過去ログ132(2001年〜10月1日)


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オフ会おもしろかったでござる 投稿者:極悪忍者/根来衆  投稿日:10月 1日(月)17時20分14秒

香料をお手拭きにくるんで、後ろポケットにつっこんでいたら、
しけった上につぶれてぺっちゃんこになってしまったでござる。
マッチで火をつけてもつかないので、
新聞紙を丸めて火を付けたでござるが、
全然匂わなかったでござる。
ニンニン。



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鎖国 投稿者:安部奈亮  投稿日:10月 1日(月)14時53分51秒

あああの痛めると腰の痛くなる。



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安部奈亮さん   投稿者:太田守人  投稿日:10月 1日(月)14時01分23秒

音声生って,中国語の発音を勉強する人ではありませんでしたっけ?

そうですか。私は、調べたのに分かりませんでした。ありがとうございました。



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鎖国 投稿者:勇者ロト  投稿日:10月 1日(月)13時24分45秒

>そりゃ鎖骨じゃ!

ああゴメン、ゴメン、ピラミッドのあるところね!

ツッコミありがとう(笑)>予定調和はだめかな???

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/index.shtml



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う〜ん・・・ 投稿者:Sin  投稿日:10月 1日(月)00時13分48秒

一応ツッコミを入れとこうか、このまま放っといた方が面白いかも・・・
と二つの思いで揺れております(笑)

一応ツッコミ入れとくか・・・
そりゃ鎖骨じゃ!



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関西から戻りました^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月30日(日)23時21分15秒

家についてテレビを付けたら東京ドームにおける長島監督最後の試合を放送していました。
思わず最後まで見ていました。
さすがに槇原や斉藤のストレートは素晴らしい威力でしたねv(^o^)

ところでメールボックスに知らない人からエクセル添付ファイル付きのメールが送られていましたので中身を確認しないで削除してしまいました。
もし正式な内容のメールなら連絡して下さいね^^;;

留守の間有り難うございました。
これからもよろしくお願いします(^O^)W
報告等については近日中にアップする予定です。



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心の休養 投稿者:kituno_i  投稿日: 9月30日(日)22時40分59秒

心の温まる三日間を過ごしていました。
とてもとても幸せな時間でした。

>Toshyさん
遣隋使・遣唐使の漂流事件についてありがとうございます。
景行天皇の時代ですか!
なるほどそうかもしれませんね!^^!

>きんたろうさん
関西の旅、お疲れさまでした。<(_ _)> <(_ _)>



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明日までに 投稿者:勇者ロト  投稿日: 9月30日(日)19時47分57秒

続かなかったら、突っ込んでやってください>Toshyさん(笑)

それはそうと、久しぶりにトップページをリニューアルしました!
下記アドレスです。おひまがあれば覗いてやってください。
リニューアル記念プレゼント企画も開催しました!!!
どしどしご応募くださいませ(^^)/

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/index.shtml



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ツッコミを入れたいが 投稿者:Toshy  投稿日: 9月30日(日)16時35分12秒

Sinさんに続くようなので保留(わら



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鎖国 投稿者:勇者ロト  投稿日: 9月29日(土)22時35分36秒

いやあ、昔折れたことがありますよ!!

Sinさんに続く(自爆)

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/index.shtml



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音声生って 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月29日(土)18時56分56秒

中国語の発音を勉強する人ではありませんでしたっけ?



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鎖国 投稿者:Toshy  投稿日: 9月29日(土)14時39分55秒

というと、厳密には1805年の「鎖国令」から開国までですが、たしかに遣唐使の廃止も一種の鎖国みたいですね。ただし平安期の方は、海外渡航は国禁にまでなっていなかったんでしょう。
「とから」については、やはりトカラ列島でしょう。実は某研究家が、ペルシャにいる大月氏の別種を「とから」だと主張しているのを見て、あまりにも遠いから変だと思っていたのです。

「とから」に関する記事は、『日本書紀』の中では…
・孝徳天皇白雉5年
・斉明天皇の3年−6年
・天武天皇の4年
に見られました。この時代に南西諸島が日本の版図に入りつつあったことを示すのでしょうか。

kitunoさん>
遣隋使・遣唐使の漂流事件は、確認できる限りで次のとおりです。
・斉明天皇の5年
・欽明天皇の31年
・敏達天皇の2年

『日本書紀』の中ではフィクションの強い景行天皇のところですが、その40年にある、相模から上総に向かう話も漂流物語と考えて良いかもしれません。



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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日: 9月28日(金)17時53分16秒

私は、鎖国というと江戸時代が有名ですが、平安時代に、遣唐使を廃止し、清盛が宋と交易をするまでも、政府として鎖国令は出さなくとも、鎖国のような状態であったと思います。
私は、日本は鎖国と開国を繰り返し固有の文化を育んできたように思います。
さて、「とから」ですが、私見として、トカラ列島のことかなと思います。遣唐使船には、唐・薩摩・屋久島・種子島・トカラ・新羅の言葉がわかる通訳が乗っていたそうです。この通訳は、しゃべる言葉で給料に差が有り、最も高いのは唐、次は新羅、薩摩・屋久島・種子島・トカラの通訳は、同じだったと言います。ただ、遣唐使船が新羅を通らず、東シナ海を横断し、長江から揚州に向かうようになると、新羅語の通訳は乗っていなかったのかなと思いますが。この給料の差は、当時の日本の文化の取り入れる順位だったようにも思います。遣唐使船には、分からない職種として、音声生と音声長という人もいたようです。多分、櫂で漕ぐ時に掛け声をかけた人物ではないかと思いますが。



