2001/5/28



尊王思想の研究3―太平記読みと忠義


●「太平記」が描く忠義
太平記は、楠木正成のような、無償の忠義を研鑚していますが、主君による利益供与・保護の反対給付としての忠義(自らの命を捨てることも含む)も積極的に肯定しています(例えば新田義貞と小山田高家)。領主と民の関係も、撫民をするのが領主の責務で、悪政を行えば、民は国を恨んで国は滅ぶとしています。民の抵抗権を認めていると言えなくもありませんが、そのような理念的なものというよりは、むしろこれはリアリティーというべきでしょう。室町時代や戦国時代の土豪や民衆はパワフルでしたから、悪政の結果身を滅ぼした大名も数多くいました。


●太平記読み
太平記読みは、この「太平記」の忠義観(双務契約的な忠義)を継承しています。太平記読みはさらに、「国」という概念を持ち出します。


「国」という概念を領主と民の上位に置きます。領主は民を慈しみ、国を栄えさすのが「国」に対する「忠」であり、民はそれぞれの生業に専念し(鈴木正三の思想を思い出してください)「国」を栄えさすのが領主への恩返しであり、「国」への「忠」だとしています。そして、それぞれの仕事を怠る領主、民は「国」に対して「不忠」であるとしています。


●「国」概念と幕藩体制
この「国」を見ると、近世の「幕藩体制」に良く似ていることに気がつく方もいるでしょう。戦国大名領国の中でも領国経営の法人化は始まっていますが、まだ大名の個性、個人的な力に大きく頼っていました。近世になって、戦争がなくなると、幕府・藩の法人化はどんどん進みます。元禄から享保にかけて、幕府や藩では戦国大名的な藩組織から官僚的な組織への改造がなされます。法人化された藩(幕府)の中では、藩主もまた一機関に過ぎず、決定権は持ちません。その極端な例が「君主押し込め」であり、藩の方針に反する者は藩主といえども排除されたのでした。法人たる藩のために務めるのが、藩主及び家老以下藩士たちの務めとなります。


ここで忠義は中世的な双務契約ではなくなり、法人への忠となります。そして、社会が安定し、その法人での位置が宿命的なものとなると、水戸学の「忠孝一致」が生まれるのです。


法人となった藩を活用し、法人としての利益を求めることで金沢藩、長州藩、薩摩藩などは殖産興行をして富を蓄えていくのです。幕末の藩は産業を興して、藩の産品を売りさばく総合商社のような様相を呈してきます。


●ハードコアな儒学者佐藤直方の挑戦
この太平記の忠義観に真っ向から反対したのが。山崎闇斎の高弟の一人である佐藤直方です。彼はハードコアな儒学者で、このような日本的な「ごじゃっぺ」で功利的な世界観を真っ向から否定しました。


彼は自覚して規範に従うことの重要さを主張します。彼にとっての規範とはもちろん朱子学です。彼にとっては、楠木正成でさえも、聖賢の教え(儒教)を正式に習得していない故に、自覚的にそれに従ったわけではないから大した人物ではありませんでした。


利益をもらおうがもらうまいが正しいことに従うべきである。しかもその「正しいこと」は、日本人が陥りがちな「自己の心の赴くまま」ではなく、儒教のテキストに書かれていることを自覚的に勉強して習得すべきものなのです。


●太平記読みと佐藤直方と忠臣蔵
太平記読みの思想は、やがて講釈師による「太平記」講釈により民間にも伝わっていきます。太平記読みによって、高師直の悪は誇張して描かれていますが、太平記読みの世界観の上に、赤穂事件及びその潤色である忠臣蔵は乗っかります。赤穂事件よりも前に,高師直と円治判官の物語は流行していました。また、近世初期に忠義の士が巨大な悪(仇)に向っていき、最後にはその忠義の士が負けてしまう…という筋の劇が流行します。赤穂事件はこれを実演したと言えます。


赤穂事件における、赤穂藩士の行為は、明らかに法律違反です。浅野矩長は、江戸場内で刀を抜いた瞬間に、死刑が確定しています。赤穂藩士は、「主人が果たせなかった吉良義央への遺恨晴らしを実行する」これを名目に事件を起こします。しかし、主君の「妄執」を継承することが「忠義」であるという考えは、儒教には存在しません。儒教においては、儒教的美徳を実行するために浅野矩長が死んだのならば、その遺志を継承することには意味がありますけれども、浅野矩長が吉良義央を殺そうとしたのはどう考えても儒教的美徳ではありません。また死者の「妄執」を実現することによって、死者が満足するという考えは仏教にはありません。吉良義央が刃を振るって浅野矩長を殺したのならば、吉良義央は赤穂藩士にとって討つべき仇となりますが、吉良義央はただの被害者です。この赤穂事件は日本に特異な現象と言えましょう。


赤穂藩士が赤穂事件を起こした真の目的は、拙速な裁判によって赤穂藩を取り潰した幕府(特に徳川綱吉)へのあてつけだった、という井沢元彦先生の説が、私は一番当っていると思います。1999年の大河ドラマもこの見方を取っていました。

これは元禄当時の学者がほぼ一貫して持っていた見方です。萩生徂徠や佐藤直方がその代表です。「赤穂藩士は幕府の裁定を不服としてこの事件を起こしたのだから、彼らを許してしまうと幕府は自らの間違いを認めことになり、法律がめちゃくちゃになってしまう」と彼らは主張しました。佐藤直方は、「赤穂藩士の行為は忠でもなんでもなく、事件後切腹して果てるのならまだしも、生き続けているのは、人に褒めてもらい、禄を得ようとしているとんでもない行為だ」と切って捨てています。

萩生徂徠や佐藤直方の危機感の裏には、元禄期に爆発的に進んだ経済の発展がありました。全ての人間が、武士も例外ではなく利に流れていました。江戸開幕によって日本は安定し17世紀初頭から元禄にかけて、人口は2倍に、耕地も沖積平野が新たに開墾されて激増しました。その高度成長の頂点が元禄で、都市では華やかな文化が花開きました。萩生徂徠は事情で十数年江戸から田舎に家族で引きこもり再び元禄の江戸に戻るのですが、その間の世間の変貌に驚嘆しています。人々がことごとく功利と快楽に流れていました。萩生徂徠は、これを否定しているわけではないのですが、この社会の激変に対して、武士の方も新たな考えを持たねばならないとし、それを模索しつづけました。佐藤直方は儒教を教条的に導入して新たなる武士のバックボーンにしようと考えました。

社会は安定しました。しかし閉塞も始まりました。その中でどのように生きていくべきか、近世の日本人は模索します。尊王思想はその中から生まれた答えの一つでした。