過去ログ131(2001年〜9月22日)


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寒かった〜。 投稿者:kituno_i  投稿日: 9月22日(土)23時41分13秒

今日は運動会でした。
今週の火曜日には汗だくになって練習していたのに、この寒さは何なの〜!
子供達、風邪引いちゃうよ〜。

明日と明後日が連休でよかった(^^)/
体を休められます。^^
しばらく皆さんのHPにお邪魔していなかったから、運動会が終わってほっとした
この時期にいっぱい遊びに行こうかな!(^^)v

Toshyさんの「津太夫」が話題になるのはわかります!
私も「津太夫」を読んで、幕末の漂流民のことや歴史の表面には出てこない庶民の
生き様にとても興味を持ちましたもの。
漂流については、古代についても考えてみるようになりました。
季節風とか潮流とかを調べるのに、地図も随分開くようになりました。^^



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広家の行動が 投稿者:Sin  投稿日: 9月22日(土)23時29分31秒

結果的には主家を救ったので功績に見えるかもしれませんが、
その反面、毛利家を分裂状態で一大決戦に突入させた罪もあると
私は思っています。



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広家の行動は 投稿者:輔住  投稿日: 9月22日(土)18時41分48秒

Sinさんの仰るとおり、輝元には無断での行動でしたからねえ。
そうだから家が残ったと考えるよりも、大幅に削られたと言う
恨みが先行するのが人情かな?やっぱり!

広家としては毛利のためを思ってやったことでしょうけどね。



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うちのサイト 投稿者:Toshy  投稿日: 9月22日(土)10時48分26秒

が文学2ちゃんねるで話題になっているのを発見! 厨房扱いは自認しているところだからかまわんが、誉めてくれる方々がいたのはうれしかった。しかも「津太夫」まで日本史板に紹介されている。
よくあんなマニアックなところ見てるなあ(わら

>主家の領土を大幅に減らしてしまった以上、仕方のないこと
そうですね、「主家を救った」ばかり考えていたためそっちまで頭が回りませんでした。ありがとうございます。

「毛利両川」はくずれ、その後は秀元・秀包の両従兄弟が毛利家を支えたのでした。あ、秀包は小早川家の「もう一人の養子」です。実際は元就の9男らしい。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm



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太田さん 投稿者:Sin  投稿日: 9月22日(土)00時17分50秒

直接レスをするのは初めてですね、よろしくお願いします。
吉川広家が関ヶ原の後毛利家内部での発言権を失ったことは
誰かに憎まれたからと言う理由だけではないでしょう。
主君の許し(黙認)を得ずに独断で行動した結果、
主家の領土を大幅に減らしてしまった以上、仕方のない
ことだと私は思います。



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拙者もお昼でござる。 投稿者:極悪忍者/根来衆  投稿日: 9月22日(土)00時12分58秒

メール出したでござる。
前も、メール出したでござるが、不通の様子でござる。
また、メールが届いてなかったら、またご連絡お願いするでござる。
ニンニン。



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毛利輝元 投稿者:Sin  投稿日: 9月22日(土)00時03分39秒

私も輝元には世間知らずのぼんぼんという印象が多少あります。
しかし、輝元は家長として一家を率いていく訓練をする機会が
あまり無かったのではないかという感じもあります。
その原因は皮肉なことに二人の叔父があまりにも有能過ぎた
ためではないかと思います。
彼が実質的に家長として毛利の命運を架けて決断を下さなければならなかった
初めての機会が関ヶ原直前の時ではないかと思います。
そのような時に弁舌の立つ人物に説得されれば気持ちが揺らぐことも
ある程度は仕方ないでしょうかとも思います。
まあ、お世辞にもとても有能な人物であるとは言い難いとは思いますが(笑)



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連続で 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月21日(金)23時13分10秒

尊王思想11をアップしました。
過去ログも今年の2月まで来ました^^;;



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Sinさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月21日(金)23時07分36秒

私の所にも井沢先生サイン入り文庫本が届きました\(^o^)/
今にして失敗したと思うことは先日井沢先生の講演を聞きに行ったときに先生にサインをもらおうとしなかった事です、笑
先生が帰られるときすぐ隣りを通ったのですが...

止々斎さん、よくいらっしゃいました。
よろしくお願いしますね。

吉川氏の岩国にある眼鏡橋は有名ですよね。
私も一度だけですが行ったことがあります。
またあの付近には大きなダムがあったような気がするのですが??笑

輔住さん、説明を有り難うございました^^
確か「降参半分の法」という慣習法??が鎌倉時代の頃からあったようですね。
これによると降参した者は所領の3分の1,もしくは半分を差し出せば許されるという事だったようです。



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ははは。 投稿者:Toshy  投稿日: 9月21日(金)14時38分12秒

変換ミスだ
>おだてにのりやすい正確→性格



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吉川と毛利 投稿者:Toshy  投稿日: 9月21日(金)14時37分24秒

>なんであんなに冷たかったのでしょう。
輝元というよりも、輝元に代わって藩政を担当した秀元が吉川家を憎みきっていたとのことです。直接その現場でだまされていたのだから当然かもしれない。だから止々斎さん(はじめまして)のご意見のように、正式な藩として秀元が認めず、冷遇されたのですな。
この秀元の執念が、維新を成功に導いたと考えていいでしょうか?!

おっしゃるとおり、秀元には「戦っていれば勝っていた」という意識があり、彼は負けた気は全然なかったのですね。
輝元は世間知らずのぼんぼんという印象は、俺も否定できんです。三成に乗せられて西軍の大将になり、次には家康の手紙を信じて中立になるなど、どうも覇気というものが感じられない。人の良い、おだてにのりやすい正確だったのかもしれませんね。
藩政を秀元にゆだねなければ、毛利は江戸初期を乗り切れなかったのでしょう。



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毛利は 投稿者:太田守人  投稿日: 9月21日(金)12時57分34秒

関が原の後、吉川広家に輝元は、なんであんなに冷たかったのでしょう。彼がいなければ、毛利家はお家断絶だったでしょう。まあ、Slashdogさんの言われるように、吉川の裏切りがなければ、或いは勝者になってたかもしれませんが。
毛利輝元は、ぼんぼんだと思います。いくら、安国寺恵瓊ががたがたいおうが、総帥の輝元がNOといえばよかったわけですから。



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昨日更新分(^o^) 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月21日(金)09時22分18秒

安部さんの尊王思想10をアップしました。
下記のアドレスです。
見てくださいね。

思想の流れがよくまとめられています。
先人達の頭脳の偉大さがよく分かりました、笑
それとともに現代社会を理解する上でもとても参考になると思います。

http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/abesonnou10.htm



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毛利家を 投稿者:Slashdog  投稿日: 9月21日(金)00時05分35秒

関ヶ原に引っ張り込んだのは安国寺恵瓊です。
輝元自身はとてもそんな気は無かったと思いますが(そこが最終的に
悲惨な結果を招く一因になってます)三成と恵瓊が組んだからこそ
あそこまでの戦力の増強が図れたといっても
過言では有りません。

また広家がいなければ(というか、内通してなければ)
西軍が勝った可能性はかなり高かったと思いますね〜。
広家は読みが甘かったですね。家康があんな話実行するわけがありません。
毛利の「両川」がいなくなった時点で毛利家の衰退は避けられないものに
なっていたのかもしれません・・・。

安部さん
>毛利というのは,国人の同盟の盟主ですから,毛利氏の命令の下死も恐れずに戦争をしてくれる>ような兵力は毛利氏は持っていません。毛利氏というのは家臣に対する求心力が小さいんです。>関が原で最後まで決戦に踏み切れなかったのはこれが原因でしょう。
これは毛利家初期の頃、そういう度合いが強かったのですが、それは徳川家(松平家)とて
同じことですよ。土豪の酒井党、本多党、内藤党、大久保党、石川党などを
まとめていた盟主にすぎません。



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井沢元彦さんの 投稿者:Sin  投稿日: 9月20日(木)23時11分49秒

サイン本が我が家に届きました。
どうやら抽選に当たったらしい(^^)/



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吉川氏 投稿者:止々斎  投稿日: 9月20日(木)21時15分13秒

初めまして。

吉川氏は確か、関ヶ原の後に周防岩国六万石を領しますが本家からは正式な藩として
認知されませんでした。
吉川氏が正式に藩として認知されるのは、一八六八年(明治元年)です。



