過去ログ128(2001年〜9月2日)


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武来人さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月 2日(日)12時36分30秒

現代における東南アジアでの不安定要素の最大のモノと言えば中国と朝鮮半島なのは明白です。

人民日報など論外だと思っています。
何しろ日本のように自由な言論が全く保証されていない国の発信する内容は必ず強力な指向性がかかっているのは明白だからです。

それにしても不思議なのは戦前の日本よりもさらに制限のある体制の方に荷担するその精神だと思います。
それとも「敵の敵は味方だ」というように単なるマキャベリスト的な発想から来ているものなのでしょうか??

いずれにしても日本に中国や北朝鮮のような「独裁政権」が誕生すれば言論の自由など夢のまた夢になってしまう事が彼らにはどうして分からないのでしょうか??
朝日新聞等の行為は自分で自分の首を絞めている事以外には思われません。

中国こそがアジアで孤立している事をもっと自覚すべきだと思います。
中国は巨大な人口を抱えていますが普通な考えればこれはネックになるのは当然なのです。

貧乏人が12億人もいる状態は正に「貧乏人の子沢山」に他なりません。
これを巨大な市場などと言っているのは「トリック」=詭弁そのものだと思っています。

日本も巨大な余剰資金が大陸に注ぎ込まれていますが、泥沼に金を投げ捨てるのはそろそろ止めておかないと大変な事態に陥ると思っています。



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安部さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月 2日(日)12時31分38秒

自分を極悪人と言う人で悪い人はいませんよ、笑

神風特別攻撃隊はレイテ湾海戦に際して大西滝治郎中将が命じたものとされていますよね。
敵艦船に対する体当り攻撃の発想は主客転倒した発想として後世に語り継がれるものと思います。
この戦法は普通に考えれば全く絶望的なものだったと思います。

大西自身は最後に割腹自殺をしていますから、彼なりの責任の取り方だったと思いますが彼一人の命で責任がとれるはずはありませんよね。
でも大西一人に責任を押しつけるのも思考停止のように思っています。

第二次世界大戦に至る過程については井沢先生の「逆説のニッポン歴史館」に書かれている意見のとおりだと私も思っています。

逆説のニッポン歴史館は半年以上前に買ってあったのですがようやく昨日読み終わりました^^;;

紋次郎さん、人はハングリーでなくなった時に堕落が始まるのかも知れません??
でもこの「堕落」は人類の目指してきた「進歩」でもあると思うのです。

>外敵と戦争を続けなかったら、どこの民族もアタマ・デッカチになるのではないでしょうか
正にその通りだと思いますが、これは世界史的に見れば極めて幸せな状態でもあるのでから判断はなかなか難しいように思っています。

>日本人は朝鮮人とみたらすぐに殺したがるし、アイヌ収奪にはまったく無反省で悪虐のかぎりをやりまくった
日本人は朝鮮人とみたらすぐに殺したがるというのは紋次郎さんの誤解だと思います^^;;



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大三元さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月 2日(日)12時27分11秒

「知ってびっくり!古代日本史と縄文語の謎に迫る」を思わずもう一冊買ってしまおうかと思いました^^
でも私が買い占めてしまうと他の人が読むチャンスを奪うことなので断念しましたv(^o^)

kitunoさん、タイタニックは見ていません^^;;
以前テアトルで上映されていたときにものすごい行列だったのを覚えています。
そう言えばタイタニックの主題歌(タイトルは失念、笑)のさびの部分を口ずさんでいると小柳ゆきの「あなたのキスを数えましょう〜」になってしまうのは何故なのでしょうか、笑

法隆寺へは一昨年初めて行ってきました。
あのような田舎にあれほど巨大な建造物があるのはちょっと違和感を覚えました。
「兵どもが夢の後」の言葉が当てはまるのかも知れませんね??
にかつて煌びやかに輝いた栄光の残滓のためなのでしょうか??



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きんたろうさん、 投稿者:武来人  投稿日: 9月 2日(日)02時44分15秒

>死んだ方に礼を尽くすのはあらゆる宗教に共通した点ではないでしょうか??

自民党の山崎幹事長が、カンボジアのフンセン首相に会ったとき、(同幹事長は靖国参拝のことを気にしながら言うと)「仏教の国が死者を弔うのは、当然のことです」と言ったとか。
少し、救われたような気がしたものです。

一週間ほど前、インターネットで「人民日報」を読みました。小泉首相が、靖国参拝することに対し、東南アジア諸国が怒っているとか、日本はアジアで孤立するというようなことを、二度三度書いています。朝日と同じような論調ですね。ワアワアさわまた、中国にヨイショする日本人の投書が名前入りで載っていました。

ところで靖国神社は、有名になり、参拝客が急増したそうで、みやげもの店大繁盛だそうです。



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   富農のムスコたち と 飼い殺されの権利 投稿者: 焼尻紋次郎  投稿日: 9月 1日(土)09時45分25秒

 あれは日立家電とつきあっていたころかな? 日立の人間像を評して「古武士の気概と
いうのが一般的だ」……みたいなことを聞いたことがあります。
 安部奈亮さん、その常陸の、殿様ダイジのムードのなかで、日本精神が観念的に捕らえ
られ、江戸末期のサラリーマン化した武士たちの「精神的中核みたいなもの」がそのまま
昭和まで観念のまま純化継承されて、連続戦争に突入しちゃった……というのが実体だろ
うと、おらは見ているがこれヒガ目かね。
 簡単にいうと、戦争をしたのはサラリーマンで、武士ではなかった……です。

