2001/2/22
推敲2/23



佐竹氏への系譜 清和源氏の謎2


「清和源氏の謎」とは明治33年(1900)に星野恒先生が論文「六孫王は清和源氏に非ざるの考」を発表された事に端を発しています。その内容とは六孫王(=経基王=源経基)から源頼朝へと至る系譜が清和源氏ではなく実は陽成源氏であったというものだったのです。この説の根拠としては六孫王の孫に当たる源頼信が石清水八幡宮に納めた「告文」(=神に捧げる文)が発見されたことにありました。この告文の中に清和天皇→陽成天皇→『元平親王』→経基王(=六孫王=源経基)→源(=多田)満仲と系譜が書かれていたのです。ちなみにそれまで信じられてきた清和源氏の系譜とは、清和天皇→『貞純親王』→経基王(=六孫王=源経基)のことです。


この論文が発表された当時かなりの衝撃を与えたものと思われます。何故ならばこの内容は今までの定説を完全に覆すものだったからです。これは今まで信じられてきた系譜とは大きく違うものでした。何しろ人物も世代も異なるのです。これはそれ以前までは全く存在していなかった考え方だったのです。しかし神に捧げる文章に血統上の嘘を書く必要は考えられないのです。


それだけにこの告文の信憑性についても様々な疑問が提示されてきたわけです。要するにこの告文の真贋について厳しく査定されたのです。しかし、現在ではこれの信憑性はほぼ認められています。この事とはつまり、頼信が自分自身の系譜をこのように認識していたことも認めざるを得ないとされたと同じ事でもあります。


「清和源氏」は平安時代以降において日本史上における最大の勢力であり続けました。本来「源氏」とは21流の全てを指す言葉です。さらに「清和源氏」だけでも19流もあるのです。しかし、それにも係わらず、「源氏」といえば(ほとんど)この系統を指すものとして使われてきました。つまり「源氏」といえば「清和源氏」を指し、「清和源氏」といえば義家から頼朝に至るこの系統を意味するほどだったのです。このようにして最大勢力の「源氏」とは清和天皇→貞純親王→源経基の系統の「清和源氏」であると明治時代に至るまで疑われることなく信じられてきたのでした。これがいわゆる「定説」でした。(現在の歴史参考書や辞典類でも単に「清和源氏」とされています)しかし、ここにおいてこの定説が覆されようとしているのです。


この視点で見てみると清和源氏の発祥について確かに様々な不審点を見つけることが出来ます。史料によって貞純親王や元平親王の生年や没年の記録がばらつきが多い点は致命的のように感じられてきます。そして彼(どちらかの親王??)の子どもの経基王もまた同様に不審な点が多いのです。更には満仲についても怪しい点とがあるという人もいるくらいのです。


このように「清和源氏」という超メジャーな系譜は整合性に欠けるデータが多数存在しているのです。この謎を解明しようとして様々な説が唱えれています。しかし、残念ながら証拠物件が見あたらないために、あくまでこの矛盾点の解決は推論の域を出ないようにも思われてきます。その様な中でも整合性のある説を見つけたり構築しようとするのはとても楽しく感じられてきます。この「謎」について整合性をもって説明をする事が出来るのであれば真実の姿により近づいた仮説であると言えるように思っています。




※源氏の21流とは下記のとおりです。
(52代)嵯峨源氏
(54代)仁明源氏
(55代)文徳源氏
(56代)清和源氏
(57代)陽成源氏
(58代)光孝源氏
(59代)宇多源氏
(60代)醍醐源氏
(62代)村上源氏
(63代)冷泉源氏
(65代)花山源氏
(67代)三条源氏
(71代)後三条源氏
(77代)後白河源氏
(84代)順徳源氏
(88代)後嵯峨源氏
(89代)後深草源氏
(90代)亀山源氏
(94代)後二条源氏
(96代)後醍醐源氏
(106代)正親町源氏


※清和源氏19流は下記のとおりです。
(次男)貞固親王系統1
(三男)貞元親王系統2
(四男)貞平親王系統1
(五男)貞保親王系統2
(六男)貞純親王系統2
(七男)貞辰親王系統1
(八男)貞数親王系統1
(九男)貞真親王系統4
(十男)貞瀬親王系統1

以下は親王世代で臣籍降下
(十一男)源長淵系統1
(十二男)源長猷系統1
(十三男)源長鑒系統1
(十四男)源長瀬系統1