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やふーのセキュリティ 投稿者:きんたろう
投稿日: 9月15日(土)01時45分37秒
数日前の事です。
携帯電話からでもやふーのトピックを見ることが出来るようにしようと思って携帯電話用アドレスを送りました。
この方法はティーカップ掲示板などの場合と全く同じ方法です。
ところがこの手続きをした途端に迷惑メール(出会い系サイトのご案内^^;;)が入ってくるようになってしまいました。
これは手続きと同時に私の携帯に届きましたから、やふーのセキュリティが「ざる」なのか??^^;;
それとも、やふーそのものが一枚噛んでいるのかどちらかであるのは明らかです。
みなさんも自分の携帯電話にiモード用URLを送信するときは注意して下さいね(^^ゞ
仕方がないので毎日3通入ってくる出会い系のメールを削除してこのメルアドに対して着信拒否の手続きをしています。
この業者は複数のメールアドレスを持っているようですから一度着信拒否をしただけではだめなんです^^;;
これが本当の迷惑メールです。
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安部さんの 投稿者:Toshy 投稿日:
9月14日(金)19時26分42秒
言うとおりで、東軍は徳川こそが豊臣の代理人であるという認識のもとに行動していたのです。
でも今は問題にしていない話題ですから、あえて書きませんでした。
太田さんは「徳川への忠誠」という意味で書いていますけど、それは安部さんがご指摘になったように、それを飛び越えての「豊臣への忠誠」であるわけです(一部を除けば)。
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石田三成は江戸時代のデーモンかもしれない 投稿者:安部奈亮
投稿日: 9月14日(金)17時45分41秒
石田三成が使った手法は,権威に人間的に直結することによって,実力者に対して反旗を翻すことです。
江戸時代というのは,形式的な手続きで社会秩序を維持した時代でした。実力を持っている人物には権力を与えない,権力をもっている人物には実力がない。そして,この力の差と権力のギャップを何重にもした儀礼で固めて,骨の髄まで人間を権威には勝てないように教え込んで,実力を持ったものが権力を握ることによって起こる,力の支配を防ぐ。これが江戸時代です。
江戸時代においては,無意味な儀礼の手順を踏まなければ,何事も出来ないように仕組んでありました。反社会的な行動をそれで防いでいたのです。
そのような社会において,下位にいるものが世の中を動かそうとすれば,権威よりも更に上にある権威に,儀礼上は不可能ですから(下位の者は上の権威に近づくことすら出来ない),人間的に直結することによって,自らを上位のものと一体化させるしかありませんでした。これが私はずっと書いている尊王思想です。
将軍以上の権威である天皇と心理的に一体化することによって,初めて何重にも張り巡らされた儀礼の網を抜け出すことが出来たわけです。
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Toshyさんの関が原の説 投稿者:安部奈亮 投稿日:
9月14日(金)17時33分52秒
でいつも抜け落ちているような気がするのは,徳川家康と石田三成の官位と役職のような気がします。
石田三成は,半分家康による謀略のせいとはいえ,関が原当時官位と役職を持っていませんでしたし,かつて持っていた官職も家康の官職(内大臣でしたっけ?)と較べると下です(治部小輔でしたよね),ですから,昔の人の感覚で言えば,石田三成は何の権限もないのに,秀頼や北政所や毛利輝元をそそのかして,自分の利益のために(本当はそうじゃなかったのは勿論ですが),豊臣家の軍隊を動かす反逆者となります。
当時の一般認識としては,官位も,豊臣家内での地位も上であった徳川家康に従うほうが正しいことになります。
近代以前の日本では官位や役職の持つ威力というのはかなり大きいのですが,Toshyさんの説を見ているとどうもそれが抜け落ちている気がするのですが?
つまり,豊臣家という組織に対する忠誠を優先させれば,徳川家康に従うことのほうが,豊臣家に忠誠を尽くしていることになります。しかし,石田三成は,組織としての豊臣家に忠誠を尽くすことが,結局は豊臣家を全く消滅させてしまうということで,豊臣秀頼個人への忠誠を説くことによって西軍を組織したといえると思いますが,この石田三成の考え方は,形式論から考えると反逆の思想です。
手名ことを考えると,徳川家康が江戸幕府を法人化を進める方向へ持っていき,邦人(幕府や藩)への忠誠を育てようとしたことと,関が原の戦いには関係があるのかもしれませんね。
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関が原 投稿者:Toshy 投稿日: 9月14日(金)16時25分46秒
の戦いは、徳川は短期決戦を狙っていました。戦いが長引いた時、上杉・佐竹が関東を脅かしかねない徳川は不利(西軍は少なくとも大坂をつく勢力などどこにもないのでその心配はありません)
まして近畿には、関が原に出てこなかった西軍勢力10万近くがいました。これらが集結した途端、東軍を倍する兵力となり勝敗は明らかです。
つまり家康としては、早めに石田三成率いる大垣の軍をたたかなければなりませんでした。そのためには当然兵力が必要であり、秀忠率いる徳川本隊の合流が待たれるところとなります。
秀忠が遅れることは、家康にとってメリットはありません。もし敗れたときの備えという意味なら、中山道を進ませたりせず江戸に残すのが普通です。関が原で西軍が勝っていれば、秀忠は足場の悪い山岳地帯で孤立し殲滅の憂き目に遭っていたことは間違いありません。
秀忠遅参の、わずかに考えられるメリットは、家康が逃亡する時秀忠が捨石になり家康を救う、程度ですね。
もし豊臣秀頼が毛利輝元とともに出陣していたら、福島正則はどういう出方をしたかというと、間違いなく西軍につきます。これは後の、秀頼への忠誠心でもあきらかです。あまり知られていない事実ですが、石田三成は福島を味方にしようと苦心していたから、西軍では喜んで迎え入れたことでしょう。
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いや 投稿者:Toshy 投稿日: 9月14日(金)14時41分41秒
>清正や正則という、豊臣の荒小姓の武断派は、徳川に忠誠をつくしたように思います。
現実に彼らは、のちに徳川への忠誠心を持たず秀頼の盾として死んでいますから、これはないでしょう。
誤解はないと思いますが、念のために言いますと、彼らは「豊臣家のために三成を倒す」なんです。だから「徳川氏への忠誠心」という意味では、否定せざるを得ません。
それに豊臣系大名の出方などは、別に東海道で試す必要などなかったのですよ。それは小山での評定で試していますし、さらには江戸で1ヶ月以上の長い間をぐずぐずしているのですから。
なお、もし福島正則らを試していたのが事実だとしても、今度は彼らが後に秀頼の盾となり家康には向かったのは家康の誤算、ということになってしまいます。彼らが自分に忠誠を誓ったと思ったが、そうではなかった…というところの。
藤堂・黒田あたりは「徳川に天下を取らせるために」働いていますから、打算というよりは徳川への忠誠心はこちらのほうがあった、と主張できると思います。
もちろん家康が死んだ場合はなんとも言えません。ただしその時は、秀忠遅参が敗戦の原因と言われ、秀忠に対する目は冷たいものになるのではないでしょうか。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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もし家康が関が原で死んでたら 投稿者:太田守人
投稿日: 9月14日(金)13時06分06秒
Toshyさん、もし家康が関が原で死んでても、福島正則は徳川についたのではないでしょうか?彼は、「冶部の肝を食いたい。」という過激なことを言ってます。正則は三成憎しに凝り固まっていたのでしょう。案外、細川忠興、黒田長政、藤堂高虎あたりが裏切っていたように思います。この辺りは、打算で動いていると思います。
清正や正則という、豊臣の荒小姓の武断派は、徳川に忠誠をつくしたように思います。
家康がぐずぐずしていたのは、豊臣恩顧の大名がどうでるかを見ていたのだと思います。秀忠の率いた徳川軍は、後詰の予備軍のように思います。でなければ、初陣の秀忠よりも猛将秀康あたりを大将にするように思います。
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感想ありがとうございます 投稿者:輔住 投稿日:
9月14日(金)12時38分56秒
みなさん感想ありがとうございます。
>湊川の敗因を新田に求め、敗戦を反省しない貴族たちは困ったものです。
全くです。この戦いは水軍を使って攻める足利に対しそれがないという点で
新田・楠木は不利です。
>それでも義貞は尊氏の風下にはつきたくなかったでしょうか??