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南北朝時代は 投稿者:輔住  投稿日: 9月20日(木)17時34分32秒

基本的に降参すれば1/3位の領土が安堵されました。
応永の乱の大内義弘は彼の戦死後、弟が幕府に降りましたから
安堵されたのだと思います。

ただ、山名氏の場合は降参とは状況が違います。
山名氏の当主だった山名時義が死んだ後、山名一族に総領争いが起きて!
義満はそれを煽って山名満幸や氏清を倒しました。
義満に最終的に味方となった山名時煕や氏幸に「恩賞」として彼らに国が与えられました。

義満は一時は氏清達の味方で時煕達を攻撃していますから
(その後彼らは義満に詫びを入れて立場が変わった)
実に老獪です。



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辻政信 投稿者:太田守人  投稿日: 9月20日(木)17時02分12秒

は、私の住んでる金沢市の出身です。私は、金沢の出身者で、荒木貞夫と辻政信は最悪の人間だと思っています。
辻政信は、陸軍の幼年学校から士官学校に進み、陸軍大学校に進んだエリート軍人です。(そのマークが天保銭に似ているので、天保銭と部内で呼ばれていたらしいです。)特にたたき上げの連隊長など、このような天保銭の部下には頭があがらなかったそうです。
山本五十六も嫌っていたらしいです。



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念のため:関ヶ原の経緯 投稿者:Toshy  投稿日: 9月20日(木)16時01分29秒

首謀者の定義がわかりづらいのですが、もし中心になって兵を挙げたものだとすると、やはり石田三成ではなく宇喜田でしょうね。三成は宇喜田と北政所の要請で協力した形になっています。
毛利はそのずっと後ですから、西軍によって乗せられたと考えるべきであることは、安部さんのご想像のとおりです。ただし全国の諸大名に、味方するように要請した書簡は、すべて毛利・宇喜田と三奉行の署名です。
西軍の戦略を担当したのは明らかに石田三成で、その意味では首謀者といって間違いないですが。

>天下を向こうに回して戦うということになれば
ここは微妙です。天下は当時豊臣のものであるという認識でしたから、大坂城にいて秀頼を担ぐ毛利はその点有利でした。逆に大坂を攻めることになる徳川のほうが、福島正則をはじめとする豊臣系大名の反発を招く危険もあったのですね。

徳川が大坂城西の丸に入ってから名実共に徳川の天下ということになりましたが、戦後処理が済むまでは微妙なものでした。
これも「関ヶ原の戦い」主力戦ばかりに目を奪われ忘れられてきた事実のように思います。



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南北朝のころからの慣習・・・ 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月20日(木)15時26分39秒

>現実には上杉家にしても毛利家にしても大体3分の1以下にされています。
>多分これは南北朝の頃からの慣習??^^;;に従ったものかなと思います。

これは足利義満のときに大幅に守護領国を減らされた山名氏と大内氏のことでしょうか?明徳の乱の山名氏は11カ国から3カ国,応永の乱の大内氏は6カ国から3カ国ですね。

辻はノモンハン事件,南京における中国兵捕虜の扱いフィリピンでのアメリカ兵捕虜の扱いでもろくでもない命令(参謀だから本来命令は下せないけれども,参謀が口にしたことはほとんど命令も同然だったんですね)を下しています。確かインパール作戦にも関わっていたはずです。こういった奴が野放しで,何も知らなかった司令官が処刑された東京裁判はやはり片手落ちだったと私は思いますね。

信長が生きていたら日本は海外に雄飛していたか?ということについて・・・
鎖国の目的は,キリスト教を排除することと,それと日本国内で大抵のものがそろえられるようになったため,外国と貿易をする必要がなくなったからです。
ですから,徳川幕府が強制的に国の扉を閉ざしたのではなくて,自然と閉じてしまったといったほうが正確であるようです。ですから,貿易を盛んにしようとする為政者が家康の後に続いたとしても,結局は鎖国と同じことになってしまった可能性も高いと思います。



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毛利氏には家臣がいない 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月20日(木)14時59分18秒

毛利というのは,国人の同盟の盟主ですから,毛利氏の命令の下死も恐れずに戦争をしてくれるような兵力は毛利氏は持っていません。毛利氏というのは家臣に対する求心力が小さいんです。関が原で最後まで決戦に踏み切れなかったのはこれが原因でしょう。

徹底抗戦をしなかったのも,天下を向こうに回して戦うということになれば,国人たちが続々と毛利から離れてしまって,毛利氏が自然消滅する危険性があったからではないでしょうか?


日本の組織では,元気のいい参謀が実質的な大将であることが良くあります。やはり関が原の戦いの首謀者は石田三成で,彼に毛利輝元が乗せられてしまったのが実態ではないかと私は思います。つまり,名目的な大将が毛利輝元で,主力が宇喜多だからといって,石田三成が首謀者ではないことにはなりません。満州事変の石原莞爾や盧溝橋事件における辻政信のように,参謀でありながら,司令官に命令を下すような状態になっていたのではないかと私は思います。



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関ヶ原の戦後処理 投稿者:Toshy  投稿日: 9月20日(木)14時45分37秒

太田さん>
>家康に対し勇敢に戦っていたら、案外毛利家の減封というのはなかったかもしれませんね。
その前に、徳川が天下を固めることすら、なかったかもしれないですね(笑)
上杉氏にいたっては、翌年慶長6年まで暴れていました。だから、もし毛利が徹底抗戦し、山野に見を隠した三成・秀家が戻ってくるようなことがあると、再び戦乱の時代になったという可能性が充分でした。さらには伊達政宗・真田昌幸の動きも不気味です。
一日で戦いが終わったこと、戦後処理があっけなかったために見逃されている、という感じです。

ちなみに毛利はもともと、全領土没収の扱いでした。敗軍の総大将として、これは当然だったと思います。
長門・周防をかろうじてキープできたのは吉川広家の働きに違いありません。というか、2国は彼が与えられた領土だったのです。広家はそれをすべて、毛利家の領土にするよう家康に認めさせたのだと。
しかしそんなことおくびにも出さなかった広家(なかなかいい奴です:わら)、そのため吉川家は維新の時代まで微妙な立場にたたされつづけたとか。

上杉が毛利のように全領没収にならなかったのは、やはり上杉には反徳川の証拠が見出せなかったことにあるのでしょう。



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関ヶ原のイフ 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月20日(木)13時18分06秒

も色々な状況からそれぞれについて考える事が出来ますから面白いですよね。

この戦いの戦後処理についてもそうです(^o^)
太田さんが書かれているように、確かに関ヶ原の戦いで毛利兵の強さを家康に見せつけておけば120万石から40万石以下にまで減封される事は無かったかも知れませんね??
要するに妥協ラインがもう少し上のレベルに想定された可能性が高くなると思われるからです。

勿論これには戦後の交渉術も大きく関わってくる事は確かです。
また輔住さんが書かれているようにその土地の戦略上の重要度からも違ってきたであろうと思っています。

現実には上杉家にしても毛利家にしても大体3分の1以下にされています。
多分これは南北朝の頃からの慣習??^^;;に従ったものかなと思います。

恐らくこれ以上の減封をした場合には逆に「窮鼠猫を噛む」事態に陥る可能性が高かいと見なされたからではないかと思っています。

この減封が当時の常識の範囲内であったが故に減封される方もそれに従ったのではないでしょうか??

