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大日本史概要2


大日本史とは江戸時代に水戸藩で編纂された漢文の日本史です。神武天皇から後小松天皇までの時代を対象とし、中国の正史の体裁である紀伝体に従って本紀73巻、列伝170巻、志126巻、表28巻からなり、志類はさらに神祇以下、氏族・職官・国郡・食貨・礼楽・兵・刑・陰陽・仏事の10志に、表類は臣連二造以下、公卿・国郡司・蔵人・検非違使・将軍属僚の5表に分けられています。


光圀が1657年(明暦3)江戸駒込の下屋敷に史館を設けたのが編纂事業に着手した最初です。1672年(寛文12)には史館を小石川藩邸に移して彰考館と命名しました。そして多くの学者を集めて研究をしましたが、中でも佐々宗淳、安積澹泊、栗山潜鋒、三宅観瀾たちは有名です。


光圀は大日本史編纂のためには史実の正確性を期する必要を感じて佐々らを日本全国各地に派遣しました。そこで古文書・記録の採訪に従事させたのです。また、保元物語、平治物語、源平盛衰記、太平記などの主要な史籍については、異本を収集して校訂を加えています。いわゆる参考本を作ったのでした。
これらの事業は江戸時代における歴史研究の方法の進歩に大きな貢献をしています。


光圀の没後になりますが1709年(宝永6)に本紀・列伝が一応完成しました。それから志・表の編纂に着手になりました。大日本史は1720年(享保5)幕府に献上されましたが、校閲の必要が感じられるようになり、塙保己一らにより全面的に原典との照合が行われたのです。そして何と1810年(文化7)になって始めて朝廷に献上されたのでした。そして1848年から53頃??(嘉永)に公刊されました。


志・表については明治に入って栗田寛が中心となって編纂を継続し、1906年(明治39)に全部を完成したのです。


この編纂の主眼は朱子学の思想に基づき、大義名分を明らかにすることにありました。言い換えれば歴史叙述を通して封建的道徳理念を明らかにしようとするものだったのです。これは下克上を理論的に否定するために考え出されたものです。つまりパックス・トクガワと言う名の平和を永続化させるための理論であったのです。


大日本史のいわゆる三大特筆とは、神宮皇后を后妃伝に入れ、大友皇子(弘文天皇)の即位を認め、南朝を正統としたことなどです。これらはこうした名分論の見地から出たものでした。安積澹泊の執筆した論賛(史上人物に対する批評)はこの趣旨を明らかにするものでありましたが、後に朝廷への献上する時には本文から削除されています。


これらの主張がいわゆる水戸学の思想を培いました。さらに一般には尊皇思想の発達を助けたことが特筆されると思います。しかしその名分論は感情的な偏狭さに陥る事を避けて穏健な態度を維持しており、史実の正確を重んじ出典を必ず明記した事などとともに学問的見地から賞賛されているのです。