 個人の想念は容易に変るが、大衆がいちど得た想念の歩巾(息)は長い。
 江戸末期のサラリーマン武士から仏教、道教、儒教という名で(打ちこまれた)注射液
を差しひいたら、古武士が出てくる……と、おらはこう考える。
 注射液で酔っぱらったが故にラリっちゃって、腰ぬけの原点喪失が表面化する。

 ならば、酔っぱらう前の原点意識は、日本の場合なんじゃろか。
 おらはヒマラヤの峰に対峙して山の霊気と一体化を計ったヨギと、湖沼を根じろにして
いた海賊倭蛋民の二つだろうと思う。
 だから、日本人は朝鮮人とみたらすぐに殺したがるし、アイヌ収奪にはまったく無反省
で悪虐のかぎりをやりまくった。
 鎌倉時代だったと記憶しているのですが、槍の使いかたが上手な芸人(武士)がいて、
このご仁は30以上の君主と“契約”していたという(これ実話)。
 サムライは途中から「(王の)傍らに侍るもの」と解釈されるようになりましたが、ヘ
ブライ語、ネパール語あたりを見たかぎりでは「王」そのものの語形が浮上します。
 独立した一匹オオカミがサムライの基本。
 このサムライが「ごはんダイジ、お家ダイジ」へと骨抜きにされ飼い殺しを受ける屈辱
に無感覚となった。飼い殺されの中から“お上品な権利”がうまれる。
 天子さまの周辺警護の任にあたったのは、関東の富農のムスコたちでした。ヒエラル
キー・マトリックスに犯された武士では動きがつかなかったと思われます。
 外敵と戦争を続けなかったら、どこの民族もアタマ・デッカチになるのではないでしょ
うか。
 だが、実際に戦争をしたのは、まだ胸のなかに古武士の燃えカスを残していた農民、芸
人の大衆だった……。だから世紀のブチカマシがやれたんでしょう。

http://www.you-i.org/



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私は極悪人 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月 1日(土)04時28分24秒

努力は尊いこととはいえ,努力したからといって権利は生じない。
純粋な感情から間違ったことをしても意味はない。

特攻隊の感情が打算無しの純粋な感情だったからといって,彼らが正しかったことにはならない。純粋な感情から出ていようが,駄目なことは駄目。

日本人は,純粋な感情から出たことであれば,正しいとか,努力をしているから報われるはずだと思っていますが,それは間違いです。

私が日本人に提言したいこととして
(1)努力は尊いとはいえ,努力した事実は権利にならない
(2)人を疑って調査をすることは悪いことではない


「武士道」を書いた新渡戸稲造さんは「葉隠」の存在を知らなかったそうです。「葉隠」は佐賀藩だけで伝えられた書物だそうです。「葉隠」が取り上げられたのは昭和になってからだとのことです。


感情に流されてしまうことは思考停止です。



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今夜は 投稿者:kituno_i  投稿日: 8月31日(金)23時36分21秒

タイタニックを見ていました。^^
ラブロマンスはさておいても、豪華客船が沈み、多くの犠牲者が出た事実に胸が痛む
思いで見ていました。

人の命より重い物はありませんよね。
「お国のため」に犠牲になった若い命を忘れてはなりません。

トピックへの書き込み、ありがとうございます。
私のトピックでは、法隆寺の話題を募集中。
法隆寺のことならどんなことでも良いですので、情報をお待ちしています。



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ケーズデンキ 投稿者:大三元  投稿日: 8月31日(金)21時52分37秒

おお、まだ売れ残ってましたか、(^^;)。
本屋さんを覗いて、見当たらないと売切れだ!と思うことにしてるんです。

しかし、900年を厚くみて300ページでしょうか。一年あたり10行とか?
無理ですよねぇ…



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今日は 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月31日(金)21時40分24秒

出張だったので普段行けない本屋に寄ってきました。
何とその内の3軒は古本屋でした^^;;

ケーズデンキ本店にある本屋さんで大三元さんの本を発見しましたv(^o^)
水戸の本屋にもしっかり置かれていましたよ。

久しぶりに歴史関係の本を見てみました。
さっと見ただけだったのですが「佐竹氏900年の歴史」(みたいなタイトルでした)がありました。
思わず買ってしまおうと思いましたが結局買いませんでした^^;;

内容は佐竹氏史のダイジェスト版といった感じでした。
1冊で900年間に渡るスパンをカバーしようとしていますから、かなりあっさりとした感じになるのは仕方がないのかも知れませんね、笑



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武来人さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月30日(木)19時16分38秒

知覧の特攻隊基地のような場所を見学すれば誰でもが同じような気持ちで胸が一杯になるように思います。
短い命を散らした方に対して手を合わせたいと思うのは、彼らの無念さに包み込まれるからなのかもしれませんね??
私は彼らに対するこの様な敬虔な感情とは自然に湧き起こって来るのが当然だと思っています。
これは「軍国主義の賛美や復活」とか「右傾化」などといったものでは決してありません。

小泉さんが知覧に行かれたのは森さんがあのゴルフをしていた時でしたよね??
私もニュースで見ました。
小泉さんの感情は武来人さんの言われる通りだと思います。

死者に後ろ足で砂をかけるようなピンぼけの批判をし続けたからこそ、旧社会党は支持を失って壊滅したのではないかと思っています。
死んだ方に礼を尽くすのはあらゆる宗教に共通した点ではないでしょうか??