例えば佐竹氏の場合は常陸54万石から出羽20万石に減封の上移封されています。
優柔不断の佐竹としても(笑)もし取り潰されるとすれば焦土作戦まで視野に入れても徹底的に抗戦をしたはずです。(だと思う)
何しろ佐竹氏の歴史とは源平の頼朝の時からレジスタンスの歴史のようなものですからね。
抗戦のためのノウハウはかなり蓄積されていたと思っていますv(^o^)



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輔住 さん 投稿者:太田守人  投稿日: 9月20日(木)12時54分22秒

毛利については、おっしゃるとおりかもしれません。ただ、恭順しなかったら目減りはもっとすくなかったでしょう。

また島津が西軍に付いたのは家康のミスともいえます。
当初、義弘は鳥居元忠といっしょに伏見城を守るつもりでしたが
元忠が拒否したため、西軍に合流したのです。

島津にすればそうでしょうが、家康にすれば、予定の行動のように思います。鳥居元忠は、家康幼少からの遊び友達です。その性格も飲み込んで、伏見城の主将にしたのでしょう。家康にすれば、三成挙兵の口実が欲しかったように思います。更に、ご指摘のとおり、国許にいた義久が実権を握り、義弘のもとに兵を送らないだろうということを予測していたのかもしれません。
そこで、少数の島津に借りを作っても、情勢はそう変わらないだろうということで、わざと伝えなかったのかもしれません。このあたりが、家康という人物が、タヌキおやじと言われる由縁のように思います。



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太田さん 投稿者:輔住  投稿日: 9月20日(木)12時28分23秒

毛利としては30万石まで減らされるのは予想外だったとは思いますが、
広家のことを考慮しても減封なしは考えられないと思います。
良くても半分の60万石ぐらいに減らされたでしょう。
(私はかってはこれくらいが妥当と思ってました)
理由としては名目上、西軍の総大将は輝元です。
ここが減封なしでは他の大名の処分にも影響が大きすぎます。

また島津が西軍に付いたのは家康のミスともいえます。
当初、義弘は鳥居元忠といっしょに伏見城を守るつもりでしたが
元忠が拒否したため、西軍に合流したのです。

また義弘が率いた兵は1500で65万石の大名にしては少ない。
島津で実権を握っている兄の義久は中立だったこと。
島津へ兵をおくることのメリットやデメリットも考慮したと思います。



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もし輝元が 投稿者:太田守人  投稿日: 9月20日(木)10時36分22秒

島津のように、家康に対し勇敢に戦っていたら、案外毛利家の減封というのはなかったかもしれませんね。私は、毛利は、吉田以来とか徳川家臣団のように結束の固かったように思います。
家康という人は、小心者だと思います。毛利が島津のように、徳川軍の中央突破をして退却していたら、毛利は本領を安堵されたかもしれません。(外交交渉の如何にもよるでしょうが。)



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ウイルス情報です 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月20日(木)00時39分51秒

新種のウィルス「Nimda(ニムダ)」が発見されました。
 このウィルスは、ホームページを参照しただけで感染する可能性があり
ます。また、メール機能を悪用してreadme.exeという名称の添付ファイル
で感染を拡げる機能も持っています。このウィルスに感染すると勝手に大
量のメールを発信したり、ファイルの内容が改ざんされたり処理速度が異
常に低下する等の症状が現れます。
 ウィルス検知ソフトもまだ未対応のものもありますので、自衛策が必要
です。
インターネットエクスプローラやアウトルックエクスプレスを使用してい
る方は、セキュリティレベルを「高」に設定してください。
 また、ホームページ閲覧中、eml(アウトルックエクスプレス)電子メー
ルファイルをダウンロードするよう促された場合には、絶対ダウンロード
しないようにしてください。
 メールを受信した際にreadme.exeという名称の添付ファイルを受け取っ
た場合は、絶対に開かずに削除してください。



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今日の出来事 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月20日(木)00時35分28秒

ずいぶんと溜まっていた過去ログを久しぶりにまとめました。
アップできたのはまだ去年の11月と12月分です。
でもワープロの方には今年の3月までをまとめました。

そのためにかなり肩が凝りましたが嬉しい作業です^^
皆さんのおかげです。
これからもよろしくお願いしますv(^o^)

ところで昨日アサヒコムに投稿した文章はボツになったようです、笑



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少し毛利秀元に同情 投稿者:輔住  投稿日: 9月19日(水)22時15分02秒

Toshyさん
>しかし実際には積極的荷担だったことがばれたため、領土没収になったのです。
吉川広家のことを考えれば、処分が厳しすぎだと思っていましたが、
納得しました。ありがとうございます。

>石田三成は、あらゆる意味で貧乏くじを引いてしまいましたが、
意外なとこでは毛利秀元も少し貧乏くじを引いたかも。
子供のころ読んだ日本歴史の漫画では広家と共に西軍から東軍に
寝返った人物に入ってましたからね。(笑)



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いや 投稿者:Toshy  投稿日: 9月19日(水)18時35分33秒

安部さんから
>あれくらいは口が悪いとか爆発のうちには入りませんよ(笑)
と弁護いただくとは思いませんでした。ありがとうございます。でもやっぱり、気をつけないかんですね。
実は厳しい警告が来るのではと心配しておりましたが(笑)

>9月19日(水)14時35分50秒の投稿ですが
いや、東軍西軍、どっちがよい悪いの話をしたのではなく、言い方によってはどっちも「自分が正義だ」と主張できるという話をしただけなのですよ。
太田さんの書いたことが、
「家康が天下を狙ったのは戦争のない国家のため」「三成は自分の権力のため」
と、とることが出来たので、それに反論したのです。その結果三成弁護になってしまいました。
俺が書きたかったのは、つまり、太田さんの論理の主語を入れ変えて書いても意味は通じる、ということです。
大体、戦国時代の戦いの理由なんて、双方とも理屈では何とでもいえるのではないでしょうか。
俺が東軍を悪だとみなす文章を書いたら、それこそあれくらいではすまないでしょう(笑)。

ともあれ倫理観について論じるのは、俺の得意とするところではないのでしょう。

「太平記」の説明、ありがとうございます。能ではなく田楽でしたか、確かに時代的に、能楽は大成していませんでしたね。・・・

http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm



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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日: 9月19日(水)18時22分41秒

こちらこそよろしくお願いします。
関が原で、三成は島津の夜襲といい何度か勝利のチャンスがあったように思います。家康ならこのような、機会をはずすことはなかったように思います。矢張り、家康の方が乱世を生き抜いてきた人物だったのでしょうね。ただ、Toshyさんのいわれるように、目線を変えることも必要でしょうね。
私は、家康という人物は、フレキシビイリテイがあり好きです。また、よきにつけあしきにつけ、現代の日本の基を作った人物のように思います。

きんたろうさん、またときどきお邪魔しますので、よろしくお願いします。

それに,太平記の前半部分は足利直義が作らせたという説もあります。

安部奈亮さん、このような説があるのですか。初めて知りました。 足利直義が太平記を読んで、うそだらけだと憤慨したという話は聞いた事があります。もし、事実だとすれば、太平記はまだ当事者が生きていた頃に、すでに成立していたことになりますね。



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四条河原の観客席崩壊事故 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月19日(水)15時48分01秒

五条河原だったかもしれませんが,
私の記憶では(手元に「太平記」がない),足利尊氏を始めとして足利一族が列席する中で,田楽が行われて,一般客席,これが階段状だったのですが(ということはその当時既に階段状の客席があった!),これが崩れて数千人(「太平記」のことだから多分数百人)の死傷者が出た事件のことです。尊氏は危うく難を逃れたということです。

「太平記」には,天狗の仕業と書いてありますが,もしかして一種のテロだったのかもしれませんね。

太平記では要所要所で何故だか天狗が事件を傍観しているシーンが出てきます。これも,怨霊が世の災いである,ということ以上の意味があるのかもしれません。誰かの差し金であることの暗示かもしれないですね。

それに,太平記の前半部分は足利直義が作らせたという説もあります。

平安時代に,内裏が10年に一度くらいのペースで焼け落ちていますが,これも失火だけではなくて中には放火もいくつかあったそうです。世の中に不満を持つ人のテロだったということです。応天門の変はこういった背景の上に起こった事件なのでしょう。



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Toshyさんの意見は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月19日(水)15時25分43秒

各論に行き過ぎていて,全体論が見えないんです。

各論だけを見ると,石田三成は倫理的には悪くないんだ,むしろ家康のほうが悪いんだ,という風に言っているように読めます。石田三成を擁護して,じゃあその結果としてToshyさんは関が原に対して何を言いたいのか良く分からないんです。

あれくらいは口が悪いとか爆発のうちには入りませんよ(笑)



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安部さんの書き込みとすれ違いになった 投稿者:Toshy  投稿日: 9月19日(水)15時24分38秒

お、安部さんさすがにするどいですね!