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安部奈亮さん 投稿者:太田守人  投稿日: 9月27日(木)16時53分36秒

の言われる通り、私も、儒教は朱子学で堕落したと思います。
また、大日本帝国は、日本海海戦で滅亡の端緒を作ったと思います。あこで、あんな大勝をしなければ、もっと違った道があったように思います。ある人が、それまでの日本の歴史は、昭和20年8月15日に向かって流れていたと言ってますが、その通りと思います。



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靖献遺言六−初到建寧賦詩 4 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月27日(木)15時50分24秒

 朱子や浅見絅斎は,夷狄との対等な立場での条約さえも「敗北」「屈辱」「亡国のもと」といいます。夷狄に対して融和的な態度を取りつづけた宋は滅んでしまったからです。
 しかし,滅んだと言っても三百年続いたのです。三百年も続けばどんな王朝でも滅びるでしょう。三百年後に滅んだからと言って,それを根拠にされても困ります。
 朱子学の尊王攘夷は,妥協をしながらも,異民族と生きていくことを頭から拒否してしまいます。朱子学の尊王攘夷を全うしようとすれば,鎖国するしかなくなります。
 面白いことに,浅見絅斎の言い分は鎖国の支持のようでして,彼が言うに,漢民族の中国も日本も自分を中国として良く,その領土の中で正しい生活をしていけば良いのだと言います。そして,外国が攻めてくれば,それは夷狄であるから,どんなことをしてでも撃退しろ。それが儒教の本場の中国であっても,我が祖国を攻める以上は夷狄だと言います。

 安政の条約(日米修好通商条約)は,欧米が西洋以外の文明と初めて交渉で結んだ条約であり,彼らが中東や中国やインドで戦争の後に結んだ条約と比べると,一番良い条件であったといわれます。しかしそれすらも,志士達は「屈辱的である」「このままでは神国が滅ぶ」とヒステリックに反対しました。
 これは,朱子学の尊王攘夷と,神道の穢れによる異民族に対する嫌悪が合体した現象であると考えられます。
 やがて大日本帝国は清とロシアに勝利したために,敵と妥協的な条約を結ぶことができなくなっていきます。なぜならば,何度も言ってきたように,朱子学では妥協的な条約すらも国を滅ぼす原因になるからです。

 日中戦争において,なぜ近衛首相と軍部は中国を無条件降伏させようとしたのか,このまま戦争を際限もなく続けるよりも,満州国を認めてもらい,華北にそれなりの権限をもらえれば良かったのに,まとまりかけた和平は何度も日本側によってぶち壊されてしまいます。
 さらに,日米開戦前夜において,そして太平洋戦争末期において,なぜ交渉で破局を避けることができなかったのか。
 これなどは朱子学の尊王攘夷のせいです。本家中国において,確かに激烈な尊王攘夷の体現者は一杯いるのですが,中国人は現実家ですから,ヒステリックな尊王攘夷に身も心も委ねてしまうようなことはしません。清や李氏朝鮮が滅んでしまったのも,朱子学によって硬直してしまった結果ですが,彼らは絶望的な戦乱によって,国土と人民を滅ぼすようなことだけは避けています。しかし日本はそれをやってしまいました。幕末やアジア・太平洋戦争の時に,日本は朱子学に振り回されてしまった訳ですが,これはやはり日本人の責任であり,朱子学やそれを生んだ中華文明に責任を転化することはできないでしょう。


終わり



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甘樫丘 投稿者:太田守人  投稿日: 9月27日(木)13時04分48秒

3連休に明日香へ行ってきました。私は、甘樫丘が好きなので、いつもここへ来ます。ここから、眺める景色は絶景です。蘇我蝦夷・入鹿親子も、ここから明日香を睥睨していたんでしょうね。
ここに登っていつも思いますが、入鹿は何故先手を打って、板葺宮を襲わなかったのでしょうか。
不思議に思います。ここに登ると、宝皇女と高向王の間に出来た、漢皇子という人物がいますが、この高向王が蘇我入鹿で、宝皇女と子の漢皇子が板葺宮にいたので出来なかったように思います。
私は、この漢皇子が、後の天武天皇のように思っています。



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東寺 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月27日(木)10時31分24秒

東寺講堂の仏像は何度見ても素晴らしい感動を与えてくれますね。
京都に来た時には必ず寄っていますが今回も来てしまいました。
今、何処かのアホガキが池に石を投げ込んでいて怒られていました、笑
それにしても馬鹿な子供です。

薬師如来像の売店にいた人の態度も良くなかったです。



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ADSL 投稿者:Minstrtel  投稿日: 9月26日(水)22時02分21秒

