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日立鉱山3


大煙突以前の煙害対策  

明治42年(1909)1月、日立鉱山に鉱毒問題解決のために地所係が創設され。多数の技術者を網羅して、煙害の調査が行われた。5月には大雄院に気象観測所が設けられた。翌年神峰山頂に移される。後、日立市に受け継がれ、市役所のお天気相談所の観測所となる。これほど気象観測が充実している自治体はあるまい。そのため、 日立市には気象庁の観測所はない。けだし県北の気象庁の天気予報が外れるのはそのせいか?  


閑話休題、明治44年(1911)5月には大雄院から神峰山に向けて延々2kmの神峰煙道(百足煙道)が作られた。煙道を山地に這わせ、十数カ所の排煙孔から分散排煙する計画であった。しかし、煙害を広げただけで大失敗に終わった。次に、国家の煙害解消の命令により、学者が設計したタンク煙突が大正2年(1913 )6月に完成する。高さ36m、口径18m。基部に送風孔13個を設け、各々送風機をつけて排出ガスを希釈する計画であった。しかし、落成式に関係者が列席する中通煙されるや、送風孔から煙が逆流、列席者を襲い、散々な落成式となった。しかも、希釈効果はなく、精錬所に煙が流れて仕事にならぬという始末で直ちに使用停止となった。現在「阿呆煙突」と呼ばれる煙突がそれである。  


第一次世界大戦による特需で精錬所はフル回転、それによって被害地域は県北3郡を覆い、補償額は20万円を突破し、煙害解消は日立鉱山にとっても危急の課題となった。