想像ですが、義貞は尊氏を倒した後、自分がトップの幕府を開くつもりだったと
思います。そのためには尊氏にはつけないでしょう。
>自分は象徴的な立場になっていれば、うまくいったと思います。
そうすれば、今でも後醍醐の子孫が天皇になっていたでしょうね。
でも後醍醐には象徴的な立場に甘んじることは考えてもいなかったでしょうね。
>自分の全責任において物事を行うことを極端に嫌い
>下からの奏上に対して承認を与えるというやり方を好んだ。
私も尊氏はそういう人だったと思います。
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惣領制のモデルとしての足利幕府 投稿者:安部奈亮
投稿日: 9月14日(金)11時11分14秒
こんなのを考えてみました。
鎌倉時代の武家は等分相続でしたが,そのため困窮してしまい,南北朝時代をかけて,一族の財産は有能なもの(あるいは長男)に相続させる惣領制が成立しました。その惣領制が一番うまくいって,しかしそのために崩壊していったのが足利幕府ではないか。
尊氏を一段高いところにおいて,残りの一族は兄弟といえども家来とする。幕府は足利一族で固める。
武家というのは,公家に対するコンプレックスがありますから,余裕が出来ると必ず律令官制の末端に連なって,公家的な生活を満喫しようとします。そして,それだからこそ下にいるものも「うちの棟梁はやはり違う」ということでついてくる面もありました。
これが極限まで進んだのが,足利義政で,彼はどうしようもない暗愚の帝王でしたが,これは近代人の見方で,彼なりの考えでは,武家の棟梁である自分が文化を磨いて,文化を体現することによって,下にいる武家たちの間の公平な裁定者足り得る,と思っていたのではないでしょうか。
つまり,「あの将軍(あるいは守護)は,たしなみが良いから,ちゃんとしたコモンセンスを持っていて,それに従って,公平な裁定を与えてくれるだろう」といった信仰のようなものが中世の日本人にはあったのではないでしょうか?
そしてこれが,足利将軍をはじめ,多くの守護大名や,戦国大名が陥ってしまった罠だったのではないでしょうか?
私たちは,江戸時代以来の講談や歌舞伎の,獅子奮迅の働きをする武将というのに慣れてしまっているので,鎌倉時代や室町時代においても,武将というのはそういったものだと思っていますが,それは違うのではないでしょうか?
平将門や源義家なんかは,確かに自分で弓矢を取って戦いますが,それは彼らの「芸」であって,人を殺すというよりは,芸を極めた結果として賞賛される,栄達した,と思っていたのではないか?
為朝も弓矢ですね。刀ではなくて弓矢というところがミソだと思います。刀を振るえば自分にも血がかかります。血は穢れです。やはり,武家の棟梁といえども,血を穢れと考えていて,弓矢で人を殺せる自分は,刀を振るう連中よりもまだ上であると考えていたのではないでしょうか?
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私も好きです-「太平記」 投稿者:安部奈亮
投稿日: 9月14日(金)10時53分15秒
私も高校時代古文で全文読みました。
言われてみれば足利尊氏が奮戦する場面というのは出てきませんですね。
絵は語る 4 源頼朝像─沈黙の肖像画─
米倉迪夫。平凡社。
これまた、日本史の常識をうち破る衝撃的な本である。
鎌倉時代の藤原隆信が描いた「源頼朝像」とされるあの肖像画は、何と時代が全く異なる南北朝時代のもので、「足利直義(尊氏の弟)像」であり、それと一緒に神護寺にある同じ様式の「平重盛像」が「足利尊氏像」である、という説を、絵の拡大図などを多くあげ、美術様式の研究の手法を用いて提唱している。
(なお、従来「足利尊氏像」とされていたあのザンバラ髪の武将像については、近年「高師直(尊氏の家臣)像」である、と“訂正”されている。)
という説が最近出てきていますが,だとしたら足利尊氏はとても公家的な容貌を持っていた人物ということになります。平重盛像は,いかにも公家といった顔つきです。kitunoさんと見た,等持院の足利将軍の像も,みなぽっちゃりとしたお公家さんでした(義教と義政だけは痩せてましたが)。
源さんの話とあわせると,もしかしたら尊氏は武家貴族で,公家的な性格を持った人物だったのかもしれませんね。上に立つものが,下々と一緒の行動をすると,むしろ軽蔑される面がありますから,むしろそのような人物の方が人望を集めたかもしれません。
源頼朝も,人前で見せるような,芸としての武芸には長けていたようですが,自分ではほとんど戦っていませんよね。
上に立つ者も,汗をかかないと人望を集められなくなったのは,江戸時代も中頃を過ぎてからの話です。それまでは,グータラしている貴族だからこそ,人がついてくる面もありました。現在でも,日本,ヨーロッパ,アメリカ以外の国はほとんどそうみたいです。
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私もひとこと 投稿者:源さん 投稿日: 9月14日(金)08時45分56秒
三国志、水滸伝、捕物帳(時代小説)などと同様、太平記が大好きな源さんです。
年に1種類以上は、必ず太平記関係の本を読んでおります。今年も、すでに数
種類読んでいます。
足利一族も、楠一族も好きですが、後醍醐天皇と北畠顕房を筆頭とする公家は
私もあまり好きではないですね。ただし、護良親王大塔宮をはじめとする後醍醐
天皇の皇子はみな自分の運命をそれぞれに受け入れてまっとうしたという感じで
すきですが。
太平記関係の本で、あまり評価されていない小説ですが(どうも私はこの本の
カバーの絵がちゃちなのが一因ではと考えていますが)、桜田晋也氏の「足利高氏」
という本があります。
高氏の内面分析として面白いことが書かれていました。好奇心と自尊心は人一倍
強いが、決断が遅いという性癖。自分の全責任において物事を行うことを極端に嫌い
下からの奏上に対して承認を与えるというやり方を好んだ。
優柔不断で、すぐ腹を切るといいだす彼が、なぜ時代をつかみ幕府をつかんだが
うまく描かれた小説だと思いました。あとこの小説を読んで、アッと気づかされた
ことは、高氏(尊氏)は、戦場で敵と刃を交えるというような場面には一度も出く
わさなかったという記述です。そういう危険な場面は、弟の直義か、高兄弟などが
引き受けていたようです。
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後醍醐帝は 投稿者:極悪忍者/根来衆 投稿日:
9月14日(金)07時43分32秒
政治的センスがないんですね。
政治的センスがないといえば、尊氏も人柄はいいんですが、
統治能力はどうかと・・・・・・。
結局、室町政権のあとは、日本は未曾有の混乱、戦国時代に突入していく。
後醍醐帝は、足利尊氏を征夷大将軍にして、
自分は象徴的な立場になっていれば、うまくいったと思います。
せめて、赤松円心を副将軍にして、
楠正成を執権にしていれば、こんな結果にはならなかったでしょう。
きんたろう様から、オフ会の時聞いたのですが、
公家たちは、楠正成でさえ「あんあ位卑しい者を近づけてはなりません」
と後醍醐帝に進言していたとか。
なんか、プライドだけが肥大して、能力はない、現在の大蔵や外務官僚みたいだ・・・・
あう〜
