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 腕で歩く ボブ・ウィーランド 2001 竹書房
 満里奈の旅ぶくれ −たわわ台湾ー   渡辺満里奈著  2000 新潮社
 未来への記憶 自伝への試み  河合隼雄  2001 岩波書店 
 すべてきみに宛てた手紙  長田 弘  2001 晶文社
 DUTY[デューティ]  ボブ・グリーン  2001  光文社
庄野潤三 コーナー
 緊急発言 いのちへT 柳田邦男著 2000 講談社
パリ左岸のピアノ工房 T.E.カーハート 2001 新潮社
13歳の沈黙 カニグズバーグ 2001 岩波書店
クリスマスの木 ジュリー・サラモン 1996 新潮社
ベウラの頂 レジナルド・ヒル 2000 早川書房
硝煙に消える J ・P ・ペレケーノス 1997 早川書房
友と別れた冬 J ・P ・ペレケーノス 1998 早川書房
将棋の子 大崎善生 2001 講談社
ポケットの中のチャペック 千野栄一 1975 晶文社




ポケットの中のチャペック

千野栄一
1975 晶文社

千野栄一さんが、
既に、3月19日に70歳で亡くなられていたのを、
23日前、新聞の惜別欄で知りました。

あなたは、カレル・チャペックをご存知ですか?
かれは、とても幅広くいろんな作品を書いており、
その多くが日本語に翻訳されているので、
人ぞれぞれに、チャペックに親しんでいる事と思います。

私は、高校生の時に、SFが好きになり、
その雑学の中で、ロボットという言葉の作者として知りました。

同じ高校生の時に、
ソ連がチェコスロバキアに侵攻した事件が起こりました。

そのままでは、チャペックもチェコも、ただの知識で終っていたでしょう。
でも、千野さんの「ポケットの中のチャペック」を読み、
チャペックがぐーんと身近になりました。

こんな凄い人がいたのか!
チャペックという人がいて、その人はこんな人だった。
この本に出会えて、背筋が伸びました。

この本が出て間もなく、岩波文庫で、「山椒魚戦争」が出ましたし、
ズーッと後に、「マサリクとの対話」も出ましたが、
どちらも歯が立ちません。

「園芸家12ヶ月」は、読めましたが。(笑)

でもね、千野さんのこの本に出会えていなかったら、
私の人生は全く違っていた。
千野さん、ありがとう。
まだ、40代の頃のお仕事だったんですね。
ご冥福をお祈りします。

図書館に行って見ると、
この本が、まだ、開架書架に置いてあった!
四半世紀たっても第一線にあるということで、
うれしかったけれど、
思ったよりも、きれいなのでガックリ。

皆さんに、とりわけ、若い人には是非読んで欲しい。
とても読みやすく、
この本を読んだ後、あなたにとって、
チャペックが血の通った、肉のついた人に変わる事、
間違いありません。

2002.4.10 記
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将棋の子

大崎善生
2001 講談社

長らく日本将棋連盟に勤め、
傍らで、奨励会の子ども・青年達を見つめ続けてきた著者にして、初めて書けた本で、
将棋に関心のあるすべての方々にお勧めします。

21歳の誕生日までに初段、26歳の誕生日までに4段になることが出来ないと、
プロ棋士として認められない規則があります。
この条件の下、とても信じられないような状況が一度ならず現れ、
その件を読んでいると、事実は小説より奇なりという、言葉をどうしても引用せざるを得ません。

若くしてそのような状況下に置かれるというのは、どうしたって
理不尽な思いを押さえきれませんが、
多くの若者がそれを承知でこの世界に飛び込み、先へ歩を進めていきます。
そうして、大部分の会員が志を遂げられずに辞めていきます。

その中の一人、成田英二を主人公にしたお話が本筋です。
そして、成田以外の元会員の動向も交え、今の将棋界をとりまく状況に言及しています。

成田が属していた奨励会を、
今の将棋界を代表する新しい主流の若者達が大挙して、
駆け抜けていきました。
昭和57年組と言われる羽生世代の台頭です。
今なお、日本プロ将棋界の本舞台で輝いている彼らの存在が眩いほど、
又、影も深く、
そこに取り残された群像を描いているのです。

はるばる北海道へ赴き、札幌で成田に再会した著者は、
彼の心の襞の内に向かい、
ささやかながら出来る限りの事をし,
奨励会が、そこを去った者達にとって、どういう意味を持つのか、
自問自答を繰り返し、進めていきます。

最後の方で紹介されている、この奨励会が持つジレンマを、
私は始めて知り、言葉を失いました。

思春期の精神の有り様が活写されている本としても十分読み応えがあります。

(同じ著者、大崎善生さんの、
聖の青春」の紹介は、こちらです。)

2002.3.13
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硝煙に消える

ジョージ・P・ペレケーノス著
1997 早川書房

 

家電販売会社に、広告ディレクターとして勤めるニック・ステファノスに一本の電話がかかってきた。
彼が駆け出しの頃世話になったコネティカット通り店に勤めるマッギネスの紹介で、孫を捜索して欲しいという老人の依頼である。
本社よりも身動きが取れるということで、古巣に戻ったニックが、
マッギネス等と旧交を温めながら、調べ始めると、いろんな事が、起こり始める。
どんどん事態が先へ進み、もう後には戻れなくなる。

