべきことが多いのです。
だから、当事者の努力と周囲の理解がかみ合って、
障害が取り払われるのではないかと、今は思っています。

2000.10.22


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難聴学級卒業生が見渡した、その後の学校教育の風景の中で

 

私の通った難聴学級のある内山下小学校も、統廃合の波にのまれ、間もなく姿を消します。
高原先生が直々に手配して作られた教室・設備としての難聴学級も、無くなります。

難聴学級で学校教育を受けてきた生徒の一人として、
その後40年生きてきた者として、
思う所、伝えたい事を、読んでいただけたら幸いです。

 

昭和34年から35年にかけて出来上がった、岡山市立内山下小学校内の、
難聴学級は当時としては、先駆的なものでした。
岡山大学耳鼻咽喉科教授の指導・働きかけで出来た難聴学級は、
聞こえの保障をする設備と教育システムとを設け、
それまで、一般の普通学校とろう学校との狭間で行き場の無かった
難聴児を受け入れました。
多くの親の支持を得て、その後全国に広まりました。

しかし、統合教育と言われる新しい教育観の流れにさらされ、
難聴学級のあり方も変わってきました。

私の通った難聴学級は、固定制と呼ばれています。
一所に、設備と専任の教師とを用意し、
難聴児を集めて学校教育を施すものです。

これに対し、統合教育の流れを受けて通級制と呼ばれるシステムが、
後から広がり、今では多数派のようです。
こちらは、地域の学校に籍を置き、ほとんどの授業を受けるが、
その時間の一部で障害に添った教育を受けるため、
指定された所へ移動するもののようです。
この通級制は、聴覚障害以外の障害をも対象にしています。
しかし、聴覚障害は、日々全ての授業において、聞こえの保障が得られにくく、
通級での授業は、補習になり勝ちのようです。
難聴の度合いの軽い子には、言葉の学習等だけで効果的かもしれません。

 

私の通った難聴学級は、小中学校と続いていましたが、
実態は異なっています。

小学校では、教室が防音は無論、音の反響にも考慮して作られていました。
窓も二重窓です。そして、ループという機械と補聴器とを常設して用い、
授業を行います。

中学になりますと、教室は一般の教室と同じです。
教師がマイクに入れた声をFM電波にのせて補聴器で聞き取ります。

高校になりますと、以上の配慮は全くありません。
中学以上で、受けた教育は、
今の通級制の普段の授業について私が聞いた所と、同じです。

 

この普通の学校で授業を受けるのは、
私のような中等度難聴児にとっては、正直言って疲れます。
聞くことだけで、疲れます。
健聴の生徒は、私のように一所懸命聞こうとしなくても、
教師の声は耳に入ります。

教科書を見ながら教師の話を聞き、
板書をしながら向こう向きに話す教師の声が聞き取りにくい事も無いと思います。
教師の口元に目を凝らし、聞いた言葉と理解できる言葉とのすり合わせに気遣う事も
無いでしょう。
教師の話のメリハリが分かり、大事な所だけを一所懸命聞けば足りるのとは、
大違いです。

思い出すだに、苦笑するのですが、
社会科の授業などに出てくる語彙は豊富で、尚且つ立て板に水を流すがごとく、
教師が語るのを、目を凝らし、聞いていると、ノートは全く取れません。
先生がしゃべるのを聞きながら、ノートを取る級友がとてもうらやましかったものです。

中学の校舎の窓からは、県庁が見え、聞くのに疲れた私がそちらを見ていて、
回ってきた教師から注意を受けたこと、数え切れません。
そんな私が高校に行って、窓が全て曇りガラスなのを見た時、
思わずへたり込んでしまいそうになりました。

 

通級制の問題を勉強する会合に二度ほど出たことがあるのですが、
普段の授業で聞こえの保障がどれほどされているのか、
気がかりはそこへと向かいます。

聴覚に障害はあっても、健聴者と同等に、
浴びるほどに教育を受けたい、
というのが、私の偽らざる気持ちです。
難聴であれば、音声が楽に受けられる環境が望ましいのです。

聞くことで、当事者に負担をかけるのは、
それこそ均等な教育を受ける権利を奪っているのではないではないでしょうか?