朝日新聞の場合は「新聞勧誘員」の営業努力によって部数を維持しているだけのことだと思います。
レスが来たから文章を作って送ったのにボツにされたことを根に持っています、笑



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知覧の特攻基地 投稿者:武来人  投稿日: 8月30日(木)00時13分50秒

>去年は陸軍の特攻基地である鹿児島の知覧に行ってきましたが、施設に入った途端に私の涙腺は全開状態になってしまいました。

やはりそうでしたか。すごく解るような気がします。

あの小泉首相も確か総理就任前に知覧に行ったようでしたね。特攻隊員の遺書を読んだ時、「総理号泣」とか「大粒の涙」とか新聞記事で読みました。小泉首相の靖国参拝への思い入れは、そういったこともあるようです。



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ジュラシック・パーク3 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月29日(水)21時00分54秒

を見て来ました^^
1を見たときの衝撃が2ではさらにスケールアップしましたのでかなり期待をして行ったのですが、ちょっと予想外の線香花火みたいな感じがしました、笑
上映時間も1時間半くらいでした。

戦争の時代は今の感覚では「狂気の時代」のように感じられてしまいます。
欧米列強による地球分割は明治維新以降の日本の為政者に信じられないくらいのプレッシャーを与え続けていたことは容易に想像がつきます。

去年は陸軍の特攻基地である鹿児島の知覧に行ってきましたが、施設に入った途端に私の涙腺は全開状態になってしまいました。
そのために説明も聞かずに駆け足で出てしまいました。
でも説明など聞かなくても若くして命を散らしたあの人達の為に手を合わせたいと思うのは人間として自然の感情なのです。

これは理性を上回るものだと思います。
ただ紋次郎さんが言われている方たちはちょっと若い年齢層だったように思います。
予備学生達の場合はかなり冷静でかつ正確な情報を得ていたという話も聞きました。



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同感です 投稿者:輔住  投稿日: 8月29日(水)12時26分30秒

>「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉は余りにも有名ですが、
>これは安部さんが書かれているとおり江戸時代に形作られたものだと思います。
だから江戸時代の武士感覚で鎌倉時代や室町時代の武士をみると
むりがあると思います。
南北朝時代なんかは寝返りのオンパレードだし(爆)



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  戦争ふくみはキチガイ含み……か?  投稿者: 焼尻紋次郎  投稿日: 8月29日(水)06時41分52秒

 こんな軍歌知ってますか?

 ♪√ 決戦の空  血潮の染めて  叩けど 葬(ほう)れど  数増す敵機
    いざ征け  若鷲  つばさを連ね  奮うはいまぞ  土浦だましい

 この歌、おしまいのところが「ツチウ・ラダマシイ」となってるところが、メチャ
クチャ状態だった戦時を写しているようです。

 「神風特別攻撃隊を募集したり、そのように宣伝教育したヤツが憎い」という言葉
をよく聞きますが、それは当時の熱狂(戦争)を知らない人々の想像の産物です。
 少しアタマのまわるオトナなら、大本営や新聞がウソついていたことは知っていま
した。その敗けたことをくち出すのがイヤでイヤでたまらなかったのです。
 文字どおり、一億一心火の玉になっていたのでした。
 でないと、なんで2〜3年間の募集に、延べ200万人もの青年が特攻隊に応募し
ましょうぞ。

 あの戦争末期の挺身奉公にはみじんも打算はありませんでしたよ。友軍が次から次
にやられる様子にガマンならなくなった青年は、親の承諾をぬきにして志願し、天皇
陛下からきた赤紙を親に見せて、親から事後承諾をとりつけたのでした。全国的な傾
向は知りませんが少なくとも筑豊はそうでした。

 上のこと、ひとこと言ってあげねば、あのひとたちが もう 可哀想で 可哀想
で! (おらはいま、涙流してキー叩いていますよ)。
 戦争はメチャクチャなんです。治にあって乱(戦争)を忘れなかった昔のひとは、
現代の眼からみると、やっぱ、どこかが狂っているとしかならないでしょう。

 新人類への文化 http://cgibbs.mmjp.or.jp/bbs/show/www.you-i.org/bbs



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安部さん 投稿者:Sin  投稿日: 8月28日(火)23時47分53秒

自動車学校無事卒業おめでとう(^^)/
安部さんの考えてくれたカウンターメッセージはなかなか好評ですよ。

http://www31.tok2.com/home/sin007/



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安部さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月28日(火)23時34分51秒

自動車学校卒業おめでとう!!^^
免許を取ったらレンタカーを借りて早速ドライブをして下さいね。
免許を取ってもペーパードライバーのままでは運転が下手になる可能性も大きいからです、笑
Toshyさんが言われているようにすぐにハンドルを握りたくなると思いますよv(^o^)