ミステリ小説の主人公が、家電販売会社の広告ディレクター?
探偵でもなく、警察に勤めるのでもないのに、一体これは…。
古巣に戻った主人公と仲間達の仕事振りや、
知らぬ間にどんどん出てきだした、かっての数々のヒット曲、
そして、主人公達のいろんな思い出を読んでいる内に、
これは、70年代から80年代にかけての時代に寄せる著者の哀歌だと気づく。

麻薬やアルコール漬けの日々がそんなにいいものではないが、
今となっては、まだマシだったあの頃として、描写される場面が、
力を込めて書かれています。

販売店での仕事振りを読んで笑いを禁じえないが、
今時こんな商売はもうやっていないでしょう。
仕事への追憶をも交えるべくして、主人公をこういう設定にしたようです。

事件を追う乾いた文章に挟まる心情的な描写の幾つかが、印象に残りました。
例えば、マッギネスと一緒に列車に飛び乗る辺りの一節は、
いつかなにか(例えばヘミングウェイ)で読んだような、なつかしい気分にさせられる。
そこで、マッギネスが、次のように言う。
「いつまでも心に残ることがいま起こってるんだ。
人生で大事なのはこういうことだろ。
これに比べれば、ほかはみんなカスみたいなもんだ」

孫息子を捜しているうちに次々と事態は展開をして、
そういう本筋も、小ぶりながら、楽しめます。

若い頃に読んだミステリー(例えばロス・トーマス)は、大人の世界そのものでしたが、
今では、同世代若しくは自分より若い人のノスタルジーでも、ありえている…。
そういう意味で感無量の読後でした。

 

友と別れた冬

ジョージ・P・ペレケーノス著
1998 早川書房

 

家電販売会社を首になったニックは、探偵となるも、
なかなか仕事は無い。
それで、いろいろうろついている内に、バーテンになった。
その日々に、友を得、友を失う。
そして、古い友に会う。

旧友から、彼の女房を捜すよう頼まれて動き出したニックが、かみしめた思いを、
あなたも読みながら、ご一緒に。

前著に増して音楽が次々とかかります。
これは、ラジオドラマとして鑑賞したい、と切に思う。
コステロや、ボウイ、ウェザーリポート・ツェッペリン…、
本当にいろんなジャンルの曲が出てくるも、ほとんど知らない。
ジョニー・キャシュまで出てくるので、読みながらオイオイって、呟いてしまう。

そして、アメリカの首都として知られてはいるものの、
本当はよく知られていない、ワシントンの下町が描かれています。

さらに、そこに住むギリシャ人の横顔も次第に描かれ、
それについては本格的な描写がされる次作の前触れになっている。

事件は、前作よりハードな様相になって、
著者が悪を見据えるまなざしの強さが、感じられます。

それにしても、このニック君、タフです。
アルコールに強いし、運動もしっかりするし、
事故に遭っても強い!

2002.2.27 記
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ベウラの頂

レジナルド・ヒル著
2000 早川書房(ハヤカワ・ミステリ)


レジナルド・ヒルが書くダルジール警視シリーズの一冊、1998年の作。
この感想を書いている2002年2月までの邦訳本の中で、最長編です。

 

ダンビー渓谷で一人の少女が行方不明になる。
この渓谷から高原一つを隔てたところにあるデンデイル貯水池も、以前渓谷で、
そこでは、15年ほど前に三人の少女が行方不明になって、迷宮入りになっていた。

ダルジール達は、この苦い過去と対面しながら、新たな事件の捜索を進めていきます。

この二つの事件があるにもかかわらず、マーラーの「亡き子を偲ぶ歌」のコンサートがダンビーの街で強行されようとしている。
ダルジールの配下で、チームの一員であるパスコー警部の娘が急病で倒れ、容態が予断を許しません。
これらの出来事も、やがて事件と結びついてきます。

 

ウィールド部長刑事は、エンスクームに住み、
彼と同居している書籍店主が出した本を、
パスコー主任警部の娘、ロージーが持っている。
前々作「完璧な絵画」を思い出し、微笑んだ方もいらっしたのでは?

ダルジール警視がマーラーを知っている経緯は、
前作「幻の森」の読者ならご存知のはず。

このように、「完璧な絵画」以降、
シリーズは、順次前後作のつながりを強めてきています。

又、ダルジール・パスコー・ウィールドの3人で組んでいたチームに、
前作から登場しだしたノヴェロ刑事が加わり、
ますます賑わってきました。

「骨と沈黙」で事件直後の現場に直行したダルジールが、おのれの直感を信じて、
パスコーとウィールドとを振り回した辺りと比べてみて、
チームのありようが随分変わってきました。
これも、「完璧な絵画」辺りからだと思われます。

「完璧な絵画」では、ウィールドが、
「幻の森」では、パスコーが主人公と言ってもいいくらい。
「幻の森」でのダルジールは、さえないところさえありました。

ダルジールだけでなく、パスコーやウィールドも、いや、
登場したてのノヴェロさえタフさを発揮しているのですから、
このチーム、向かうところ敵なしといった感じがすると言ったら、
身びいきが過ぎるでしょうか?