聴覚に障害を負った者の努力よりも、
義務付けした側の責任が、重要だと思います。

聴覚障害があるがために、授業は聞こえの訓練・言葉の習得に費やされ、
同じ年の健聴者が受けている教育を受けることが出来ないのは、不満です。

 

私が卒業した小学校に、相当の施設・体制があっても、
統廃合の流れの中でどうなっているのか、どうなるのかが全く見えてきません。
無論、父兄の方々の尽力はあるものの、当局の明快な姿勢が打ち出されていないようです。

今、全国に固定制の難聴学級は幾つ残っているのでしょうか?
京都にあると聞きましたが・・・。

このページをお読みいただいている方々に、お願いします。
聴覚に障害のある学童の学びの一つの選択肢が、
なし崩しに無くなるかもしれない現状を、直視してください。

 

固定制難聴学級は皆さんが思っている以上の問いかけを発しています。

シュタイナー教育の学校についてのビデオを見たことがありますが、
低学年から高学年にいくにつれて変わっていく教室の様子を見たとき、
思わず唸ってしまいました。
あの教室に比べると、日本の多くの学校の校舎が、
教育の面からも文化の面からも、杜撰で貧相に思えてなりません。

人を育てる建物でしょうか?
多くの建物は、音についても杜撰だと思います。
残音響の大きさは、大きいと思いませんか?
考える事を訓練するような建物だと思われますか?
思いを深めれるような環境だと思われますか?

固定制難聴学級の卒業生の一人だから、こんな事を考られるのだとしたら、
未だ他にも、同様の学び取れるものが、ここにはあるような気がします。

以前、新聞の記事で、聴覚障害の生徒のために椅子の足の下に、
テニスボールを工夫して取り付け、教室の雑音を減らした話を読んだことがあります。

先生の立場から、教室・学校の音に耳を澄ませた時、どんな事が思い浮かぶのでしょうか?

 

学校の統廃合は止むを得ないのかもしれませんが、
固定制難聴学級がこの日本で有数となった今、
多くの人に知られずに無くなるのかもしれないのは、
とても無念なので、ここで取り上げました。


校舎が無くなって始めての中学の同窓会で聞きました。
小学校も無くなるので、来年小学校の同窓会があるそうです。
私の通った小学校には、固定性の難聴学級があるのです。
今、ここで書いて知らせなければ、消え去ってしまいそうな寂しい予感が、
現実にならないよう、皆様のご支援・助力をお願いします。

2000.8.19記

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要約筆記講習会でのお話

 

 

皆さん、はじめまして。

私の聴覚障害ですが、三才の時に中耳炎にかかりまして,難聴になりました。
右耳が90デシベル以上、左耳が60デシベル以上の聴力で、障害者手帳でのランクは6級です。
片方の耳が聞こえず、もう一方の耳はよく聞こえる人の半分しか聞こえません。



難聴者としての私が一番恩恵を受けた難聴学級について、お話してみたいと思います。
難聴の度合いの軽い子どもに、補聴器を利用させ、聞き取りやすい環境を用意する。
言ってしまえば、一行にも満たない事柄ですが、これは大変効果の高い教育でした。今でも、そうです。
この事に、今から、40年以上前に気づいて、手を打たれた方が、私の恩人です。
その当時の岡山大学医学部耳鼻咽喉科の高原教授です。

もう亡くなられましたが、
ご自分の診察経験、そしてアメリカでの視察などを基に、
難聴の度合いの軽い子ども達を一個所、つまり一つの教室に集めて、
補聴器を着けさせ、学習させようと、決心されたのです。
今も岡山市内の内山下小学校に有ります、難聴学級がそうして出来ました。
先生の決心が、形作られるまでにはひとつの話が有りますが、
それは又の機会に譲ります。私は、そこの卒業生です。