きんたろうさん、Yahoo!BBの評判はどうなのでしょう?
一般プロバイダーのADSLよりずっと早く、しかも安いです。

ところが、私は7月に申し込んだのですが、開通は9月下旬と言われました。
現在もまったく音沙汰なしで、少し不信感が芽生えています。(^_^;



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京都御所 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月26日(水)17時50分34秒

初めて入りました。
とても立派過ぎるのに驚きました。
御所には予約がないと入る事が出来ません。
これで今回の関西旅行の目的の半分を達成しました。



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真田信幸の 投稿者:Toshy  投稿日: 9月26日(水)15時50分50秒

奥さんは本多家の娘ですね。

輝元はなんだかんだいっても、やはり大軍を有していたし家康にも一目置かれた存在でしたね。
だからこそ東西両軍、味方につけようと躍起になったのでしょう。
家康と三成を比べれば、もちろん実力が違いすぎるから三成が敗者になっても酷評するのは的を得ていませんが、輝元を酷評するのも間違っているのではないかと思い始めています。
家康は戦国末期の最強武将、三成は日本全土を取り仕切った政治経済の天才。他はかすむのがあたりまえっす。



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靖献遺言六−初到建寧賦詩 3 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月26日(水)14時08分46秒

 後半において,浅見絅斎は宋がなぜ滅びるに到ったかを詳細に説明します。
 宋の土下座外交こそが国を滅ぼした理由であるといいます。これを一番強く言ったのは朱子です。
 朱子によると,物事にはまず「義」というものがある。小手先のことに長じていても,義に基づいていなければ最終的には絶対に失敗してしまう。義に基づいて行えば,何事もならないことはない。
 中国人がやらなければいけないのは,中華文明を守ることである。夷狄などに国を奪われてしまっては,中華が滅んでしまい,この世は「義」の存在しない暗黒の世界になってしまう。だから夷狄が攻めてきたらこれを滅ぼさなければならない。
 さらに,宋は夷狄に何度もひどい目に遭わされて来た。それどころか北宋が滅んだ時,皇帝と上皇及び皇族が北方に拉致されてしまった。従って夷狄は我々にとって親の仇も同然である。親の仇は,何代かかっても晴らさなければならない。
 このように,中国人にとって夷狄は不倶戴天の敵であるから,これを絶対に滅ぼさなければいけない,これが「義」である。
 然るに,宋王朝は夷狄に対して終始融和的な姿勢を取ってきた。夷狄を撃退するチャンスはいくらでもあった,しかしそのたびに欲に目がくらみ,自分の命が惜しくなった政治家たちは,兵隊を撤収させ,領土を夷狄に割譲させて,血税を夷狄に与えつづけた。このような馬鹿者たち(君側の奸)が国を握りつづけたために北宋は滅んでしまったのだ(ちなみに朱子は北宋末期から南宋初期にかけての人です)。

 では,これに対して合理的な意見を述べてみましょう。これは宋の政治家たちの意見であったはずです。
 中国は平野部が続いており,これほど防衛に不向きな場所もない。さらに,五代十国以来,北方民族が中原に攻め込むのを防ぐ高地は夷狄に奪われている。従って,防戦しても勝つことはできない。
 一時の勝利を得ることはできる,しかし夷狄は北方の平原に逃げるばかり,我々には彼等の根拠地まで攻め込んで夷狄の勢力を根絶やしにすることは不可能である。際限のない防戦を続けても,国はボロボロになってしまうだろう。
 従って,屈辱感さえ我慢すれば,金で平和を買うことができる。終わりのないイタチゴッコを続けるよりは,よっぽど安上がりではないか。

 これに対して,おそらく朱子ならばこう反論するでしょう。
 義に基づいていれば何事もならないはずがない。
 もし負けたとしても,それは戦い方が悪いのであって,有能な人物を大将につければ勝てるはずだ。(これはいくらでも言い続けることができますね。物量に基づく合理的判断が欠如しています)
 負けて民族が滅ぶようなことになっても,義にもとる世界で命を永らえるよりもよっぽどましだ。

 これではお話になりません。



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そうでしたね 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月25日(火)19時23分32秒

Sinさん、笑
元就の長男の名前は隆元でした。
どうしてもこの名前を思い出す事が出来ませんでした、自爆^^;;
(私の脳細胞は既に6億3000万個ほど死滅しているようです)

輝元の資質については実のところよく分からないのですが...??
「訓練された無能」のほうが「資質を有するが無経験」よりも的確に行動出来る場合もあると思いますよ、笑
ただし、輝元の場合は毛利という大軍の大将の立場ですからやはりかなりの能力を有していない場合には難しいものがあったような気がしています。

確か輝元の母親は大内家の重臣の出身だったような記憶があります。
これを例えるならば真田に対する大久保のようなものだと思います??
でもそれが〇〇家だったのかは当然の事ながら覚えていません(^^ゞ

ホグニさん、それは残念ですが仕方が無いですよ。
機会はまたあると思いますので次回に期待しましょう(^o^)
こちらに来る時には是非ご連絡をお願いします。

明日から関西方面に出かけてきますのでよろしくお願いしますv(^o^)