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉は余りにも有名ですが、これは安部さんが書かれているとおり江戸時代に形作られたものだと思います。

戦国時代の武士とは腕一本で世の中を渡っていけるという自負がありました。
もっともこれは戦国時代と織豊時代から江戸時代の初期にかけてはそれだけの需要があったからだと見ることが出来ます。

ところが江戸幕府が超パワーを有して安定期に入ると状況は一変しました。
この時代には島原の乱や鎖国があります。

君主に有利な武士の世論を作るために葉隠れはつくられたものだと思っています。
一端出来上がった体勢が至上のものとしてこれに反逆するものは悪であるとの認識を植え付けることこそが長期の安定に繋がると考えたからだと思っています。



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Toshyさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月28日(火)23時32分05秒

5000語もあれば通常の会話は十分に可能ですよね。
これは私の英単語力の(かつての)最大値に匹敵するかも??笑

昔の人は、特に善六さんの場合はそうだと思いますが..日々の真剣さが全然違ったのだと思います。
語学能力に優れているのはよく分かるのですが、それ以上に逆境という強力なストレスに耐えた抜いた強靱な精神力こそが善六さんの真骨頂なのかも知れませんね??

kitunoさん、あんな田舎によくもあれほど壮大な法隆寺を造ったと思います。
東大寺もそうですが古代の建築技術が極めて優れていた理由がイマイチよく分かっていません^^;;
私も、もう一度法隆寺に行ってみたいと思っています。

紋次郎さん、瓜連町は久慈川の「島」のような部分だったと思います。
ここは一種の要塞(のようなもの)だったのかも知れませんね??
それにしても那珂湊の漁師さん達が静神社まで夜中にマラソンをして来るとは知りませんでした(^o^)

水戸は八戸や神戸などと同じように「戸」という漢字が当てられてあります。
この事から見ても「港」だったことは明白だと思っています。



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お 投稿者:Toshy  投稿日: 8月28日(火)15時57分24秒

よかったね。免許取得おめでとう。(^^)
いずれすぐにでも運転したくなるって(わら



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武士道は誰が死ぬことと見つけたのか? 投稿者:安部奈亮  投稿日: 8月28日(火)15時46分52秒

きんたろうさん,「尊王思想9」のアップありがとうございます。

幕末の志士の中には,潔癖で,節義を守るためならば死を恐れない,それどころか美しく死ぬこと自体が目的の人が何人も出てきます。これは,後の日本軍の特攻隊とか斬り込み隊とかに繋がると思うのですが,このような考え方をする人間はどこから出てきたのでしょうか?

日本人というのは結構功利的でした。鎌倉時代の武家も恩賞が欲しいから一所懸命に戦うのであって,死を恐れないのは過大な報酬をもらって意気に感じている時か,あるいはここで忠誠を見せておくことによって,自分の子孫の利益を考えるからです。戦国時代の侍に「武士道は死ぬことと見つけたり」等と言っても笑われるだけだと思います。

日本の侍が死を恐れない理由に,禅を挙げる人もいますが,私はそれに対して疑問をもっていました。なぜなら,仏教が生命を軽視する人間を大量生産するはずがないからです。日本人の,「身の回りのことは自分でする(これはアジアでは実はとても珍しい考え」「いつも修行を怠らない」という考えは,禅から来ていると私は思います。しかし死を美化する考えは違うと思います。

今,江戸時代の朱子学を調べていて分かりました。これは朱子学から来た考えです。

朱子学では,「義」を守って死ぬことを美化します。異民族に抵抗して死んだ人,乱臣賊子に抵抗して殺された人,これら殉教者を賛美します。このような殉教者たちは,後世の人に見本を見せたのだから,永遠の生命を得たのと同じことであるといいます。そして,「義」にもとって生き長らえるよりも死んだほうがましであるとまで言います。

私は,日本の歴史の中に時たま出てくる,幕末の武士や特攻隊といった生命を軽んずる現象が大嫌いで,このような部下の犠牲をさも当然の奉仕であるかのように要求する日本の組織に疑問を持っていたのですが,やっと犯人を見つけました。決死の精神,見返りを求めない奉仕の精神を日本古来の美徳であるかのように唱える阿呆が時々いますが,何が日本古来のものでしょうか,つい400年位前に輸入されたものだったのです。



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自動車学校を卒業! 投稿者:安部奈亮  投稿日: 8月28日(火)15時30分55秒

本試験に合格しました,ばんざーーいい。

運転免許が取れた(といってもまだ公安の試験が残っているけれど)の感想は
もう車は当分運転したくない(笑)



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  日本のマラソン 瓜連町静神社   投稿者: 焼尻紋次郎  投稿日: 8月28日(火)11時07分20秒

 すでにミナシャンご存じのこってしたらごめんなしゃい。

 紋次郎旅籠連名に載っかっちいやすが、瓜連(ウリツラ)の「まきば旅籠」にわらじぃ脱
いだときのこってござんす。そこの仲居さんが教えちくれやした。
 「そこの静神社には、毎年暮れになると那珂湊の漁師さんたち百数十名が真夜中に走って
くるんですよ」と。
 そのとき、みんなは「ヨイショ、ヨイショ・ヨイショ、ヨイショ(最初と三番目のヨにア
クセントをおいてできるだけ早ぐちで喋ってください)」とかけ声をかけているそうです。
 那珂湊から静神社までは20キロ近くもあります。
 水戸市街は一面沼沢に囲まれた台地にひとが定着してできあがったことを匂わせますね。
 そして、ひょっとしたら、ここには大きな縄文海退があったことも考えられます。

