どこでも図書館
第3部
ブラッディ・マーダー ジュリアン・シモンズ 2003 新潮社 萩原延寿さんのこと ベートーヴェンの遺髪 ラッセル・マーティン著 2001 白水社 ヘミングウェイの源流を求めて 高見 浩 著 2002 飛鳥新社 現米ハードボイルドシーンを疾走する マイクル・コナリー著 只今、進行中! ブックストア リン・ディルマン著 2003 晶文社 神の肉体 清水宏保 吉井妙子 2002 新潮社 児童文学最終講義 猪熊葉子 2001 すえもりブックス レイチェルnew リンダ・リア 2002 東京書籍 レイチェル 補遺 本は生まれる。そして、それから 小尾俊人 2003 幻戯書房 回想の人びと 鶴見俊輔 2002 潮出版社 患者の孤独 柳澤桂子 2003 草思社 ふたたびの生 柳澤桂子 2000 草思社
ブラッディ・マーダーブラッディ・マーダー
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バルザックの頃から、オースターの「ニューヨーク三部作」辺りまでを視野に入れ、 きわめて広範囲な作品を対象に書いていますが、 ミステリーのガイドブックではありません。 ガイドブックにはなるけれど、 ガイドブックとして書かれていない、という事です。 ミステリー作品というものを真摯に考えながら、 この文学の拠ってきたところ、その歩み、そしてその時々の状況を、 シモンズ自らの感性で描いた本なのです。 ですから、自分の好きな作家・作品は?と読めば、 裏切られるかもしれない。 私も、シモンズさん、チョット!と、手を上げたくなった。(笑) シモンズさんのミステリー文学論である事を、何度も思い出しながら、 読み進めたものです。(^^ゞ 私は、もうミステリー初心者とは言えないかもしれない。 でも、マニアですと言えるほどは詳しくない。 そのくらいの方には、ちょうどいい本でしょう。(笑) 自分の読んでいる本・親しんでいる本が、 ミステリー全体でどのような位置にあるのかが、 おぼろながらわかって、大変興味深かった。 自分の好みが、どのように偏しているのかも。(^^ゞ ミステリーが舞台ですが、 それを離れても時代を活写している、と唸らされました。 もう、ベストテン・売上を頼りに選ばないぞ!(笑) そして、評価の奥行きに眩暈を起こしそうになる。 もっと評価されてもいい作品を掘り起こして紹介したり、 以前の評価を覆したり、 さらには、その場その場での評価の軸を明確にし、 自分の評価を、好みに止めず、表現にこれ努めている。 その書き方で、舌を巻くというか、目を瞠る思いをさせられたこと、幾度もありました。 第一線で長らくミステリー評論をしてこられただけの事はあります。 途中で、メモを放棄したので、(^^ゞ 細かい事に触れること、叶いませんが、 あちらこちらに初めて知るエピソードがあって、 これにも引っ張られるように読みました。 最後の最後に、この本を書いた者としての思いが記してあって、 そこまで読んできたものには、深い余韻が伝わってきました。 著者も訳者も既になくなっているのです。 新庄さんのあとがきでも触れていますが、 編集者の汗と涙が伝わってくるほどの労作です。 ミステリー愛好者の一人として、出版されたことに感謝します。 |
患者の孤独患者の孤独
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1969年の発症以来、最近に至るまで、 柳澤さんが経験され考えられた事を、 これまで以上に具に記した本です。 以前出版された「ふたたびの生」では、 1996年から2000年1月までの状況について、 集中して書かれていましたが、 この本では、 遡って、1969年から、 先の本以降の近況が記されているのです。 とりわけ以前の事について、 本の前半以上を費やしています。 この書名は、 「ほんとうに苦しいのに、原因があるのに、 医師に認めてもらえない。 その苦しみは、病気自体の苦しみよりつらかった」 ことからきています。 生物学者ならではの見識が随所にあり、 それがこの本を説得力あるものにしている。 例えば、ある医師が触診もしないで、 「神経と筋肉の接合が悪い」と述べたのに対し、 「体からサンプルを取り、薄切りにして色素で染め、 高倍率の顕微鏡で見なければわからない」のにと記す。 