このチームを登場させる舞台が一作ごとにその時季も含めて変わっているし、
起こる事件も時の奥行きを深めていっています。

「骨と沈黙」で、受賞したヒルが、以前に増して本腰を入れ、
このシリーズをパワーアップしているので、ファンは大喜びでしょう。
少なくとも、私は、そう。
30年以上も続いているシリーズとは、とても思えない。

 

(この文章は、ダルジール警視シリーズの、
「骨と沈黙」「甦った女」「完璧な絵画」「幻の森」、
そして「ベウラの頂」を読んだだけで書いております。
長きにわたるファンの方が読まれたらおかしいところがあるかもしれません。
以上の事情により、ご容赦ください。
無論、以降の作は当然ながら、以前の作も読んでいくつもりです。)

2002.2.26 記
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taishiboukeiさんへ
(ここはネタバラシ・エリアです。
未読の方は絶対に覗いてはいけません!)




クリスマスの木

ジュリー・サラモン
1996 新潮社

 

アメリカNYのロックフェラー・センターに、
毎年立てられているクリスマスツリーを、
映画や雑誌、新聞等でご覧になった事がありますか?

この本は、そのクリスマスツリーを設置している、
ロックフェラー・センター造園管理部の部長が語る、
ある年のクリスマスツリーのお話です。

クリスマスツリーにする木を探すのは、大変です。
早くから、広い場所を捜し回らねばならない。
そうして、ある日、素晴らしい木に出会います。
その木は、修道院にあり、その木を手に入れようとして、
一人の尼さんに出会う。

その木は、彼女の人生にとってかけがえのないものでした。
部長さんは、彼女の語る世界にいつしか引き込まれ、
その木を諦めるものの、
それまでの仕事の日々に欠けていた時間や感じ方を、受け取りました。

その木が、どうやってロックフェラーセンターの木になったのかって?
それは、読んでのお楽しみ。

 

いつしか、私達は、一本一本のクリスマスツリーを記号化して見てしまっています。
でも、ちょっと考えれば気づくように、一本一本の木はそれぞれの命を持つもの。
そうであれば、そのクリスマスツリーと過ごすクリスマスもその時その限りのものですね。

かけがえのない時がそこにはあって、そういう時が積み重ねられた時、
暮らしや人生もかけがえのないものになるはず。

 

忙しく荒んだ気持ちになりがちな方へのプレゼントにはうってつけの本です。
小ぶりな体裁で、厚みもなく、
イライラした時には手持ちのバッグから取り出して読むのにちょうどいい大きさ。
勿論、プレゼントにピッタリ。

2002.2.20 記
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13歳の沈黙

カニグズバーグ著
2001 岩波書店



カニグズバーグ作品集が岩波書店から出始めて、
その第一回配本が、この最新作でした。

カニグズバーグさんの最初の本が出たのが、1963年。
その本が翻訳されてからも、30年近く経ちます。

この2000年に出た本の原題は、
SILENT TO THE BONE」です。
 

ともだちのブランウェルが、言葉をしゃべらなくなったのは、
彼の義妹ニッキーの事故が起こった時だった。
現場に居合わせたベビーシッターの証言で、
ブランウェルは郡青年保護センターに入れられる。
ブランウェルのお父さんに頼まれて、
ぼくコナー・ケインは、一番の親友に会いに行く。
会って、昔からのともだちとして振舞わなかったら
いくら面会を続けたとしても何もいい事は起こらないと分かった。

ぼく達は、13歳になったばかり。

コナー・ケインは、ブランウェルとの間にあったことを手がかりに、
一所懸命考え、ブランウェルに働きかけます。

ケインの義姉マーガレットの助言を得ながら、
ブランウェルの沈黙に向かうのですが、
ブランウェルがしゃべらない理由はいくつもあって、
それが何層にも積み重なっている。

マーガレットが言うには、
ブランウェルのお父さん「は、たしかに頭は切れるけど、
でも愚か者なのよ」。

 

この事件には
大人の無理解というより、勝手な分別や、
思春期の心と体との葛藤などが、絡み合っているのです。

ケインは、ブランウェルの体験を追体験しながら、成長します。

沈黙の謎が解き明かされていく過程は、
ケインの成長ばかりでなく、
ニッキーの回復や、
ブランウェルの立ち直りとも密接に繋がっている。


大人の高み(本当はそんなもの無いのです)から決めつけないで、
子どもの少し先からリードするように接せたらいいな、
と思うけれど、それでもまだ分からない感じが残る。

カニグズバーグさんが繰り返しこの年代をテーマに書かれているので、
尚更に深みを感じざるを得ません。

自分の子どもも、只今13歳です。
子どもに接することを、もっと大事にしなければと、
気持ちを新たにした読後でした。

2002.2.17記

パリ左岸のピアノ工房

T.E.カーハート著
2001 新潮社


幼稚園へ我が子を送り迎えする、近所の狭い通りにある、お店。
著者は,その店に惹かれて、ドアを開けますが、
すんなりとは、奥へ入れません。

そのお店は、ピアノの部品を売ったり、修理をしたり、
使い古されたピアノを再生して売るお店です。

いくつかの偶然に助けられて、著者は、後のその店の主、
リュックに出会い、親しくなります。

そこから、とても,広く,深い、彩り豊なピアノの世界が広がります。


リュックが紹介すると、一台一台がかけがえのないピアノとして表れてきます。

そして、著者は様々なピアノを、曲を、演奏者を、
調律師を、レッスン教師を、次々と紹介してくれます。

著者の幼い時からのピアノとの付き合いも書かれて、
リュックから手に入れたピアノは、無論、
今のピアノ・レッスン教師との付き合いにまで及びます。


例えば、ピアノの仕組み。

八十八ある鍵盤の向うに、二百本以上の弦がある事や、
その中に秘められた力の強さに、驚かされました。
一本の弦に90キロに達する張力がかかり、
全体で20トンを超える張力を支える鋳鉄製のフレームがある一方、
こまやかな仕掛けもある。