 あっしがもっとも関心を持つのは、全員参加型の古代の祭りがここに見られるのではない
か……というこって。神社や神主さんが出現する前です。



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kitunoのトピックで 投稿者:kituno_i  投稿日: 8月28日(火)00時02分27秒

法隆寺について、連載開始!!
今夜は宣伝だけです。^^

いろいろ、勉強になります。
ありがとうございます。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=l&board=1835208&tid=c0bbfabc0bbra1a2bfa5edbfaed9a4knxa47a4fa4a4a4dea49a1a3&sid=1835208&mid=2925



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露日辞典 投稿者:Toshy  投稿日: 8月27日(月)20時10分19秒

5000語くらいあったかな? レザノフが言った文章を善六さんが日本語に直し、そしてレザノフが単語別に書きとめたのでしょう。文章の途中に出てきそうな言葉で書かれています。
レザノフも日本に来た時、通訳なしで会話できるほどだったというから、善六さんは教師としての才能を持っていたのでしょうか。
いずれにしても、かなり頭の良い人だったと考えられます。(^^)

http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/tsu.htm



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Toshyさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月27日(月)18時40分16秒

本当ですか??
善六さんが「日露辞書」を作っていたとは想像も付きませんでした。
ものすごいですね!!
ちなみに単語数はどのくらいまで収録してあるのでしょうか??

素人考えでも「辞書を作る事」がいかに大変なのかは容易に想像がつきます^^;;
善六さんは確かに庶民として生まれましたが、学問(特に言語関係)の能力にとても秀でていたのでしょうね??
それが予想出来ない環境に置かれた結果として「開花」したのかもしれないと思います。

明治の初め頃に英語を和訳するのを当時の人達がとても苦労された話は何かで読んだ記憶があります。
基本的にはオランダ語と英語を対照させて日本語に訳して行ったようですね。
ですから英訳した人はオランダ語に精通していたという事になると思っています。

「簿記」とは「bookkeeping」福沢先生の名訳として有名です^^
ブッキーの発音に「簿記」という漢字を当てたのはさすがに福沢先生はすごいと思っています。

ZAYOHIさん、一つは消しておきましたよ。
書き込みをされたのがきっと混んでいた時間帯だったのでしょうね??^^

紋次郎さん、名前を戻したのですか、笑^^;;
>IS(神)はゼッタイこの日本列島に入ってきていたと睨んでいます。

それではこれはどこから来たものなのでしょうか??
ひょっとしたら「イシュタル」から来ているのでしょうか??\(^o^)/
これはきんたろうトンデモ説です、笑

ちなみにイシュタルとはアスタルテ、アシュトレト、アシュタロト、アフロディア、ヴィーナス、アルテミスなどとも呼ばれています。
大地の豊穣な生産力の象徴であり愛と戦いの女神です。
金星を祭る神としても有名ですよねv(^o^)

さらに彼女は「月神シン」の子どもでもあります。
シンはまた雄牛とも関係があると見られています。
ツキヨミやスサノオにも何か関係があるのでしょうか??
そして彼??の父親とは最高神であるエンリル=マルドゥクになります。

メソポタミア地方における遥か古代の神話の断片として「神々」の名前が日本列島にまでたどり着いたのでしょうか??
この神話はネパールにも伝わっているのは確実だと思います。

「ティアマトの涙」を参照してくださいね、笑

http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/tearmatt.htm



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   なんと やっぱ ネパール語    投稿者: 焼尻紋次郎  投稿日: 8月27日(月)08時48分08秒

 いざよいさん、ミナシャンすまね。ありがと。
 やっぱ焼尻紋次郎に戻りやす。あれ、バイキン臭くっていけねぇ。
 いざよいさんには別途おエメ差し上げることができました。

 いざよいさんの御教えによって「イザヨイ」の「IZ A-」が「行く」であること
が判明しました。「いざ!!」も 「行く」だったんですね。
 そうすると、これネパール語の JA-(行く)しかありません。そうするとイザヨ
イの「YO」で、まっさきに考えられるのは“L”からの音転です。末尾の「ふ」は
ネパール語などでは“P”という動詞形成子にちがいありません。
 さっそく辞書と相談しました……ら、やっぱ “LOP-”に「無くなること、切れ
ること」がありました。
 参考までに申し上げますが、ネパール語に JIDDI は「強情」、JIDDIWAL は
「強情な」です。これ、言い易くするために「イ」をつけたんですね。
 原意原音は JALOP(行かれないこと)だったことかと、思われます。
 逡巡の意味が濃厚になったは、やっぱ日本の風土の影響ならましや。
                   ゆこかもどろか思案橋……カネ



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申し訳ありません 投稿者:IZAYOHI  投稿日: 8月27日(月)00時37分52秒

すいません。
二重投稿になっちゃいました。
かたほう削除お願いいたします。
m(__)m



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ありがとうございました 投稿者:IZAYOHI  投稿日: 8月27日(月)00時35分42秒