「(柳澤さんの)病気は科学的にありえないことだから、病気ではない」という医者の考えに、 「私は科学の実験をしているが、出てくる現象はすべて謙虚に受け止める。 科学的にありえないということはないだろう」と書く。 柳澤さんは、時として、自分の知識から判断して、 自らの命を守るために医者から処方された薬を止めています。 (例:64頁 副交感神経の働きを抑える抗コリン剤の副作用) 「あなたの病気はどこの教科書にも出ていない、前代未聞の奇病です」という先生は、 「あらゆる教科書を読んでおられるのだろうかと思った」 私はこの医師のことばを目にして、 程度の差こそあれ、まるでコンビニエンやファーストフード店の マニュアル通りに応対している店員を連想してしまいました。 102頁からの、1996年以降の在宅医療についての記述は、 「ふたたびの生」と重複するところもありますが、 更に書き加えられた部分もあり、 「ふたたびの生」のあとがき(夫の柳澤嘉一郎著)に劣らず、読んでて涙を誘われる。 その時を乗り越えるに用いられた坑鬱剤あるいはSSRIの効く病気の定義は、 再検討を迫られていると、柳澤さんは断じます。 「ふたたびの生」以後も、異常血圧に悩まされ、 「シャイ・ドレーガー症候群」について、記していました。 この病気で出会った先生の次の言葉に、柳澤さん同様私も心うたれる。 「病名はどうでもよいではありませんか。 症状を症状として受け止めてください」 この謙虚さこそ、科学者ならではのものでしょう。 事実を事実として受け止め、虚心に立ち向かえば、 分からないことには、こういう言葉しか出ないのではないでしょうか? 終わりの方で、重ね重ね柳澤さんの言いたいことがまとめられており、 その中から次の言葉を紹介してこの文章を閉じさせていだだきます。 「ここに述べたような医療の現状を変えることは一朝一夕にできることではないだろう。 ただ一つだけ、患者側としてできることは、患者自身が勉強することであろう。 (中略) すべての人にできることではないかもしれないが、 できる人ができるだけのことをするだけでよい。 そうすれば、医療は変わると私は確信する。」 ふたたびの生
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ふたたびの生ふたたびの生
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2003年に同じ著者柳澤桂子さんの新著「患者の孤独」が出たのをきっかけに再読する。 NHKのドキュメンタリー番組を見て間もなく読んだので印象深く、 覚えているところも多かったが、 今回は、再読で印象に残った事を主に書いてみます。 まず、在宅医療。 今では、介護医療として、いろいろ行なわれ、議論されているものとの関連で読んでしまう。 柳澤さんがこの本を書かれた頃は、開業医との兼ね合いで開拓されたシステムですが、 老人問題が深刻度を増していく中で、介護との関わりが圧倒的に増えてきた。 在宅医療に関わる人への心掛けやちょっとした工夫が深く頷ける。 その中でもっとも重要に思えるのが、 「介護を人に頼むにしても介護のすべてをオーガナイズできる人がいなければならない」という事です。 いろいろなケースが考えられても、多くは家庭内にいる女手が必要とされていく。 その場合、社会がそのような女性をサポートできるようになっていなければならない。 そうでないと、患者もオーガナイズする人も、共倒れになって、 何のための在宅介護かという事になってしまう。 そして、医学への考え方。 これは、夫の柳澤嘉一郎さんのあとがきにあるものです。 自分の場合と違って、柳澤桂子さんは生物学、嘉一郎さんは遺伝学を研究され、医学のような学問に近い。 それでも、医学への思いを新たにされた由。 「実際には、難しくてなかなか診断がつかない病気が多い。 診断がついても、原因もわからず治療できない病気がたくさんある。 たとえ原因がわかっても治療法のないものがこれまた一杯ある」 「1970年代にハーバード大学の医学部で、医学が積極的に治療に関与できる病気がどのくらいあるかを調べたことがある。それによると、治療に関与できる病気は当時、知られていた病気のほぼ20%であると報告されている」 「でも、患者はみんな、…自分の病気は必ず医師が治してくれるものと信じているのだ」 そして、ロックフェラー医学研究所設立の話。 