三成を西軍の中心人物に仕立てたのは西軍諸将ではなく、むしろ東軍…徳川家康だったのですよ。
「三成・小西・大谷が反乱の兵を挙げた」と触れ回ることで、敵は毛利・宇喜田ではないことを東軍諸将に納得させた(?)のですね。事実、毛利と宇喜田が荷担していないかのような言い方を小山でやっています。

家康が最も気にかけたのは、ご指摘のように戦後の大坂城の出方でした。毛利秀元・秀包や名高い猛将立花宗茂は、大坂城で徹底抗戦を輝元に提案していました。しかし毛利輝元は、「俺は知らん、すべて三成のやったこと」と逃げるのみで、しかし実際には積極的荷担だったことがばれたため、領土没収になったのです。

東軍荷担のものでは、東北の伊達や九州の黒田などは、ひと波乱来るのを待っていたのではないでしょうか。伊達などは無断で上杉と和解して成り行きを見守っていて、関ヶ原が終わってから東軍寄りを鮮明にしました。黒田の暴れ方も、西軍が敗れてから本格的になっています。
さらに国許に退去した島津、ほとんど無傷で戦いが終わっていた長曽我部などもいますから、もし大坂で毛利対徳川の戦いが勃発すれば、安部さんが予想したように戦国の再来になったと思います。

>毛利が天下を狙っていたなんて事は江戸時代には徳川氏も毛利氏も絶対に口に出せないから,
>石田三成がワリを食ってしまったのでしょうか?
なるほど…そういう見方もありますね。「トカゲの尻尾きり」は、まさに真相を言い当てたものだと思います。

石田三成は、あらゆる意味で貧乏くじを引いてしまいましたが、戦いに負けた軍の総参謀的存在だった以上、これは仕方ないことかもしれません。



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アメリカは誤解している 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月19日(水)14時45分57秒

アメリカの最大の成功体験は,私は太平洋戦争で日本に単独で勝利したことだと思います。
これに気を良くして,同じことを何度も繰り返していると思うのですが,私は太平洋戦争についてアメリカは誤解をしていると思います。

まず,何で日本が無条件降伏を受け入れて,占領政策が成功したのは,それは

日本が封建的な国ではなく,近代国家であり,それゆえに同じ近代国家であるアメリカと話が通じたからです。

しかし,アメリカは,封建的な国家に対して近代が勝利したと思い込んでいる。これが間違いの一つ

第二に,日本がベトナムみたいに焦土作戦をやらずに,最終的に負けを認めたのは,日本が戦時中でも政権交代があるような民主的(民本的?)な国であったからです。

日本が,社会主義国のような「国民と国土はどうなっても党組織を守るんだ」,というような国だったら,太平洋戦争はあそこでは終わらなかったはずです。しかしアメリカは民主主義が抑圧的な軍国主義の国に勝ったと信じ込んでいます。

そして三つ目が,太平洋戦争はイデオロギー戦争ではなく,帝国主義国どうしの植民地獲得戦争であった,ということです。ですから日本は本土の徹底的な破壊を避けよとして,最後の最後で敗戦を認めました。

アメリカは戦後,近代的でなく,民主主義国家ではない国に対して,その国の本土を攻撃することを繰り返して,あまり成功していませんが,ここら辺に間違いの元があるのではないでしょうか?



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きんたろうさん 投稿者:Toshy  投稿日: 9月19日(水)14時35分50秒

掲示板を戦場にしてしまい、申し訳ありませんでした。この言葉遣いの悪さは、たぶん一生直らないと思いますが(わら)、これからもお付き合い願います。

輔住さん>
尊氏・直義の補足ありがとうございます。
政務を譲ったことについては知っていたけど、なるほど、それが両者の対立につながっているとはあまり考えませんでした。
直義派(細川・山名)は、確か楠木正行との戦いで連戦連敗。この楠木の軍を倒したのが高兄弟だから、直義にしてみると面目丸つぶれだったでしょうね。
ところで能かなにかを見ていた時、尊氏たちが集まる屋敷が崩れた(しかもその場に直義はいなかった)という事件があったような気がしますが、どうでしたか?

しつこいですが、関ヶ原(わら
石田三成が、家康を倒してかつての権勢を取り戻そうとした、という可能性は否定しませんが、しかし「否定できない」からといって「実際にそうだった」という結論に持っていくのはできませんね。
昨日の爆発はここに理由があります。(わら
仮にその結論が正しかったとしても、徳川家康だって「豊臣の代表の皮をかぶって」実力で豊臣から政権を簒奪しようとした(そして実際にした)のであり、石田三成にしてもその才覚があった以上は、実力主義の時代だから正当化されて当然です。豊臣秀吉だって、織田氏から政権を簒奪しています。それが戦国時代の倫理観でしょう。

「徳川は戦争をなくそうとした」は否定しませんし、「戦争をなくすために火種になりそうな上杉を倒し、最後に豊臣を滅ぼした」という考えで是とすることは出来ます。
しかし逆に「上杉にしてみれば会津征伐は理不尽な宣戦布告であり、無用な戦いを起こした」「関ヶ原が長期化すれば、豊臣の治世が崩れ再び戦国時代がきていたかもしれない。家康は戦乱の火種をまいた」とも解釈できるのです。

善と悪の対立で考察する歴史観が、どれほど真実に迫ることが出来るでしょう。。。
「大義」とか「正義」なんて、都合のいい言葉だと俺は思います。

というわけで、太田さん安部さん、これからもよろしくお願いします。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm



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ではこんな感じだったのかな? 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月19日(水)14時28分04秒

たしかToshyさんは宇喜多秀家が西軍の大将であったとおっしゃっていましたが,だとすると,主戦派の宇喜多秀家が毛利の後ろ盾のもと家康に挑戦,毛利は両者が弱ったところの漁夫の利を狙っていたという構図になるのでしょうか?この場合石田三成は毛利・宇喜多側の作戦参謀(こういう仕事は三成は得意だと思う),そして関が原の戦場においては軍監のような立場にあったのでしょうか?梶原景時みたいな,で,最後は毛利によってトカゲの尻尾にされてしまった,

だとすると,関が原の合戦を五大老であった5大名家の勢力争いの総決算としてみることが出来るかもしれないですね。多分当時徳川・毛利・前田・宇喜多・上杉で700万石くらい,ということは全国の石高の半分はあったと思いますが,彼らの中で勝者を決める争いだったのでしょうか。

単独で一番強いのが徳川,前田は利家が死んだ後は徳川べったりで生き抜くことにした。
で,上杉は私は多分,秀吉が死んだので再び戦国時代に戻ると予想してひたすら自領を守るほうに向かった,のだと思います。
毛利と宇喜多がくっつけば徳川と互角に戦える。

とすると,豊臣恩顧の大名というのは,地生えではないから守るべき土地というのはないけれども,戦闘の専門集団だから強い,これをどちらにつけるかで勝敗が決まる。

まとまっていなくて申し訳ないのですが,とすると西軍についた武将は,勝てば徳川と互角な毛利と宇喜多に天下が回ってきて,その天下のもとでそれなりの地位につけることを見越しての西軍参加だったということでしょうか?

だとすると,毛利が天下を狙っていたなんて事は江戸時代には徳川氏も毛利氏も絶対に口に出せないから,石田三成がワリを食ってしまったのでしょうか?

だとすると,関が原の戦いの本番は,合戦が終わった後の毛利氏の処理ということになりますね。毛利が焦土作戦をすれば,東北・九州もまだ完全には、というか全然徳川の覇権は確立できていないから,また戦国に逆戻り,徳川氏はせいぜい関東と東海と近畿を抑える義満から義政にかけての室町幕府くらいの勢力でしかなくなってしまう。



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義詮と直義の関係の補足 投稿者:輔住  投稿日: 9月19日(水)00時04分23秒

Toshyさん
>関ヶ原の戦いに様様な角度か
>らの考察を入れることが出来るようになったと感謝しています。
こちらこそ!特に関ヶ原や本能寺はたくさんの人から
意見を聞けるのでありがたいです。

直義と義詮の関係について、簡単な補足をいれますと、
義詮が子供のころ確かに直義が鎌倉で補佐していた時期はありますが、
観応の擾乱の勃発で高師直が直義のいる尊氏の屋敷を包囲したときの
和睦の1つ条件として
「直義の地位を義詮にゆずること、ただし直義は義詮を補佐すること」とあります。
そして鎌倉から上洛してきた義詮は師直と行動することが多かった。
そうしたことから両者の関係はしっくりいっていなかった。

師直の死後になると観応2年(1351年)4月、直義は義詮の屋敷を訪れたが
直ちに辞去して帰宅するという事件で対立が表面化!7月には直義が政務を辞退という
状況になります。尊氏からすると直義か義詮のどちらかを選ばねばならなくなった
状態といえるでしょう。



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月18日(火)23時55分58秒

Toshyさんは言葉使いは悪いですが(Toshyさん、失礼しました^^;;)実はとてもいい人なんです、笑
というわけでまたよろしくお願いしますね(^O^)W

ところで久しぶりに朝日新聞のHPに投稿してみました。
以下はその全文です。
果たして掲載されるでしょうか??笑
でも私の名前はひょっとして朝日のブラックリストに載っているかもしれません??妄想(^^ゞ

最後の方の文章はMinstrelさんが掲示板に書かれたものを無意識に参考にしていました。


タイトル:ちょっとお聞きしたいのですが。。。

アフガニスタンの3分の2を実効支配しているのがタリバンと呼ばれる勢力です。
ちなみに3分の1は北部同盟が勢力を持っているようです。
このタリバンはソ連に対して主力として戦った北部勢力から漁夫の利を得て勢力を逆転させたといわれています。
またタリバンの名前はバーミヤンの石仏の破壊でも有名になりました。

彼らはイスラム原理主義の名の下に女性を社会から締め出している現実をご存じでしょうか?
そのために未亡人となった家族は生活の糧を得ることを閉ざされてしまっているのです。
生きるために「物乞い」をしていると聞いています。
あなたはこの様な状況に落とされるとしても戦うことに反対されずに彼らを受け入れる覚悟があるですか?

