2000/3/4訂正
2000/3/9鹿島神宮の写真を掲載



茨城の重要な地域 鹿島1


茨城県の中で歴史的に見て重要な地域とは鹿島、石岡、そして常陸太田の名を挙げる事が出来ると思います。これらのことを解き明かしていくことが、なぜ茨城県(常陸国、下総国)が当時の大和朝廷政権にとって蝦夷地と国境を接する辺境地域にもかかわらず上国という最高のランク付けをうけ、かつ親王統治国に選ばれたのかという疑問に対する回答になるのではないかと思います。(当時は上国、中国、下国という三段階のランク付けがされていました)


鹿島は昔から鉄の産地でした。現在鹿島にはコンビナート工場が建ち並んでいますが、1300年以上も前から鹿島は鉄の産地として製鉄の煙が立ち上っていたと言われています。これは当時は青銅製の武器が主流であった事を考えると非常に重要だと思います。鹿島で生産される鉄製の武器の前には青銅の武器の軍隊など敵ではなかったはずだからです。


また鹿島は利根川流域に属しますから肥沃な耕作地を持っていました。いわば自然の港とも言える場所が利根川に接した鹿島ですから流通にも適した場所でありました。この鹿島は人口的にもかなり大きかったように思います。


おそらく鹿島は鉄製の武器を装備した最強軍によって関東一円を支配していた可能性が高いと思っています。それには鹿島のすぐ隣りに稲敷郡があることが論拠の一つになっています。郡の名前とは河川名をそのまま使う事が一般的です。それから考えれば稲敷郡の名前は比較的最近になって創設されたものだと考えることが出来ますが、あの一帯がどのような地域であったのかはその名前の示すとおりです。


稲敷郡とは関東地方でもの最大級の耕作地帯だった(何しろ稲が敷きつめてあるほど)つまり日本最大級の穀倉地帯だということです。ちなみにここは現在も稲作地帯として有名です。強力な武器の生産地でありながら肥沃な耕地を持っていれば強力な軍隊を有する巨大勢力が存在したと考える方が自然だと思います。


この巨大勢力は大和朝廷が勢力を関東にまで伸ばしてくる以前から存在していたように思います。大和がその勢力を関東にまで伸ばしてきた時に「鹿島勢力」に対して結果として懐柔策を採りました。この理由としては恐らく距離的に遠方にある事が第一に挙げられると思います。つまり大和にとって直接の脅威にはならなかった事が最大の理由なのだと思います。


また大和としては鉄製武器を装備する強力な軍隊とは遠方で事を構えたくなかったのでしょう。本心の部分ではその最強の武器が欲しかったのだと思います。一方、鹿島にしても大和と連合するには当然メリットはあったはずです。対蝦夷戦略上(同類か??)からも両面の敵を相手にすることは下策でしたし、敵の敵は味方という論法であったのかも知れません。


いずれにせよ鹿島、大和は良好な関係を結びました。こうしてみると大和朝廷の執拗とも思える対蝦夷征伐の本当の理由とは本国の安全保障という「鹿島の意思」なのかも知れないと思われて来ます。


鹿島神宮はタケミカヅチの神を祭る関東最古最大の神社です