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ごめんなさい! 投稿者:ホグニ  投稿日: 9月25日(火)15時41分35秒

28日せっかくきんたろうさんが関西に来るのに、出張抜けられそうにありません。
連絡が遅れてすいませんでした。
12日からずっと出先なので、メールチェックもできません。
暇な夏場と冬場ならかならず出席しますから、これにこりずにまた教えてもらえるととても嬉しいのですが、、、
ていうかまた会いに行きたいなあ。
迷惑でなかったらですが(結構弱気)、、、
出先なので、携帯から書き込んでいます。
友達にノートパソコンあげてしまったもので、、、



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元就の長男 投稿者:Sin  投稿日: 9月25日(火)00時18分00秒

は隆元ですね。
もし、隆元が長生きしたとしても結果は対して変わらない気がしますね。
輝元にとっては世話を焼いてくれる人が一人増えるだけになるかも(笑)
輝元の決断力の無さは経験不足の部分もありますが、本人の資質の問題
が大きいでしょうから。
関ヶ原の戦いまで隆元か隆景が生き残っていれば話は違うでしょうが
年齢的にも無理があるような気がします。



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ついにこちらでも 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月24日(月)23時48分33秒

念願のADSLが今月末に開通する事になりましたv(^o^)
つい最近までBBには当分の間縁がないものと思っていたのですが...
予想以上のスピードでこちらにも広がって来た感じがします。

ところがここで問題が発生しました。
確認したところ私が使っているプロバイダーはADSLに対応する予定がないのです、泣
そのためにフレッツADSLに対応するためには何処かのプロバイダーに引っ越しをしなければならないのです。
今までこれと言った不満も無かったので引っ越しはとても面倒な気がして憂鬱です^^;;
もし引っ越しをするとすればお勧めのプロバイダーは何処になるのでしょうか??^^
今のところ考えているのはOCN以下の大手プロバイダーです。

安部さん、宋の時代と言えば「水滸伝」が有名でしたね^^
彼らの縦横無尽な戦いもこのような異民族による圧迫という世相を反映させたものなのでしょうか??
宋の時代と言えば漢や三国志の時代から1000年くらい後になります。
また、唐による第二次漢民族全盛時代の後の時代ですからずいぶん新しい王朝のような気がしますが実は日本では平安朝の頃なんですよね。
このように日本と比べてみると漢民族の王朝とは極めて古い歴史があると痛感しますよね。

止々斎さん、有り難うございました。
吉川氏は藤原南家の末裔に連なる一族だったのですね。
そうするとかなりの名門という事になりますね^^



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吉川氏2 投稿者:止々斎  投稿日: 9月24日(月)14時54分07秒

吉川氏は、藤原南家流であります。
鎌倉期は、播磨国福井荘と安芸国大朝荘の地頭であり、後に安芸国大朝荘に土着したそうです。



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靖献遺言六−初到建寧賦詩 2 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月24日(月)14時06分06秒

 謝枋得は,南宋の末期に官僚になって,反骨精神を持って腐敗した国政を批判して左遷されたり再び出世したりを続けていたのですが,南宋が滅んでしまいその後は寺小屋の師匠や乞食をやって飢えをしのいでいたのですが,元が優秀な人材を探しているのに引っかかってしまい,元の臣下になることを拒否し続けたのですが,許されず,最後は元の臣下となることを避けるためにハンガーストライキをやって餓死しました。
 さてこれがなぜ浅見絅斎と関係があるかというと,謝枋得と言うのは,死ぬに死にきれなかった人物であるからです。浅見絅斎は誤魔化していますが,謝枋得というのは結局,蒙古に対するパルチザンで討ち死にすることも出来ず,それ以後も母親を背負って国中を逃げ回り,元に捕らえられてからもきっぱりと死ぬことができず,だらだらと幽閉された挙句,やっと餓死しました。はっきりいって「靖献遺言」に出てくる他の主人公達と比べて潔くない人です。
 謝枋得は「私は宋に忠義を尽くそうとしたが,その前に宋は滅びてしまった(宋は元に対して徹底抗戦しませんでした。最後は,実権を持っていた皇太后が国民の安全と引き換えに全面降伏することによってあっけなく滅んでしまいます)。私は夷狄の□□(大元のこと,謝枋得は元を文字でも書きたくない)の支配を認めることは出来ないが,□□の下で人々は平和に暮らし,さらに不満分子である私の命も取らないでいてくれる。結局私は□□の恩を受けている。私としては,元の臣下にだけはなりたくないので,このまま遊民(ルンペン)のままでいさせてほしい。こんな役立たずを殺した所で,□□は評判を落とすだけではないか,私のことはどうか放って置いてほしい…」と訴えます。
 これは徳川幕府を攻撃しながらも,その下で生活している浅見絅斎の自己弁護ではないでしょうか?