大河ドラマではちょうど元寇をやっていますが征服されるということはこの時代の宋や高麗と同じ状態になるという事なのです。
「もしどこかが戦争をしかけて来たらどうする?」という問いに対し戦わない事を選択する(=無条件降伏)のは、その結果として戦いたくもない相手と戦争をさせられ最後は台風にあって沈没する運命が待っているかも知れないのです。
これは歴史の教訓だと思っています。



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は? 投稿者:Sin  投稿日: 9月18日(火)23時50分09秒

Toshyさん
>好敵手の登場を
誰が好敵手ですって?
買いかぶりすぎですよ(笑)
私はただの妄想好きです(爆)



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三成の夢以前に 投稿者:Toshy  投稿日: 9月18日(火)17時08分46秒

俺のほうが爆発したみたいですね(わら

太田さん>
以前師事していた歴史家の方(現在は決別している)に、
「相手への手加減は侮辱と同じ」
と言われたので、それを守る俺はいっさいの手加減をいたしません。きつい発言はご容赦ください。

いちおう。歴史の研究は、敗者からの立場で考えないと、いろんなことが見えてきませんよ。
身近な例で申し上げますと、きんたろうさんの「本能寺」です。(わら
「護衛がいない、信長の油断」は誰でもいえますが、「明智光秀が守っているように周辺の敵には見えた」とはよく研究していないと出てこない言葉なのです。

関ヶ原も、結果からではなく、西軍の立場になったつもりで考えてみてください。俺の三成マンセーは、敗者の立場からの考察であり、贔屓の引き倒しではありません。
だいいち贔屓する理由もないし(わら

過去に多数の人とやりあって、時に勝ち時に敗れ、時には乱闘(笑)になったこともありましたっけ。
Sinさん輔住さん、賛成のご意見ありがとうございました。かつて皆さんと激しく戦ったおかげで、関ヶ原の戦いに様様な角度からの考察を入れることが出来るようになったと感謝しています。

輔住さん>
直義と義詮とは、そんなに仲が悪かったのですか? 俺は、二人が関東で共に働いていた時期があったから、仲が良いものだと思っておりました。直冬と義詮なら、犬猿の仲であることは想像がつくのですが…
尊氏・直義の兄弟げんか(わら)の理由、高一族のかかわり以外になにかあるのでしょうか。

Sinさん>
骨折とは…お大事にしてください。好敵手の登場を、首を洗って…ではなく、首を長くしてお待ちしていますので(笑)



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太田さん 投稿者:Toshy  投稿日: 9月18日(火)14時30分36秒

>夢よもう一度ということで暴発した
すると、西軍に荷担した諸将(毛利・宇喜田・上杉・小西など)は、三成の夢のために付き合ったというお考えですか。はっきりいいましてどうしようもない考えですね。
そもそも三成の一言で西軍が動いたという考えから間違っているのであり、だから「従来の説から離れろ」と言っているのですが、困ったものです。
三成の夢のために天下が動いたとするなら、三成はよほど人気があったか、あるいは勝利を約束されていたかどちらかということになります。
大谷吉継も「義」よりも「私情」で行動したただの愚人ということになりますね。

で、残念ながら太田さんの知っている情報は、すべて俺の掌中のものです。ただし太田さんは俺ほどに知識がありません。
徳川家康が、三成をどのように評したのか、ご存知ですか? おそらく知らないから、↓のようなわけのわからないことを言うのでしょう。
第一、徳川にとっての忠臣の定義など、石田三成の知ったことではないはずですが?

>プロシャの軍事顧問団
そんなもんいわれなくてもわかります。だからそういう発言を、「結果論」というのです。家康だって、小早川が東軍につくまでいらいらして戦局を見守っていたのを知りませんか? 勝てるかどうか、その時点では不明だったのですよ。

いい加減司馬遼太郎の「小説」を根拠に物を言うのはおよしなさい。あれは「風神の門」よりは史実に近いけど、ただの作り物ですから。その程度の司馬を根拠にされると苦笑いするしかありません。
言い換えれば、司馬史観の虚構を見抜けない程度では、「関が原」をまともに論じる資格はないということです。

>福島正則
相変わらず推測だけですね。・・・一度信頼できる史料をご覧になっては? 俺みたいな三成マンセーが弁護するんだから、福島正則はあなたが考えているほどのばか者ではないです。信頼できる史料をご覧になることをお勧めします。



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Toshyさん   投稿者:太田守人  投稿日: 9月18日(火)12時58分54秒

私は、正則と清正は同一に論ぜられないと思います。清正には、まだ豊臣家の将来ということが感じられます。しかし、正則には、関が原の時には「三成憎し」だけで行動し、結果、秀頼に危害が及びそうになると、あわくって秀頼に接近してます。このように、正則は感情だけで行動しています。このため、家康は関が原で「正則には気を付けろ。」と軍監に指示したのでしょう。
正則は彼の代でつぶされています。しかし、清正は子の代です。清正は、家康に付け入るすきをあたえなかったのだと思います。清正が、家康に毒殺されたという話もあるのも、家康に一目おかれていたことを物語っていると思います。もし、正則が秀頼のそばにあったら、もっと付け入るすきがあったと思います。
江戸時代、徳川は三成は憎むが、大谷吉継や島左近等は好男子としたといいます。ここに、徳川での忠臣はどういうものかということが分かるように思います。
三成は文官であると思います。秀吉という虎がいなくなった時点で、三成の存在は軽くなったと思います。頭のいい三成はそれを敏感に感じ取り、夢よもう一度ということで暴発したのだと思います。明治時代に、プロシャの軍事顧問団に関が原の布陣図を見せたところ、三成の勝ちだと確かメッケルが断定したそうです。そこで、関が原の経緯を説明したところ、容易に信じなかったが、あとでそれは主将に欠点があったからだと言ったそうです。
私個人としては、家康の準備が整っていなかったので、島津の夜襲は成功したように思いますが、戦は時の運ですので、結果はわかりませんが。ただ、家康なら夜襲したと思います。例え失敗しても島津の心をつかめ、あの勇猛な島津軍が奮戦すれば、夜襲の失敗など取り返せたと思います。
三成の自信過剰・けんかいさなどが彼の墓穴を掘ったと思います。司馬遼太郎氏だったが、彼の淫するような善政といっておられましたが、この結果、彼の家来は玉砕するように戦ったのだと思います。



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義詮と直義の関係が悪すぎ... 投稿者:輔住  投稿日: 9月18日(火)12時33分01秒

Toshyさん
>弟の足利直義を殺害しました。唯一尊氏が見せた非情な側面です。
>これで多くの直義派を敵に回してしまい、
こうした直義派の武将の大半が幕府に下るのは義詮の時代ですからね。
傷跡としては長く残ってしまいましたからね。

ただ、この時直義を殺さなかったら、少なくとも尊氏の死後に
義詮が殺されていたかもしれません。
尊氏と直義の関係は修復できたかもしれませんが、
義詮と直義の関係が最悪でしたから(笑)。

安部さん
>東軍の武将は自分たちの正義を微塵も疑ってはいなかったでしょう
Toshyさんもおっしゃってますが、西軍も同様です。
関が原にだけでなく、戦争は自分の軍に正義であると主張しますよね。



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月18日(火)01時54分24秒

大谷吉継は秀吉に「100万の軍勢を指揮させてみたい」と言われたほどの実力者ですから戦局を見る目は三成よりも正しかったと言えるかもしれませんね^^
この二人の親密さは茶の湯の例の伝説として伝わっています。
私はこの大谷吉継のような人物が三成の味方をしたことなどから見ても「利」よりも「義」の比率が高いように感じています。

ただし「人はパンがなければ生きられない」のは古来においても絶対の真理ですから私は「利」を軽んじるつもりはありませんよ、笑

安部さんが書かれているのは私が書いた事とほとんど同じだと思います^^
でも三成は他人に厳しかったばかりではなく自分にも厳しかった人なのです。
それは関ヶ原の敗北の後で佐和山城を落とした秀秋達の軍勢がいざ城の中で金銀などを探そうとしたところ、あまりの質素さに愕然としたという話からも伝わってくると思うのです。

ただ問題は三成が「公平」であったかという点だと思います。
これは当時の常識からいっても微妙な点ですよね^^;;

家康は私も好きですよ。
家康自身は信長や秀吉の影響を強く受けていますからかなりフレキシブルな精神を持っていた様にも思えます。
また歴史もよく学んでいたのではないでしょうか??