きんたろう様
リンク承認ありがとうございました。

バイキン愚様
私のところの掲示板そんなにへんですかねぇ?
まぁあれは、おまけなので気にされなくてもよろしいです。
「いざよい」の語源ですが

http://www2.justnet.ne.jp/~assoonas/UC240.HTML

>「いざよう」という動詞が存在するのだった。(自動詞ハ行四段活用)
> 漢字では「猶予」と書く。「進もうとして進めないでいる(ためらう)」とか「進まないで止>まりがちになる(とどこおる、たゆたう)」という意味であった。
> 語源としては諸説あるが、大言海では%8



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   あらま、すまねこどしただ   投稿者: バイキン愚  投稿日: 8月26日(日)18時55分47秒

 どっちもおめでた満載のお名前でなぁ。ついまちがえちめぇやした。
 キカイ・オンチはイカン。キカイ・オンチはイカン。
 「いざ!!」については いさ知らずども、九州では「イサギヨシ」
が、えらく流行っていますので、それかな?
 IS(神)はゼッタイこの日本列島に入ってきていたと睨んでいます。



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石巻の善六さんが 投稿者:Toshy  投稿日: 8月26日(日)16時17分53秒

レザノフと共につくったとされる露日辞典を見ました。
現在においては実用的ではないけど、あちらの文字でかかれているため、発音がカナで書かれたものよりも正確であり、18世紀末の石巻方面の方言がわかり興味深いものです。
例)
カ行→g
タ行→d
ここまでは現在も残るものですが、
ハ行→f
ヤ行→ヅャ(?!)

しかし、やはり庶民だから仕方ないのですけど、抽象的な言葉は苦しんでいたようですね。
1813年函館会談の時通訳として出て行った善六さんは本当に苦労したと思いました。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/tsu.htm



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kitunoさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月25日(土)22時03分54秒

掲示板やトピックにお邪魔しています。
微妙な問題をあの文量で表現するのはやはり難しいですね。
あの書き込みも「易姓革命思想との衝突」の一部分だと思ってください(^O^)g

乙姫さん、有り難うございます^^
実は井沢先生のHPにはここの多くの皆さんが参加されていますよv(^o^)
先生のところにはなかなか書き込みをする時間が無いのが残念に思っています、笑

Toshyさん、蜀の桟道とはそんなに長いものだったのですか!!
総延長とはいえあのような絶壁に貼り付けられたような道路が50キロメートルにもなるというのは想像を絶していますよね!!
さすがに秦の始皇帝のスケールはものすごいものがあると思いました。

勇者ロトさん、私もラジオで聞きましたよ。
ゴローちゃんもあれほどアホだとは思いませんでした(^^ゞ
きっと婦警さんにはサインをたっぷりとねだられたのではないでしょうか??

バイキングさん、ここは「ももたろう」ではなくて「きんたろう」です、笑^^;;
そう言えば「いざ!!」とかけ声をかけますがあれも何か関係があるのかな??なんて急に思いました。



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安部さんの尊王思想の研究9 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月25日(土)22時01分50秒

IZAYOHIさん、リンクを有り難うございました^^
この部分は安部さんの力作です。
多くの人に読んでいただければ嬉しいですね(^o^)

今日は安部さんの「尊王思想9」をアップしてあります。
ちなみに「尊王思想8」の原稿は未完です。

下記のアドレスです。

「杜子春の世界へ」はまだまだ未完なのですが、そのままになっています、笑
神仙思想や道教などを適当な長さにまとめるのは難しいですよね^^;;
でも終わらせたわけではありません。

http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/abesonnou9.htm



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   イザヨイの語源・通説は?     投稿者: バイキン愚  投稿日: 8月25日(土)18時39分41秒

 イザヨイさん、ウンジュ(沖縄弁 ; 貴方様 < 御主)の掲示板にカキコしょうと20分間ほ
ど悪戦苦闘をしましたが、「4文字」がどうのこうのと、ロボットがでてきて、どうしても門
を通過させてくれずに、ついに、ももたろうさんのここにカキコ……かね。
 イザヨイは沖縄・久高島のイザイホーににていますね。イザヨイに関して通説はどのように
解説していましょうか? 芸舎と書いて「イザヨイ」と読ませるのでしょうか? その根拠は
なんでしょうか。
 イザヨイ、イザイホー……四分の一だけはわかりますよ。
 四文字にこだわるあのロボット、なんとか廃棄処分したほうが、いいと思いますぜ。
 「カマイタチ」にケッケムクリなり ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi



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稲垣ゴローは 投稿者:勇者ロト  投稿日: 8月25日(土)16時04分03秒

どうなるんでしょうか?