私が小学生の頃、音楽教室で見た古いピアノの鍵盤の黄色の秘密を、ようよう知りました。

ピアノが誕生した時からの歩みを、その途上にベートーヴェンを置いて、述べています。
あれほど多くの曲を書くほどに彼は、この楽器を愛していました。
よく壊しもしましたが…。
「ハンマークラヴィア」は、ある意味で今だ存在しないピアノのためにかかれた曲であった由。


ごく新しいメーカーだけれど、世界最高のピアノの一つを作っている、
ファツィオーリを訪ねるイタリアへの旅も、印象に残った一章です。
この名前は、後何年したら、世界の多くの人が知るようになるのだろう?


この本を読んでいる内に、
今まで出会った数々のピアノの姿と音色とが、次々とよみがえってきました。

そして、久々にあれこれのCDを図書館から借り出して、聞き始めました。


ピアノの音がガンガン響いてきそうな本ではないか、って?
いえいえ、
慎ましいながらも、緻密に組み立てられた構成で、
様々に響くピアノの音と、静かな雰囲気とが、巧く収められています。
それは、多分、
この本の文章と、中に登場する人達によるところが大きいのでしょう。
                                                      2002.1.30  記


腕で歩く

ボブ・ウィーランド
2001 竹書房


ボブは、スポーツ万能で、夢は大リーガーだった。
フィラデルフィア・フィリーズとの契約交渉が始まった時、
彼に徴兵礼状が届く。
衛生兵の道を選び、1969年4月にベトナムへ入る。
二ヶ月余後、地雷を踏み、彼の両足が失われた。

前向きの人生観と信仰とに支えられ、
瀕死の重症から回復し、帰国します。

自分に両足がないということをどう受け止めるか?
ボブと彼の周囲の人との会話を交えながら、書いています。

その後、両親のもとを離れ、カリフォルニアへ向かい、
一人で自分の人生を開いていく事になります。

結婚や、
障害者向けでなく一般のウエートリフティング大会へのチャレンジ
等を経て、素晴らしい人たちと出会い、
そうして大きな夢、計画を思い立ちます。

「手と胴で自分の国を横断し、自分の信条を人々に伝え、
体も心も飢えている人たちのために何かをする」

トレーニングを重ね、同行者を募り、
1982年9月、
ワシントンにあるベトナム戦争戦没者記念碑を目指して、
出発しました。

間もなく、サラ・ニコルと名乗る女性と出会う。
彼女は、交通事故で、様々な障害を背負うも、
再び書くことや歩く事ができるようになり、
その経験と彼女のキャリアとの上で、彼の事を本にしたいと申し出る。
この本の、後ろの四分の三が、そうして出来た原作部分です。

その前の四分の一には、朝日新聞社記者による、
ボブのアメリカ横断ルートをたどったルポが載っている。
記者が自動車で22日かけて走った行路を、
ボブは、3年8ヶ月6日かけて、歩きました。
1日およそ8キロ、総歩数490万16歩。

この旅の間に出会った人、起こった事について、
ボブの目を、口を通して、書かれているのを読んでいるうちに、
いろいろな事を感じ、考えます。

ボブという人間、そして彼のアメリカ大陸横断の経験、
この二つが、この本の主題です。

表紙で出会ったボブの表情から感じた第一印象は、
読み終えて、裏切られませんでした。

2001.11.8記

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DUTY[デューティ]
わが父、そして原爆を落とした男の物語

ボブ・グリーン著
2001  光文社

 

シカゴ・トリビューン紙で長らくコラムを書き続け、
日本でも読者の多いボブ・グリーン。
その彼が、二十年以上もインタビューを申し込みながら、
ずーっと無視され続け、
ようやくその男に出会えたのは、
ボブが父親と最後に夕食を共にした日の翌朝でした。


その夏オハイオ航空博物館を訪れた時の、ボブの感想の中にある、
次の一節が、気に入って、インタビューに応じる気になったようです。


「第二次世界大戦世代の人間は自分たちのことを自慢して歩かない」

 

“エノラゲイ"で日本へ出撃し、広島に原爆を投下した、
ポール・ティベッツへの長いインタビューがこうして始まりました。
ティベッツは、単なるパイロットではなく、
原爆投下の作戦チームを一から発足して、
編成、指揮の全権を委任されていたのです。
弱冠29歳の中佐でした。

 

ティベッツが、ボブの育った街でひっそり暮らしている。
この事実をボブに教えてくれたのは彼の父です。
ある日、仕事から帰り、夕食の席について、
「今日シャツを買いに行ったら、
となりの通路でポール・ティベッツがネクタイを買っていた」
と語る口調はいつもと違う響きがあった。
二人は、知り合いではなかったから、話はしなかった。
でも、そこにある何かを問う、
そんな風にしてこの本は書き継がれていきます。