Sinさん、大丈夫ですか??
骨折とは!!
お大事になさって下さい。



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Toshyさんへ 投稿者:Sin  投稿日: 9月18日(火)00時30分14秒

基本的なところでToshyさんの意見に賛成です。

長い文章を書くのは左親指の付け根の辺りを骨折してしまいましたので
非常につらいのでこのへんで・・・



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安部さんへ 投稿者:Sin  投稿日: 9月18日(火)00時26分12秒

>秀吉を憎むことが出来ないので,三成は必要以上に憎まれてしまった
そういう面があるとは私も思っておりますが、これはある意味当然のことでしょう。
トップに立つものは非情の選択をしなければならないときがありますが、その時に
本来主君に向けられるべき恨みを引き受けるのはよきナンバー2の条件だと思います。



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ただの石田三成マンセーなら 投稿者:Toshy  投稿日: 9月17日(月)23時03分36秒

「さすが三成、大義も兵力もないのに天下を真っ二つにした」
と手放しで褒め称えるところですが、俺はそこまで三成という人物を買いかぶっていないし、むしろ関が原では、戦略面を担当していたけれども大号令をかけたとは思っていません。

もともと関が原の発端は、家康が上杉を倒すために兵を集めたことですが、これをお忘れになっているのではないか、と首を傾げてしまいます。しかも上杉の「謀反」はただのでっち上げに過ぎません。先には前田氏に対して、同様に言いがかりをつけています。
無実の人に、罪をでっち上げることが「大義」というべきか。いくら戦国時代の延長でも、これはないはずですが。
>東軍の武将は自分たちの正義を微塵も疑ってはいなかったでしょう
それは間違いありませんが、三成にいわせれば「西軍も同じ」です。

太田さん>
>もし、家康にこびるなら徹底的にこびるべきでしょう。
こびたのではなく「豊臣のため」の行動だと前に書いたとおりです。
「東軍荷担=徳川への追従」の考え方は、関が原の戦いを徳川vs豊臣の構図でしか見ていない、“非常にわかりやすい歴史観”そのものだといわざるを得ません。
それなら家康に睨まれて死んだ加藤清正はどうなりますか? 彼も感情のみだというのでしょうか。
むしろ、徳川に反抗するなら徹底的に…というべきでしょうね。

>家康という人は、日本から戦乱をなくすというビジョンがあったと思います。
天下人なら、自分の国に戦乱がないことを願うのは、家康ならずとも同じでしょう。三成を西軍の大将だと仮定して、
「三成は戦乱を無くすために家康を除こうとした」という理論も成り立つのです。

なお、島津が提案した夜討ちですが、これは俺もわからないところです。
しかし関が原転進によって“陣形上は”必勝パターンになっていた西軍ですから、結果はともかく明らかな間違いだとはいえません。逆にいうと、夜討ちが100%成功するとは誰にも言い切れま
せん。そもそも、西軍が関が原を主戦場にしようとした考えは、松尾山を戦略上の要としていたことからもわかります。

slashdogさん、ご賛同ありがとうございます。
いつぞややりあった時に蓄えた知識、少しずつものになってきています(わら



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私も 投稿者:Slashdog  投稿日: 9月17日(月)22時20分39秒

Toshyさんに賛成です。

大儀というものは双方それぞれに存在する物だと思います。
関ヶ原にしても家康は石橋を充分にたたいてから
ことを起こしたはずなのに蓋を開けてみれば
危険な綱渡りをさせられていた。



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安部さん 投稿者:Toshy  投稿日: 9月17日(月)20時17分24秒

>社会的に見れば家康のほうに大義があるのですから
そこなのです。
もし家康に大義があれば、誰も三成に味方するはずがありませんよね。
「なぜ大義も力もない三成が、家康以上の兵力を集めることが出来たのか」
これを考えないと「関が原」を見ることは出来ないと思います。

早い話、三成は西軍の中心人物ではありません。太田さんもそうなのですが、
そろそろ従来の考えから離れてもらいたいと思うのですよ。
司馬遼太郎の小説はおもしろいですが、真実は語っていません。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/index.htm



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冶部煮 投稿者:太田守人  投稿日: 9月17日(月)18時37分13秒

私の住んでいる金沢には、前田利家が石田三成をもてなした時の料理として、冶部煮という加賀料理があります。三成の官職の冶部がこの名前のおこりともいわれてますが、熱くして食べるために、「じぶじぶ」という音がするのでこの名前があるという説もあります。
この料理は、鴨の肉を使うのが正統ですが、今は鴨肉があまりないので、鶏肉を使ったりします。



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安部奈亮さん   投稿者:太田守人  投稿日: 9月17日(月)18時18分24秒

そのとおりでしょうね。「仏のうそは方便といい、武将のうそは武略という。」といいますから、朱子学的発想よりも、家が重要だったのでしょうね。ただ、福島正則はどうでしょう。大阪の陣で、20万石の兵糧米を秀頼に与えてます。4公6民で50万石ぐらいの大名の収入でしょう。
加賀100万石は別にしても、50万石とは大きいと思います。この当時の、豊臣の石高は、65万石です。
もし、家康にこびるなら徹底的にこびるべきでしょう。正則は、矢張り感情のみで行動する人物と思います。
徳川政権の本多正純なんかもこれでしょうね。



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私は三成が 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月17日(月)17時54分02秒

自我インフレーションを起こしていたと考えています。

自我インフレーションとは,社長に長いこと仕えた秘書なんかが,いつのまにか重役にまで社長並のぞんざいな言葉遣いになったりするような現象です。

石田三成は豊臣家の色々な事業を立案・実行していきましたが,いつのまにか彼の心の中で「私=豊臣家」になってしまっていたのではないかと思います。しかし,他の武将が三成の思うように動いていたのは,豊臣秀吉の後ろ盾があったからであり,秀吉が死んだ後,三成の意見を誰も聞かなくなっても当然です。

むしろ,豊臣恩顧の武将なんかは,秀吉を憎むことが出来ないので,秀吉の悪い免をすべて三成に押し付けて,三成は必要以上に憎まれてしまったのでしょう。これも良くあることですね,前代の腹心が次の代になって失脚するパターンです。

三成個人としては,豊臣家のつもりに働いていたのでしょうが,実はかつての栄光を取り戻そうとしていたのではないでしょうか。


また,我々は朱子学的忠誠心に毒されていますから,福島正則とか小早川秀秋とかは秀頼に対して後ろめたかったのだろうと勝手に想像していますが(これは司馬さんの小説の影響も大でしょうが),戦国時代が終わってすぐの当時ですし,社会的に見れば家や巣のほうに大義があるのですから,東軍の武将は自分たちの正義を微塵も疑ってはいなかったでしょう。秀秋ですら自分は悪いことをしたとは思っていなかったのではないかと思います。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 9月17日(月)17時34分06秒