まだ続きます。続きはまた今度



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靖献遺言六−初到建寧賦詩 1 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月24日(月)14時04分08秒

全然違う話題で申し訳ないですが,久しぶりに,
この章が「靖献遺言」のクライマックスです。

 この章においては,前半においては南宋が滅亡する際に,抵抗軍を組織し,敗北後はずっと世間を離れ,元の招聘に応じなかった謝枋得を取り上げています。
 後半は,宋が遼,金,蒙古の北方民族によって滅ぼされるまでを詳細に説明しています。
 「初到建寧賦詩」は,「靖献遺言」の8章の中で最長であり,実に全体の3分の1近くを浅見絅斎はこの章に費やしています。これはおそらく,浅見絅斎が謝枋得の生き方に共感を覚えていたのと,夷狄である北方民族に,儒教の君子国宋がなぜ滅ぼされたのかに浅見絅斎はこだわったからではないかと考えられます。それは,当時丁度明が女真族の清に滅ぼされたからです。ここで尊王と攘夷が分かちがたく結びつきます。
 この章は,浅見絅斎の中国観,日本観を説明した章にもなっています。比較分化論のような部分も出てきます。外国の道徳律である儒学を日本人としてはどのような態度で勉強するべきだろうかを追及する部分が出てきます。

 宋は大変整った官僚組織を作り上げました。そしてその官僚を補充するシステムとして科挙を整備しました。唐においては,まだ科挙は不完全で,官僚の上層部は未だ貴族が握っていましたが,宋においては誰でも受験できる科挙によって選ばれた官僚が全ての役職を占めるようになります。皇帝の次に位置する宰相までが科挙で選ばれるようになりました。
 科挙は儒学の知識をどれだけ会得しているかで合否が決められます。すさまじい暗記力が求められました。また詩が科目に含まれていたので,文才も求められて,宋の上層官僚の中からは多くの詩人や史家が出ています。
 科挙に合格して士大夫となれば,どんなに清廉な人物であっても数年で一財産が出来たといいます。そのため,中国人は,一族を挙げて合格者を出そうと躍起になりました。科挙に合格するためには,幼少のときからの英才教育が欠かせないからです。覚えることは沢山あります。本も安くはありません,もちろん家庭教師が必要です。大変な負担をしても,科挙合格者を出そうとしたのは,その見返りが莫大であったからです。そして,宋以後中国人として人間らしく生きるには,科挙に合格しなければならない,といったコンプレックスが中国人の心に染みつきました。実体はともかく,士大夫とは,体を動かさず,徳によって世の中を治め,裕福で,趣味の良い服装,調度品に囲まれて暮らす。これが中国人の夢見た最も人間らしい生活でした。

 宋というのは,科挙制度による官僚制を理論的にとことんまで推し進めた時代でした。まずその理由として,盛唐以後,節度使という辺境の防備を任された軍人が,日本の戦国大名のようになり,統制がきかなくなって最終的に唐は滅んでしまい,それ以後も100年近く戦乱の世が続いたことが挙げられます。
 この戦乱を押さえて宋を建国した太祖趙匡胤もまた軍人でした。彼自身,部下に担がれて,後周の幼帝を廃して(禅譲の形を取った)皇帝に就きました。太祖は,戦乱を根絶やしにするためには,軍人から権力を奪って,シビリアンコントロールを徹底する必要があると考えました。また徴兵制ではなく傭兵(唐の中頃からですが)で兵隊を集めました。
 しかしこのため,宋は軍事力が弱くなってしまい,それを数で補おうとしたため,軍事費は膨大になりました。
 そこに,宋の富を狙って遼,西夏,金(女真族),蒙古といった北方や西方の異民族が攻め込んできました。戦っても勝ち目がないので,宋は異民族と対等,あるいは異民族に臣従するという形で彼等の自尊心を満足させて,さらに莫大な歳幣(賠償金)を毎年払うという屈辱的な同盟で国を守りました。この宋の政策は,後世の学者達に口を極めて罵られるようになります。
 しかし,この政策によって,異民族の侵略は恒常的ではなくなり,数十年に一度になりましたし,宋は三百年もながらえることが出来ました。三百年ももてば王朝としては充分です。
 さらに最近の研究では,宋は遼や金に莫大な歳幣を払いましたが,領土を広げて農耕民族も支配するようになった遼や金は,長大な国境線を守ったり,華美になってしまった王宮生活のために,その歳弊を使い果たしてしまい,宋のほうは穀物や工芸品を売ることによって,歳幣を回収,むしろ最終的には黒字になっていたとさえいいます。宋の土下座外交政策は,それなりに有効な政策であったといえましょう。

 しかし,宋の時のこの屈辱的な経験は,漢民族にとってかなりこたえたらしく,漢民族が実権を握った明と現在の中華人民共和国は,宋(そして列強にいじめられてそれに類した状態にあった中華民国)の状態にならないためだったら何でもやる,というのを国是というか国民的合意にしているように私には思えます。



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なるほど^^;; 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月23日(日)23時57分22秒

Toshyさん、有り難うございました。
分かりましたよ、笑
どうも2ちゃんねる用語はいまいち分からないところがありますね(^^ゞ

輝元はやはり「ぼんぼん」だったように思っています。
おじいさんの元就は50歳を過ぎてから国盗りに成功した驚異的なエネルギーを持っていましたが、輝元の時の毛利家はかつての大内家や尼子家を上回る勢力を持っていましたからね。
そう言えば高齢になって国盗りに成功した人物とは北条早雲と毛利元就が双璧だと思うのですが彼ら以外にもいましたか??