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/bordroom.shtml



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蜀の桟道 投稿者:Toshy  投稿日: 8月25日(土)09時46分10秒

街道の長さは270キロほどで、桟道はそのうち5分の1くらいだそうですよ。
万里の長城のようにずっと続いているわけではなく、ところどころ橋をかけたり絶壁にとりつけた棚のようなもの、あるいは垂直な崖を上り下りできるように板で作った斜面ですが、いずれにしても50キロの長さに渡るというのはすごいことです。

始皇帝が作った桟道は、幅が5メートルほどもあり車がすれ違うことも可能だったそうです。これは軍事目的に使われると絶大な威力を発揮しますね(秦以前の桟道なら軍馬の通行も大変)。劉邦がその桟道を焼いたことで、項羽の追撃を免れると同時に蜀の人々が安心できた、といわれています。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm



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伊沢さん。 投稿者:乙姫  投稿日: 8月25日(土)05時27分46秒

先日親友がビンゴで当てた「たこ焼き器」を使ってご馳走したいから、と
招待されて結局私が作ってご馳走した感じで楽しんできたのですが(笑)
その親友が今井沢さんの「逆説の日本史」〜殆どの本に夢中ではまっている
と興奮気味に話してくれました。

伊沢さんのHPに伺ったらきんたろうさんが大活躍されてて、びっくり!!
きんたろうさん、凄いです!!



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ここは^^ 投稿者:kituno_i  投稿日: 8月24日(金)22時08分43秒

ちょっと目を離すと、たくさんの書き込みで読み切れないですね〜。^^;
皆さんの知識の豊富さにはいつも感心させられてしまいます。(とても勉強になります)

きんたろうさん、私の掲示板やトピックでの書き込み、ありがとうございます。^^
これからも宜しくお願いします。

なみさんは、長崎に帰られたのですね。
新しく家族の報告、私もとても楽しみにしています。^^



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はじめまして 投稿者:IZAYOHI  投稿日: 8月24日(金)22時04分00秒

はじめまして。
IZAYOHIと申します。
私は源氏物語、多作者に惹かれている者です。
それでこのたびこちらのページをリンクいたしました。

http://www.hoops.ne.jp/~izayohi/hyakuiti.html#genzi
です。
また関連は次です。

http://www.hoops.ne.jp/~izayohi/gaku.html
なお杜子春も白文ありますのでまた近いうちにりんくさせてもらいたいのですが。

http://www.hoops.ne.jp/~izayohi/bungei.html
それではよろしくお願いいたします。

http://www.hoops.ne.jp/~izayohi/



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信長の 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月24日(金)21時55分48秒

鉄鋼船(=鉄張船)とは太田さんやToshyさんが言われるように毛利の火矢攻撃に対抗するために考え出されたものなのでしょうか??
船の装甲に鉄板を張り巡らせた姿は毛利軍に自分たちが無力であると思わせるに十分な威力があったと思っています。
例えるならば海上の「戦車」といった感じでしょうね、笑
まさに戦国時代の「黒船」ですよね(^O^)W

それにしても信長のアイディアはものすごいものがあると思います。
あるいはバテレンからの情報だったのかも知れません??笑

そう言えば、安土に教会を造る土地がないと言われた時には「土地を造ればいい」といって埋め立てをしたそうですよね。
これを真似たのが家康の江戸の埋め立てといえると思います。

それにしても蜀の桟道はどのように造ったものか想像がつきません^^;;
ちょうど岩山にロック・クライミングのようにピッケル(のようなもの??)を打ち込んで、それを基礎として橋を造ったような印象です。
足場を組み立てるにも下は絶壁??でしょうからまず無理です。

材質の強度などの点から考えると蜀の桟道とは街道のほんの一部分なのではないかと思われてきます。
その一部分が「親不知・子不知」のようなものすごい難所だった事なのではないでしょうか??(想像です、笑)
つまりは「橋」そのもののように思っています。
あるいは「トンネル」かも??^^



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蜀の桟道 投稿者:Toshy  投稿日: 8月24日(金)16時39分15秒

やはり大工事というと、秦の始皇帝ではないかと考えられます。確証はありません。
桟道が出来る前から、関中から蜀へと行く道は当然あったわけですが、自然の地形を利用している山岳道はアップダウンが激しくて通行が不便のため、桟道がかけられるようになったのですね。
採算も合うほどに、蜀で取れる絹は利用価値も高かったということになります。

ところで焼かれた桟道の復旧が行われたのはいつなのでしょう。作り直されたことを見ても、蜀の桟道が中国にとって大切なものであったことは容易に想像できます。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm



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蜀の桟道 投稿者:太田守人  投稿日: 8月24日(金)13時09分55秒

蜀の桟道を取り付けていた穴の跡の写真でみたことがあります。岩壁に穴をほり、そこから直角に木の柱を出し、その上に木の通路を置いたものらしいです。
ただ、最初に誰が作ったのかは不明なようです。相当の大工事でしょうから、付近の住民のボランテアでは作れるものではないと思います。矢張り、時の皇帝なり王が作ったのでしょう。
司馬遷の史記には、劉邦が蜀に行くときに、桟道を焼いたとありますので、項羽と劉邦の時代には、あったんでしょうね。もし、最初に作った人物をご存知の方は、教えてください。



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信長の鉄張船 投稿者:太田守人  投稿日: 8月24日(金)12時50分37秒

Toshyさんのおしゃる通り、信長の鉄張船は帆船というより、ヨーロッパのガレイ船のように、櫓で漕ぐのが基本でしょうね。
私も、防火目的なので装甲も数ミリから1センチ程度かなと思います。私自身は、たらいのような船かなと思っています。
もし、このたらいのような船だと、喫水が浅くなるので、操船が難しく潮や風の影響をもろに受けたと思います。
装甲という、重いものをもっているので、復元性能をよくするには、いきおい幅を広げざるをえなかったと思います。
船は、幅の6倍の全長を持つものが、一番容積が大きくなると聞いたことがあります。ノアの箱舟もそうですし、貨物船等もそうらしいです。信長の鉄張船もこういう船かなと想像してます。
この船は、海に浮かぶ城砦という性格のもので、動きも鈍かったと思います。