三成の豊臣への忠誠は、一点の曇りもないものでしょうか?もし、三成が島津義弘の進言を入れ、夜襲しているか、彼に西軍の指揮を任せていれば、或いは徳川は敗れたように思います。
もし三成が勝利し、その後も秀頼を助けたでしょうか。私は、今大河でやっている、平頼綱のようになったように思います。
光圀も三成は忠臣であると、大日本史に書いていたように思いますが、それは関が原に敗れたからであって、勝てば忠臣たりえたでしょうか。或いは、彼が豊臣を倒したかもしれません。
豊臣方の忠臣は、三成より大谷刑部のように思います。彼は、三成挙兵時に止めています。豊臣の将来を考えてのことでしょう。
私は、信長・秀吉・家康の中で、家康が好きです。彼は、小心者の反面、過去の失敗からよく学習し(他人のも)ています。指揮官としては、最高だと思います。
家康という人は、日本から戦乱をなくすというビジョンがあったと思います。



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アフガニスタン・・・満州国? 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月17日(月)14時50分20秒

今回の同時多発テロは相手が見えない,宣戦布告をしていない,ので「事変」という呼び名がぴったりくるような気がします。満州事変,日華事変の事変です。

毎日新聞とNHKで得た知識からの類推でしかないのですが,アフガニスタンというのは,イスラム原理主義者にとっての満州国みたいになっているのではないかと私は思います。

タリバンが掌握した地域では,治安が良くなって,民衆は初めはタリバンを熱狂的に支持したそうです。しかしここにきてタリバンはアラブ人に乗っ取られたようになっているらしい。アフガニスタン人のほうも話が違うと思い始めているらしい。

アフガニスタンというのは,ロシアと中国とパキンスタンとアラブの間にはさまれた地域で,ここを取ることによって,どの国も国防上有利になります。

パキスタンは元々自分の力をアフガニスタンに及ぼすためにタリバンを援助していたのですが,最近ではパキスタンの手から離れてしまっている。

タリバンの中でも穏健派と強硬な原理主義者に分かれていて,実権は原理主義者のほうが握っていて,原理主義者の中心はアラブ人で占められていて,兵士もアラブ兵が増えてきているそうです。

で,私がなぜアフガニスタンが満州国になっているのではないか?というと,

満州国というのは関東軍が日本を含めて東アジアに自分たちが思い描いた理想社会を作るために実験場とし,兵站とするために作った国家でした。満州国は,表向きは現地人との協力によって統治するという形にはなっていましたが,官僚主導で,実権は完全に日本人が握っていました。そして,関東軍は日本政府から金,物資,人材を,満州国をプールにしてロンダリングして手に入れていました。で,満州国を兵站・要塞として,東アジアに攻め込んだのです。

イスラム原理主義者たちは,これと同じようなことをアフガニスタンでやろうとしているのではないでしょうか?



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どうもです 投稿者:Toshy  投稿日: 9月17日(月)14時31分43秒

いや俺はこれまで安部さんに対しては遠慮がちになっていたところがあったものですから、たまには腹を割ってみようかと思ったら下のようなものになっていました、失礼しました(わら

足利尊氏>
>後醍醐を島流しにして警備を厳重にしておけば
なるほど、考えたこともなかったです。
尊氏は後醍醐の死後、寺を建立して冥福を祈っていましたから、後醍醐に対する敬愛は相当のものだったのでしょう。北畠顕家新田義貞が戦死した後、吉野を攻撃して南朝のカリスマを壊滅させることも可能だったのかもしれませんが、それもしませんでしたね。

尊氏は晩年に、弟の足利直義を殺害しました。唯一尊氏が見せた非情な側面です。これで多くの直義派を敵に回してしまい、南朝再興のきっかけを与えることになったところを見ると、
>逆に味方する人数がすくなくなるという可能性もあるかもしれません。
まさにその通りみたいです。



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いや,デーモンというのは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月17日(月)14時30分06秒

マックスウェルの悪魔と同じような意味でして,理論体系に反していないんだけれど,それを認めてしまったら,他のすべての理論が崩壊するような存在です。倫理的評価ではありません。

あとで詳しく説明しようと思いますが,私は関が原の戦いというのはまず家康の圧勝から始まると思うんです。家康としては,豊臣家の軍事力の主力を関東まで連れて来たことによって,自分が豊臣家を政治的にも軍事的にも掌握した,というデモンストレーションは完成したのですから,福島正則とか黒田長政とかを連れて大阪城に入城するだけで,目的達成だと思います。家康にとっては関が原の合戦は必要ないんです。

私の考えでは,普通に考えれば,石田三成は大阪城を去って佐和山に追いやられた時点で舞台から退場だと思うんです。本来ならば,この時点で家康の眼中には三成はもうなかったと思います。

自分が豊臣家を掌握したことをはっきりと示すために関が原が都合が良かったから乗ったのだと思います。だからあそこまで苦戦したのは家康にとっては完全に誤算だったのではないかと私は思います。



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Toshyさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月17日(月)00時07分35秒

私は信長に代表される英雄タイプ以外にも三成のような「忠臣蔵」タイプも好きなんです、笑

三成を見ると彼の秀吉に対する忠誠心には一点の曇りもないように思っています。
これは季節外れの大桃の話とか俸禄を蓄財には回さないなどの微かに漏れてくる逸話から感じられるのです。
更には三成の最後の言葉なども秀吉に対する忠誠心以外の何ものでもないように感じています。

三成については光圀も高く評価していたとは以前にアップしたところに書きましたが(多分??)、徳川幕府が求めた理想的人物の姿とは三成の様な者だったと思っています。

三成は秀吉という「虎」の威を借りて天下の仕置きを行ったかつての栄光を取り戻したいという気持ちも当然の事ながら持っていたと思います。
でも、そこだけに三成の行動原理を持っていくことは三成の全体像を表しているとはとても思えないのです。

安部さんが書かれているのは秀吉がやったウルトラCだと思います。
秀吉は織田家の家臣の立場のままでは永久にそこから抜け出すことは出来ませんでした。
これを打破するのは権威付けの本家である天皇の直臣になることだと考えたのではないでしょうか??
そしてこれは封印されていた成功例として明治維新において繰り返される事になったと思っています。

明治維新を達成した武士達は各藩の下級士族ばかりでしたからいかに能力があっても藩主に命令をすることなど不可能です。
そこで考え出されたのが秀吉の成功例を真似る事だったのではないかと思うのです。

彼らは天皇の直臣として藩の権威以上のお墨付きを背景にして当時のエスタブリッシュメント達に命令をしていったのです。

輔住さん、
確かに大将として望まれる姿とは尊氏が理想的かもしれませんね^^
非情な判断をするにしてもそのタイミングはなかなか難しいと思います。
一部の人の見方が支配的だったような不自然な状態から尊氏も名誉回復をしつつあるように思っています(^o^)



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kitunoさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月16日(日)23時59分17秒

トピックの書き込みを読むと川柳というよりも狂歌に近いような感じがしますね^^;;

茶の湯に対する信長の態度というものは秀吉によく受け継がれているように思っています。
もっとも秀吉の場合は信長というアンチョコを十二分に活用していますから、茶の湯ばかりではありませんが...笑

私も源さんと同じように信長は茶の湯を使ったのではないかと私も思っています。
茶室に入るには狭い潜り戸を抜けなければなりませんでしたから「主人」に向かって平伏しながら部屋の中に入る事になりますよね。
その上ここには武器を持参することが出来ません。

この密室に招待されるという事はそれだけで信長に高い評価を受けていると相手に知らせる事が出来たのではないでしょうか??
また密室ではオフレコの話題も話すことが出来ますよね。



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きんたろうさん 投稿者:輔住  投稿日: 9月16日(日)22時37分58秒

尊氏に関しては甘いところがあって、厳しい決断ができないところがありますよね。
後醍醐を島流しにして警備を厳重にしておけば...と考えたことがないといえば
嘘になります。
でも、恩賞はケチらず、喜怒哀楽が明朗な尊氏は人気があったと思います。
逆に頼朝や家康みたいな性格だったら何考えてるのか分からない。
そしたら、逆に味方する人数がすくなくなるという可能性もあるかもしれません。



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従来の考えでは説明がつかない西軍 投稿者:Toshy  投稿日: 9月16日(日)14時44分47秒

書くべきか迷っていたことなのですが…

「石田三成反乱」という点についてです。
安部さんは江戸時代の倫理観を関ヶ原の時代に持ち込み、裁こうとしているように見受けられますけど、石田三成にとって江戸時代の倫理など知ったことではないはずで、これで「デーモン」という評価を下すのはいかがなものかと思いますが。