私は、難聴学級を卒業して、初めて、その難聴学級の良さを痛感しました。
中学から後は、耳のよく聞こえる同級生達と一緒の教室で授業を受けました。
すると、先生の話を聞こうと集中するだけで、はやばやと疲れてくるのです。
聞こうと努力しても十分には聞こえません。
ですから、聞いたことを理解する余力も十分残らず、
窓の外を眺める時間が次第に増えていきました。

それでも、高校へ行けました。
今、思うに小学校での基礎学力がものを言ったのだと思います。

高校・大学ともなれば、授業が十分に聞き取れなくても、
予習や復習をしたり、友人や教師に後から尋ねたり、
参考書やラジオ講座などで、補っていくやり方で、カヴァーできるようになりました。


こうして、耳のよく聞こえる人たちと一緒にずーっと勉強してきたので、
手話を習う機会も無いままに、きました。

難聴の度合いが軽度だと、言っても、補聴器があるのと無いのとでは、随分違います。
していなければ、「ああ、難聴の人だな」とすぐに分かります。
しかし、補聴器をしているとおそらく話していて、私が難聴であることを忘れてしまうでしょう。
それほど、私のような中度の難聴者にとって、補聴器の効果は大変大きいものです。

じゃ、補聴器があればばんばんざいで、何も問題が無いかと言えば、そうではありません。

何と言っても、機械ですから人間の耳のような自在さは、ありません。
そして、長時間、使用していますと、頭痛がしだして、
一度耳鳴りがひどく、仕事を二三日休んだこともありました。
その時には、他の難聴者の本で読んだ事のある突発性難聴にかかり、
完全に聞こえなくなるのではないかと、いう不安に襲われました。
仕事場では、この様なことを理解してもらって、補聴器を外して、
つまり耳を休ませながら、作業している時もあります。

私は、印刷会社で製本の仕事をしています。
現在、一緒に働いているパートが4、5人、時には、更に4人増えて、10人近くになります。
製本の仕事の要である、断裁、紙を切る作業ですが、この断裁等をしながら、
パートさんたちの仕事の段取りをしております。

前に勤めていた会社では、もっと大変でした。
20人以上の社員・パート・バイトに指示を出しながら、自分も仕事をし、
なおかつ、お得意様や他の工場と打ち合わせをしていました。

そうして、5ヶ月程かけて、200万冊近くの生徒手帳、
全国の中学・高校で学校から出ているあの生徒手帳を作っておりました。

それで、いろいろな人から、教わったことがあります。
人とのコミュニケーションは、しぐさや話の運び方で、
耳で聞くよりずっとよく出来る場合があることです。

たとえば、「ここの机、使っていいですか」と言うときに、
両手のひらで、机の上を示しながら言いますと、聞くより前にもう分かるんですね。

そうそう、こんな事もありました。
機械がずーとつながっているラインについているとき、
機械がガンガン響いてきたことがありました。
おかしいなと思って機械のセットを止めてあたりを見回すと、
離れた所で、同じラインで、他の機械をセットしている上司が呼んでいるのです。
工場の中が騒音でうるさいケースでは、なるほどなと感心しました。

又、ある人は話すときには、私の耳のいい方の左側にいつもまわってきて話しかけてくれました。
それから、話し出すときに、
「あの何々のことだけどさ」と、話題を明確に示してから話し始めるのも、随分助かりました。
話題が分かれば、話の予測がついて見当違いな聞き間違いをしなくてすみます。

世の中には、耳の聞こえない私よりも、コミュニケーションについて優れた人がいて、
いろいろ教えられました。

話題を、家庭のことに変えましょう。
私のつれあいも、難聴でして、聴力は60デシベルと70デシベルですから、私とそう変わりません。
でも、聞こえている音は随分違うんですよ。