基礎医学の発達へと連なっていく。 思い返せば、私の罹っている主な病気三つはどれも決定的な治療法無しです。 難聴然り、関節炎症然り、喘息然り。 幸運な事にどれも進行性ではないから、大事に至っていません。 映画「ロレンツォのオイル」のような奇跡はそうそうありませんが、 多くの人に、不必要な誤解は解きほどいて、価値ある日々を生きて欲しいと願います。 この頃は、医療にまつわる話が次々と耳に目に飛び込んできます。 マラリア病に東南アジアで罹ったら現地で治した方がよい由。 なぜなら、日本ではそういう症例が少なく、 したがって適切な治療を受けられる可能性が低いから…。 昨夜見たTVドラマ「ER」でも、脳腫瘍の誤診がありました。 医療に完璧さを求めてはいけないけれど、 医療をよりよくするためにはもっとすべき事が多いのですね。 我々ひとり一人で学ぶことが、その一つ。 皆さん、お体を大切に! |
回想の人びと回想の人びと
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鶴見さんが、これまで出会った人たちのうち、 「この人は国民の中にいて自分一人の道を歩く人」と思われる人で、 亡くなった方について書いたものです。 各々の考え方・感じ方が、端的に紹介されているのを読むと、 その多様さや、周りに振り回されない強さが、印象に残ります。 そして、普通に暮らす人間の思想とか、生きる上での勇気とかに、思いが向う。 顧みて、自分の中にあるあやふやさに、気付かされました。 表紙・扉にある23人の名前を見て、 「ああ、そうなんだ、この人も亡くなられたんだ…」と、 暫し、思いひたってしまう。 生きている時でも、それ程有名ではありませんでしたが、 その世界に踏み分け入り、志ある人を探せばそこに居る、 そういう人の名前が並んでいるのです。 私の知っている範囲で、ですが…(^^ゞ 例えば、長井勝一さん。 私が中高生の頃、 漫画を読み込む者達が手にし、 幅広く読まれていた雑誌として、 「ガロ」と「COM」とがありました。 その「ガロ」の編集長です。 片や、100万部を超え話題になった「少年マガジン」をはじめとするメジャーな世界があり、 その向かいにこういうマイナーな世界がある。 そこは、作者の思いがより強く伝わる世界で、引き込まれるものがありました。 巻頭に延々と連載されていた白土三平さんの「カムイ伝」を、 本来の大きさで読めたのは、後にも先にもそこだけ。 この雑誌からは、つげ義春さんらが出てきたものです。 又、林竹二さんの名前を目にしたのも、久方ぶり。 私が,林竹二さんに気がついたときは、 湊川夜間中学校での授業をされ、その本が出た頃でした。 国立教育大学の元学長が、小学校へ、更に、 もっと厳しい環境の学校へと出向いて、 自前の授業を行い、 授業のあり方、教育のあり方を、 静かに、しかし、真剣に問いまわっている。 社会の隅で真面目に暮らす人々に、 授業で何が出来るか? 授業の可能性が切りひらく、 人の生きる姿勢に、目を瞠る思いをしたこと、 昨日の事のように思い出します。 田中正造を知ったのは,林さんを通してで、 その著書からは、まだまだ読み取らねばならないことが、 多く残っている。 書かれているどなたも、 私にとって、本を通してだけ知っている方ですが、 鶴見さんは、 ご自分が会ってお話しをされた相手、 として書かれているので、身近で新鮮な感じを受けました。 ともすれば,忘れがちなこの人たちを忘れないこと、 それが、せめて自分の出来ることだなと、思う。 出来れば、鶴見さんほどでなくとも、 若い人に、 こう考えて、こう行動し、 こう生きていた人がいたんだよ、 と語り継ぎたいのです。 鶴見俊輔さん関連サイトとして、 次のHPがあります。 研究室 NO.203 管理人は、 桃山学院大学社会学部社会学科の原田達さん。 鶴見俊輔さんに関心ある方、どうぞ、いらっして下さい。 というところで、23人の名前を、コピーさせていただきます。(^^ゞ 安田武
原田先生、ありがとうございました。m(__)m |
本は生まれる。そして、それから本は生まれる。そして、それから