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輔住さん 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月14日(金)06時16分22秒
見て来ました^^
面白かったですよ。
それにしても悔しい思いをしたのは義貞だと思いました。
どう考えても後醍醐という人は日本歴史上最低の天皇のように思えてしまいます。
それでも義貞は尊氏の風下にはつきたくなかったでしょうか??^^;;
豊臣家のイフもまた面白いですよね^^
これも色々と考えられますよね。
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テロについて2 投稿者:きんたろう 投稿日:
9月14日(金)06時13分23秒
ツインタワー激突テロの被害者は6000人を越える規模になりそうです。
ジェット機の乗客を巻き込んで有無を言わせずにタワービルにぶつけてしまうのですから彼らが人の命に対してどのように思っているのか明かです。
無差別テロとは相手が誰でも良いわけです。
あのタワービルにはアメリカ以外の国の企業が多数入っていました。
また、観光客も相当数あの付近にはいるであろうと普通は考えるはずです。
ところがそんなことはお構いなしに彼らは犯行を実行しました。
要するにどのようなことを言い訳として使ったにしても狂人の行動と何ら変わるところがないと思います。
尤も犯行声明も何も公式には表明されていない様です。
勿論例えどのような犯行声明がなされたとしてもこれを支持する事は考えられません。
例外はイラクのフセインくらいでしょう??
このような無差別テロとは「オウム」のサリンばらまき事件と変わるところがない様に思います。
また池田小学校の事件もとてもよく似ているように思います。
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秀忠遅参 投稿者:Toshy 投稿日: 9月13日(木)16時49分52秒
下のアドレスは、昔書いた徳川と豊臣の複雑な関係についてのつまらん文章です(わら
太田さん>
>間に合わないようにしたのではないでしょうか?
に関しては、合流を考えていたか後の備えに考えていたか、どちらも有力な証拠がないため、断定するのはいずれにしても不可能でしょう。ただ、自分の考えとして「秀忠の遅参は計算外」を主張しているのに過ぎません。
なぜ自分が、家康が秀忠との合流を考えていたか、を主張するかといいますと、「石橋をたたいて渡る」家康だからこそ、必勝パターンのためには大軍を手元に置くだろうと思うからです。
関が原の戦いでも、直前の14日まで主戦場には向かわず赤坂でうろうろしています。秀忠を待っていたのではないか、と考えられる行動の一つです。
また、毛利の不戦・小早川の寝返りを取り付けたとはいえ、家康が喜んで戦いを仕掛けるかというと…ですね。実際に小早川は最後の最後まで迷っているし、毛利一族でも秀元・秀包(ひでかね)は主戦派でした。
仮に負けてしまった場合、家康に対する大名たちの信頼は失墜、まして秀忠では処理しきれないでしょう。
東軍に参加した豊臣系の中で、黒田長政や細川忠興はともかく、福島正則・池田輝政・浅野長政は家康に対する忠誠心はなかったのですね。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/kan.htm
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Toshyさん 投稿者:太田守人 投稿日:
9月13日(木)15時26分14秒
秀忠軍が間に合わなかったのは、家康の誤算でしょうか?間に合わないようにしたのではないでしょうか?秀忠は、この時が初陣です。
私は、家康は小心者で、よく言えば石橋を叩いても渡らず、誰かがわたってから渡るような人物です。
私は、徳川軍約3万を予備軍とし、豊臣恩顧の大名の忠誠心を図ったのでと思います。石田方に負けたら、この3万で後の処置をするのではなかったのでしょうか。家康の誤算は、秀忠が上田で足踏みをしたことでしょう。もし、急ぐのであれば、道の悪い中山道でなく東海道を進むでしょう。
本多佐渡とこのところはよく打ち合わせていたのだと思います。家康は、日本から戦争を無くすことに腐心した人だと思います。
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IFの話↓ 投稿者:Toshy 投稿日: 9月13日(木)15時05分02秒
は、秀頼が生まれていなかったら、の意味でした。言葉足らず失礼。
輔住さん>
湊川の攻防は、公家の武士を軽んじる傾向がありありと見える戦いでしたね。新田・楠木は大軍を相手にして、しかもハンディを背負って戦わなければならない、気の毒な人たちでした。
比叡山・京都の戦いは、天皇側の「威光」への過信が敗因でした。湊川の敗因を新田に求め、敗戦を反省しない貴族たちは困ったものです。
名和…京都奪回のため突入し、多勢に無勢で包囲される
千種…比叡山の戦いで、敵が引いたのを「勝ち戦」と勘違いして突進、戻れず
ところで「湊川の戦い」は「一の谷の戦い」と共に、俺は「神戸の戦い」と言ったほうが正確だとつねづね思っています。「一の谷」「湊川」は局地戦なんですよね。
神戸はこの戦いで、天下を二度も左右したことになる。関が原と同様、交通の要所が歴史を変えている。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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Slashdogさん 投稿者:Toshy 投稿日:
9月13日(木)14時30分40秒
レスありがとうございます(^^)
家康の、「石橋をたたいて渡る」がその寿命のうちに間に合ったことは、徳川にとって幸いでしたね。
関が原の後、北政所系の石田・宇喜田がいなくなったとはいえ、淀に近かった加藤清正・福島正則らが勢力を強めたことは、結果的に豊臣を守ることになっていたのでは、と考えたりもしました。
これきんたろうさんが指摘した、
>もし秀忠が関ヶ原に間に合えば
と関連してくるんですけど、秀忠率いる徳川の本軍が間に合わなかったため、関が原は豊臣系大名の力を借りるしかなくなったのですね。家康にとっては、関が原の誤算はこれだったのでしょう。
加藤・浅野・池田が健在のうちは、徳川も手出しできませんでした。これは関が原以降の12年間に当たります。実質的に家康が大暴れしたのは、清正の死後だったと思っています。
ここで秀吉の二世に関するIFがでてきましたね。俺は宇喜田秀家が豊臣家を継いでいたのではないかと思うのですよ。この人物は優秀だし、何よりも北政所の寵愛と信頼がある。
話は変わって、秀頼が自分の子ではないことを、秀吉は知っていたのではないでしょうか。
後継者に選んだのは、織田信長の血統だから?!これはトンデモですね(わら
輔住さん>
これから見に行きます。(^^)比叡山・京都での攻防はあまり知られていないところが多いので、楽しみです。
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HP更新 投稿者:輔住 投稿日: 9月12日(水)23時54分25秒
足利氏と新田氏その10です。
湊川と叡山や京都での攻防が中心です。
Toshyさん、Slashdogさん
>秀吉に成人した息子がいたら、家康はどうしたでしょうね?
