喫茶店「けやき通り」

2003年11月


2003.10
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ラグビーシーズン開幕


地方に住むラグビーファンには、テレビ放送が始まってのシーズンです。(笑)


11月16日(日曜日)
関西大学ラグビー
同志社 対 立命館 48−14


立命館もよくディフェンスしているが、
如何せん個々の強さが際立っている同志社を印象づけた試合展開。


22日
関東大学ラグビー・リーグ戦
関東学院大 対 法政 62−26


今年の関東学院大学、凄い!と思わせられた試合振り。
強さ・巧さに加え、コミュニケーションを活かしていて、目を瞠らされました。
キャプテンが大学生でただ一人のW杯参加者なので、
際立った彼の大人振りをご覧あれ。
点差が開いても、試合への緊張感を落とさないリーダーシップは、見物です。
法政のディフェンスがちょっと元気なかった、と言ったら言い過ぎかな?


22日
ラグビー第5回ワールド・カップ
イングランド 対 オーストラリア(豪州) 20−17


最後の最後、延長戦終了間際にウィルキンソンのドロップゴールが決まって、優勝!
テレビでは分かりませんでしたが、
解説によればチームメイトのお膳立てが整った状況でのキックだった由。
ウィルキンソンは、テレビのCMでベッカムと蹴り合いをしている選手ですよ♪(^_^)v
ミスをしないよう気をつけながらもタフな攻防は、文字通り大人のプレーで、
引くべきところを我慢して引きながら、きちんと抑えるディフェンスは見応えしました。


23日
ラグビー関東大学対抗戦A
早稲田 対 慶応 56対29


早稲田のリズム感ある攻撃と一年生の活躍が印象に残る
インターセプトされない長いパスがきちんとつながる鮮やかさ、
近頃にない個性を感じさせるチームのようで、次の試合が楽しみです。
巧さを感じさせましたが、そんなに強さを感じさせなかった分、
早くも関東学院との試合が待ち遠しい。
多分、大学選手権に向けての調整の仕方が違っていたのでしょう。

2003.11.24 記


あの映画「レット・イット・ビー」をもう一度


ビートルズの「レット・イット・ビー…ネイキッド」が出て、
それについての記事をいくつか目にしました。
読んで、映画「レット・イット・ビー」を思い出す。
貧乏学生でしたから、LPレコードなんぞ手に入らず、
一度見た映画のシーン・音楽を何度も思い返したり、
ラジオでかかるのを待ちながらナガラをしていました。


ポールのインタビューから


このCDを発表するのは、そもそも(映画「レット・イット・ビー」を撮影した)マイケル・リンゼイ・ホッグに、『いつDVDにするのかと最近、よく尋ねられる』といわれたことがきっかけだった。
DVD化はよい案だと思った。
考えたら、映画の中の演奏はレコードなったものと違って、バンドの生の演奏だけをとらえ、弦楽団による装飾など施していなかった。
もし、DVDにするのならそのサウンドトラック盤も映画と同様、装飾の施していないものにしたいと思った



これを読んで、30年ぶりにアッと声が出た。
そうそう、殆どスタジオ作成のレコードばかりで聞いていたビートルズだけど、
一番生に近い音だったんだ!
スタジオでピアノの上から撮ったポールの歌う「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」
アップル社の屋上で生バンドしていた「ゲット・バック」
等、これはもう、
一つの映画シーンを通り越して、一つの歴史シーンとして、
同時代に受けていた。
あ〜ぁ、解散しちゃうんだ…という想いを抱いていたっけ。
でも、今見ると、二人亡くなっていることに想いが行くはず。


次の評を読むと誰だって聴きたくなるよね(^_-)


この作品で聴くべきは、4人組のバンドと1人の客演鍵盤奏者との演奏が、
機材や技術は現代に比べて簡素であるにもかかわらず、
これほど力強い音楽を生み出している点だろう。


ビートルズ側は「ともかくいい演奏だから聴いてほしい」とも。


前述のように音楽自体も簡潔。
だからこそ躍動感にあふれ、喜びや悲しみが鮮明に伝わってくる。



以上、産経新聞のウェブサイト記事に基づくものです
http://www.sankei.co.jp/edit/bunka/bunka.html
内の「Webコレ聴き隊」2003年11月13日より

2003.11.23 記


古くて新しいナンバ走り


今朝(20日)の新聞で、
光文社文庫「ナンバ走り」の広告が目に飛び込んでくる。
あなたは、御存知でしたか?
知らなかったあなたにちょっとご紹介♪
ご存知の方、今更ですよね〜、笑ってください(^^ゞ


