過去ログ134(2001年〜10月17日)


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首のすげかえ 投稿者:雪狼  投稿日:10月17日(水)21時06分19秒

をせず秀家を豊臣家の後継者にしてしまえば、豊臣はおそらく安泰だったと思うのですよ。もちろん秀家は家康の敵ではありませんが、豊臣の親分として諸大名に睨みをきかせることが出来れば家康を抑えることは出来たということです。
前田利家や「宇喜田」秀家では、豊臣を後ろ盾とする大老筆頭の家康に対抗することは出来ません。石田三成では、勿論です。

三成は基本的に黒子に徹している予定でしたが、家康にとって三成を西軍の総大将に仕立て上げることで福島正則らの感情を煽ることに便利だっただけだったと思われ。
この戦い、旧説はもう意味をなさなくなっているから、司馬小説などから離れたほうが良いですよ。



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雪狼さん 投稿者:太田守人  投稿日:10月17日(水)17時34分05秒

計画は三成でも、彼は前面に出ず、黒子に徹すれば良かったと思います。もし、秀吉の死の時点では、家康に対抗できる人物は、若い秀家よりも、秀吉刎頚の友で、老練(?)な利家ということになったでしょう。
私は、後継者を秀次と決めておいたのを、秀頼に秀吉が挿げ替えた時点で、豊臣家は弱体化したと思います。
もし秀吉が、早期に秀家と後継者を決めていても、秀頼が生まれた時点で首のすげかえをやっていた可能性が大だと思います。



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今後 投稿者:雪狼  投稿日:10月17日(水)13時47分37秒

歴史の場面には雪狼で登場することにしました。

高坂さん>
お役に立てて幸いです。(^^)

太田さん>
>関が原で三成が、宇喜田秀家に采配を全て任せておけば
というか、関ヶ原の戦略は三成以外に立てることが出来なかったと思います。秀家に対して三成は命令する立場にはありません。つまり、秀家は三成の能力を信頼して、彼に全てを預けたというべきかと考えます。
わしが言いたいのはその戦いのことではなく、有能だった秀家を早めに後継者にしておくことで、秀吉の死後も家康は不穏な動きをとるわけにもいかず、前田・上杉征伐の際も当主の権限で阻止できたということです。
幼少の秀頼では意思表示が出来ないため家康の意思=豊臣の意志になってしまったけど、秀家がいればそれを阻止し、関ヶ原の戦いすら起こりえなかったはずなのですね。



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ベキラさん 投稿者:太田守人  投稿日:10月17日(水)13時38分21秒

古代日本は、強かったのでしょうか?

強かったかどうかはともかく、古代にあっては日本は軍事大国であったと思います。私は、古代日本を統一したのは、中国江南地方にいた民族だったと思います。例えば、長江の沖に浮かぶ、舟山列島あたりから漂流すると、8時間ぐらいで五島列島に来るそうです。このようなことから、私は、卑弥呼も中国江南地方の帰化人の子孫かなと思ってます。
ただ、高坂さんのいわれるように、朝鮮の任那には、多島海ですので、優秀な航海民族が居たと思います。この民族が、日本(北九州)にもいたのだろうと思っています



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古代朝鮮 投稿者:高坂英吾  投稿日:10月17日(水)11時46分41秒

> その移住民たちがなぜ出身地を強くあらわさなかったのか、

これについて、彼らは出身地を強くあらわしていただろうと思っています。
大三元さんに反対されそうですが、古韓語で「村」は「スカ」なので、
「ア=スカ(明日香)」は「安羅村」、「カ=スカ(春日)」は「加羅村」という感じで。
また古韓語で「ク」は「大」の意味だそうで、百済の「ク」もこれだそうです。
私は狗奴国の「ク」もこれ、日本語化された「大島」とか「多氏」もこの「オホ族」とでも呼ぶべき部族ではないかと想像しています。(必ずしも大きくない島が大島だったり、小島とセットでなかったりしますし)
こう考えると「ク=スカ(日下)」はオホ族の村で「大阪」にも通じるかな、と思います。

また、天皇家でなく、物部氏も古い時代に朝鮮から渡来した可能性が強いと考えています。こういう渡来氏族たちはそれぞれの故郷の色を表しつつ勢力を持っていたのだろうと思いますが、ある時、それぞれの勢力が連合し大和朝廷を建てた際に、「これからはここが新たな故郷だ」みたいになったのではないでしょうか?
それでも初期の頃は色々あったと思いますが、何百年も経て朝鮮を強調する必要がなくなったのではないでしょうか。

> 自分たちの故郷を取り戻そう?と、兵力を蓄え出兵しなかったのか?