秀頼が産まれず、秀次が家督をついでいたらと思うことがあります。
評判がいい人物とはいえませんが、政治的敗者となってしまった分
割り引いて考えるべきでしょう。
この秀次事件が細川氏や最上氏が後に反豊臣になった遠因と考えられ、
そういう意味でも惜しまれます。
http://www.bekkoame.ne.jp/ha/toutushou/a_n10.html
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Toshyさん 投稿者:Slashdog 投稿日: 9月12日(水)21時21分59秒
久しぶりです^^
>「豊臣を滅ぼした」のか「豊臣を秀吉の死後も、17年の間持ちこたえた」のか、
>判断しにくいところ。
この17年間はきっと、家康が石橋を叩いた期間ですよ(笑
信長か秀吉なら電光石火の早業で、数年で決着が付いたのではないでしょうか?
もし秀吉に成人した息子がいたら、家康はどうしたでしょうね?
こんな「If」もたまに考えたりします^^
秀吉の死後、史実と同じ行動がとれたかどうか・・・(笑
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淀殿 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月12日(水)18時52分08秒
の事を淀「君」と表現している事自体が徳川史観によるものであるのは明らかであるように感じています^^;;
「〜君」とは遊女などに使われていた表現なのです。
ここから考えると彼女に対してこのように表現した事自体がある意思を持ったものだと思えてしまうのです。
「天下人」の側室に対して徳川がこの様な表現を選択した事に対して陰湿な悪意を感じています、笑
家康の生涯のほとんどは「律儀者」として通ってきたのはよく知っているつもりですが、この晩年の行為は家康の意地汚い(と思える)本性をあまりにも現しているように感じています^^;;
でも、もし関ヶ原の戦いに秀忠の率いる3万がいたとしたならば、家康はあのような仮面を被る必要は無かったのではないでしょうか??
秀忠の3万こそが徳川の精鋭部隊でした。
ですから、もし秀忠が関ヶ原に間に合えば豊臣が東西に分かれた内輪もめ、という形ではなく西軍対徳川軍という構図をはっきりと示す事が出来たのではないかと思うのです。
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いや 投稿者:Toshy 投稿日: 9月12日(水)18時51分57秒
はじめましてでもないですよ(わら
もちろん見解の違いということになりますね。
豊臣が滅んだ時のマダムだっただけに「滅ぼした」といわれても仕方ないわけですけど、公平に考えると、北政所も「関が原で敗戦を招き、豊臣を滅ぼす原因となった女」と悪評を立てられる可能性もあったわけです。
淀の場合、相手が徳川家康という当代の英雄だった以上、敗れたことは仕方ありません。
「豊臣を滅ぼした」のか「豊臣を秀吉の死後も、17年の間持ちこたえた」のか、判断しにくいところ。
いずれにしても、歴史は敗者に対しては厳しいものです。。。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/tsu.htm
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テロについて 投稿者:きんたろう 投稿日:
9月12日(水)18時42分54秒
あまりの悲惨さに言葉を失ってしまいました。
まさかあのような映像が本当に見られるとは思いもしませんでした。
ハイジッャクされた旅客機の乗客達はあの卑劣なハイジャッカー達の弾となるために生きていたのでは決してありません。
またビルにいた人達や救援活動をしていた人達までの命も無惨に奪われた事を思うと無念さで胸が張り裂けそうです。
21世紀は秩序の世界ではなく混乱の世界へと向かっているのでしょうか??
日本では危機管理が全くなっていませんが、それでもこれまで(大体においては)無事に過ごす事が出来た幸運に感謝の気持ちを捧げたと思っています。
でも、もはや危機に備える事をなおざりには出来ない事態になっているのかも知れません。
社会党の非武装中立などというトンデモない意見が堂々と唱えられいた時代こそが平和の象徴だったのかも知れませんね??
あの無邪気な感覚が平然と語られていた時代こそが、正にコップの中の平和な時代と呼べるのかも知れません。
でもこれは日本国内だけで通用した常識であるのはあまりにも明らかです。
日本の近くを見ただけでも、ベトナム戦争、文化大革命、朝鮮戦争、南北分断、カンボジアの大虐殺、インドネシアからの独立、インド・中国の紛争、中国のチベット制圧、インド・パキスタンの紛争、などちょっと思い浮かべただけでもこれだけあります。
果たして戦争(紛争)の無かった時期などが果たしてあったと言えるのでしょうか??