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鋼鉄船 投稿者:Toshy  投稿日: 8月24日(金)12時27分20秒

といっても、木造の船に鉄板を貼り付けたものだというべきでしょう。
太田さんがおっしゃるとおり、防火目的です。
ただし、帆船ではなく手漕ぎ舟を装甲したと考えられます。
日本の帆船は風と潮に任せて走るだけで、動き回る海戦には向いていませんでした。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 8月24日(金)09時42分25秒

信長が造らせたという幻の鉄鋼船とは一体どのようなものだったのでしようか??

数年前NHKでやってましたが、詳しくは分からないらしいです。私も、信長公記を呼んだ時に、真っ先に探しましたが、分かりませんでした。(見落としたのかも)
ただ、木造船の場合は、2,000〜3,000排水トン位が実用の上限で、それ以上大きくすると、鉄で作るより船体の重量が重くなり、強度を高めるのに、より高度の技術がいり、高価になるそうです。
ちなみに、現役の世界最大の木造船は、海上自衛隊の「つしま」型掃海艦で1,000排水トンあります。この船も作るのにも相当高度な技術が要求されます。
ちなみに、帆走軍艦の主力艦である、戦列艦もだいたい1,000〜1,500排水トンで、2,000排水トンの軍艦は、巨艦といわれていたそうです。
この時の放送では、2,000排水トンぐらいで、50トンくらいの鉄板を木造船体の上にはったのではといってと思います。
第2次大戦中、アメリカが175隻も建造し、今でも同一クラスの駆逐艦建造数で世界一を誇る「フレッチャー」級は、2,000排水トンあり、全体で50トンの装甲をしていたそうです。
そこで、このあたりが復元性能の極限かなと思いました。
信長が、村上水軍のほうろく・火矢の対抗のために、このような装甲艦を思いついたそうです。彼は矢張りアイデアマンですね。
ただ、朝鮮出兵時に、朝鮮側が亀甲船という装甲艦を使った時にも、日本はこのような装甲艦をもっていっていません。この船は、やはり航洋性能はなかったのでしょうね。
このとき,7隻を建造し、信長が6隻、九鬼が1隻だったらしいです。
ヨーロッパ初の装甲艦は、これから200年以上あとでフランスが建造した、「グロアール」ですが、この艦は、木造船体の中に装甲板をはったものです。
ただ、この鉄張船は、防火目的で装甲をしたようなので、あまり厚い装甲とは思えません。
前記のフレッチャーも、5ミリ〜1センチ位の装甲だったらしいです。



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月23日(木)21時58分07秒

怒濤の書き込みを有り難うございます^^
日本の水軍といえば九鬼水軍と村上水軍くらいしか知らないのですが...
信長が造らせたという幻の鉄鋼船とは一体どのようなものだったのでしようか??

桜島の大噴火については太田さんの書かれた通りでした^^
1914年の大噴火(大正噴火)で溶岩が大量に流出して瀬戸海峡を埋め尽くして大隅半島と陸続きとなったとありました。

孔明が着ていたのは服というよりも「着物」といった感じがしました。

勇者ロトさん、新しい企画ですか??^^
見に行きますね。



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乙姫さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月23日(木)21時55分26秒

久しぶりですねv(^o^)

>最近とても歴史が面白く感じられます
それはとてもグッドですね。
歴史は私達に優しく語りかけてくれるものだと思っています。
掲示板を見て来ましたよ。
那珂人さんを見かけました^^

Toshyさん、そうでしたね、蜀の桟道(^^ゞ
実は私も横山光輝の三国志では蜀の桟道の絵を見ています。
でもこれは本当かなと疑っていたのです。
でも昨日のテレビの映像は「三国志」の漫画そっくりでしたよね。
(あの絵のほうがそっくりでした、の方が正しいですね、笑)

なみさん、いよいよカウントダウンですね^^
無理はしないで下さいね。
長崎へはどのようなルートで帰られるのですか??
元気な2世誕生をお祈りしています。
そして元気に戻って来てくださいねv(^o^)
報告を是非お願いします、楽しみに待っていますv(^o^)(^o^)(^O^)g(^O^)y(^O^)W



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朝日新聞 投稿者:きんたろう  投稿日: 8月23日(木)21時50分40秒

で遊んでいた事については先日井沢先生のBBSに書きました^^

数日前のことですが、「私の投稿に関してレスが届いています」というメッセージメールが朝日のHPから届いたのです。
それでこのレスに対して文章を書いて送ったのですが何故か??「ボツ」にされてしまっています、笑
それはあんめーよ(笑)と思っています。

ちょうど井沢先生のところに書いたのとほぼ同時期ですから、ひょっとしたらチェックされたのかも知れない??と思ったりしています、笑
尤も内容は全然過激ではなかった筈なのですが...
それにしても朝日HPの投稿の場合はせっかく長文を書いて送っても向こうのチェックを通らなければ掲載されないシステムですからつい簡単に書いてしまいますね(^^ゞ)



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