神功皇后(架空かもしれませんが)伝説や好太王碑文にあるようなものが、これに当たるのではないでしょうか?

というか、私は次のようにとらえています。
そもそも朝鮮(特に南部)にいた部族は海に面していることもあり、海洋部族的であった。
当然、日本列島にもやって来ていて、日本列島は出張地のような感じであった。
海賊たちの秘密の土地だったかもしれない。
海賊たちは逆に、海賊の島(日本列島)から本国を襲うこともあった。
このレベルの間は国家間の戦争というよりも、テロ集団(笑)のようなものなので、大規模な軍隊はあり得ない。
やがて日本列島がまとまり国家に成長すると、倭の五王(史実かどうかは不明)が百済等を配下におさめたがったり、任那問題が起こったりと、話しが大規模になっています。

> 古代日本は、強かったのでしょうか?
> きんたろうさんの言われるようなリスクを越える魅力が日本にはなかったのか?

私は、一番の原因は朝鮮が大陸と地続きであったために、様々な大陸の駆け引きの道具になったためではないかと思います。朝鮮半島はいつも小国に分かれていて、それぞれ争ったり、吸収、合併したり、また分裂したりです。これは大陸の影響を直接的に受けているから、一つの強国が出現しにくいのではないかと思います。(現代でも強国の影響を受け分裂しています)
小国では、海を越える大規模作戦は難しかったのではないかと思います。

> 朝鮮半島の支配者たちは、主に馬の文化の人々で、あまり船に興味がなかったのかと。

高句麗あたりはそうだと思いますが、朝鮮半島も倭国と同様、多くの小国があり、それぞれ特徴は違っていたと想像します。
列島と朝鮮南部との間は、海賊とか個人レベルでの通交は相当古くからあったので、少なくとも朝鮮南部が日本と比べて船が大きく劣るということはないのではないかと思います。

http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/



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ありがとうございました 投稿者:高坂英吾  投稿日:10月17日(水)11時39分54秒

こんにちは。
Toshyさん、ありがとうございました。雪狼さんがToshyさんだったとは全然気がつきませんでした。
ここにはどの時代でも強者が揃っているので、困った時はいつもお世話になってしまいます。

ところで、私はしばらくMinstrelをやめて「高坂英吾」でやってみようかと思います。
深い意味はありませんが、安部さん、太田さんも本名ですし、ちょっと見習ってみました。よろしく。(^_^)

http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/



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みなさんに御礼 投稿者:ペギラ  投稿日:10月17日(水)08時58分49秒

きんたろうさん、Toshyさん、太田さん<ありがとうございます
やっぱり朝鮮水軍の侵攻らしいものは、見あたらないんですね。

最近、古代日本は朝鮮半島を筆頭に各地からの移住民で構成されていることに関して、
その移住民たちがなぜ出身地を強くあらわさなかったのか、
そして、自分たちの故郷を取り戻そう?と、兵力を蓄え出兵しなかったのか?

これは、数度の朝鮮半島への侵攻がそのことをあらわしているのか??
そんなことを考えていたら、頭がパニックになってしまっています。

古代日本は、強かったのでしょうか?
きんたろうさんの言われるようなリスクを越える魅力が日本にはなかったのか?