先日の歌舞伎町の火災も放火の可能性があるような報道がされていました。
また扶桑社にテロ行為をした事も規模は違ってもその精神は相似形のように思えてきます。
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Toshyさん 投稿者:太田守人 投稿日:
9月12日(水)17時21分54秒
始めまして。私は、淀君はヒステリーな女性であったと思います。更に、プライドのみ高く、世間知らずで、2人の妹より数段落ちる人物だと思います。別に、家康でなくても、豊臣政権を壊した女性だと思いますが、見解の相違かもしれませんが。
安部奈亮さん、加賀の一向一揆も松浦党と同じ内容の取り決めがあり、それを基に国を運営していたようです。
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火曜日の人間大学を見ていますか? 投稿者:安部奈亮
投稿日: 9月12日(水)15時37分21秒
ETVの,いまやっている「海の侍」,とても面白いですね。
海賊の話なんですが,松浦党の話が雄大で面白かった。
松浦党は鎌倉時代の中ごろから高麗沿岸を荒らしていて,モンゴルの日本襲来の目的の一つは倭寇(主力は松浦党)撲滅にあったそうです。
モンゴル・高麗連合軍の攻撃によって松浦党は大打撃をえる。しかも,奮戦したのに,「自分の土地を自分で守るのは当然」といって,鎌倉幕府は松浦党に恩賞を全く出さなかった。
そこで,松浦党は強力な盟約をお互いに結び合って,横のつながりを強めて,自立した。
その盟約というのが良く出来ていて,年を追うごとに充実していった。
・加盟者の平等
・党の行動は,加盟者の話し合いで決める
・たとえ中央政府の命令であっても,松浦党で決めたことに反していれば従わない
・貿易の利益,あるいは略奪品を平等に分配する
等など盟約を決めて結束した。
源に対する恨みと,李氏朝鮮が自由貿易をはじめたので,挑戦沿岸で海賊行為はなくなり(宗氏が倭寇から脱落した,それに海賊よりも自由貿易のほうがうまみがある),松浦党を中心とした倭寇の行動範囲は中国沿岸に移っていった。
そしてここからがすごくて,その松浦党には,やがて西国の守護大名(大内氏,島津氏など),更に中国人が参加するようになったというのです。守護大名や中国人が署名した盟約がちゃんと残っているということです。つまり松浦党というのは,地位や民族を超えたシンジゲートになっていたというのです。最終的には8割がた参加者が中国人というところまで言ったらしい。しかし,その倭寇の中心にあったのは松浦党(多分他の海賊も同じような盟約を持っていたのでしょうが)の盟約だった。
さすがの松浦党も,太閤さんによって、日本が統一されると力を失ったそうです。
さてここからは私の想像なのですが,後期倭寇の活動期と,華僑が東南アジアに広がった時期は一致します。松浦唐の盟約と倭寇の活動と華僑の広がりそれに華僑の間の一族の結束は,有機的なつながりを持ちながら,お互い発展していったのではないでしょうか。和光も,華僑も,お互いに触発されていったのではないかと考えると,話が広がって面白いと思います。
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またも西アジアで戦争勃発か… 投稿者:Toshy
投稿日: 9月12日(水)14時34分45秒
俺はヨーロッパを世界の中心とした「中東」「中近東」という言葉を使うのは嫌でして(わら
昨日はテレビをつけた途端に、ツインタワーの崩壊を見て衝撃を受けました。
過去にニューヨーク旅行をした時、宿泊したホテルはあの近くです…
さてこんな時になんですが、
>豊臣政権は、秀吉が死ねば、淀君がぶっ壊したと思います
淀の姐さんは徳川政権によって悪名を立てられた気の毒な女性ですね。
現実に「関が原」で東軍に荷担したことは、結果的に豊臣を崩壊させることにもなりましたけど、淀君からすれば秀忠は義弟、秀頼と千姫は夫婦だから、彼女にとっての同盟者は石田三成ではなく徳川家康だったのです。
これを彼女の浅はかと責めることは出来ません。
なお徳川家康にしてみれば、自分が死んだ時に反徳川の旗頭となりうる豊臣を滅ぼしておくのは当然のことだったわけです。それで淀君を「徳川にそむき、豊臣を滅ぼした女」としたてあげ、罪をなすりつけただけではないでしょうか。
徳川家康が「狸爺」といわれるのはこの大坂の陣に関することだけでして、いずれにせよ豊臣を滅ぼすつもりだったのだから、もっと潔く(?)宣戦布告すれば汚らしいイメージは残らなかったでしょう。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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しかし邦人企業の集中していた階は 投稿者:安部奈亮
投稿日: 9月12日(水)12時32分58秒
飛行機の突っ込む個所がほんの10mくらいだったようですね。場合によっては日本人が千人近く死んでいたかもしれなかったんですね。この場合日本政府はどう行動したんでしょうか?犯人がわかった場合,やっぱり報復は行わないで,抗議声明だけで,報復攻撃はアメリカ軍に任せたのでしょうか。
考えてみるとぞっとしますね。
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(無題) 投稿者:太田守人 投稿日: 9月12日(水)12時04分26秒
安部さん、鎌倉の北条ですか、失礼しました。
でも、家康は、新田義貞の子孫と言っていますし、公文書等にも源家康と署名してますので、手本は、源頼朝ではないかと思います。平氏である、北条を手本にしたとは思えません。
アメリカのテロ大変ですね。まあ、ブッシュはタカ派ですので、トマホークをぶち込むくらいのことはしないと、アメリカ国民は納得しないでしょうね。
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無国籍軍結成を誘発しなければいいが 投稿者: 焼尻紋次郎
投稿日: 9月12日(水)11時41分41秒
ごぶさたしました。
すでに、どこかのヘリコプターがアフガニスタン過激派の拠点にロケット弾を
ぶちこんだという情報が流れました。
あのヘリコプター……国籍がハッキリわかるといいですね。国籍不明がまかり
通ると、この世は闇にござんすぜ。
関連 ; http://cgibbs.mmjp.or.jp/bbs/show/www.you-i.org/bbs
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携帯電話が繋がらないのは 投稿者:安部奈亮
投稿日: 9月12日(水)11時12分06秒
貿易センタービルのてっぺんにアンテナがあったのと,安否確認のためにパンク状態だからだそうです。
しかしあまりにもきれいに決まりすぎている気がします。
普通,何らかの目的があったり,怒りや憎しみに駆られて行動を起こすと,どこか穴が出来るものです。あまりにも純粋に手段が遂行されすぎています。従って,私は首謀者の目的は政治的なものでも個人的な怒りでもなく,テロを成功させること自体にあったのではないかと感じました。つまりは,愉快犯に近いのではないでしょうか?
第一,あの時間は日本とヨーロッパとアメリカが起きている唯一の時間帯といえます。全世界にニュースが同時に配信されることを狙ったのは間違いないでしょう。
今回の事件で,アメリカ人が真珠湾攻撃をどう捉えているか少し理解できました。突然攻撃されたので起こるのは無理もないでかもしれないですね。彼らは真珠湾を一種のテロと捉えたのでしょう。
しかし,はっきりと「日本の戦闘機」と分かるような格好をして,軍事施設だけを攻撃した(軍人は攻撃していない,軍事施設を攻撃する過程で死んだのであって,人命を奪うことは日本軍の目的にはなかった)真珠湾と今回のテロは同じ物にはして欲しくないですね。
人間として最後の約束事まで破ってしまったテロリストの末路が破滅であると信じたいものです。
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太田さん 投稿者:安部奈亮 投稿日: 9月12日(水)11時00分07秒
鎌倉時代の北条氏ですよ
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貿易センター 投稿者:きんたろう 投稿日:
9月12日(水)05時05分50秒
ビルに飛行機が衝突したシーンだけは見ました。
その後寝てしまったので何がなんだかよく分かりません。
無防備な一般の生活者を殺して大儀も何もあったものじゃないですよね。
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洒落にならんですよ。 投稿者:極悪忍者/根来衆
投稿日: 9月12日(水)03時38分18秒
数千人が死んでいる模様。
アメリカは、反米活動家、ビン・ラディン氏の犯行であると推測しているようです。
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またまた恐ろしい事実が 投稿者:Slashdog
投稿日: 9月12日(水)00時22分48秒
なんと今朝、同時に11機ハイジャックされたということです!!
F16にスクランブルかけたらしいので、撃ち落される危険性が
ありますね・・・。
携帯や公衆電話が通じないのはテロ組織の仕業??
>私の兄がアメリカに永住したし、従兄弟が防大を出て米海軍の将校と
>なっているだけに、本当に戦争にならないだろうかと心配です。
心配ですね。 これ以上攻撃が続くと軍事行動を起こす
可能性も有りうるか・・・。
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真珠湾攻撃は 投稿者:源さん 投稿日: 9月11日(火)23時48分06秒
軍事施設のみ攻撃目標としたのであり、民間の家に被害が及ぶことは避けました。
>パールハーバー以来の攻撃を受けたと向こうのニュースで言っているそうです。
>こんな所で引き合いに出すなよなぁ〜。意味がちがうっちゅーねん!