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巻頭で、 戦中から戦後へかけての状況をしめし、 ご自身の職業である、出版という仕事への思いにある原点を、 書かれています。 そして、その出版の仕事の中から順次紹介していきます。 「ロラン全集」「現代史資料」のお仕事は、 この本を読んで思い出す程にしか知っていませんでしたが、 著者にとっては、片時も忘れらるようなものでなく、 自分の人生・時代・職業と、分かち難く結びついていることが、納得されます。 今年2003年に公開上映される、篠田正浩監督の映画作品「スパイ・ゾルゲ」でも、 小尾さんが関わった「現代史資料」は、活かされているようです。 情報公開という言葉が広く行き渡る前に、 タイミングを考慮し、未公開の資料を収集・公刊されました。 この本の後の方にある、「店員と顧客」で、 「現代史資料」のスタートが紹介されています。 「仕切屋が、屑の中から拾って、これは金になるという思惑で、 ある古本屋に持ってきたのが大日本帝国政府の「極秘文書」でした。 それは、旧司法官だった人たちが亡くなって、 その遺族が屑紙として、払い出したものです。 占領も解けて、時代もすっかり変わっということで、 昔のような警戒心を必要としなくなっていたから払い出したのでありましょう。 昭和二十年代の末から三十年代にかけて、集中的に市場に出たように思われます。 山なす数百冊の一束が現れ、当時五百万円と、あまりに高価でしたが、 月賦で入手したときは大きな喜びでありました。」 今の私たちは、この「現代史資料」のおかげで、 ゾルゲ事件をただのスパイ事件に終わらせること無く、 人の生き方、政治というもの、等など、 いろいろな面で歴史教訓として汲み取れる事件として理解しえます。 小尾さんが、仕事を通して出会った人たちについて書かれたのも、貴重です。 広く一般からは忘れられがちな人々が、 印刷業の職人から、丸山真男さんのような著者、 更には過去の福沢諭吉さんまで紹介されています。 坂西志保さんのこと、めずらしくまとまって紹介されてあるのを読みました。 中井正一さんも、いつか知ろうとして、そのままになっていました。 他にも、ケーベル先生、バーリン、大佛次郎と出てきます。 読まれて、あまりにも、本に対して純粋過ぎると思われる方がいるとしたら、 その人は、本の真の価値を知らないのだと思います。 久々に、本文ののどまで開いて、綴糸(かがりいと)を見ました。 やはり、この著者に対して失礼の無いよう、きちんとした造本でした。(^^ゞ |
「レイチェル」 補遺
2003.4.23 |
レイチェルレイチェル レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯
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わが国では「沈黙の春」で有名な、レイチェル・カーソンの伝記です。 「カーソンの生活や仕事に何らかの形で関わりのあった人びとへのインタビュー」と、 レイチェル自身の手紙などの書きもの等から構成されており、 彼女のモノローグと多くの人の話を次々と聞くような読書でした。 ピッツバーグ近郊に生まれ育ったレイチェルは、 母親の愛を一身に受けて育ちました。 母親以外には恵まれない家庭環境であったため、 苦労しながら、勉学に励み、社会へ出て行きます。 作家を志望して進んだ大学で、 メアリー・スコット・スキンカーに出会い、 生物学を志すようになる。 女性が自立して生きていくには、今より遥かに困難な時代ですし、 1907年の生まれで、社会に出ようとする時は、ちょうど大恐慌の頃でした。 自分に出来る限りの事をし、縁あって、 政府機関で科学者として働けられるようになりました。 1936年のことです。 海洋の調査と一般向けパンフレットの作成とが主な仕事です。 この本職が、次第に個人的な執筆活動に通じてゆき、 1941年の「潮風の下で」刊行に至ります。 この出版は成功とは言えませんでしたが、 この失敗を糧に、友人を通して、マリー・ローデルと出会います。 著作権代理業を委任されたマリーは、スキンカーの後を継いで、 レイチェルの一生に大きな役割を果たすことになっていきます。 そして、次に、出版社に勤めるポール・ブルックスに出会います。 「われらをめぐる海」が、1951年に出版され、大成功を収めます。 