4/3



信長の神髄 戦闘編


信長はあまりにも当時の人達と精神レベルその他もろもろがかけ離れていたために、あたかも彼の統一に対して超人的が力が働いたかのような印象を受けます。


しかし、そうではありませんでした。信長は現状と夢を正確に把握することが出来たのだと思います。そして、夢を実現するための「コロンブス」であったのです。信長は正確に状況を把握する事が出来ました。それがあって初めて対応する施策が生きてくるのだと思います。


徹底的なリアリストであった信長の戦いぶりには奇策は見られません。あっけないほど正攻法の戦いばかりを続けています。運に頼るとか神頼みをする様な戦いは皆無だったと思います。具体的に言えば寡兵で大軍と戦ったことはありませんでした。


有名な戦いはいくつもありますが、信長の名前が全国区になった「桶狭間の戦い」においてもその原則からは外れていないと思います。


一般的にはこの戦いは「奇襲」が偶然の賜によって成功したとしか認識されてはいないようです。しかし私はこれは奇襲ではないと思っています。


今川軍約2万5千の兵対信長軍約4千強ではまともに戦っては勝ち目がないのは当たり前です。普通でしたらこれだけの軍事力の差があれば投降者が続出するはずです。しかし驚くべき事に織田軍からは裏切り者が出なかったのです。これは「うつけ者」だった信長が家督を継いでからわずか数年で領国支配を完全なものにしていた事を意味すると思います。


実際領土も増えていました。ですからこの時点で信長には家臣からの絶対的な信頼を得ていたと考えるべきです。


天候の事や、ホームグラウンドの戦いなので地の利を受けていた「運」は間違いなくありました。しかし、「奇襲」成功はそれだけでは説明することが不可能です。


最大の理由は当時日本で唯一騎馬隊のみの行動をしたからだと思います。


武田の騎馬隊は有名ですが、これは世界史的に言うと「騎馬隊」ではありませんでした。馬に乗っている武将の周りには数人の徒兵がついていましたので、武田騎馬隊の進行速度は人間の走るスピードより速いと言うことがあり得なかったからです。しかし、このときの信長軍は全員が騎馬隊だった可能性が非常に高いと思われます。


この移動スピードに今川軍は結局ついていけず本陣進入を許してしまったというわけです。そして義元本陣の戦闘員は2千人位と推定されていますので、ここでも信長軍の方が大軍だったという原則は覆されてはいないのです。