もし江戸時代の倫理を桃山の時代に持ち込むとすれば、主家豊臣に背いた徳川家康も、「デーモン」ということになります。もし実力本意、天下は持ちまわりという論理を家康に持ち込むとすれば、「天下を動かし得る大局観があれば、官位が低く石高が少なくても、実力次第で主になって良い」と三成の行動も正当化することも可能ですね。豊臣秀吉だって、下層階級からの成り上がり者です。

つづいて豊臣家の代表者としての大義名分についてです。
家康と三成−あるいは宇喜多秀家でもいいのですが、もし
「官位が上だから義は家康にある」
とするならば、
「実力も家康が上だから利もある」
という事態なのに、なぜ西軍に天下の半数以上がついたのか説明がつくでしょうか。義も利も家康にあれば、いくら三成がけしかけたところで、だれも西軍に味方しないはずです。
(もし三成がけしかけただけで天下が動いたと考えていれば、実際に三成にそれだけの手腕と大義と勝算があったと認めていることになります)

俺は、当時からすでに、家康は「大義」を失っていたと思っています。
それは秀吉の遺命に背いた行動をとり、四大老・五奉行の糾弾をうけたことから証明できます。
「実力主義」を大義とするなら徳川に理はありますが、これは後世のわれわれが「どちらが正しい」と判断を下すものではないはずです。

家康に天下を取らせるために動いた黒田・藤堂はともかく、加藤清正・福島正則らは淀に近いため、閨閥を信頼し家康こそが豊臣の代表と考えていた、と思います。だからこそ、後に徳川が仮面を脱いだとき、彼らは秀頼の盾となって徳川に背いたのです。
(俺はかつて、彼らを「三成嫌いだけで豊臣に背いた愚将」と思っていましたが、それが見当違いであることが最近わかってきました)



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信長とお茶 投稿者:源さん  投稿日: 9月16日(日)02時48分49秒

 ちょっと卑俗な見方をすると、信長は、何かを精神性を高めようと志向したり、または安らぎを
得ようとしてお茶を喫したのではなく、仕事をどう処理するかとか何か考えるためにお茶を喫して
いたのでは。
 偉い人が、何か嗜好を嗜むのは、それ自体に何かを求めるのではなくて、何かを考える時間を
得るためにそれを嗜むように思います。だからそれも、意外と高尚な事でなく、仕事の進め方など。
例えば光秀や秀吉に葉っぱをかけて働かすには、どうい言葉を投げつければいいかとか。
(だから本能寺の変にあった時、光秀が犯人とわかった時、「是非もなし」と割りきったのではない
ですか。つまり光秀への自分の仕打ちの酷薄さは案外自分で納得の上やっていたと思うのですが)

 また信長は、確かに賢人ですから、その嗜みを、毎日少しの時間でも繰り返す中で、または毎日
同じように作法通りに行っている中で、時には何かハッと気づかされる、つまり悟りのようなもの
を得ることがあるという事のを知っていたのだと思います。

何かの嗜好・道から得られる悟り、ひらめき(ヒント)なんていうのは、そのものを得ようと思って、
それだけ求める事だけを考えて何かをしても得られるものではなく、何かをしながら、今やってい
る事とは別の何かを考えているとき、毎日同じ作業のように思える所作などに、ある意味を見出し
得られることが多いように思います。
ただし、この考えは、禅などの無我の境地から悟りを得るという考え方とは、対極をなすかもしれ
ませんが。

最後にKitsuno_iさんへ
 別に私は信長を嫌っている訳ではなく、戦国武将ではやっぱり一番優れた人物だと思っています
し、一番好きな人物でもあるので、何とぞ皮肉でなく、俗な親父のほんの戯言とお聞きなってくだ
さるようお願いします!



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私のトピックに 投稿者:kituno_i  投稿日: 9月16日(日)00時04分22秒

>信長とお茶
>人を斬る 自分も斬られる その中で 何を求めて お茶を飲みしか?

という書き込みがありました。
皆さんはどう思いますか?

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=c0bbfabc0bbra1a2bfa5edbfaed9a4knxa47a4fa4a4a4dea49a1a3&sid=1835208&mid=2974



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歴史の流れ 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月15日(土)18時58分18秒

私は信長から秀吉、そして家康へと天下が移ったのは歴史的必然からはもっともかけ離れた歴史の流れのように思っています、笑
信長のイフについては先日書いたとおりです。

さて秀吉の行動を見たときにわざわざ豊臣家の滅亡を意図した行為(のような事)をしたと思える不可解??な所が数多くありますよね。
もっとも秀吉にとってみれば自分の息子が相続しないのであれば秀次も家康も同じだと思っていたのかも知れませんね??笑
(こんな事は考えてもいなかったでしょうが...)

私は家康が関ヶ原の戦いに勝ったのは偶然によるところが大きいように思っています。
勿論、家康の手練れ外交の成果が十分に発揮されたのは歴史の示すとおりです。
でも、このようなものは実際の戦局が不利になったとすれば一瞬にして消滅するはずです。
要するに日和見勢力はどちらへでも付くというのは古来からの真理だと思うからです。

家康は当時の武将の中で最大の経験値を持っていましたから、様々なシミュレーションを描いたことだと思っています。
最善の策とは秀忠が率いる3万を攻撃の主体として東軍に付いた豊臣系大名達を脇役に追いやる事だと思うのです。
この家康が描いた最強の布陣を持ってすれば必ずや勝利を手にする事が出来ると考えていたのではないでしょうか??
さらに、これであれば世間一般にも「関ヶ原の戦い」とは「徳川対豊臣」であり、それに勝利したと印象づける事が出来るからです。
また戦後処理にしても味方をした豊臣系武将達に大きな領土を報酬として与えなければなりませんでしたがそれも必要無いのです。

徳川直轄軍による勝利であるならば正にこの瞬間に信長が描いた??(と思う)中央集権体制が確立したかも知れないのです。

ところが現実の歴史は外様系に大きな領土を与える事になりました。
徳川家は代を重ねてこのような外様系を個別撃破していきますが、誰にでも分かる「大勝利」を伴わない事によって権力を一手に集中させる事は出来なかったものと思うのです。



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足利尊氏 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月15日(土)18時49分19秒

に対して私は「鷹揚であり物をけちけちしない大人物」だといったイメージを持っています。
褒美を普通以上にくれる大将とは武士にとってとても素晴らしいと思うのは当然だと思います。
当時の一所懸命の感覚からすれば正に大将として理想的な人物と映ったのではないでしょうか??

尊氏のように貴種でありながら鷹揚でかつ勇気がある様な人物は歴史上を見渡してみてもなかなか見つける事は出来ないと思います。
もっともその様に極めて優れた人物だからこそ室町幕府を開くことが出来たと言えるのかも知れませんね、笑

政治能力とはつまり「冷酷さ」という事だと思いますが、彼の場合は冷酷とは正反対の人物だったと思っています。
でも中世の常識の中では自分以上の貴種を処刑するなどは、なかなか出来るものではないという歴史的バックボーンを無視しては尊氏が可哀想な気もしています^^;;

>高氏(尊氏)は、戦場で敵と刃を交えるというような場面には一度も出くわさなかったという記述です。
>そういう危険な場面は、弟の直義か、高兄弟などが引き受けていたようです。
実際はこのようなものなのかも知れませんね^^;;
でも尊氏が出馬すると兵の志気が今まで以上に高まったという事もあるのではないでしょうか??
これによって尊氏は自らが刃を交える様な場面は無かった(少なかった)のではないかと思っています。



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言い忘れていたけど 投稿者:Toshy  投稿日: 9月15日(土)13時45分09秒

安部さん>
俺は某所で過去に、「西軍の総大将は宇喜田秀家、中納言」と書いています。
これ北政所という豊臣のオーナー(?)の要請を受けた養子の立場という意味もあり、
少なくとも官位を忘れていると自分で思ったことはありません。
西軍挙兵も秀家から始まっていますし。
豊臣のオーナー(?)である北政所と養子の秀家率いる西軍と、
官位も実力もNO.1の徳川家康率いる東軍、
少なくとも大義名分では互角と見ます。(その後の行動は別問題ですよ)
だから多くの大名が立場を決めかね、日和見したものも多かったと思います。

俺というと「石田三成マンセー(わら)」の印象が強いようですが、先日は
「淀の徳川支持は仕方ないこと」
「福島、加藤が勢力をつけたことが豊臣を守る結果となった」
と書いているように、
別に徳川についた人々のとった行動を非難しているわけでもないからご理解を。。



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