魔異夢さん、元気ですか??^^
私も何とかダイエット・サプリメントの広告を見るとまじめに読んでしまいます、自爆^^;;
私の場合は内蔵が健康的過ぎるためにエネルギーの吸収率が異様に高いからだと思っています、笑



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こんにちは^^ 投稿者:魔異夢  投稿日: 9月23日(日)16時20分12秒

こちらをのぞいているだけでも日本史に強くなっていくような気がします。^^;;
天高くまいむ肥ゆる秋で、やせますわ・・・ビールと缶コーヒーが原因だとは思うのよね・・・
ぼけーーっとススキのゆれるのを眺められることの贅沢さよ・・・なんつって・・・

http://www3.nsknet.or.jp/~maimu/



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そうでしたね 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月25日(火)19時23分32秒

Sinさん、笑
元就の長男の名前は隆元でした。
どうしてもこの名前を思い出す事が出来ませんでした、自爆^^;;
(私の脳細胞は既に6億3000万個ほど死滅しているようです)

輝元の資質については実のところよく分からないのですが...??
「訓練された無能」のほうが「資質を有するが無経験」よりも的確に行動出来る場合もあると思いますよ、笑
ただし、輝元の場合は毛利という大軍の大将の立場ですからやはりかなりの能力を有していない場合には難しいものがあったような気がしています。

確か輝元の母親は大内家の重臣の出身だったような記憶があります。
これを例えるならば真田に対する大久保のようなものだと思います??
でもそれが〇〇家だったのかは当然の事ながら覚えていません(^^ゞ

ホグニさん、それは残念ですが仕方が無いですよ。
機会はまたあると思いますので次回に期待しましょう(^o^)
こちらに来る時には是非ご連絡をお願いします。

明日から関西方面に出かけてきますのでよろしくお願いしますv(^o^)



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ごめんなさい! 投稿者:ホグニ  投稿日: 9月25日(火)15時41分35秒

28日せっかくきんたろうさんが関西に来るのに、出張抜けられそうにありません。
連絡が遅れてすいませんでした。
12日からずっと出先なので、メールチェックもできません。
暇な夏場と冬場ならかならず出席しますから、これにこりずにまた教えてもらえるととても嬉しいのですが、、、
ていうかまた会いに行きたいなあ。
迷惑でなかったらですが(結構弱気)、、、
出先なので、携帯から書き込んでいます。
友達にノートパソコンあげてしまったもので、、、



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元就の長男 投稿者:Sin  投稿日: 9月25日(火)00時18分00秒

は隆元ですね。
もし、隆元が長生きしたとしても結果は対して変わらない気がしますね。
輝元にとっては世話を焼いてくれる人が一人増えるだけになるかも(笑)
輝元の決断力の無さは経験不足の部分もありますが、本人の資質の問題
が大きいでしょうから。
関ヶ原の戦いまで隆元か隆景が生き残っていれば話は違うでしょうが
年齢的にも無理があるような気がします。



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ついにこちらでも 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月24日(月)23時48分33秒

念願のADSLが今月末に開通する事になりましたv(^o^)
つい最近までBBには当分の間縁がないものと思っていたのですが...
予想以上のスピードでこちらにも広がって来た感じがします。

ところがここで問題が発生しました。
確認したところ私が使っているプロバイダーはADSLに対応する予定がないのです、泣
そのためにフレッツADSLに対応するためには何処かのプロバイダーに引っ越しをしなければならないのです。
今までこれと言った不満も無かったので引っ越しはとても面倒な気がして憂鬱です^^;;
もし引っ越しをするとすればお勧めのプロバイダーは何処になるのでしょうか??^^
今のところ考えているのはOCN以下の大手プロバイダーです。

安部さん、宋の時代と言えば「水滸伝」が有名でしたね^^
彼らの縦横無尽な戦いもこのような異民族による圧迫という世相を反映させたものなのでしょうか??
宋の時代と言えば漢や三国志の時代から1000年くらい後になります。
また、唐による第二次漢民族全盛時代の後の時代ですからずいぶん新しい王朝のような気がしますが実は日本では平安朝の頃なんですよね。
このように日本と比べてみると漢民族の王朝とは極めて古い歴史があると痛感しますよね。

止々斎さん、有り難うございました。
吉川氏は藤原南家の末裔に連なる一族だったのですね。
そうするとかなりの名門という事になりますね^^



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吉川氏2 投稿者:止々斎  投稿日: 9月24日(月)14時54分07秒

吉川氏は、藤原南家流であります。
鎌倉期は、播磨国福井荘と安芸国大朝荘の地頭であり、後に安芸国大朝荘に土着したそうです。



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靖献遺言六−初到建寧賦詩 2 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月24日(月)14時06分06秒