今年、世界陸上パリ大会男子200m決勝で銅メダルをとった、
末續慎吾選手の走りをあなたはご覧になりましたか?
残念ながら私は、未見。


というのも、最近彼に関する記事を二つ読んで、興味津々だから。


まず、
雑誌 Number585 10/2号に掲載された
「末續慎吾の走りをいかすために生まれた常識を覆すスパイク」
の記事を読みました。


これは、
ミズノ・ランニングシューズ企画課の河野光裕氏へのインタビューに基づいた記事です。


今までの選手のスパイクは、
ハイヒールからヒールをとったような、爪先立ちの形をしていたが、
彼の場合は、足の裏全体で地面を捉えられるように、ほとんどフラットに作ってある。


スパイクのソールにあるピンにも大きく手が加えられ、細く長くした。
従来、1.5oだった長さが3.5oに伸ばされている。
普通の選手だったらピンがトラックにひっかかって走れず、
一本走っただけでけがをする。


アーチの幅が広げられるなど、スパイクの形そのものも変えられた。
トレーニングの結果、土踏まずの筋肉が発達して盛り上がった末續の足は、
短距離選手としては異例の偏平足になっていた。


こんなスパイクの話は初めて聞きました。
「この一年ですよ、末續選手のスパイクに対するこだわりが強くなったのは。
競技力が上がるにつれて、スパイクへの感覚が鋭くなってきた。」


では、なぜ、このような変てこなスパイクを誂えるのか?
河野さんは、次のように語っています。
「今までの選手は階段を駆け上がるような走り方でした。
ところが、末續選手が目指すのは階段を駆け下りるような走り方。
蹴るんじゃなくて、重心だけを支えていく。」


これでは、分からない…。


そして、
朝日新聞朝刊2003年11月8日土曜日付に、
次の記事を見つけ納得できました。


一流を育てる
末續慎吾・アテネへの疾走
高野進コーチ 下


高野コーチが求めた走法は次のようなもの。
「いままでのようにひざを高く上げて走るのではなく、
上げずに走ってみてくれ」
ひざ上げを意識すると、キックが上向きになって前方へ進む力にならない。
ひざを上げる力がその分無駄になる。最初から、脚を前へ出す力に使おうという考え方だ。


3年後この走法が、後輩伊東浩司によって注目され、アジア記録を生む。
高野は、伊東と共に構築した理論に工夫を加え、末續に適合させていく。


そして、右手と右足を同時に前へ出す古武術の歩き方「なんば」を生かした。
速い外国選手の動きになんば的な要素があることに気づき、
自分自身で理論化し、02年から本格的に採り入れた。
この新走法を、末續自身が体得するのをじっと待った。
「僕の技術や理論を、末續の感覚に変換してほしかった」


ここまで、教えてもらうと腑に落ちます。(笑)


トップアスリートが、己の世界でこれまでにない次元へ入る。
そこにある、
人間の限界に挑戦する者の知恵と勇気、
それから古に尋ねて受け入れる謙虚さに、
魅せられ、励まされました。

2003.11.21 記


野茂秀雄 2003年

今年の大リーグは、日本から見れば、
松井秀樹選手がヤンキースでデビューし、ワールド・シリーズまで進んだ事が、
筆頭に来る。
でも、私は、ここに、
今年も野茂投手がきちんと活躍したことを、
書き留めておきたい。


ナンバー585号の記事
「野茂英雄鉄人の静かなる歩み」
奥田秀樹


に基づいています。


通算先発試合数412、登板イニング数2820.2。
日米通算で14年間の長きにわたり、マウンドに立ち続けてき、
メジャーでの通算成績は113勝88敗。


最近のことを言えば、
15勝11敗、防御率2.88(9月11日現在)。
ほとんどのゲームで7イニングを投げきり、
登板回数は200イニングを超えている。


1995年メジャー一年目からの因縁浅からぬ仲の
大リーグでの好敵手、アストロズのバグウェルは、
野茂について次のように語る。
「私たちは互いにプロなんだ。
高い技術を駆使して長年戦いつづけているんだ」


2000年にタイガースで野茂の球を受けていた、
ヒューストンのブラッド・オームス捕手は、
ダートマス大学で学位を取ったメジャーきっての秀才で、
ゴールドクラブを何度も獲得した実力派でもあります。


その彼の弁。
「英雄は研究熱心な男でね。
あの年にスライダーを覚えたし、
スライドステップをマスターして簡単に盗塁を許さなくなった。
それに競ったゲームで塁上に走者を置くと、
集中力が高まるのか、
ここ一番というピッチングをする。
87マイルで投げていた速球が90マイルになるんだ。
あんなピッチャーはなかなかいない。
記憶力も抜群だしね」


