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水戸学の成立とその変遷


水戸学とは大日本史編纂事業を行っていた水戸藩に成立した学問の事であり内容上前後の二期に分ける事が出来ます。


1.前期
光圀が1657年(明暦3)小石川に支局を開いて編纂事業に着手しました。そしてこの支局に集まった学者たちの間に過去の日本の歴史について朱子学的名分からこれを明らかにしようとする学風が起こりました。「論賛」を書いた安積澹泊、「保建大記」を書いた栗山潜鋒、「中興鑑言」の三宅観瀾を水戸学の代表的な学者として名前を挙げることが出来ます。彼らは歴史論において名分を正す論評を行い、それによって尊皇抑覇(王は朝廷、覇は幕府)の思想を述べました。しかしその名分論の対象は過去の鎌倉幕府、室町幕府に向けられたもので江戸幕府には向けられませんでした。それどころか徳川家康は徳を持って乱を治め王事に務めたとして尊皇敬幕の思想を表明したのです。


これではダブルスタンダードだと言われても仕方がないと思いますがこの時代の限界でもあったと思います。また大日本史三大特筆の中に大友皇子の即位を認めている事が挙げられていますが、即位を認めた理由について日本書紀を編纂したのが天武天皇の子供である舎人親王であるからだ、と光圀は推論しています。全く同じ事がここで言えるのではないかと思います。


名分論の内容とは要するに家臣の限界を説くものでありますから、君主と家臣の主従関係を戦国時代までのいわば対等の関係から上下関係へと理論的に転回させるものでした。封建制度社会の身分を堅持する事が求められていたからです。これは下克上の可能性の目を摘むことに目的があったと言い換える事もできると思います。


朱子学的名分論による過去の判断とはその当時の社会情勢を無視していますから、その論法の進め方がいかに理論的かつ科学的に見えるものであっても実際のところ机上の空論にしか過ぎないのではなかったかと思います。実態とかけ離れた結論を出さざるを得ないところが朱子学の限界を如実に物語っているのだと思います。


しかしこの論法は君主側から見ると非情に都合のいい論理でありましたし大平の時代が進む事と相乗効果を成したのだと思います。


2.後期
水戸家8代徳川治紀から9代斉昭の時期(寛政から安政1789−1860)にかけて藤田幽谷、藤田東湖、会沢正志斉たちが彰考館において現実の政治、経済の問題を取り上げて尊皇攘夷思想を主張しました。その主張の特色には士風の退廃、藩財政の窮乏、農村の荒廃、百姓一揆の続発等、封建支配が長期にわたって続いた為にそのほころびが現れてきた事に対してこの危機を敏感に感じ取り、その対策としてゆるんだ忠道徳の振起を強調した事にあります。そして皇室の尊厳を説いたのです。鎖国制度を守るために夷狄に対する神州日本の名分論的優位を論じて攘夷を主張したのです。


後期水戸学が天保から安政にかけて(1830年頃から60年)諸藩の改革派に大きな影響を与えた理由としては、封建制建のて直しに対して理論的支柱を与えたからだと思います。しかし、水戸家は御三家という立場上から尊皇敬幕の枠を脱しきれませんでした。そのために文久期(1861−64)以降は政治的指導力を失うに至ってしまったのです。しかし明治維新の根元的理論は水戸学にあると誰もが認めるところだと思っています。


徳川御三家である水戸藩の人物にこれ以上望むのは無理だったのではないかと思います。最も残念なのは天狗党の乱により水戸藩の人材が枯渇してしまった事の方にあります。


付記)
斉昭の時代に藤田東湖、会沢正志斉たちをブレーンとして「水戸藩の天保」の改革が行われました。この水戸藩での改革の実績が水戸学を全国に広がった原因だと思います。さらには水野忠邦にも影響を与え幕府の「天保の改革」にも影響を与えていると言われています。
その内容とは


1.質素・倹約の励行


2.武備の充実
これは外国勢力を対象に考えられたものでした。斉昭がかなりの危機感を抱いていた事を伺う事が出来ます。海防掛かりを新設し那珂湊に砲台を築いています。


3.弘道館の建設
斉昭が著した「弘道とは何ぞ、人能く道を弘るなり」に始まる「弘道館記」は建学精神の表明であるばかりでなく水戸学を集約したものと言われています。藤田東湖はこれを「弘道館書述義」によって解説し日本中に知られる事になりました。幕末の志士達の必需本と言われています。


4.検地
この目的は富農の土地集積ほ押さえて貧農が増加する事を阻止するところにありました。これにより農村の疲弊は押さえられたと言っていいのではないかと思います。


5.財政再建
斉昭は蝦夷地の開拓を何度も幕府に願い出ています。これは北方守備の名目とともに増収を考えていたのではないかと思います。また紙、たばこなどの販売にも力を入れています。


6.寺社の改革
水戸藩では光圀の時代にすでに神仏分離の宗教政策を実施していましたが、まだ不十分だと考えたようです。領内にあった無住の寺院四十余を整理し、水戸東照宮を唯一神道に改めました。さらには寺請制度に代わる氏子改めを始め神道を生活の精神的支柱にしようとしたのです。しかしこのような寺社政策は当然ながら仏教側の強い反発を招く事になりました。これが斉昭失脚の原因をつくったと言われています。