日本を空漠するときは、町の周囲から焼い弾を落とし民間人が逃げられなくして
町の中心部にさらに爆弾を落とし、戦争映画では、虚偽の場面を作って
アメリカは何と、人道的な国なんだといっている国です。
世界から嫌われるのもある程度理由はありますね。
しかし、私の兄がアメリカに永住したし、従兄弟が防大を出て米海軍の将校と
なっているだけに、本当に戦争にならないだろうかと心配です。
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犯行声明が 投稿者:Slashdog 投稿日: 9月11日(火)23時06分29秒
出たと言う事です!
これはテロを超えてます。
パールハーバー以来の攻撃を受けたと向こうのニュースで
言っているそうです。
こんな所で引き合いに出すなよなぁ〜。
意味がちがうっちゅーねん!
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今度はワシントンのペンタゴン炎上 投稿者:源さん
投稿日: 9月11日(火)22時53分21秒
また飛行機が突っ込んだようだ
テロのようだが、戦争にでもならなけらばいいが・・・・・
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テロ!! 投稿者:Slashdog 投稿日: 9月11日(火)22時52分31秒
今、ニュースで見ました!!
こんな大規模なテロは最近では珍しいですね。
ペンタゴンも燃えてるし、貿易センタービルに767と軍用機が
突っ込んだ!!
恐ろしいです・・・。
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信長の話 投稿者:kituno_i 投稿日: 9月11日(火)22時23分09秒
盛り上がっていてすごいな〜!!
SlashdogさんやSinさん、お久しぶりの根来衆さん、Toshyさん、太田さん、安部さん
皆さんの意見を読ませてもらうことができ、感激です。
皆さん、すご〜い!!さすが!!
kitunoのトピックでは「一乗谷(3)」を書き込みました。
一乗谷の現在の様子です。^^
http://post.messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=c0bbfabc0bbra1a2bfa5edbfaed9a4knxa47a4fa4a4a4dea49a1a3&sid=1835208&mid=2965&n=1
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NYの世界貿易センタービル 投稿者:源さん
投稿日: 9月11日(火)22時14分37秒
まさに本物のタワーリングインフェルノ!!
先ほど、生で航空機が突っ込む映像もみえたけど
なんで2機目も突っ込んだんだろう?
ほんとうはプロジェクトXの姫路城の復興の感動を伝えるつもりだったのに・・・・
しかし、この生の映像は凄いですね!
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織田の 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月11日(火)21時55分36秒
絶対王政が出来たとしたら一体世界はどのような変質を遂げたことでしょうか??
安部さんの言われるようにスペインのような発展を遂げた可能性が高いように思っています。
ひょっとしたら産業革命を起こしたイギリスには負けたかも知れませんね。
でも例え負けたとしても、イギリスと地球上の正反対側に位置するという地理的条件によって局地的敗戦に済んだように思います。
そうするとイギリスから産業革命や理念を輸入して新たな進歩を遂げたかも知れませんよねv(^o^)
究極の未来とはこれによってアメリカ合衆国そのものが存在しない歴史になっているかも知れませんね、笑
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太田さん 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月11日(火)21時52分52秒
私は本能寺の変とは究極のアクシデントであると考えています。
そして光秀が信長を殺したのはラッキーパンチそのものであるように確信しています、笑
つまり、あの成功例をもって信長が殺される事を必然とは考えていません。
勿論「天下布武」の過程において反乱が起こったであろう事を否定するものではありませんが...
信長は強権政治を押し進めたイメージがありますが、これを例えて言うならば帝政ロシアの農奴制社会からスターリンが強固に押し進めた一党独裁政治に近いものがあるような感じています。
確かに現代人の私たちから見れば不備な点を数多く見るかも知れませんよね。
でもこれ以前は既得権益集団が確固たる砦を形作っていたのです。
私はこの旧体制を打ち壊した事は何よりも勝る功績だと思っています。
そしてこれを成し遂げるには農業生産性の向上によって農業に従事者しなくても食べいける人口が増えた事を挙げられると思っています。
食糧の生産力が増したことによって工業や商業などの農業以外に従事する事が可能になった社会情勢があると思うのです。
このように規模の経済が拡大していく事に対応する考えを持っていたのは信長しかいなかった事こそが信長の偉大さだと思うのです。
私は本来最も可能性がある歴史の流れには家康の姿は無かったと思っています。
彼はやはり代打の代打だったように思っています。
ちなみに最初の代打とは秀吉のことです、笑
私は秀吉の能力値を信長の3割程度だと思っていますが、家康は秀吉の更に3割程度だと思っています。
要するに家康の総合力とは信長の1割程度だと考えています、笑
Toshyさんも書かれていますが、信長、秀吉がいたからこそ家康があるのだと思うのです。
でも私は家康が嫌いというわけではありませんよ^^;;
家康は愚鈍の様に見えても、いざ行動するときの素早さは天才かと疑うばかりですよね。
ひょっとしたら信長という超天才の前で「爪を隠してきた」のかも知れませんね。
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池内さん 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月11日(火)21時49分02秒
こちらでは久しぶりですねv(^o^)
信長のイフを読んでいただいて有り難うございます。
温泉の雑魚寝もなかなか楽しそうですよね^^
このような場所ならくつろいで思いっきり飲めそうです、笑
信長が健在であったの場合に各大名がどのようになったのかを予想するのは確かに面白いと思います。
Slashdogさんが言われているように毛利家の場合は秀吉の顔をある程度は立てるでしょうから??存続出来たように思っています。
他の面から考えれば織田家最大のライバルとして見ていたのは毛利家だと思っています。
これだけ大きな勢力を一気に打倒するのはさすがに信長といえども大変な作業になるはずですから無理押しは避けたようにも思います。
このような所からの妥協もあるように思っています。
ただし最大の問題とは信長が日本列島の何処までを直轄領にしようかと思っていたかによるように思うのです。
伊達政宗は信長が相手の場合には喜んで「草履取り」をしたのではないかとさえ思っています、笑
何しろ戦国乱世においても信長の大活躍は少年時代の正宗にとって胸躍る痛快な出来事だったと思われるからです。
彼が最初の頃に秀吉を軽視していた??のは秀吉が元々の大名ではなく信長の家来に過ぎなかったからではないかと思っています。
つまり秀吉がいくら出世しても信長の命令の下に動いていた人物であるという認識が抜けなかったといった事もあるように思うのです。
つまり織田家の活躍とは全て信長の偉大さの現れであると認識していたように思っています。
ほとんどは輔住さんが書かれている内容と私も同じように思っています。
信長の政策とは基本的には朝倉家に対したようにするのではないかと思っています。
要するに肥大化した戦国大名の領地の本拠地の部分だけを安堵し、その他は自分の領地にしようというものはないでしょうか??