オームスによれば、
メジャーリーガーの実働年数は「平均4年」。
それをはるかに超え、一流であり続けられる選手は一握りしかいません。


バグウェルはこうも言う。
「ヒデオにとっても、私自身にとっても、
誇りに思うのは、長くメジャーでプレーを続けていることだ。
10年もこのレベルでやればいろいろな壁にぶち当たるからね。
ケガだって、必ずするものだから、
長くやるにはハードワークでリハビリに努めるしかない。
リハビリは本当に骨が折れる。
大きな怪我を元に戻すのに、2年はかかる」


人はそれぞれ、自分の人生で前人未到の道を歩いている。
そんなあたりまえの事に、しみじみ感じ入った記事でした。

2003.11.18 記


冬に入っている日々のテレビドラマ


金曜日の朝、今週に入って初めての暖かな日差しが射してきた。
週明けの時雨と冷え込みとが悪い夢だったかのよう。
夕飯を終え、ひと時すれば寒さに耐えかねて、
そそくさと布団に入る日々でした。
八犬伝を読んでいるうちに次第に暖まり、いつしか寝入ってしまう。
家族の誰よりも先に寝てしまうので、
又、誰よりも早く夜中に目覚め、
うたた寝をしている者たちを布団に追いやる。(笑)


そんな私でも、木曜日と金曜日とは、しゃきっとしてテレビの前に座りました。
お目当ては、テレビドラマ。
木曜日の「エ・アロール」「マンハッタン・ラブ・ストーリー」
金曜日の「ヤンキー母校へ帰る」


「エ・アロール」は、
本来、連続ドラマの中に一作はあっても不思議ではない大人のドラマ。
子どもが未だ小さいので身につまされるところまでいかないものの、
見ていて違和感がありません。
緒形拳さんの顔を見るのが楽しみです。


「マンハッタン・ラブ・ストーリー」は、
笑いが抑えられないドラマで、
文字通り噴出したり、机を叩いて、大声で笑い転げてしまう。
マスターのように、ふと我に返って見れば、
後ろで子供たちが笑っている。
ドラマが笑えるのか、私が可笑しいのか???


出演者たちが本当に楽しそうにやっています♪
時には突っ込みたくなるところがあっても、
このドラマのテンポがすべてを乗り越えて見るものに迫る。


「ヤンキー母校へ帰る」は、
落ちこぼれの高校生たちを集めた学校を卒業した一人の生徒が、母校に教師として赴任し、
かっての自分と同じような生徒を前にして、奮闘する学園もの。
毎回もしくは2話完結ということで、ちょっとまとめすぎる嫌いはありますが、
いろいろ考えさせられる。
どういう言葉でどう話したら、彼らにこちらの伝えたいことが伝わるのか?
担任としてクラスを受け持つ大変さを思い出したりもして、
この辺り、吉森先生を指導する安藤先生のことも、知りたくなる。
今週は、喫煙。先週は、引きこもり。その前2回が、いじめでしたか?
その前は見損じましたが、初回は市原君の回でしたね。
この学園が立ち上がった当初や、教師たちが一丸となって今の教育体制を立ち上げた辺りも、
知りたくなっています。

2003.11.16 記


翻訳のココロ

翻訳のココロ
鴻巣友季子
2003 ポプラ社


この書名は、
「翻訳とかけて何ととく、そのココロは?」
を縮めたものである、
と思う。


本の始めのほう、翻訳をたとえて言えばどうなるかと、
そのたとえが、続々と出てくる。
まだまだあると言わんばかりに出てくる。
凡人・素人は、一つ二つで済ませるけれど、
当事者は、延々と自分で考えるばかりでなく、
友人知人からも吹っかけられて、たくさんの例を、引き出しを、持つ。
読んでいて、次々と世界が開ける。
読みながら、
群盲がなでる象を、
汲んでも汲みきれない井戸を連想しました。


本文にあるのは著者の引き出し。
巻末にある柴田元幸さんとの対談を読めば、
著者のたとえは動作で、柴田さんはモノへの譬えになる由。
もっと広い深いところに引き出されます。
岸本佐知子さんのたとえは、ちょっと忘れられない。


恐るべし翻訳の世界へ、あなたを誘うこの本の著者は、
今年「嵐が丘」(新潮文庫版)を翻訳された鴻巣友季子さん。
この1,2年、鴻巣さんの名を私に強烈に焼き付けたお仕事は、
「緋色の記憶」「昏き目の暗殺者」。
そんな訳者とは思えぬ、明るい独特の文章で語られていきます。
あの分厚い「昏き目の暗殺者」が、鴻巣さんにとってどういうお仕事であったか、
という事にも触れているので、
訳者の鴻巣さんにホンの少しでもご関心ある方には、必読書です!