 

ボブの亡き父がテープに残した戦地へ赴いた時の話と、
ティベッツへのインタビューとが、
交互に展開され、
従軍した人たちの心の襞のうちに、分け入ります。

あの戦争で戦い、生き延びてきた人が、
なにを見、何を感じ、どう考えたか?
戦後に生まれた人とは、全く違う人生観がそこにあります。
その良し悪し、事の善悪は無論話題になりますが、

より大事に扱われているのは、
あの戦争で戦った人たちがいて、
後に我々が生きているという事です。

この本の題名、
デューティ(責務)には、
ボブの、ティベッツやボブの父等の世代に対する、
深い思いが込められています。

愛情とか、尊敬とかでは、言い表せない思いです。
いろいろな考え、いろいろな感情を含めた思いというものを感じます。

私に出来るのは、この本をあなたに、ここまで紹介する事だけ。
その後は、読む人が一人一人、いろいろ考え感じる事につきます。
どう紹介の労をとっても、
この本の制作に携わった多くの方々の意匠に背いてしまうのは、自明です。

ティベッツやボブの父が語ってくれる事は、
そのまま我々の人生観への問いかけになっている。

 

 

庄野潤三 コーナー

庄野潤三の部屋という、サイトがあり、
「どくたーT」さんが、運営されています。
庄野潤三さんの愛読者達が集っているので、
同好の方は、そちらの方も宜しく。

 

夏を過ぎて (2001.9.24)

 

暑く長い夏がようやく過ぎて、
涼しい秋の風に吹かれながら、
ただひたすら耐えるだけの夏だったなぁと振り返る。

そんなひと時、
福原麟太郎さんの「命なりけり」の中の、
「秋来ぬと」を思い出す。

数多くある福原さんの随筆の中から、この作品に触れて、
庄野潤三さんが「世をへだてて」を書き始めています。

庄野さんが、ご自身の大病後間もなく書かれたこの作品は、
今は亡き福原さんとの浅からぬ縁を、珠玉を磨くように記し、
生きてある事を、読者にもしみじみと感じさせてくれます。

「命なりけり」が出版された時、
庄野さんは、後に「ガンビア滞在記」にまとめられる、
日々をアメリカで送っていました。

帰国後間もなく出版された「ガンビア滞在記」を、
庄野さんが送って、福原さんから礼状が届きました。

福原さんは、「ガンビア滞在記」を度々取り上げ、
さまざまな所で紹介するのですが、
庄野さんも負けじとばかりに、
福原さんの「命なりけり」をこの本のみならず、
後の「新潮・アンケート 私の好きな文章」でも、紹介しています。
(これは、「散歩道から」に入っております)

また、福原麟太郎さんとのご縁を、
「私の履歴書」でも繰り返し述べています。
(「野菜讃歌」所載)

 

福原さんと庄野さんとの深いつながりを表わしている本として、
「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」に触れないわけにはいかない。
先に「チャールズ・ラム伝」を読んでいた私は、この本が出て間もなく読み、
アレッと思ったものでした。
福原さんの作品が切れ切れにされていたり、勝手にあちらこちらで引用されまくっていると、
感じ、ちょっと不愉快でした。
それから、だいぶん時を経て、読み直した時、
このお二方の深いつながりを感じるようになっていて、
われながらビックリしました。

 

今、世情はかの米国の事件でゆらいでいますが、
自由・平和を声高に言わずとも、
日々の暮らしの中で、確かにこれらを掴み取り、
さり気なく書き綴っている庄野さん・福原さんの文章を、
あらためて読み返しながら、
見失っていた日常を取り戻す事も大事だと思う。

平安な日々が如何にもろいかと知るよりも、
あのような事が有って初めて知るよりずっと前から、平安はあって、
それと気づかずにやり過ごしてきた心の偏狭さを、あらためる事も、
大切にしたいと痛感しました。

米国といえば、
今読んでいる「101歳、人生っていいもんだ」は、
過酷な人種差別の時代を生き抜いてきた人の、
人生の知恵と豊かな感受性とが表現されていて、
どこかしら、庄野さんや福原さんへ、通ずるものがあるように感じます。

 

福原麟太郎さんが、「ガンビア滞在記」を高く評価し、
その作品はそれに恥じず庄野潤三さんのターニングポイントになっていると、
私は思います。
そうして、このお二方の縁をじっくり書かれた「世をへだてて」も、転機になり、
今に至っているようですが、どうでしょう?