出版に先立って「ニューヨーカー」誌に掲載されたのは、 科学者としてより、作家として認められた事の表れでしょう。 7月2日の出版後、三週間で、ニューヨークタイムズ・ベストセラーリストの5位になりました。 そして、翌52年4月になってもなお1位を占めるに至るのです。 その間、「潮風の下で」が新装出版され、これは10位に入りました。 この成功により、レイチェルは、 フリーになり、 海辺の別荘を持つことが出来、 そこで、終生の心の支えとなったドロシーと、出会います。 次いで、1955年に刊行された「海辺」は、ベストセラーリストの2,3位まで上がります。 この頃には、1954年春に出版されたリンドバーグ夫人の「海からの贈り物」が、 一年以上全てのリストの1位にとどまっていました。 レイチェルにとっては、「われらをめぐる海」に止まらずこれからも評価される作家として認められたことが、大きかったのです。 1957年、 農務省のヒアリ駆除プログラムをとりまく論争と、 私有地へのDDT空中散布を止めさせようとするロングアイランド訴訟とによって、 レイチェエルは、「沈黙の春」への道を歩き始めます。 多くの資料にあたり、多くの人と出会い、 慎重に、それでいて使命感に燃えながら、書き上げられた、 「沈黙の春」は、1962年9月に刊行されました。 出版に先立ち、レイチェル等がどれほど気を遣ったか、 また、出版後、どれほど多くの分野から、どれほどの攻撃を受けたかは、 この本に譲ります。 まとめては、レイチェルに失礼なほど、出来得る限り、取り組んでいるのですから。 それも、ひたひたと近づく死と闘いながら…。 1964年4月14日に、レイチェル・カーソンは、その生涯を閉じました。 レイチェル・カーソンについて、紹介したいことはまだまだあります。 でも、又の機会にゆずって、最後に一言。 レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を書いて、大きな反響を呼び、 世界はその足取りに注意深くなることが出来ました。 でも、彼女が残した課題は、まだまだこれからのものでもあるのです。 40年近く経っても?と思うのは間違い。 人々は忘れやすく、 レイチェル・カーソンが警告したことは、又、別の顔をして表れてきます。 私たちは、レイチェルの伝えたかったことを、まだまだ、本当に理解しきれていない。 レイチェル・カーソンの主著4冊は、翻訳されて読むことが出来ます。 しかし、彼女が、隈なく注意を払って書き上げた文章は、 この頃の多くの読みやすい文章に慣れた私たちには、読みづらいかもしれません。 是非、ご一緒に頑張って読みましょう。(^o^)丿 読めないけれど、読みたい方は、是非、自らこの伝記をお読みください。 私が紹介したものの他にも、あなたを後押ししてくれるものが見るかるでしょう。 |
児童文学最終講義猪熊葉子著
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児童文学を学問として対象にする分野において、 日本では先駆者の一人である著者による大学最終講義です。 猪熊さんは、ご自分がどうしてそのような道を歩んだのかを説明するにあたり、 自身の生い立ちから話を起こしています。 自分の人生とその学問とが分かち難く結びついているのです。 恵まれない境遇にあった子どもが、 物語から受け取るものの中で一番大事なのが、 幸福の約束をしてくれることで、 それが、 「(ハッピーエンディング)は人生を肯定する助けとなるもの」 という主題に向っていくところに、彼女の人生観・児童文学観があります。 書名の副題が、「しあわせな大詰めを求めて」となっています。 留学先の先生があのトールキンで、彼の造語からきたもの。 トールキンの論文「妖精物語について」の結論が著者の指針であると、 述べています。 大学で仕事をしているうちに、次第に道が開けていく様子とか、 著者の活動が広がっていく辺り、 面白く読ませていただきました。 児童文学が何であるかという問いは、 児童文学が自分にとってなんであったのかという問いであり、 自分の子供時代がどういうものであったのかをとらえ直す事に連なる事は頷けても、 これほど、つらい告白をせねばならないのかと、 暗澹たる気持ちにさせられたことも確かです。 児童文学と真摯に向きあう方へ、お薦めです。 |