信長が目指したのは明治政府が県知事を派遣するような形に近いものがあるとSlashdogさんは言われていますが私も同様の意見です。
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安部奈亮さん 投稿者:太田守人 投稿日:
9月11日(火)17時04分39秒
始めまして。私は、家康のマキャベリズムのお手本は、北条でなくて、信玄だと思います。家康は、信玄を先生にしていますが、信玄ほどドライになりきれず、後年、関が原に秀忠が遅刻した時に、「せがれが居れば。」といい、家臣が秀忠を指して「ここに立派なおせがれ様がいらっしゃいます。」といった時に、「そのせがれではないは。」といったり、終生長男信康のことで愚痴をいってます。こんな人間くさいとこも、私が家康がすきなところです。
家康は、北条は軽蔑しています。家康が、オレンジを手に入れたときに、北条へ一部を送ってますが、北条はだいだいだと思い、「駿河ではだいだいが珍しいのか、田舎ものよの。」といってだいだいを大量に送りつけています。これを見た家康は、一言「なめげなことをする。」といい、以後北条を見捨て、秀吉についたといいます。
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訂正 投稿者:安部奈亮 投稿日: 9月11日(火)16時47分24秒
強化→教化
最近間違いが多い・・・これ研究室のPCだから,歴史に使う言葉じゃなくて,科学の文章を書くときの言葉が出てきちゃうんですよね。
茨城は今ごろ台風の目の中でしょうか?
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(無題) 投稿者:太田守人 投稿日: 9月11日(火)16時43分21秒
>優秀な若い旗本を、勘定方に配置した
これを最初にやったのは秀吉なんです。
そうでうね。三成等をわすれていました。きんたろうさんありがとうございました。でも、豊臣政権は、秀吉が死ねば、淀君がぶっ壊したと思います。それより、信長がもう10年生きてれば、秀吉の出番はなかったように思います。
織田政権が安定したかどうかは、信忠の資質いかんだと思いますが、信長が本能寺で生き残れば、明の太祖のように、功臣をすべて粛清し、自分で自分の首を締めたように思いますが、いかがでしょうか?
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北条氏+唐+宋+明=? 投稿者:安部奈亮 投稿日:
9月11日(火)15時55分36秒
徳川幕府が民衆統治で一番参考にしたのは明王朝であるといわれています。
徳川家康は,明の行政文書をいっぱい輸入させました。行政文書を輸入して国づくりをするというのもユニークですよね。
家康の座右の書は「吾妻鏡」と「貞観政要」と「宋名臣言行録」でした。
多分北条氏のマキャベリズムと,唐の貴族による寡頭政治と宋の官僚制をうまく合体させて,そして明のように民衆を強化することによって,自治を基本にした出来るだけ安い政府にする。これが家康のグランドプランだったのではないでしょうか?
織田信長の絶対王政とは違いますが,これもまた織田信長に負けないくらい壮大なプランであると私は思います。
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太田さん 投稿者:Toshy 投稿日: 9月11日(火)15時34分17秒
>優秀な若い旗本を、勘定方に配置した
これを最初にやったのは秀吉なんです。石田三成・小西行長・大谷吉継といった連中は、戦よりも経済の方面で成り上がった人々です。豊臣政権の場合一枚岩でなかったため、秀吉のビジョンは崩れましたけど、やはり長期政権を考えてのことだったのではないでしょうか。もし豊臣政権が磐石であれば、家康の出番はなかったと思われます。
逆にいうと、織田政権が出来上がり豊臣政権がなかったとすれば、秀吉の人材登用を見なかった家康は幕府260年の基礎を作ることは出来なかったように思います。
その意味で、わしが先日書いたように、信長―秀吉―家康という3代、ですね。信長から一足飛びに家康には行かなかったのでは。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm
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日記も残そう! 投稿者:安部奈亮 投稿日:
9月11日(火)14時27分21秒
原敬は,一昔前までは評判が悪かったのですが,最近株が上がってきています。
他にも近代の人物で評判が上がってきている人が何人かいますが,その共通点が分かりました。
彼らは日記を残しています。
というわけで皆さん日記も残しましょう。100年後に,あなたの行動は正当化されます(笑)
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文書記録主義 投稿者:安部奈亮 投稿日:
9月11日(火)14時24分43秒
江戸時代の庶民が米を食っていたことはほぼ間違いないと思われます。最近の研究者の本を読むと,農民も米を食べていた,という話しになっているようです。
しかし,はっきりと認めないのは何故か?私はおそらく・・・
江戸時代の庶民の献立表が残っていないからではないかと思います。
ですから,主婦の皆さん,献立表を記録に残しましょう。100年後には超一級の史料になります(笑)
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織田帝国が出来た場合 投稿者:安部奈亮 投稿日:
9月11日(火)14時20分21秒
チューダー王朝やブルボン朝のような絶対王政を敷いたと思われます。
重商主義,植民地は拠点を取る,軍隊は傭兵,
そして,17世紀には言って,ヨーロッパ諸国と各地で衝突がおこったでしょうが,ただ産業革命に乗っかることができたかどうかに少し不安があります。
日本の近代産業を支えた技術は,江戸時代の間に蓄積されました。織田政権の絶対王政がうまく行き過ぎた場合,商業によると美濃蓄積ばかりが進んで,技術が育たなくなって,スペインのようになった可能性もある反面,中国からの技術移植(江戸時代の技術のほとんどが,もとは中国から移植されたものであった)に織田帝国が熱心になって,イギリスと同時くらいに産業革命が起きたかもしれません。これはちょっと分かりませんね。日本が17〜18世紀の世界史のプレーヤーとして参加することによって,産業革命を引き起こした世界的な背景自体が変化して,20世紀の世界全体が今とは全然違うものになった可能性もあると思います。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:
9月11日(火)13時10分32秒
信長が、もし本能寺の変で無事でも誰かに殺されていたと思います。多分、もっと強権弾圧政治をしたと思いますので、まあ10年もてばいいほうだと思います。
矢張り、戦国終焉の立役者は、小心者の家康のように思いますが、きんたろうさんいかがでしょう。
家康と言う人は、非凡な人だと思います。今、国家公務員の1種試験合格者のうち優秀者を、財務省に配属するのは、家康が、優秀な若い旗本を、勘定方に配置したのを、明治政府が見習ったからだと言います。江戸時代は、よきにつけあしきにつけ、今の日本の基本になっているように思います。これを、発明した家康という人物は、世間一般に言われる「狸おやじ」では無いように思います。私は、信長・秀吉・家康の3人で、家康が一番長期ビジョンを、持っていたように思い一番すきです。(外の人からは、変わってるねーとよく言われます。)
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各大名の予想 投稿者:輔住 投稿日: 9月11日(火)06時43分47秒
>このあたり きんたろうさん、皆さんどうですか?
では私の意見を適当に
伊達:史実でも政宗が暴れだすのは本能寺より後、史実と異なり
東日本への侵攻も早まるので逆に勢力が弱まる分
生き残れる可能性高い。
上杉:90%以上滅ぼされる。
佐竹:史実と大差なし。
北条:外交次第。(遠国に移転されるだろう)
ただ戦うとなっても秀吉の時よりまともな対応をしたと思う。
毛利:ここも外交次第。秀吉より条件が落ちると思うので
それを飲むかどうか!
