2003/02/11



神功皇后の煌めき3


「おきなが たらし ひめ」の受けた「啓示」とは神から発せられたメッセージを受け取ったものであり、つまり一種の「閃き」に他なりません。ですから、彼女がその「閃き」の根拠を「たらし なかつ ひこ」にうまく説明出来なかった事の方が、かえって自然であり、整合性を持った話のように思えてきます。何故ならば、神を感じる事が出来ない人にとってみれば、「神託」とは一種の「夢」のようなものである、とまでしか理解できないように思われるからです。つまり、神からのメッセージを受け取る事が出来ない「普通の人」にとっては、これは夢に極めて似通ったものである、という程度までしか理解できるはずがないからです。「神託」として示した事の根拠を合理的に説明する事など初めから無理だと思うのです。話の内容を理性的に理解しようとする相手に対して、理路整然と理解納得させようと説明を試みた結果として、理屈がうまくかみ合わずに矛盾が生じたとしても、その方が当たり前なのです。


しかし、ひょっとしたらですが、神功皇后の神託は大胆かつ極めて綿密に計画されたものかもしれない、という可能性もまた否定出来ないように感じられて来ます。これは急転直下して決定された、「新羅征伐」の圧倒的成功にあるのは言うまでもありません。この神託の真の姿とは「閃き」によるものなどではなく、全く逆に、綿密に計算され尽くした「合理的判断」によるものではないかとも思えてくるのです。このように、色々な方向から推理を働かせて考えるのもまた楽しいものです。この「神託」が合理的判断がつくのかもしれないと考えてみるのは、「インスピレーションの発動」とは180度違った見方になりますが、それでも可能性を追求するのはとても面白いのではないかと感じるからです。いずれにしても、神功皇后の決断によって4世紀の極東アジアの国際情勢が決定されたのは間違いがありません。


日本書紀では「やまと」の兵を率いて来た仲哀天皇のところにやって来た神功皇后が、橿日宮で突然神託を受けたと書かれています。「熊襲征伐」のために九州にまで来ているにも拘わらず、突然「新羅征伐」をしろと神様のお告げを受けるわけです。これはあまりに突然すぎるものであり、普通に考えれば国内統一を目指した(あるいは国内の反乱を防ぐ)仲哀天皇の方針こそが上策であるはずなのです。何故ならば、もし仲哀天皇が海を越えて朝鮮半島への進出を計画していたとしても、その前進基地になるべき九州が平定されていなければ遠征が不可能なのは明らかであるからです。もし九州を平定せずに朝鮮半島へ派兵するという事は、退路を失う可能性が極めて高く安全性を欠くという事になります。朝鮮半島へ渡海した後で九州で反乱が起これば、退路を断たれた「やまと」軍団の壊滅を意味するのは軍事的から考えれば当然の事だからでもあります。


このような理屈を古代に生きていた人が理解できないと考えるのは、古代の人達をあまりにも甘く見ていると思います。朝鮮半島からの侵略に対抗するためというのであれば、その本拠地を叩くというのは理解出来ます。しかし相手にそのような事実(実力=軍事力)はありませんでしたので、無用の外征であると仲哀天皇が判断されてもそれは当然と思えるのです。南原次男先生は「日本の建国史」の中で、仲哀天皇の判断こそが戦略面から見ても最も正しい判断だったと述べられていますが、私も同じように考えています。


しかし、ここで新たに思うのは「やまと」の国力が予想よりも遙かに巨大であったかもしれないという事なのです。例えば、戦国時代を統一した秀吉の下には膨大な兵力が集まっていました。統一戦争を行う以上は、相手に打ち勝ち、更に相手の兵力も取り込んで行くわけですから、最終的には超絶したパワーを手に入れる事になるのです。まるで、巨大になった雪だるまが一回転するだけで、今までの何回分もの雪を集めるてしまうのと同じようなものなのかもしれません。国力の膨張が急激であったために兵力の余剰を生み出していた事は、神功皇后の新羅征伐から1200年の時を経た「唐入り」の時において、大きな動機の一つになったのではないかと見られています。


このように考えると、「新羅征伐」とは兵力の有効活用として以前から暖められていた計画なのかもしれないと思うのです。九州の熊襲を征伐するために遙々「やまと」から遠征軍を率いてきたにも拘わらず、その進行方向を180度変更する事がそんなにも簡単に可能だったとはどうしても思えません。突然の海外遠征が可能だった理由は「やまと」が水軍によって兵を移動させているからだろうと考えています。要するに「やまと軍」の主力とは水軍であったからこそ急な攻撃目標の変化に対応できたのではないかと考えているわけです。それも玄界灘を一気に超える能力を持った船団を保持していたわけですから、想像以上に強力な水軍を保持していたものと考えられると思っています。