ひとつ空想の世界の話ですが、
朝鮮半島の支配者たちは、主に馬の文化の人々で、あまり船に興味がなかったのかと。
日本側は船の文化がかなり浸透しており、船の操りはお手のものだったのか。
なにを言おうとしているかといいますと、
朝鮮半島は中国大陸北部の影響の世界で、
日本は中国大陸南部の影響の世界であったことの証明なのではないか。

船に関しては日本より多くの先進文化をもっていたであろう朝鮮半島の人々でも
日本の船の技術には、まったく太刀打ちできなかった。
日本の人々は想像以上に南方文化の国だったのかもと思います。

すいません、混乱状態の為支離滅裂です。m(..)m



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Minstrelさんの 投稿者:きんたろう  投稿日:10月17日(水)01時02分56秒

所での質問は難しいものばかりですね^^;;
今見に行ってきたのですが何と既にToshyさんのおかげで問題が解決していました。
よかったですね^^

ベギラさん、古代朝鮮の水軍ですか??
太田さんも書かれていますが、倭から朝鮮へというパターンは見ることが出来ると思いますが朝鮮から倭へといったものは無いように思っています。
有名な好太王碑文にしても北朝鮮の誰か(笑)がトンデモ的な読み方を発表しましたが失笑を買っただけでした。(と思う)

古代においては朝鮮には小国(と言えるのかも疑問です)が乱立していましたから、軍団を持って日本に押し寄せる事など夢のまた夢だったように思っています。

>有史以来日本に攻め込んできた国は、元と米国だけなのでしょうか?
征服という意図を持って日本ら攻め寄せたのは大元とアメリカだけだったのが歴史的事実です。

交易等で巨額の利益を得ることが出来たと言うことは、海を越えて物を移動させる事が困難であることに比例しているのです。
ハイリスク故のハイリターンだったのだと思っています。

水夫のように海に適した人物で船のメンバーを構成すれば日本列島の回りばかりではなく、朝鮮半島、中国大陸へと移動する事は可能だったと思っています。
でもこれは客が「人間」ではなく「物」だった場合がほとんどだと思っています。



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Toshy(雪狼)さん 投稿者:太田守人  投稿日:10月16日(火)17時57分02秒

関ヶ原の戦いから大坂の陣までを調べてみると、けっして関ヶ原即徳川天下ではなく、家康も豊臣の配下としての行動をとっているところが多く見受けられます。

この辺りが、家康がたぬき親父といわれ、信長・秀吉と比べ好きという人が少ない由縁だと思います。私は、彼の良く言えば慎重さ、悪く言えば臆病さであると思います。大阪の陣で、ほとんどの大名が、家康に味方したのも、この期間に充分力を貯めた結果だと思います。関が原後、直ちに大阪城に攻めかかれば、豊臣恩顧の大名はどうでたか分からないと思います。

秀吉が親類から大抜擢したものは、小早川秀秋や豊臣秀次のようにどうしても能力がついていかないものがありましたね。養子の中では宇喜田秀家くらいでしょうか。
この人物に豊臣を任せていればよかったのではないかと思いますが、難しいでしょうかねぇ。。。

私もこのご意見に賛成です。もし、関が原で三成が、宇喜田秀家に采配を全て任せておけばと思うことがあります。



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Minstrelさん 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日:10月16日(火)14時37分52秒

専門家でもなんでもありませんが、答えておきました(^^)
文献よりも、まずそれを紹介してくれるHPのほうが良いと思ったので。

ペギラさん>
はじめまして、南極からわざわざお疲れ様です(笑)

>有史以来日本に攻め込んできた国は、元と米国だけなのでしょうか?
文化年間には、ロシアとの間に現在の北方領土で紛争があります。
もちろんロシアが攻めて来たといっても2艘の船と数十人の兵士だけだから、
とりたてて騒ぐほどでもないと思うわけですが…

太田さん>
>家康とすれば全力を挙げて、秀頼を支えざるを得なかったように思います。
徳川家康・前田利家をはじめとする5大老5奉行への秀吉の願いは太田さんが書かれたようなものだったからこそ、伊達政宗もそのような認識だったのではないでしょうか。
関ヶ原の戦いから大坂の陣までを調べてみると、けっして関ヶ原即徳川天下ではなく、家康も豊臣の配下としての行動をとっているところが多く見受けられます。