 

 

山田さんの鈴虫

庄野潤三著
2001 文藝春秋

庄野さんによる老夫婦の暮らしを綴ったエッセーです。
大病された頃から文体が変わったように思うのは私だけでしょうが、
日々の暮らしを見つめる態度には変わりがなく、
いつもながら、何気なくも、印象的なタイトルに感心します。
「夕べの雲」の頃から読み続けている人には、共に生きてきている感慨がありますね。
庄野さんの他の作品では、「ガンビア滞在もの」が好きです。
私は、庄野さんから、これらの作品を通して、
人の暮らしのなんたるかを教えていただきました。
今、新潮社の小冊子「波」に続きを連載されています。

 

 

満里奈の旅ぶくれ −たわわ台湾ー

渡辺満里奈著
2000 新潮社

巻頭、初っ端からお茶のお話で、読み出したばかりの私は、拍手。
去年、インターネットを始めて早速知ったお茶の世界。
紅茶の後、中国茶へ好奇心が赴いた時、
この本が刊行され、
ようよう図書館の棚に落ち着きました。

「一度に何種類ものお茶を飲」み、
それも「ワインのように飲む順番があ」って、
「最初は包種茶のような爽やかでさっぱりした味のものから飲み始め、
だんだん濃厚なものへと移行していく。
めくるめく,中国茶ワールドの扉は開かれる。」

初めて見るお茶の名前を読み、見知らぬ世界への憧れをかきたてられます。

 

しかし,これはまだ序の口。
次に,目に飛び込んできたのは、「佛跳牆」。
フォーテャオチャンと読む、ものすごいスープ。
著者達は、「ぶっとびスープ」と名付けていました。
読んでいるうちに,むしょうに食べたくなります。

でも、食べ物の話ばかりではありません。
お茶を巡る、時やお店、そうして茶うけについてもこまめに記してあります。

それから,台湾の名所等の案内も。

 

今は,暑いですね。
冷たい飲み物,食べ物も紹介してありました。
泡沫茶も、八宝冰も、生唾を飲み込んでしまいます。

ウ〜ン,行きたい!
誰もがそう思ってしまう本でしょう。
ワインの失敗談ぐらいでは、引けられない。(^o^)

退屈だし,変わりばえのしない毎日を送っている方、
どうぞこの本を片手に出発なさってください。

行けない方も、この本を読んだ後、
身の回りにすこし味付けをして、
色あせた日を、彩り豊かな日にしましょう。

 

 

すべてきみに宛てた手紙

長田 弘
2001 晶文社

この書物は、内容を紹介する類の本ではなく、
一人静かに、一通ずつ読み、
飲み物をひと口すすり、しばらく、思いを巡らす本です。
私が思い巡らせたことを、著者への返信の形で述べ、
この本の紹介に代えさせていただきます。

手紙1 への返信

「何かをやめるということが、いつも何かのはじまりだと思える…。」

そう思えること、あります。
よく言いますよね、別れは出会いの始まりって。
でも、やめることが、何かの始まりなんて、
ちょっとやせ我慢ぽくないですか?(^^ゞ
私は、率直に言って、
あきらめた時に、別の道が開けてくるように、思えます。

最後の一節で、
自らの中にある豊穣に気づいて欲しいと、
述べておりましたが、
それも然りながら、
森羅万象に多感でありたいとも、思っております。
手紙3での、沢庵和尚の言葉を、ここにおいて、
自らの中に囚われる事を遠慮します。
(生意気言って、すみませんm(__)m)

手紙4 への返信

言葉の豊かさ、深さについて、この本に限らず繰り返し述べられて、
読む都度、励まされる思いがします。
私も及ばずながら、言葉について思いを馳せること度々あります。

言葉について強く意識するようになったのは、
高校生の頃でして、
人に読まれる文章を書き出してからでした。
友人の中にも文章をせっせと書く者がいましたが、
それを反面教師として、自分の文章の目指す所を決めていきました。

どんなに難しいことでも、どんなに多くのことでも、
平易な言葉で、相手に手渡すように書こうと思うのです。
いくら書いても、意を尽くせず、いつも至らなさを痛感しますが、
大学生の頃、ある本で、
文は言を尽くさず、言は意を尽くさずという意味合いの言葉にふれたとき、
ハタと膝を打ち、
その時々の自分の持ち得ている言葉で精一杯述べれば、
まずは良しとしよう、と思うようになりました。

無論、満足はしませんが、
ともかく、まず、書くことで、一歩前に出て、
相手の心に言葉を届ければいいのです。
届かなければ、なにをか、いわんやですね。
その繰り返しの中で、その折々の自分の経験の中身に応じて、
私の中の字引きを豊かにしていこうと、考えます。

それから、言葉と共に、
文章についても、臭みを消し、
読んでいる人が自分のものにし易い文体を、望みます。
それは、又、何度も繰り返し読める文章でもありましょう。

手紙7 への返信

本の魅力が、言い得て妙です。
そう、一人、灯火の下で、
「私」の「今」という時間を深くしてゆける
本を、いつも読んでいたいし、探しています。

小さい理想をじぶんで更新する
そう、思うと愉快です。

本を読んでいて、一息入れたとき、
時間の、変化の不思議さを感じます。
そうして、吉田健一さんが教えてくださったことを
もう少し理解すべく、読み直さなくっちゃ、とも思います。

手紙10 への返信

高村光太郎さんの詩の中に、
ウーロン茶も、コカ・コーラもあったなんて、
驚き桃の木でした。(^o^)

そう、言葉を持たない自分と思えば、
もっと、物を大事にしたいですね。
森羅万象は、外にあるものではなく、
自分の中に馴染ませたものにしないと、
虚しいです。

今という時代が、
多くのものがありながら、
寂しく思えるのは、
人が心の中の世界に対峙していないからでしょうか?