前半の翻訳のたとえをめぐる話に続いて、
この度の「嵐が丘」翻訳にまつわるお話、イギリス・フランスへ赴いてのお話があります。
このくだり、ネット上(ポプラビーチ)での連載から拝見しておりましたが、
書物にするに当たって、ネットで添えられていたお写真がなく残念ですが、
パソコンがないところでも読めるし、読みながらつらつら考え思い耽るに、
眼の疲れないのがよろしい。
さくさく読めてしまうけれど、時々止まって味わいましょう。(^^)v


ヘミングウェイの短編の新訳が出た時、新旧読み比べ、
葡萄酒をワインに変えただけでもずいぶん違うのはわかったけれど、
翻訳者はさらに向うを睨んでいる、
と教えてくれました。


仕事にかけるエネルギーの大変さ、
自分の語彙をはじめとする全資質が問われる、
そういった諸々を含めて、
翻訳は、鴻巣さんの人生を賭けたお仕事であること、
腑に落ちて、首を垂れざるを得ない。
これから、心して鴻巣さんの翻訳を読もう!と決心した読後でした。


これを書いている最中に、
ポプラビーチで、鴻巣さんの連載が再開されました。
初回を読むと、この本の読者なら、深く頷ける幸せなメッセージがある。
よかった、良かった♪

2003.11.14 記


武蔵の里


難聴者協会の催し物で、武蔵の里というところへ行ってきました。
今年のNHK大河ドラマにあやかっての村興し&観光振興モノです。
地元の様々な観光企画でここが行き先になっていて、わが町内の今年の旅行もここでした。
同行した年配者は、もう三度目になる由。(笑)


岡山市からバスで美作方面に向け2時間余りのところ、
英田郡大原町にあります。


奥まった山間にある武蔵生家跡等の手前に、
資料館・美術館・テーマ館やみやげ物屋等が立ち並び、
他にもイベント広場があって、
一時間毎に巌流島の決闘を寸劇として行っている。


武蔵の生家跡の隣が、
武蔵の姉おぎんの嫁ぎ先・平尾家で、
その裏には樹齢450年のタラヨウの木がありました。
武蔵も見た樹を、今自分も見ているのだ、
と思うところから、だんだんに気分が乗ってきます。
その先に武蔵の墓があって、
この一群の墓地の風情は言葉にできない。
その先が、武蔵神社。
その下に鎌坂峠に向かう山道がある。


この道を、武蔵は登り、播州を経て京へ向かった。
美作周辺で一番雪の少ない土地ということで、
もっと昔から旅人がよく利用したものだそうです。
一般の多くの観光客は武蔵神社で踵を返しますが、
私一人、ちょっと登ってみました。


一貫清水が湧き出る辺りまで、アスファルト舗装がしてありますが、
その先は昔ながらの山道で、原付等では到底登れない傾斜になり、
私の息も切れ切れになり気味。(^^ゞ
杉の山林が峠間近になって竹林に変わり、
そこを吹き抜ける風が、にわかに噴出した汗を乾かしてくれます。


竹刀・木刀で修業を積み、やや重めの真剣を腰に帯び、
武蔵がこの山道を登り、又、降りていったのかと思うと、身近に感ぜられる。


晩秋の風は冷たく、風邪をひいてはならじと、早々に下山しました。
高々と伸びた木々から落ちる枯葉が、空から降っているようでもありました。

2003.11.10 記


2003年11月の始まり、はじまり〜♪


11月に入って、冷たい雨が降る。
先日の夜、強風が吹き、網戸がガタンと反対側へ寄せられた。
バイクで出勤時、信号で止まっている時、体が暖まってくる。
冬の近づく気配が次々と姿を変えて表れてきています。


冬と共に近づいているのは、渡り鳥たち。
今こうしている間にも、何万羽という渡り鳥たちが、
それぞれ、さまざまな所を飛びながら、目的地に向かっている。
今年、「WATARIDORI」という映画を見たので、
そのイメージがくっきりと立ち上がります。
何千キロもの飛行をしている最中だと思うと、
思わず、頑張れ!って、声援を送りたくなる。
わが街にやってくる鳥たちは、今、どの辺りだろうか?
もう、日本海の向こう側まできているのかな?


色づく街角に舞う枯葉を見て、
人それぞれに思い出は帰ってくるでしょう。
「藍色夏恋」という映画を見ました。
一夏、恋の始まりはそれぞれに上手くいかないけれど、
そこから確かに何かが始まっている。
予想していたのとはぜんぜん違った仕上がりでしたが、
あの頃の、人に接する時に感じた歯がゆさは、同じもので、
同じ年代の頃の思い出は、やはり、帰ってきました。
夏の暑さも、もう、なつかしい。


どんな冬になるのだろう?
早々と、お布団に入って読みたい本が、たくさんある。
その本の向こうにある世界が、私を待っている♪

2003.11.7 記

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