きんたろうさん>
秀吉が親類から大抜擢したものは、小早川秀秋や豊臣秀次のようにどうしても能力がついていかないものがありましたね。養子の中では宇喜田秀家くらいでしょうか。
この人物に豊臣を任せていればよかったのではないかと思いますが、難しいでしょうかねぇ。。。

http://village.infoweb.ne.jp/~fwjd2293/tsu.htm



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古代朝鮮の水軍 投稿者:太田守人  投稿日:10月16日(火)12時30分18秒

ベキラさん始めまして。元寇以前には、刀伊の入寇というのが平安時代にありました。刀伊というのは、女真族だということです。女真族は、後世金や清という王朝をたてた民族です。それと、粛慎という異民族が佐渡に侵攻しています。私は仄聞にして、知っているのはこのくらいですが。
ただ、粛慎というのは、中国の史書から突然消えます。漢の武帝時代に漢に押された匈奴は、1世紀をかけてヨーロッパに移動し、フン族になったという説もあります。もし、そうならアッチラは匈奴の末裔になりますね。また、このフン族は現在のトルコ人だという説もあるようです。私は、粛慎も同じ時代に中国に押され、その一部が間宮海峡・樺太経由で北海道にきて定住したのではと個人的に思っています。
ただ、三国史記を読むと、倭はそれこそ年中行事のように、朝鮮半島に侵攻していますが、朝鮮半島から倭に侵攻したという、記述はなかったように思います。
ただ、任那の日本府というように、古代には、朝鮮半島の日本よりにいた民族と日本の民族は同じだったように思います。
私は、倭というのが、日本の専売特許になるのは隋以降でないかと考えています。



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古代朝鮮の水軍 投稿者:ペギラ  投稿日:10月15日(月)23時21分52秒

みなさん、おじゃまします

古代朝鮮の水軍はいかほどのものだったのか、昨今疑問に感じております。
百済、新羅の水軍が倭国に進軍してきたという記録はあるのでしょうか?

それ以前でも倭国に攻め入っていた水軍は、あるのでしょうか?

有史以来日本に攻め込んできた国は、元と米国だけなのでしょうか?

日に日に疑問が膨らむ今日この頃、
みなさんのお知恵を!!!!(願)

http://homepage1.nifty.com/moritaya/kodai.html



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ねねについて 投稿者:Minstrel  投稿日:10月15日(月)22時15分24秒

こんにちは。
「北政所について調べるには、どの文献が良いですか」という質問を私の掲示板で頂きました。
専門家の皆様のご意見をお伺いしたいです。

http://cgi.members.interq.or.jp/pluto/minstrel/cgi/h-mssgboard.cgi



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林羅山 投稿者:きんたろう  投稿日:10月15日(月)19時10分46秒

の書いた「豊臣秀吉譜」には家康に「秀頼が成長した後天下を収める器量が無かった時は秀頼に代わって政権を握って欲しい」と遺言したとあります。

しかし死ぬ直前に五大老に宛てた遺言状には「秀頼が無事に成長するようにお頼み申す。何事もこれ以外に思い残すことはござらぬ。秀頼のことをくれぐれもお頼み申す」とあります。



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上杉 投稿者:きんたろう  投稿日:10月15日(月)19時09分59秒

が会津に移された時、秀吉の能力はほとんど失われていた可能性が高いと思っています。
すると上杉を蒲生氏郷の後釜に据えようとしたのは三成の強力な意思ではないかと思われるのです。
三成は直江と極めて親しい関係にあったと言われていますから、かなりの確立でこれはあり得るように思っています。

生駒とか蜂須賀についてはToshyさんが言われているように、
>「社長」には面と向かって好きなことを言える相手
だと思います^^
つまりは韓信の「狡兎死して走狗烹らる」ような状況が起こりやすいという一種のバリエーションなのかもしれませんね??
この形が「末子相続」にまで繋がるのかも知れません??