神の肉体 清水宏保
2003.3.17 記 |
『ブックストア』で、「B・O・O・K・S&Co」を知るリン・ディルマン著
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NYのアッパーイーストサイドに、 1978年から1997年まで、 「ブックス・アンド・カンパー」という書店がありました。 その書店と、 この独立系書店のオーナーであるジャネット・ワトソンとの物語を、 本や書店、そして現代アメリカ文学好きの方々にお薦めします。 著者は、リン・ディルマンというNY在住の作家ですが、 ジャネットの一人称で書かれた本文の間に、 多くの関係者のインタビューが挿入される形で書かれています。 読みながら、 ポール・オースターとハーヴェイ・カイテルが関わった映画作品で、 二作目の「ブルー・イン・ザ・フェイス」を思い出しました。 もっともこちらは、タバコ屋さんで、下町ですけれど…。(笑) ジャネットは、あのIBM二代目トーマスの娘で、 「IBMの息子」の著者も、その本も、 この本の中に出てきました。 書店には、多くの人が出入りし、関わっています。 スタッフや業界の人は無論、 書店で催されるリーディングに招かれるゲストの作家たち、 そうして、本を買いに来るお客さん等がいます。 お客さんとして、土地柄、大変有名な人物が次々と出てきて、 作家は無論、映画俳優、音楽家たちのスナップを見るような楽しさもあります♪ 今は亡き、ジョンレノンやヘミングウェイの孫娘の名前を目にして、 息の止まる一瞬もありましたが…。 ジャネットの苦労を通して、 書店それも、チェーン店でない独立系書店の運営がどのようなものであるかを、 知ることが出来ました。 彼女を支えたスタッフ等の仕事振りを通して、 本を愛する人たちの深く広い世界が垣間見えます。 売る本を選りすぐって買い求め、 お客に応じたいい本を即取り出し、紹介する。 本を愛読する人には究極の書店のようです。 作家たちが、 書店で、自分の本や、読者に相見えるシーンを読むと、 かけがえの無い一冊の本が目に浮かぶようでもあります。 かように読みながら、ため息が出るような素敵な書店も、 今はもうありません。 閉店を迎える辺りを読むと、 本を売るというビジネスの特異さとか、 現在のマス・マーケットの中で本がどのように扱われるようになったのかが、分かります。 書店にまつわる本がこれまでにも出ていて、 思いつくままに挙げると、 「シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店」 「チャリング・クロス街84番地」 「古書店めぐりは夫婦で」 等があります。 これらの本が好きでそういう楽しみを求めると、 失望するでしょう。 一冊の本、一人の作家に捧げられた文章がとても少ないからです。 それに、出てくる作家・書名は、現代米文学にかなり偏っており、 というか、殆どそうで、(笑) 現代アメリカ文学になじみの薄い方には、知らない名前ばかりかもしれません。 でも、私は、 著者と書店とお客さんとが等しく、 同じ場所で同じ時間を共にしている、 その共時性をくっきりと浮き上がらせている点に、 他の本に勝るとも劣らない魅力を感じました。 あのNYに、良質な書店があった幸運な時代を描いた作品とも言えるので、 ちょっと社会科学的でもあります。 |
現アメリカハードボイルド最前線を疾走するボッシュ
2003.2.11 記 頁のトップへ |
ヘミングウェイの源流を求めて高見浩 著
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1995年から順次新潮文庫で発表された、 ヘミングウェイの全短編新訳に先立ち、 著者は、 1993年に未発表短編集「何を見ても何かを思いだす」を訳出しました。 それを読み、ヘミングウェイを見直し、 彼の作品の新訳を待ち望んだ人は、私以外にも多くいたでしょう。 私は大学生の時に、 カーロス・ベイカーによる評伝「アーネスト・ヘミングウェイ伝」を読みました。 明るい青の布貼表紙で二冊本の大著にも関わらず、 読み出し直ぐに夢中になる。 図書館でなく、教官から借りられたのを幸いに長く手元に置いていた日々を昨日のように思い出します。 