結婚して一緒に暮らしてみて、よく分かりました。
私は、高い音が聞こえるのです。
低い音は、女房のほうがよく聞こえます。

赤ん坊の泣き声や電話の呼び出し音は、私がすぐ聞き取ります。女房は聞こえないと言います。
反対に、私が全く聞こえない換気扇の回っている音だとか、
階下にいる時、二階で人が歩いている音などを、「聞こえないの?」といわれるんです。
今でも時々、「こんなに大きいのにそれでも聞こえないの」、とお互いに言ってしまう事もあります。

補聴器を長い時間つけていても、女房は頭なんか痛くならないといっていました。
この事と、多分関係あるんじゃないかと、私は思っています。

前に、聴覚障害のある弁護士さんの本を読んだ事があります。
聴覚障害者同士が結婚していて、子どもを作らないケースが有り、
それでつらい経験をされている方々もいるそうですが、
この頃は私のまわりでも、聴覚障害者同士が結婚して、お子さんを授かっている人が増えてきています。

私たちも二人授かって、みんな元気にやっています。

初めての子を授かってから「おしらせランプ」を手にしましたが、
赤ん坊の泣き声が聞こえない女房には、随分助けになっただろうと思います。
赤ん坊の泣き声をセンサーが聞き取って光で知らせてくれるのです。

又、目覚まし音の代わりに振動や光で起きれるのは、回りに気兼ねが無くて気分がいいです。

この事で、新婚旅行で泊まったホテルでモーニングコールが聞こえず、
ドアをドンドン叩かれて起きた事を思い出します。
外国での事でしたから、その時の驚きというか恐怖はいつまでも忘れられません。

更に、テレビドラマ・映画・漫画などのメディアに登場する難聴者。
このごろでは、私たち難聴者が手話を知らないのに、
耳のよく聞こえる人たちが手話をよく知っていたりします。

家庭と、家庭の外とでの違いで気づくのは、話題が幅広くて、聞き間違いが多くなる事です。
家庭の外では、職場とかの状況だとか、相手の人との関係が、話題の的を絞ってくれます。
家の中では、実に細々とした事が次から次へと話題になりますから、
とんでもない食い違いが結構長々と続いて、
後でおかしいような、泣きたいような、腹が立つような気分になります。
いつも、時間のゆとり、心のゆとりを忘れないように心掛けています。

皆さんがこれから中度の難聴者とお付き合いするときの参考になれば幸いです。
長い間、ご静聴ありがとうございました。
 


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  高校生の難聴者

 

岡山市立図書館(幸町)で、パソコンのCD−ROMを見ることが出来ます。
少し前の朝日新聞の数年分だけですが、全国の地方版が含まれています。

キ−ワ−ドを入力して、
その言葉が含まれている記事だけをピックアップして読めるのです。

「聴覚障害」や「難聴」で、いろいろ出てきました。

その中で、一番印象に残ったのは、「長崎県で高校生の自殺」という記事でした。
1995年8月13日付けです。
教師の声に気付かなかった生徒が、後で別の二人の教師に続けて注意されました。
高校生が自殺する前に両親宛に投函した手紙には「何で怒られているのかわからなかった。
悔しさでいっぱいです」と書かれていたそうです。
父親の話では、生徒は最近、長崎大付属病院で「軽い難聴」との診断を受けていたという。
「ふだんから学校でひどいしかられ方をしていたようだ」と話しています。
校長は「難聴ということは把握していなかった」と話しています。

一瞬「ウソだろう」という思いです。
この記事を初めて読んでからもう何ヵ月もたちますが、
未だに思い出すたびに、やりきれない、痛ましい気持ちになります。
 

最近、市立図書館に若い難聴の女性が書いた本が入りまして、
とても興味深く、一気に読んでしまいました。
お母さんの苦心もよく書かれているので、若い人に是非読んで欲しいと思います。

この本を書いた本人はとても積極的な女の子で、
所々苦笑いしてついていけないなと、思う所もありましたが、
同じ年頃を思い出しては「そうそう」と共感できるところもありました。
 