要するに果実は創業の苦労をしてきた人物とは違う者の手に落ちてしまうというパターンですね^^;;

>余りにも早く天下を取ったた
秀吉の天才が余りにも凄すぎたために逆いマイナス要因としてこのような結果になった様な気がしています。
何しろ秀吉は信長の一代限りの家臣なのですからものすごいハンディを背負っている訳です。
このような人物が天下統一を成し遂げるには、血縁など全く無視して能力重視で抜擢する以外の道はなかった様な気がしています。
この点などからから見ても秀吉の才能は家康の比ではないように思われます。



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秀吉 投稿者:きんたろう  投稿日:10月15日(月)19時07分19秒

が家康をどのように評価していたかについては太田さんの様な意見も確かに説得力を持つものだと思います。
秀吉が家康の実力を評価していた事に対しては異論はありません。
街道一の弓取りという評判は偽りではなかったと認識していたように思っています。

でも家康が天下人になるにはもう一つ足りない物があるように思っていた事もまた事実だと思っています^^;;
当時の移動力で日本全国を統治するにはカリスマ・マジックが必要でした。
これがあまりにも鮮やかすぎた為に秀吉が痴呆症(みたいなもの)になると豊臣家の機能がおかしくなってしまったのだと思っています。

小田原征伐の時、浜松城は豊臣家に制圧されていた状態でした。
あの時点で既に家康は秀吉の足下に配つくばされていたと言っても過言ではありません。
何故ならばあの時点でもし関東移封に対して異議を唱えようものならばその瞬間に家康の領地は失われてしまったからです。

ここにおいて、秀吉とはどうしようも無い程の実力の差を見せつけられたように思っています。
しかし家康は秀吉の思惑以上に優れた武将であった事が後日分かってきたのではないでしょうか??

蒲生氏郷については秀吉同様に信長の優秀な生徒として挙げられると思っています。
彼が41歳の若さで死ななければ関ヶ原が起こっていたのかどうかかなり不確定要素が高くなるような気がしています。
私はこの蒲生こそ秀吉の後継者としての資格=能力を有していた第一人者ではないかと思っています^^



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大河ドラマ3 投稿者:きんたろう  投稿日:10月15日(月)19時04分24秒

わたしも輔住さんの言われるようにもう少し史実に忠実に進めていった方が良いように思います。

>霜月騒動、足利家時の自刃、平頼綱の乱も描いたほうがすっきりするような...。
この意見に賛成です^^
貞時が頼綱を倒して得宗体制を確立するところくらいまで描いた方がNHKの大河ドラマとしては相応しい様な気がしています。

かつて奥州藤原氏を描いたときも資料不足だったと思うのですが4代に渡って描いていましたよね。

鎌倉武士の世界をホームドラマの感性で汚して欲しくありません、笑



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大河ドラマ 投稿者:太田守人  投稿日:10月15日(月)18時42分30秒

は1年間ですが、徳川家康は後半をすっ飛ばしていたように思います。例えば、家康のように長寿で史料の良くある人は、1年半や2年でもいいように思います。今の時宗は、出来れば北条滅亡までいったほうがいいと思います。北条滅亡の原因は、私は矢張り元寇にあったと思います。時宗は多分彼の死で終わるのでしょうが、輔住さんのおしゃるように、霜月騒動、足利家時の自刃、平頼綱の乱くらいは描いた方が良いと思います。  



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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日:10月15日(月)17時04分06秒

>もし、秀頼に見所があったら助けてくれ。どうにも駄目なようなら、君が天下を取ってくれ
当時、というか関ヶ原戦後は上のような認識だったのですよ。

そのような認識でも、秀吉本人に言われたのと言われなかったのでは、違うように思います。秀吉本人が,家康に、諸大名の前で、劉備のような遺言をもししていれば、家康は動きにくかったと思いますがいかがでしょう。私も、秀吉は家康を充分警戒していたので、そのようなことを言わなかったのだと思います。家康の長寿であったのも、かれの運がよかったことだと思います。秀吉にすれば、利家が先に死ぬとは思っていなかったのでしょう。秀吉が家康に、劉備のごとく遺言すれば、家康とすれば全力を挙げて、秀頼を支えざるを得なかったように思います。



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きんたろうさん 投稿者:Toshy  投稿日:10月15日(月)15時46分05秒