長宗我部:上杉と同様。
大友:史実同様に島津対策で援助を求めてくるでしょう。
九州平定後、信長が博多をどう扱うかが興味あります。
島津:上杉、長宗我部ほどではないけど滅亡の可能性あり。
(約60%〜70%)
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信長のイフ 投稿者:きんたろう 投稿日:
9月10日(月)23時41分22秒
Slashdogさん、Sinさん、有り難うございます^^
SlashdogさんやSinさんとこの話題をするのは二人がノーサインでダブルスチールを決めると同時に私がセーフティー・バントした様な感じがしています、笑
信長のIFこそが日本の歴史の進路に最も大きな影響を与えたように思っています。
私は光秀のあの発作さえなければ最も正統な(つまり1足す1は2であるというような当たり前すぎる可能性という事です)歴史が日本において出現したであろうと思っています。
ですからどちらかといえば実際の歴史の流れから綱渡りをしてウルトラC的展開を遂げる事になったのは次善以下の策であるように感じてしまっています。
そう言えば秀吉や家康が神として祭られていますが、この方式の先生もまた信長だったのではないかと思いました。
信長は晩年近くになって自分を神として崇めるような行動を起こしていましたよね^^
秀吉の行動や家康の行動のプロトタイプは全て信長に求めることが出来るのかも知れないと思っています。
それが秀吉色、あるいは家康色という個性になって現れているのではないでしょうか??
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毛利家は 投稿者:Slashdog 投稿日: 9月10日(月)23時36分44秒
信長が統一した時点では残ってると思います。
秀吉がまとめた割譲案を信長がそのまま認めるとは
限りませんが、秀吉に甘い信長が秀吉の顔をまるまる
潰すとは到底思えません。
伊達家にしても、秀吉にすら頭を下げた正宗が信長に
反旗を翻すのも考えにくい・・・。
このあたり きんたろうさん、皆さんどうですか?
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どうもっ!お久しぶりですっ 投稿者:極悪忍者/根来衆
投稿日: 9月10日(月)23時01分00秒
if信長、なかなか面白かったです。
sinさんの言うように、たしかに信長が生きていれば、
北条と毛利は滅ぼされていた可能性はあります。
徳川を牽制するためにも、北条、伊達は、真っ先に滅ぼされていたかもしれませんね。
信長の性格からして、毛利との休戦協定もかんがえにくいし。
あ、それから、今度、大阪に来るとき、
宿泊施設はスパワールドなんてどうです?
結構評判いいですよ。
寝床は雑魚寝だけど。
http://www02.so-net.ne.jp/~tokupura/sp-world.html
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一乗谷 投稿者:Sin 投稿日: 9月10日(月)01時14分37秒
10年ぐらい前に行ったっきり(笑)
なまじいつでも行けると思うと行かなくなります(爆)
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信長if 投稿者:Sin 投稿日: 9月10日(月)01時13分00秒
本能寺で信長が生き残った、あるいは本能寺の変そのものが無かったとして
歴史を考えた場合、信長による天下統一は疑う余地はないでしょう。
もし信長の手によって天下統一されていたとしたら毛利、北条などの大名は
滅ぼされていたであろうと私は思っています。
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信長の神髄 番外編 投稿者:Slashdog 投稿日:
9月10日(月)00時39分52秒
読みました^^ きんたろうさんらしい面白い読み物でした!
信長の「if」を考えると何時間いや、何日あっても足りません^^;
信長が生きていれば、もう既にここで分岐を考えねばなりませんね
(本能寺を生き延びた場合と本能寺がなかった場合)
どっちにしろ信長が統一を進めた場合には、ほとんどの大名は
滅ぼされるでしょう。北条などは本能寺の時点でもう交戦寸前ですから
あのままあっさり潰されたでしょう。
ひょっとしたら一時、北条側が譲歩して回避したとしても
やっぱり最終的には長宗我部のような結末が・・・。
上杉にしても同様でやはり大量兵器、兵士の物量の差はどうしようもない
ことで結果的には北条同様でしょうかね。
上手く立ち回って残るのは島津と伊達家くらいかな?と思います。
あっ毛利家も残るか!
根本的に信長には秀吉のように丸く収めて云々という方針はなく
自分の「代理人」を全国に置くというのが目的ではないかと思われます。
(現在の「市長」「県知事」などと同じ意味合い)
最後にもっとも重要な事柄「帝」の問題ですが、信長が統一を果たした場合
正親町天皇が譲位するのは間違いないので、信長に囲われていて
実質的に第二朝廷として機能していた「二条御所」の主
誠仁親王が新たな天皇に。
ここで准三宮待遇を親王から取り付ける。
(これは足利義満と同じ手段で上皇として振舞える)
その後 親王には早い時期に退いてもらい
親王の息子「五宮」(信長が猶氏にしていた)を
新天皇にする。この時点で信長は天皇の養父となり、
公武を束ねた絶対君主の座を獲とくすることになる。
それから信忠には征夷大将軍として武家を束ねさせ、
信忠の子を五宮に嫁がせ、男子が生まれれば織田家の血を引く
新天皇の誕生!!
天皇家の簒奪は作家の桐野氏の仮説ですが、信長なら気長に
これくらいやりそうで納得できます。
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昨日 投稿者:きんたろう 投稿日: 9月10日(月)00時27分43秒
今日と急に暑くなりました。
台風のエネルギーはものすごいものだと思います。
庭の草刈りをしてビールを飲んでいたら一日が終わってしまいました^^;;
kitunoさんのトピックを見て来ました。
一乗谷は有名な名前ですが私はまだ行ったことがありません。
私も一度は自分の目で見てみたい所の一つです。
羨ましいです^^
ところで今日のNHKで黒潮説が放送されたそうですね??
面白そうなタイトルですよね。
見逃してしまいました、残念(^^ゞ
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トピックの 投稿者:kituno_i 投稿日: 9月
9日(日)17時23分24秒
アドレスを忘れた^^;
http://post.messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=c0bbfabc0bbra1a2bfa5edbfaed9a4knxa47a4fa4a4a4dea49a1a3&sid=1835208&mid=2960&n=1
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信長 投稿者:kituno_i 投稿日: 9月 9日(日)17時22分35秒
信長の話題からしばらく遠ざかってしまっていたkitunoですが、きんたろうさんのHP
更新に触発されて、一気に「kitunoの旅<信長編>−一乗谷−」を書き上げました。^^
今回の旅日記は1999年10月に一乗谷を訪れたときのこと、その時調べてきたこと
で、3日間連載の予定です。^^
旅をして2年も経過してしまい、記憶が風化する寸前。(アブナイ、アブナイ^^;)
その上、当時たくさん摂ってきた写真のフィルムが行方不明になってしまい、HPに
写真を掲載できな〜い!!^^;;
kituno撮影の貴重な写真がいっぱいなのに〜!!
必死になって探さなくては....。(ゼイゼイ)
トピック、是非読んでね。
越前の夜更かし大王(なつかしい〜)は、一乗谷に行ったことあるのかな〜?
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