10/2
平成5年(1993年)、大往生を遂げた大煙突。まさに日立市のシンボルであり、名物日立せんべえのデザインともなっている稀有なる鉱業施設である。私の中学校の時の先生は、疎開先からの帰路、大煙突が見えたとき、遂に帰ってこれたと涙したという。
いよいよジリ貧に陥った煙害問題であるがその時久原翁は一大決心をするをする。「日立鉱山史」からそのまま引用しよう、…久原が奇想天外な大煙突の建設を提唱したのは将にこの時であった。彼は唱えた。「小坂の体験に徹しても、煙は真直ぐに上昇するものである。したがって煙突を高くすれば、一途に上昇した煙は高層気流に乗って拡散し、煙害問題は必ず軽減できる。」この意見をめぐって、賛否両論、口論乙駁、日に夜を継ぐ激論が交わされた。反対論者は曰く。「煙突を高くすれば高くするほど、煙害地域を拡大し、とんでもないことになる。建設に大金を投じた上、これ以上煙害地域を広くして、30万も補償金を払うようになったらどうするか。」涙ながらの叫びである。容易に結論の出る気配もない。
果たして久原はいかなる決断を下したか。曰く。「この大煙突は日本の鉱業発達のための一大試験台として建設するのだ。幸いに予期のごとく奏効し煙害を縮小し得れば、日立鉱山のため、日本の鉱業界のため慶賀に堪えないし、よし不成功に終わっても、我が鉱業界のためには悔いなき尊き体験となる。今後如何なる煙突を草案建設すべきかを示唆し得れば、以って我々の労苦は償われたと見るべきではないか。」久原にして初めてなし得る発言である。試験研究は試験管とフラスコ、ビーカーを相手に実験室のみで行うものでないことを喝破し、国家百年の計の前に目前の利害計算は問題でないことを論破しているのである…これより前に、神峰の気象観測所の観測によって、日立上空には逆転層という空気の層が有って、地上より流れた煙はその層を超えて流れることができず、低空を浮遊することがわかっていた。ならば逆転層を突き抜ける煙突を立てれば、煙は地上に降りることなく、洋上はるかに流れ去るのではないかと久原翁は考えたのである。
9ヶ月の工事の末、大正3年(1914)12月20日、155.7mの当時としては世界一高い煙突が完成した。労役人夫男32,389人、女4,451人、計36,840人。総経費152,281円。当時の日本の大工事がすべて欧米人の設計、指揮の下に建設されていたのに対し、大煙突は、日立鉱山工作課の設計、長平作工学士の指揮の下に建設された。大煙突は期待通りの働きをし、煙害はほぼ解決した。大煙突完成後も、排煙が地上に流れて被害を及ぼすことは毎年何回かあったが、往時に比べれば軽微といえた。大煙突にならって、各地で高い煙突が建設されたけれども、すべてが煙害解消に成功したわけではなかった。各地域によって、上空の自然現象が異なるからであろう。日立鉱山において、排煙利用硫酸工場が完成し、亜硫酸ガス排出が根本的に解消されたのは昭和26年(1951)のことである。