引き続き、ヘミングウェイの作品を幾つか読んだものの、 評伝の印象の方が強く、長く残りました。 未発表短編集「何を見ても何かを思いだす」の後、 しばらくして、「ラブ・アンド・ウォー」を読む。 これを読んでいても、思い出すのは、 彼の作品よりも、評伝でした。(^^ゞ アフリカでの負傷後は、読んでいて辛い気持ちにさせられますが、 その他は概ね大変興味深いものです。 若かりしヘミングウィと共に、 第一次世界大戦から第二次世界大戦後のヨーロッパを体験し得るほどの魅力もあり、 今読み返しても面白いだろうな、と思う。 本当に生き生きと描かれています。 ネットで古書検索してみると、原価より上回っているので、嬉しかった。(笑) 余談ですが、 この評伝を読んで間が無い頃、 ヘミングウェイの孫娘が主演した「リップスティック」という映画作品が上映され、 彼が自分のお祖父さんくらいの年代であるのを、思い知らされてちょっとビックリもしました。(笑) その孫娘も、今はもう亡くなっています。 なにはともあれ、 若い時にヘミングウェイのこの評伝と出会った私には、 巷で出来上がっているらしいマッチョな彼のイメージはバカらしく、 高見さんがこの本で述べんとしていることは当然です。 この訳者による新訳を拾い読みして思うのは、訳文で新しく甦る魅力です。 現代のエンターテイメント作品をいくつも翻訳している著者による今の感覚と、 ヘミングウェイに寄せる並ならぬ思い入れとに支えられた訳文は、 今生まれたかのようなみずみずしさを感じさせてくれます。 新潮文庫収録の全短編集三冊の解説は、いずれも、 この「ヘミングウェイの源流を求めて」に収められおり、 主要な位置を占めています。 ヘミングウェイの伝記も兼ねているこれらの文書を読むと、 訳者の意気込みがひしひしと伝わってきます。 「ヘミングウェイの源流を求めて」の中のその部分よりも前を、 若きヨーロッパの日々、とりわけパリの日々について割いていることから、 高見さんにとってもヘミングウェイの若かりし日々へ寄せる思いの強さは同様なんだなと、一人合点しました。 最後の「エイピローグにかえて」は、読んで悲しい。 だけれど、ヘミングウェイの心の底へ連れていってくれるようです。 |
ベートーヴェンの遺髪
ラッセル・マーティン著
2001 白水社
1994年のオークションに、
ベートーヴェンの遺髪が売りに出され、
アメリカのベートーヴェン愛好家たちが、買い取りました。
遺髪を手に入れたアメリカ人たちは、
それを保管するに止まらず、
遺髪を分析したり、
遺髪が辿った足取りを追い始めます。
この本は、、
ベートーヴェンの生涯と、
遺髪の足取りとを交互に織り交ぜて、書き、
分析結果を後のほうに記しています。
読んでいるうちに、
ベートーヴェンの遺髪と共に、
読者は、ベートーヴェンが生きていた時代以降のヨーロッパを旅していく。
ベートーヴェンが亡き後、
遺髪を手に入れた男を取り巻く当時の音楽家たちの交友が、紹介され,
著名な作曲家達の横顔が紹介されます。
遺髪は、それを受け継いだ家族と共に、
やがて第二次世界大戦の戦火の中で、行方がわからなくなりますが、
デンマークの漁村で、再び姿を現し、そこから、オークションへ至るのです。
ベートーヴェンの音楽が第二次世界大戦中、ドイツや英国で流されましたが、
それぞれの思惑の違いを超え、聞き継がれていた様を、
あの世のベートーヴェンが知ったらどう思うでしょうか?
遺髪が再登場したデンマークの漁村でも、
彼の音楽が人と人とを結び付けたのかもしれない。
この遺髪を最初に手に入れた男の時代から、
ユダヤ人の苦難がすでに始まっているのですが、
第二次世界大戦当時、ナチスの手を逃れようとして、
デンマークの漁村ギレライエにたどり着いた多くのユダヤ人たちは、
漁村の人たちによって守られ、スェーデンへ送り出されました。
そう出来なかった人たちも、追ってなんらかの援助を受けました。
こういう歴史に、ベートーヴェンの遺髪が立ち会っていました。
ベートーヴェンの聴覚障害については、既によく知られているが、
この本の中では、それ以外の様々な酷い病気についても言及されています。
これらの疾患について、多くの医者がこれまでに次々と説をとなえているものの、
決め手に欠いていました。
さて、今ここにある遺髪が我々に伝えたものは何だったのでしょう?
