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源氏物語試論6


「枕草子」に隠された悲しみ  

「古代幻視」(文芸春秋、梅原猛)の「清少納言の悲しみ」が「枕草子」の真の 姿を浮かび上がらせてくれました。  
「枕草子」は桃尻調の随筆と長い間考えられてきました。しかし、清少納言が「 枕草子」をまとめたのはいつかというと、藤原道隆が没し、藤原道長の策謀によっ て中の関白家が没落した長徳の変から定子がなくなった2年後の1002年にかけてな のです。しかも、梅原先生と「国史大辞典」によると、「枕草子」は中の関白家側 の公式記録としての意味合いが持たされていたというのです。


中の関白家没落の真 っ只中でなぜこのような明るい随筆が書かれたのでしょうか?  
「枕草子」には、藤原道長への批判が簡単にはわからない形で隠されているとい います。  

七段に定子が可愛がっていた翁まろという犬が一條天皇の猫に吠え立てたために 、散々に殴られて御所から追い出される話が書かれています。この犬は数日後びっ こをひいてびくつきながら定子のところまで助けを求めにきました。この事件があ ったのは長保2年(1000)のことと推測されますが、これは長徳2年(996)に一度流 罪になりながらも、京に忍び込み、発見されて再び流された藤原伊周、を表してい ると考えられます。  

四十二段に、清少納言がまだ出仕する前の話が唯一書かれています。清少納言は 藤原道隆のあまりの美しさに驚くのですが、これが書かれたのが中の関白家没落後 であったことを考えると、栄華のはかなさを表していると思えます。もう一人この とき清少納言の目を奪った藤原義懐は、この20日後に花山天皇にしたがって出家し ます。これも考えてみれば不吉な話です。  

これは法華八講という法話会(社交界の意味合いもあった)のことを書いた段な のですが、「古代幻視」から抜き出すと、「またこの最後の文の前に、この法華八 講に始まりの日から終わる日まで毎日立っていた動かない車のことを述べている。 ひどく不気味であるが、この車のことを知りたいと清少納言は思う。この車の主人 に対する最小納言の関心は、彼女の感性のあり方を示しているように思う。それは なにか。死と零落から華やかな人生を見る目である。清少納言は意外に深い目を持 っている。」とあります。  

また難解で知られる百六段の「扇の骨」の話は、豪胆な正確であった隆家が、「 私は立派な扇の骨(能力、家柄)を持っているのにそれに張る紙(官職)がない」 という意味であろうと梅原先生は述べます。  

百四十六段に、定子が例え話で「なぞなぞ大会にあまりにも簡単な問題を次々に 出し、そのためその人に遠慮して、周りの人がかえって答えることが出来ず、優勝 をさらってしまう人物」というのを話します。これは超高の「馬鹿」の話を思わせ ます。つまり、中の関白家の権力を奪う道長と、それにおもねる百官のことです。  


しかしこのような逆境においても、定子は慈悲に富み、決して弱音を吐かず、ニ コニコと笑って悲運に耐えます。この定子に対し清少納言は恋愛以上のものを感じ 、崇拝に近い目で彼女の事を見ています。  つまり、「枕草子」の明るさは、中の関白家最後の誇りを保とうとする高貴なる 痩せ我慢の明るさなのです。そして、当り障りのないことを書くことによって、こ のように素晴らしい定子を遂には心労のため(直接の原因は出産)24歳での死にま で追いやった道長を告発しているのです。伝説では、清少納言は後の人生を定子へ の貞節に捧げて誰にも仕えず、落ちぶれきってしまったといわれています。  


清少納言ははじめ「枕草子」を公開するつもりはなかったそうです。ではそれを 世に出したのは誰だったのでしょうか?  それは源経房であったと梅原先生は述べます。清少納言は「源経房が畳の端にお いてあった「枕草子」を持っていき、その内容にしきりに感心していた、」と述べ ています。源経房の官位からこの記事は、長徳元年〜2年(995〜996)頃のことと考え られます。つまり長徳の変の最中です。  源経房は最後まで定子に忠実であったらしい。「栄華物語」には、定子の死後に 隆家が大宰府に赴くときに、隆家は定子の遺児敦康親王をくれぐれも頼むと彼に言 っています。死に臨んで孺子(幼子)を託すに足る(「論語」の言葉です。うろ覚 えなので正確ではないと思います。)とは古来より最大限の信頼を表します。


彼は 源高明の子で、しかも藤原道長の猶子でもあるのです。道長政権下で、「枕草子」 を発表する人物としては最適だったのです。    ここからは私の推測なのですが、道長は中の関白家へのガス抜き、あるいは怨霊 を静めるために「枕草子」の流布を見過ごしたのではないかと思います。  道長が恐れなければならない怨霊は、源氏よりもむしろ中の関白家です。「枕草 子」の中で中の関白家の栄華はいつまでも続くというわけです。「枕草子」にも鎮 魂の書としての要素があったといえるでしょう。  道長の絶頂期である1002年に、最大のライバルである中の関白家の栄華を謳った 「枕草子」が完成し、世に出たということは、考えてみれば異常なことなのです。