物という鏡は、やはり磨いておくべきものでした。

手紙12 への返信

この本の前に、
「未来への記憶」という、河合隼雄さんの自伝を読んでいたので、
ビックリしましたよ。

ここで紹介されている「少年動物誌」を読むと、
隼雄さんと、雅雄さん兄弟の強い結びつきがよくわかって、
先の本での、兄弟づきあいが、腑に落ちます。

私は、河合隼雄さんに、
「受容力の大きさ、冒険心の強さ」を見たと記しておきましたが、
それはここでの、「
野生」という言葉に相通じると
一人合点しております。(^^ゞ

手紙26 への返信

その事、子育ての日々に度々考えさせられます。
又、折々の世間の事件に沿っても。

今は、フリーターとか、人材派遣とかいう言葉をよく聞きます。
その一方で、職人という言葉は硬化していっています。
自分が毎日仕事をしながらも、なにかおかしいと思うことの一つです。

人びとのあいだに失われたのは、
熟慮、熟練、習熟といったことを目安に、
物事を測り、人間を測る習慣です。

歳をとるのが嫌、若いのが一番という、
そんな考えは、私の場合、幸い、
早くに拭い去ることが出来ました。
福原麟太郎著「われと共に老いよ」の中の幾つかの教え、
諳んじて、時折思い返します。

 

あなたも、すてきな手紙がいっぱい入っているこの本を読み、
返事を書いてみませんか?

 

 

未来への記憶
 自伝への試み

河合隼雄
2001 岩波書店 

私が40代に入ろうとする時に
河合隼雄さんの本を読みました。
その時、その本は、私にとって本当に必要な本でした。

以来、折にふれ、出るのを目にし、読んできました。
数多くの著書が出ていて、
どの本を読んだのかと問われれば、うろたえてしまいます。
私にとって、河合さんの本は、それぞれの一冊の本ではなく、
その時々の私の話し相手だったのです。

そうして読んできた河合さんの半生が、
ここに書かれてあります。
既に他の著書で、知っていることもあります。
でも、今まではその時々に断片を知るだけでしたが、
ここでは、一つ一つが連なって、互いに意味を持って、
述べられています。
これを読みながら、かって読んだ箇所が「そうだったのか」と、
合点がいくことがありました。
河合隼雄さんの本を読んできた方には必読書です。

 

男ばかり6人兄弟の5番目であった隼雄さんが、
育った家庭環境を読むと、子を持つ親達へのメッセージがあります。

隼雄さんの、少年時代から青年時代への足取りを追っていると、
自分の同じ頃を思い出します。

いずれも、子の育つ力を信じる事に至ります。

河合さんが、劣等感を多く抱きながらも、
新しい領域を開いていく様は、絶句せざるを得ません。

それは、
河合隼雄さんの受容力の大きさ、冒険心の強さの、
為せる技だと思います。

 

この本は、これまでの氏の本と同様、
問い掛けただけ、話を汲み取ることが出来ます。
更に、ところどころで、思い切った発言があって、
やはり他の本より、自由であると思いました。

一つ一つの話を取り上げればきりが無いので、
ここでは、一つだけ取り上げます。

 

アメリカでの先生、クロッパーが、
ロールシャッハで、余命を推測した箇所です。
医者のがん患者に対する思惑と結果が違うことについて、研究し、
医者が言うよりも長生きするか、早く死ぬかを、ものすごく当てるのです。
簡単にいうと、意識的に抵抗する人は、消耗し、早く死ぬ。
意識的抵抗を放棄した人、その中には、
すっきり放棄した人と妄想的に放棄した人とがいるのですが、
共に長生きする。
「ロールシャッハで見ると、意識的抵抗の強い人はわかるんです。
我々のことばでいうと、自我防衛の非常にきつい人ですね」

このくだりを読んで、ビックリしました。
ちょうど、聴覚障害を受け入れるということについて、
いろいろ思い巡らせていた時でした。

難聴者には、聞こえる自我と聞こえない経験があって、
この狭間で自問し、答えの無い迷路を果てしなく彷徨うのではないか?
聞こえる自我が、聴覚障害に対して、抵抗を示すというか、
自我防衛をしているのではと、素人考えをします。

これが、聞こえない自我を受け入れると、
聞こえない経験に苛立つことが無くなり、
聞こえない立場で冷静に判断し、対処できるようになっていくのでは
ないでしょうか?

世の中には、様々な難聴者・中途失聴者がいます。
私よりも、困難な状況にある人も当然います。
そういった方々に、ひょっとして、参考になればと思い、
思い切ってご紹介しました。
もし、気を害されたら御免なさい。

再び、話を河合隼雄さんに戻すと、
これまで、氏の本で読めなかった本が、
今度は読めれるのではないかと、
いう気がしてきました。

今までの読者の方々、更に一層深く読んでまいりましょう。

まだ読んだことのない方、ここには
新しい自分に出会える扉があります。
開けれるか否かは、あなたの運です。
開けれなくとも、諦めずに、
又、時をあらためて読んでみてください。
グッド・ラック!