特に印象に残っているのは、彼女(1975年生まれ)が高校に入学して数カ月後、の事です。
次に、この本、
増井彰子さんの『もし、この耳が聞こえたら愛する人の声が聞いてみたい』から、引用します。

担任の先生にひとつのお願いをしました。
「私からクラスメ−ト全員にあてた自己紹介文を配ってもいいですか」
先生の返事は、
「もちろん、どうぞ」
そこで、私はレポ−ト用紙いっぱいに、自分が難聴であること、
これまでふつうの学校で学び続けてきたこと、
そして、この高校でこれから一緒に多くのすばらしいことを学びたい、その思いが人一倍強いこと、
自分とのコミュニケ−ションの方法などをぎっしり書いて、
クラスメ−ト全員に、一枚ずつ、手渡したのでした。

読んで、唖然としました。それから、あの自殺した高校生の事を思い出しました。
あの高校生も、難聴であることを、皆が知っていたら、
あんな目には会わなくてすんだのではないだろうか。
でも、誰もがこの女の子の様にやれるわけではないしなぁ、と思いながら、
自分の高校時代を振り返ってみました。

私にとって高校生時代というのは、
それまでの小学校・中学校と続いてきた難聴学級という囲いから初めて一人で外に出た時であります。
まわりは、私が難聴であることを知らない、否、難聴というものも知らないと言っていい人が殆どです。
一高校生というよりも、一難聴者として緊張した事を思い出します。
先に紹介した女性の様な知恵や勇気は持ち合わせないというか、思いつきもしませんでした。
苛められたり、なめられたらあかんとは、思っていたこと、覚えています。

そして、何事もなければ、自殺した高校生の様に、
校長や幾人かの先生に自分が難聴であることを知られることも無かったと思います。

しかし、入学早々、クラスメ−トとふざけあって教室の窓ガラスを割ってしまいました。
自分のクラスは無論、隣のクラスなど同じ学年の多くの人に、
自分という存在を知らせる事になりました。
そして、職員室の前に立たされましたから、多くの先生も知ったと思います。

それから、二年生のときに、夏休みの宿題として提出した作文が校内雑誌に載りました。
何人かの顔見知りの人からいきなり声をかけられて友人になりました。
又、ラジオ局へリクエストカ−ドを出したのが採用されて、放送で自分の名前が流れると、
学校の知らない人からも声をかけられ、挨拶を交わす仲間が更に増えました。

先生にも、いろんな所で、他の生徒の前で声をかけられたものですが、
先生との関係込みで有名になったのも影響が大きかったのかな、と今にして思い至ります。

そんなこんなで、名前を知られた後で、自分が難聴であることを知ってもらうことも、ついっていったと思う。
こうして、自分という存在、自分が難聴であることを知ってもらっただけで、
思いのほか、多くのトラブルが未然に防げていたのではないだろうかと、思います。

自分は、幸運な高校生だったのだと、今更ながら思います。

最初から、自分が難聴であることハッキリ示して、人間関係を築いていくのも、一つの道ですが、
自分が積極的に何かをやることによって、人に関心を持たれ、
それから難聴だと知ってもらうのも、もう一つの道であるように思います。

私の想像ですが、ただ相手が難聴だからという理由だけで筆談をするのはめんどくさいけど、
どうしても聞きたい事・言いたいことがあると筆談も苦にならないのではないでしょうか。
又、手話が出来なくても身振りを交えたり、聞き取りやすい言葉を選んだりするのも、
面白くなっていくと思います。

私が、これまでつきあってきた人達の中には、はっきりとそういえる人がいます。

自分も含めて、三人の高校生の話をしてきましたが、
いろんなことに積極的に取り組んで、自分を伸ばすことも、
いろんな意味で、難聴の克服に通じるよ、と申し上げて、この話の締めくくりとさせていただきます。
                     

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