ベートーヴェンは、死んだ時かなり重い鉛中毒にかかっていた。
この事実は、限りなく私たちをベートーヴェンの実像に近づけてくれました。
断定は出来ないけれど、九分通り確信が持てるところまできたのです。
苦難の中で、創造しつつ、生きていったベートーヴェンを、
彼の音楽が多くの人たちの間で伝えられてきた様を、
紹介した良質のノンフィクションだと思います。
2002.7.6 記
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萩原延寿さんのこと
去る者,日々に疎しと言います。
萩原延寿さんが亡くなられて早、半年経ちました。
大学生の頃、この人を知り、
長らく気にかかっていたものの、よく読まずに,知らずにきた。
この機会に
「遠い崖」を読もうと思い立ったものの、
諸事に紛れて立ち消えになってしまっている。
季節が巡り、机の上を片付けていると、
萩原さんが亡くなられた時に取っておいた
新聞の一部分が出てきた。
「遠い崖」を今すぐに読み通すことは叶いそうにないので、
この3部ある新聞記事を自分勝手にまとめておきます。
朝日新聞「惜別」欄での記事では、次にように紹介してある。
杉山伸也慶応大学教授は、
資料や手紙の一行一行を丹念に読み、
終ると顔を上げ、長い間一点を見つめて考える姿を、
覚えている。
「文面だけではなく書簡を書いた人の気持ちや状況を思いおこしていたと思う。
遅筆の人ではなく、
それが萩原さんの歴史に対するアプローチだった」
この杉山氏が、書いた一文が、
「リベラルな紳士 美学を貫く
歴史家萩原延寿を悼む」です。
馬場辰猪、陸奥宗光、東郷茂徳、
そしてアーネスト・サトウの評伝を通して、
評伝に,文学性と歴史性だけでなく、
これまでになかった学術性をつけ加えた新しいジャンルを切りひらいた。
これは、萩原さんの豊かな感性と経験のゆえに可能だったことで、
ほかの誰にもふみこむことのできない孤高の領域である。
(亡くなる前)書いたのだろうか、
ノートの裏表紙にはサインペンで
「あきらめず」と走り書きされており、
「僕が書いたんだ」という。
僕には,
アメリカで客死した馬場辰猪が最後に書いた
「頼むところは天下の興論
目指すかたきは暴虐政府」
という言葉と重なり、
「馬場には,このことばの中に、
自身の生涯が要約されているように思えた」
という萩原さんの文章を想起させずにはおかなかった。
この翌日の新聞に、
「在野の歴史家 故萩原延寿氏が目指したもの」
を題した文章が載っている。
萩原さんは,米国ペンシルベニア大学を経て、
英国のオクスフォード大学に学んだ。
そこで、
歴史学者が書いた伝記が幾つもあり、
しかも人間が中心にあるのを知って驚いた。
いくつかの大学からの誘いを断って在野で通した。
一貫してめざしたのは、
専門的な成果に裏打ちされた学術性と、
微妙な感受性からの文学性を兼ね備えた評伝を、
日本で実現することだった。
「英国では、
ヒストリアンというのは、
歴史の科学的な叙述だけでなく、
制度や政治の枠組みを見失うことなく、
味わいのある文体で人物や社会が描ける歴史家を指す」
(樺山教授)
カールマルクスなどの人物評伝がある
アイザイア・バーリンに、とりわけ影響を受けた。
書評をまとめた著書「書書周游」に記した賛辞に、
萩原さん自身が理想とした評伝が見えてくる。
<人物の性格を描写させても,その思想や行動を分析させても、
そのペンは洞察力に富むと同時に、
はつらつとして生気にあふれ、
しかも取りあげる対象をたえずひろい歴史の流れという文脈に引き出し、
的確な位置づけをおこなう知的な力量は、
ただ見事というほかはない>
そうして、
「取り上げた人物は、政治や外交の、
いわば中枢から離れていた。
だからこそ、時代や社会がよく見える。
そこに、在野を貫き通して社会の一隅に身を置いた萩原さんならではの眼力、こだわりがあった」
と京大教授樺山俊夫氏は分析する。
晩年は、先進国のトップランナーからの「退却」のモデルとして、
英国に学ぶことが日本に必要だと考えていた。
鋭い文明批評家でもあり、
人々が功利的な「知識」を追求した結果、
自主的な判断と「知性」の人間化である感受性を失ったと嘆いたこともある。
萩原延寿さんは2001年10月24日、75歳で逝去されました。
紹介した記事は、以下の通りですが、
順序を始め多少の変更を加えております
惜別
由里幸子
2001.11.14 朝日新聞
リベラルな紳士 美学を貫く
歴史家萩原延寿を悼む
杉山伸也 慶応大学教授日本経済史
2001.10.27付朝日新聞
学術と文学 評伝に追求
在野の歴史家 故萩原延寿氏が目指したもの
編集委員・由里幸子
2001.10.28 朝日新聞 編集委員・由里幸子
2002.4.29 記