2001.6.14



緊急発言 いのちへT

柳田邦男著
2000   講談社

 

柳田邦男さんが、この一年半ほどの間に発言あるいは発表したものを、
テーマ毎にまとめた本です。
このTでのテーマは、
脳死・メディア・少年事件・水俣となっています。

柳田さんご自身が、息子さんの死から受けたものを大切にして、
「犠牲(サクリファイス) 我が息子・脳死の11日」
1995年   文藝春秋
を書かれました。。
その後のいろいろな分野・事件について行った仕事が、
私達が生きている今の社会とともに,展望できます。
その仕事のここかしこ至るところに、
次男を喪った柳田さんの姿が、見えます。

 

脳死   脳死者の尊厳を守るために

臓器移植法が、1997年6月17日に可決されましたが、
その法案が提出され,修正される所での発言に止まらず、
1999年2月にこの法律に基づく初めての脳死判定が行われ、
臓器移植が為された後にも,引き続き発表されたものから、
柳田さんの言いたかったことが、切に感じられます。

「犠牲」を読まれた方はご存知の様に、
緊急医療で治る見込みの無くなった患者とその家族とに、
現場の医療関係者は、何が出来るのか、否何をする必要があるのか、
が重要なテーマです。
このテーマに向かうのに必要なのが、
「二人称の死」あるいは「二人称の視点」です。
この視点に立つと、
この脳死の一連の動きの中ですっぽりと抜け落ちていたものが
浮かび上がります。
それは、脳死の患者の家族です。

 

メディア   メディアに新しい座標軸を

脳死・臓器移植の報道でも、この家族が置き去りにされている事を、
柳田さんは指摘します。
ここから、「2.5人称の視点」となりますが、
どんな事件にも被害者がいて、
彼等の視点に立つのは、「2.5人称の視点」に立つことに他ならず、
多くの専門家の視点から見れないものが見えて来、
さらに新たな展望を開く事が出来るのではないかと提言しています。

 

少年事件   少年事件を根源から問う

1998年1月堺市で19歳の少年が徹夜でシンナーを吸ったあげくに、
包丁を振り回し殺人・殺人未遂を犯した凶悪犯罪がありました。
この少年について,雑誌で、作家が実名と顔写真つきで、ルポルタージュを発表しました。
これに対し,少年の方から,刑事告訴・民事訴訟が起こされました。

この訴状を読んで,柳田さんは、異様さを感じたのです。
裁判所宛ての念書に、倫理上おかしい事が書かれています。
そして、この少年を取り巻く弁護士に目が行きます。
少年法61条は、一体誰の為,何のためにあるのかと問い掛けます。
一人の人間として現実を見ずに、
一人の専門家として条文のみをもてあそぶ事の恐ろしさを説き、
複雑化し専門分化した現代社会の落とし穴という問題を突きつけます。
犯罪被害者救済の道が漸く開かれようとしている今の時代の流れをも紹介しています。

 

水俣   水俣事件・問われる想像力

水俣病発見から40年経った1996年に、
「水俣・東京展」が開かれ、
その後,ボランティア団体「水俣フォーラム」が常設されました。
この「水俣フォーラム」主催の講演会が、2000年4月に開かれ、
そこでの柳田さんの講演が載っています。

水俣病は、今では教科書で取り上げられるようになり、
歴史の中の事件として、扱われるようになってきています。
しかし、過去の出来事ではなく今日に問いかける意味を汲み取らなければならない。
その為には、一人一人の「考える力」「想像力」が必要ですと語り始めます。

私たちが水俣病を学ぶ時に、原田正純さんの仕事を欠かすことは出来ません。
原田さんが、1994年、1997年と続けて、
1963年に起きた三井三池炭鉱の炭じん爆発事故の被害についての著書を発表しました。
原田さんが、長年にわたり水俣病の調査研究と患者の支援に取り組み、
研究報告をはじめ、一般向けの本を発表しつづけ、
水俣病の核心から目をそらさなかったのは、どうして可能だったのか?

柳田さんは、原田さんの最近の著書からその原点を見つけて紹介してくれています。
この二著によると、
原田さんは、若き日に恩師立津先生から、生活診察法という観察法をたたきこまれたそうです。
そして、最も影響を受けた手本は、
1906年にフランスの炭鉱で大勢の死者を出した炭じん爆発事故の
一酸化炭素中毒患者の診察にあたったステアリン医師の論文です。

既にある病名・症状名に患者をあてはめるのではなく、
個々の人間の症状の実態を生活環境の中で見つめて記録する。
それを原点に、多様な症状の全容を明らかにし、治療や支援の方法を考えていく。

こういう方法でなければ、
公害や薬害などによる未知の問題の多い疾患や後遺症の全容は無論、
患者にとっての病気の意味と支援のあり方、
さらに社会的な問題などを浮かび上がらせる事は出来ないと、
柳田さんは述べています。

想像力欠如の専門化社会の怖さや、
一部の人間を踏み台=犠牲にして、多数が「豊か」になる社会のあり方に、
警鐘を鳴らし、
犠牲者・弱者に寄り添う「二・五人称の視点」の必要性を呼びかけてこの本を締めくくっています。

 

以上の柳田さんの論旨を,読み進みながら、
聴覚障害者と医者との関係が、いつも寄り添って思い起こされます。
診断を下した医者が,治療を行えないところからどうするか、
あるいは私達聴覚障害者は何を望むか?
今のままでは、不十分です。
耳鼻科の医者が出来ることで,してもらいたい事は、確かにあります。
私達のほうで、具体的にいろいろな声を上げ、
そこから、医者が耳を傾けざるを得ないような提言をしたいと思います。
あなたも一緒に考えてみませんか?