>この大法則からみれば
ただし徳川は敵対勢力、黒田は豊臣系大名という違いもあるため、一概には言いにくいところかと。
豊臣系の大名で大封を得ているのは、養子の宇喜田秀家57万石くらいなのですよ。それでもやっと伊達家と同じくらい。ついで小早川秀秋です。しかしこの2つはもともと敵対勢力ですね。
これらを別にすると、加藤清正や石田三成などが20万石ほどを得ているのがやっとです。
もっとも三成は、北九州100万石を辞退しているけど…

余りにも早く天下を取ったため譜代を優遇するまでに至らず、時間をかけて料理すべき外様大名を倒していく時間がなかったことが豊臣政権にとって致命傷になったのではないか、というのが俺の考えです。



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太田さん 投稿者:Toshy  投稿日:10月15日(月)15時10分49秒

>もし、秀頼に見所があったら助けてくれ。どうにも駄目なようなら、君が天下を取ってくれ
当時、というか関ヶ原戦後は上のような認識だったのですよ。
豊臣よりは徳川に近い伊達政宗が、家康に対して「もし秀頼が天下人の素質がないなら貴殿が天下を取るがよい」という意味のことをささやいているのです。関ヶ原の戦い−征夷大将軍で、必ずしも徳川がまだ天下を取っていなかったことを証明する一つの証拠だと思っています。
であるから、徳川はいずれにしても豊臣を倒して天下を取っていたことでしょう。律義者を装っていたからこそ、関ヶ原で天下の半分を集めることが出来たのでしょう。

俺は、秀吉は家康を充分警戒していたのだと考えていますが、その一つに会津のことが挙げられます。先には蒲生氏郷、その死後は上杉景勝という、家康にとっては強敵といえる人物がここに入っていますね。
これは伊達政宗を牽制する目的などではなく(政宗如きは秀吉にしてみればなんでもない)、徳川を背後から突く有為の将がこの地に必要だったからなのだと思われます。家康を警戒するところがなければ、氏郷が死んだ後ここに上杉を入れる必要性がないですね。
生駒・蜂須賀については、会社で例えれば創業当時の仲間で、「社長」には面と向かって好きなことを言える相手だということでしょう。北政所の実家木下一族もまた、秀吉と共に歩んだ人たちです。彼らも(小早川秀秋を別とすれば)石高が少なすぎました。
しかし木下を冷遇したわけでもなく、例えば北政所は相当の権勢を得ていました。「身内」には権力を、よそ者には収入を、というのが秀吉の考えだったのかもしれません。ただし秀吉の死後、豊臣の権力が急激に衰えてしまったのが、譜代にとってつらいところだったのではないでしょうか。
ところで関ヶ原で、蜂須賀と生駒は東軍に所属しましたが、前野と木下は西軍荷担ですね。

(余談)
太田さんが三国志を出しているので、無理やりながらあてはめると、秀吉が劉備なら蜂須賀小六に当たるのは簡擁という人物ですね。加藤清正は義兄弟というよりもボディガード的存在の関羽、黒田如水は実は劉備に煙たがられていた(!)孔明、石田三成は劉備の篤い信任を得た法正というところかな。
「三国志演義」で想像すると違和感を覚えるかもしれませんが(わら



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私は見解を異にします。 投稿者:太田守人  投稿日:10月15日(月)12時31分56秒

私は、きんたろうさんとは違って、秀吉が家康を恐れたので関八州をあたえたと思っています。家康の強みは、譜代の結束です。江戸期の島津家のように、徳川家がわあーと攻めてこられたら、小牧・長久手の二の舞になることを避けたかったのでと思います。家康は、秀吉に所属してからも、秀吉が「わしは戦に負けたことがない。」と自慢すると、小牧・長久手の話を持ち出し、そんなことはありませんと言っていたといいます。秀吉としては、家康の力を削ぎたかったが、そうもいかず、石高を挙げるということで、家臣団の不満をかわし、あわよくば佐々成正のように失政を理由うに潰そうとしていたのではと思いますが、いかがでしょうか?
もし、秀吉が蜀の劉備のように、家康に「もし、秀頼に見所があったら助けてくれ。どうにも駄目なようなら、君が天下を取ってくれ。」と言っていたら、律儀な内府を装っていた、家康としてはそう簡単に豊臣政権を倒せなかったように思います。