 謝枋得は,南宋の末期に官僚になって,反骨精神を持って腐敗した国政を批判して左遷されたり再び出世したりを続けていたのですが,南宋が滅んでしまいその後は寺小屋の師匠や乞食をやって飢えをしのいでいたのですが,元が優秀な人材を探しているのに引っかかってしまい,元の臣下になることを拒否し続けたのですが,許されず,最後は元の臣下となることを避けるためにハンガーストライキをやって餓死しました。
 さてこれがなぜ浅見絅斎と関係があるかというと,謝枋得と言うのは,死ぬに死にきれなかった人物であるからです。浅見絅斎は誤魔化していますが,謝枋得というのは結局,蒙古に対するパルチザンで討ち死にすることも出来ず,それ以後も母親を背負って国中を逃げ回り,元に捕らえられてからもきっぱりと死ぬことができず,だらだらと幽閉された挙句,やっと餓死しました。はっきりいって「靖献遺言」に出てくる他の主人公達と比べて潔くない人です。
 謝枋得は「私は宋に忠義を尽くそうとしたが,その前に宋は滅びてしまった(宋は元に対して徹底抗戦しませんでした。最後は,実権を持っていた皇太后が国民の安全と引き換えに全面降伏することによってあっけなく滅んでしまいます)。私は夷狄の□□(大元のこと,謝枋得は元を文字でも書きたくない)の支配を認めることは出来ないが,□□の下で人々は平和に暮らし,さらに不満分子である私の命も取らないでいてくれる。結局私は□□の恩を受けている。私としては,元の臣下にだけはなりたくないので,このまま遊民(ルンペン)のままでいさせてほしい。こんな役立たずを殺した所で,□□は評判を落とすだけではないか,私のことはどうか放って置いてほしい…」と訴えます。
 これは徳川幕府を攻撃しながらも,その下で生活している浅見絅斎の自己弁護ではないでしょうか?

まだ続きます。続きはまた今度



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靖献遺言六−初到建寧賦詩 1 投稿者:安部奈亮  投稿日: 9月24日(月)14時04分08秒

全然違う話題で申し訳ないですが,久しぶりに,
この章が「靖献遺言」のクライマックスです。

 この章においては,前半においては南宋が滅亡する際に,抵抗軍を組織し,敗北後はずっと世間を離れ,元の招聘に応じなかった謝枋得を取り上げています。
 後半は,宋が遼,金,蒙古の北方民族によって滅ぼされるまでを詳細に説明しています。
 「初到建寧賦詩」は,「靖献遺言」の8章の中で最長であり,実に全体の3分の1近くを浅見絅斎はこの章に費やしています。これはおそらく,浅見絅斎が謝枋得の生き方に共感を覚えていたのと,夷狄である北方民族に,儒教の君子国宋がなぜ滅ぼされたのかに浅見絅斎はこだわったからではないかと考えられます。それは,当時丁度明が女真族の清に滅ぼされたからです。ここで尊王と攘夷が分かちがたく結びつきます。
 この章は,浅見絅斎の中国観,日本観を説明した章にもなっています。比較分化論のような部分も出てきます。外国の道徳律である儒学を日本人としてはどのような態度で勉強するべきだろうかを追及する部分が出てきます。

 宋は大変整った官僚組織を作り上げました。そしてその官僚を補充するシステムとして科挙を整備しました。唐においては,まだ科挙は不完全で,官僚の上層部は未だ貴族が握っていましたが,宋においては誰でも受験できる科挙によって選ばれた官僚が全ての役職を占めるようになります。皇帝の次に位置する宰相までが科挙で選ばれるようになりました。
 科挙は儒学の知識をどれだけ会得しているかで合否が決められます。すさまじい暗記力が求められました。また詩が科目に含まれていたので,文才も求められて,宋の上層官僚の中からは多くの詩人や史家が出ています。
 科挙に合格して士大夫となれば,どんなに清廉な人物であっても数年で一財産が出来たといいます。そのため,中国人は,一族を挙げて合格者を出そうと躍起になりました。科挙に合格するためには,幼少のときからの英才教育が欠かせないからです。覚えることは沢山あります。本も安くはありません,もちろん家庭教師が必要です。大変な負担をしても,科挙合格者を出そうとしたのは,その見返りが莫大であったからです。そして,宋以後中国人として人間らしく生きるには,科挙に合格しなければならない,といったコンプレックスが中国人の心に染みつきました。実体はともかく,士大夫とは,体を動かさず,徳によって世の中を治め,裕福で,趣味の良い服装,調度品に囲まれて暮らす。これが中国人の夢見た最も人間らしい生活でした。