いくら古代においては巫女の信頼が私達の想像を遙かに超えるほどに高いものであるとしても、納得するようなものがなければ周囲の信頼を得るのは難しいように思えます。この可能性は否定できないような気がしています。信頼を掴むのは神功皇后が巫女として絶大な信頼を得ていたということよりも、もっと具体的な理由により可能だったのかもしれません。神託の真意とは、熊襲を味方につける事に成功して熊襲水軍も新羅攻撃に加わるという意味だったのでしょうか。「閃き」であろうとも結果が良ければ最高の啓示であるといわれるのです。もしこの結果が失敗に終わっていたとしたら、「白村江の戦い」が300年前に出現した事になり、神功皇后はともかく応神天皇は歴史に名前を残すことは出来なかったかもしれません。


熊襲と新羅は同盟関係(のようなもの)にあったと、外部からは見られていた可能性についてはどうなのでしょうか。新羅の建国神話によると熊襲から王を迎えたとあるくらいですから、当時の実態としても熊襲と新羅とは友好関係にあったと思われた可能性を否定できないように思えるのです。新羅の建国神話とは、神武天皇東征の時に二つに分かれた隼人の一派が朝鮮半島に渡ったという伝説なのでしょうか。神武天皇による東征とは、彼よりも先に新羅や出雲へと勢力を伸ばした「先行した隼人」を追った行動なのでしょうか。


出雲が新羅と親しい関係だったらしいというのは、素戔嗚尊の「国曳き伝説」や地理的環境から色々と推理されています。出雲は「いずくも」から変化して「いずも」と呼ばれるようになったのではないか、と漠然と考えたりしていました。でも、あるいは「いずくも」ではなく「いずくま」から変化した可能性も考えられるのかもしれません(トンデモかも)。出雲と熊襲の関係については良く分かりませんが、しかし、もしそうならば「いでるくま」つまり「出る熊」となり「くまそ」に近い感じがします。「熊」が森林の王者であるという認識は、山国でもある日本列島では何処の場所でも常識だったのかもしれないと思ったりします。


日本武尊の戦った有名な相手は「クマソタケル」と「イズモタケル」という剛の者でしたが、両者に対して彼が取った行動はとてもよく似ています。どちらの「タケル」に対しても騙し討ちにより勝利を得ているのです。ここには現代の私達がイメージする「正々堂々」とは無縁の姿が描かれています。スーパーヒーローにしては余りにも卑怯な行為だとつい感じてしまうのですが、これは現代人の感覚と古代人の感覚が同一ではないという事を正に示しているように感じています。この二つがとてもよく似たパターンであるところからみても、日本武尊に打ち負かされたこの両者は何か繋がりを持っていたような気がします。熊襲を発祥にして新羅、出雲は出身を同じくする者たちが作り出したポリスだったのでしょうか。もしそうなら、これは九州、朝鮮半島、そして山陰地方にわたる巨大なトライアングルを形成していた事になります。


「古代からの伝言3」の中で八木荘司先生は魏志倭人伝の狗奴国を熊野に比定していました。そして「くまの」を神武天皇の本拠地であったように書かれています。私は「くまの」は「くまそ」にとてもよく似た発音であるのをとても印象的に感じました。天孫一族による日本列島統一とは、先行していた熊襲による統一の後を追った行動なのでしょうか。そうなると「やまと」の統一とは熊襲からの「国奪い」に他なりません。これが「出雲の国譲り」の神話として象徴的に伝承されてきたのでしょうか。しかし、彼らは元々は一つの集団であり隼人=熊襲なのかもしれません。もし、そうでないとしても、彼らは極めて近い関係の部族であったことが想像されてくるのです。このような考えを推し進めていくと、日本列島統一で先行していた隼人の一派を追い落としたのが神武天皇の派閥なのかもしれません。神功皇后の新羅遠征は大きな意味で「熊襲」征伐の一環として考えることが出来るような気がします。


勿論、以前にも書いたとおり、もし彼らがポリスを作ったとしても自分たちだけで「拡大再生産」を行ったわけではないはずです。現地化をすれば必ず地域での婚姻をすることになります。このようにして世代を経るごとに「他人」になっていくのです。