2000/10/31
11/1推敲訂正



藤原氏の秘密5(その1)


天皇家に姓が無いのはどうしてなのでしょうか??これは古代史を調べていくと必ず突き当たる謎でもあります。これに対する答えとして今までに様々な説が創られてきているのは周知の事実です。そして天皇家とは文化的先進地域である朝鮮半島からの征服者??を始祖に持つのではないかという説が支持されているように感じられています。


しかし、この説は大変魅力的ではありますが致命的とも言える弱点を持っています。それはもし天皇家の始祖が朝鮮半島出身者であるとすれば彼らは必ず姓を持っていたという点なのです。これは中国系であっても同様です。漢民族の支配エリアの更に北の大草原を本拠地としていた北方系の遊牧民族は部族名しか持たなかったと見られていますが、彼らが大陸や半島の沿岸部に住む民族のバリアを一気に飛び越えて日本にまで到達する事を想定するのはどうしても無理があるように思っています。


もし少数派が多数派を支配する場合があったとしても、自らの出目が誇るべきものであるとするならば支配層はそれを隠したりはしない筈なのです。ましてや文化的な先進地区からの征服者であるとすれば尚更のこと隠す必要などが無いという事実を歴史は物語っています。つまり敢えて隠すというのは公にしたくない(あるいは公にする事が出来ない)理由があるからだと考える方が自然ではないかと思えるのです。中国大陸から日本列島に至る文化の伝播ルートとしての朝鮮半島とは日本よりも遙かに先進地域であったことは誰でもが認めている事実だからです。


文化的なものが高きから低きへと伝わるのは真理の一つです。しかし、それに伴って伝わった物品の痕跡を根拠としてあたかも日本が半島若しくは大陸の住民の植民地であったかのごとく結論づけるのは早計ではないかと思っています。国家という組織は古代であっても巨大であり、あまたの無名の人々によって支えられているものだからです。「十人十色」と言われているように多くの現地人(この場合はネイティブ・日本人を指す)のコンセンサスを得るのはとても大変な事なのです。ですから乏しい根拠を持って一気に民族の支配構成にまで結論を広げるという論理にはどうしても説得力に欠けるように思われてしまうのです。


更に付け加えるならば文化に限らず交流とはお互いに影響を与え合うものです。これは決して一方的ということはあり得ません。しかしそれにしても舶来の物に対する憧れの高さは日本人の特徴と言えるのかも知れないと思っています。ブランド品に群がる人たちを見るとその舶来品崇拝主義は時代が下り平成の元号を持つ現代でも脈々と続いているように感じられて来ます。


例えば全世界に広がる華僑は独自のネットワークを持っていると見られています。彼らは勤勉であり、さらに豊富な資金力などまでも持っているようです。しかし、それでも華僑達は政治的支配者として各国に君臨している訳ではありません。例外としてあるのはマレーシアから独立したシンガポールだけではないでしょうか??このことから見ても民族的少数派が絶対的多数派にうち勝つのは想像以上の困難を伴う事が容易に想像されると思っています。


勿論、長い日本の歴史の中では帰化人を先祖として持つ個人あるいは集団が時の政権の中枢に座った(将来も??)可能性を否定するわけではありません。しかし、これは「土着化」=混血の結果であると見るべきなのではないかと思います。日本人は文禄・慶長の役により朝鮮から強制的に連れてきた焼き物などの職人に対して差別をしませんでした。それどころかこのように優れていると認めた者に対しては広くそれを受け入れようとする習慣があります。その理由はこの日本という場所が四方を海に囲まれた島国であるが故の閉塞感に依るところが大きいのかも知れません。あるいは全く逆に開かれた感覚を持つ海洋民族のDNAのなせるワザだったのかも知れません。海は人々の往来を阻むものではなく反対に海こそが外に対して開かれたルートだったのですから。このような環境の中で育まれた私たちの先祖が物事を柔軟に取り入れる体質を形づくっていったとしても不思議ではないと思っています。



歴史的に見ると新しい知識、技術とは必ず海を越えてやって来ています。そのかなりの部分は朝鮮半島経由だったはずなのです。このような観点から見ると日本人が朝鮮人に対して差別意識を持ったという歴史は浅いと思っています。しかし文化的後進地域であることを自他共に認めていた古代においても日本にやってきた人たちに対して「帰化人」という言葉を使っていた事は注目に値すると思っています。これは彼らが亡命者や難民だったからこそではないかと思っています。若しくは文化的に後進地区であった事を自認しているにもかかわらず自らが主体であるとする強烈なプライドの現れとして用いたのかも知れません。ところで蛇足かも知れませんが、このような歴史的用語を「渡来人」と言い換えようとする最近の「運動」については歴史の真実を覆う結果になるのではないかと心配しています。


歴史の具体例としては世界史上最大班図を誇る「元帝国」の国力を持って初めて巨大な壕である玄界灘バリアを越えて日本に達する圧力を生み出すことが出来たと言えるように思っています。またこの事は「逆もまた真なり」が正に当てはまるのです。このように見ると白村江の戦いの敗北とはあるいは必然だったのかも知れません。さらに16世紀末において世界最強と見られていた秀吉率いる日本軍が起こした朝鮮の役にしても日本は結局は撤退しなければなりませんでした。このように見てくると「力責め」で他国を支配下におくことがいかに困難なものなのか分かると思います。


ちなみに白村江の戦いにおいては日本水軍の船の数の方が唐・新羅連合軍を圧倒していたようです。しかし、もし白村江の戦いという局地戦に勝利したとしても地の利を得ない日本軍は労多くして益少なし状態に陥ったのではないでしょうか??秀吉の朝鮮出兵についても同様です。「調略」を用いる事をせず、相手の内部崩壊を起こさずに勝利する事はまず不可能なのです。勿論、白村江の戦い後における唐・新羅連合軍による占領統治(GHQ説)などは全くあろう筈がありません。