 宋というのは,科挙制度による官僚制を理論的にとことんまで推し進めた時代でした。まずその理由として,盛唐以後,節度使という辺境の防備を任された軍人が,日本の戦国大名のようになり,統制がきかなくなって最終的に唐は滅んでしまい,それ以後も100年近く戦乱の世が続いたことが挙げられます。
 この戦乱を押さえて宋を建国した太祖趙匡胤もまた軍人でした。彼自身,部下に担がれて,後周の幼帝を廃して(禅譲の形を取った)皇帝に就きました。太祖は,戦乱を根絶やしにするためには,軍人から権力を奪って,シビリアンコントロールを徹底する必要があると考えました。また徴兵制ではなく傭兵(唐の中頃からですが)で兵隊を集めました。
 しかしこのため,宋は軍事力が弱くなってしまい,それを数で補おうとしたため,軍事費は膨大になりました。
 そこに,宋の富を狙って遼,西夏,金(女真族),蒙古といった北方や西方の異民族が攻め込んできました。戦っても勝ち目がないので,宋は異民族と対等,あるいは異民族に臣従するという形で彼等の自尊心を満足させて,さらに莫大な歳幣(賠償金)を毎年払うという屈辱的な同盟で国を守りました。この宋の政策は,後世の学者達に口を極めて罵られるようになります。
 しかし,この政策によって,異民族の侵略は恒常的ではなくなり,数十年に一度になりましたし,宋は三百年もながらえることが出来ました。三百年ももてば王朝としては充分です。
 さらに最近の研究では,宋は遼や金に莫大な歳幣を払いましたが,領土を広げて農耕民族も支配するようになった遼や金は,長大な国境線を守ったり,華美になってしまった王宮生活のために,その歳弊を使い果たしてしまい,宋のほうは穀物や工芸品を売ることによって,歳幣を回収,むしろ最終的には黒字になっていたとさえいいます。宋の土下座外交政策は,それなりに有効な政策であったといえましょう。

 しかし,宋の時のこの屈辱的な経験は,漢民族にとってかなりこたえたらしく,漢民族が実権を握った明と現在の中華人民共和国は,宋(そして列強にいじめられてそれに類した状態にあった中華民国)の状態にならないためだったら何でもやる,というのを国是というか国民的合意にしているように私には思えます。



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なるほど^^;; 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月23日(日)23時57分22秒

Toshyさん、有り難うございました。
分かりましたよ、笑
どうも2ちゃんねる用語はいまいち分からないところがありますね(^^ゞ

輝元はやはり「ぼんぼん」だったように思っています。
おじいさんの元就は50歳を過ぎてから国盗りに成功した驚異的なエネルギーを持っていましたが、輝元の時の毛利家はかつての大内家や尼子家を上回る勢力を持っていましたからね。
そう言えば高齢になって国盗りに成功した人物とは北条早雲と毛利元就が双璧だと思うのですが彼ら以外にもいましたか??

魔異夢さん、元気ですか??^^
私も何とかダイエット・サプリメントの広告を見るとまじめに読んでしまいます、自爆^^;;
私の場合は内蔵が健康的過ぎるためにエネルギーの吸収率が異様に高いからだと思っています、笑



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こんにちは^^ 投稿者:魔異夢  投稿日: 9月23日(日)16時20分12秒

こちらをのぞいているだけでも日本史に強くなっていくような気がします。^^;;
天高くまいむ肥ゆる秋で、やせますわ・・・ビールと缶コーヒーが原因だとは思うのよね・・・
ぼけーーっとススキのゆれるのを眺められることの贅沢さよ・・・なんつって・・・

http://www3.nsknet.or.jp/~maimu/



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厨房 投稿者:Toshy  投稿日: 9月23日(日)14時45分15秒

とは中坊、つまり中学生レベルの意味ですね。(わら
さらにレベルダウンすると消防になります。

「津太夫」のほうは、ロシア系日本人が立てたスレの中に話の種で僅かに触れられていただけですが、ともあれ見てくれた方がいるのはうれしい限り。

>吉川広家と毛利輝元
確かに広家の独断で動いたことが毛利を弱体につなげたわけですが、輝元も広家の言葉だけで大坂を開城してしまったから、やはり輝元に問題ありと見た。

Kitunoさん>
古代の漂流だと、「続日本紀」あたりに<とから>と呼ばれるところから漂着してくる人たちの記事が何件かあったと思いましたが。
いま手元に本がないためわかりませんが、6つの史書で急に漂流記事が出なくなるところがあります。これ日本が半島や大陸との交易をしなくなった時期がある、と考えられるんでしょうかね。
このあたりは船に詳しい太田さんにもご意見を伺いたいですが。



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小早川氏 投稿者:きんたろう  投稿日: 9月23日(日)01時30分00秒

は鎌倉以来の名門だと聞いたことがありますが、吉川氏の場合はどうなのでしょうか??
やはり同様に関東付近から土着した武士なのでしょうか??

急に起こった疑問です^^;;
吉川氏の岩国6万石は毛利37万石とは別に存在していたものなのでしょうか??
それとも内部に含まれているのでしょうか??
実は理解できていません^^;;

江戸時代の枝藩の石高は本家の分に含まれているのかどうかについてよく分からないのです、笑

輔住さん、Sinさんが広家について書かれていますが、元就の長男(名前は忘れました、笑)が早死にさえしなければ例えこの時点で輝元の代になっていたとしても、それまでに親がビシビシ鍛えていた筈ですから「別人輝元」になっていたかもしれませんね??笑
もしそうであれば広家の出番はなかったかも??^^;;

Toshyさん、2ちゃんねるを覗いたのですがスレッドが多すぎて目的地が分かりませんでした^^;;
ところで、よく
>厨房
という単語を目にしますがこれはどう言った意味なのですか??笑

kitunoさん、運動会は秋の大イベントですよね。
お疲れさまでしたv(^o^)



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