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大河ドラマ2 投稿者:輔住  投稿日:10月15日(月)12時05分23秒

>あの時代に時輔が言うほど大陸に憧れがあったのかどうかは疑問
同感です。時輔自身だって大陸思考だった証拠はないですし。
2月騒動より後は出ないほうが良かったと思います。

>時頼−時宗−貞時の三代くらいの長さで描いてもいいように思いました。
個人的には、いまのドラマ展開なら時宗死後の
霜月騒動、足利家時の自刃、平頼綱の乱も描いたほうがすっきりするような...。



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大河ドラマ 投稿者:きんたろう  投稿日:10月14日(日)22時54分52秒

を毎週欠かさず見ていたのですが今日はかなりの部分を見逃してしまいました。

それにしても時輔がストーリー・テラーではなくて、あれほど関わってくるとはNHKらしからぬ脚本のように思えてしまいます。
北条時宗は33歳くらいで亡くなっていますから1年間のドラマとしてはどうしても間が延びた展開になってしまうのは仕方がないのかも知れませんね??
ましてあまり史料が無い時代ですから余計に本筋とは関係のない部分にストーリーを費やす事になるのだろうと思います。

それにしても海の向こうに「天国」があると思っていたら実は「地獄」だったというのでは洒落になりませんよね^^;;

あの時代に時輔が言うほど大陸に憧れがあったのかどうかは疑問だと思っています。
確かに元と日本との交易は盛んでしたし学識僧の来日などもあります。
しかし、これはほんの一部にしか過ぎないというのが真実だと思います。
ドラマのように一般レベルまでが同じ様な意識を持っていたように描く??のは誤解されやすいように感じました^^;;

史料が絶対的に不足しているのなら時頼−時宗−貞時の三代くらいの長さで描いてもいいように思いました。



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生駒氏^^; 投稿者:kituno_i  投稿日:10月13日(土)21時45分53秒

吉乃没後生駒氏の後を継いだ生駒親正が、1570年(元亀元年)秀吉に仕えるように
信長から配属されました。
生駒親正は信長に仕えていた秀吉の配下にあり、戦功を立て続けにあげています。

生駒親正は、秀吉の配下で永らく仕え、中老としての厚い信任も得ます。
生駒親正は、土田氏(信長の母の実家)から生駒氏に養子に入った人物です。
天正10年(1582年)本能寺の変後、生駒親正は、山崎合戦で親正は秀吉の直番衆
として明智光秀の陣を破り、また近江賤ヶ岳合戦でも柴田勝家軍に対して第五陣として
攻撃に参加しています。

天正15年8月10日讃岐国に移されて六万千石とされました。
しかし、秀吉が直接関わった小折の本家生駒氏は、どうも信雄の側近のままだったのでは
ないかと思うのです。(証明できる資料はまだ見つからないのですが...)

秀吉時代の生駒氏について詳しく知りたい方は、下記のアドレスへどうぞ。^^(宣伝)

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/sanukinoikomasi.html



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徳川弱体化作戦 投稿者:きんたろう  投稿日:10月13日(土)19時25分33秒

領地が大きいという事は大きな兵力を持つ事が出来るのは誰が見ても明らかですよね。
秀吉が如水に10万石未満の領地しか持たせなかったのは彼の能力を警戒したからだという説は説得力を持つと思っています。

この大法則からみれば家康が自分の立場を脅かす存在になるとは思っていなかったとしか結論を出すことが出来ません。

そしてこれは確かに正しかったとも言えるのです。
つまり秀吉が生きている間は家康は反乱を起こすことが出来なかったという歴史的事実があるからなのです、笑

もしどうしても家康に大きな領土を与えなければならなかったとしたら、遠方に与える方法があると思っています。
このようにしていれば室町時代の守護大名のように地域に根ざした直接的な支配とは違って徳川が強大になることを阻止できたように思っています。
要するに家康が伊達に宇和島10万石を与えたような事をすれば良かったと思うのです。

徳川弱体化作戦としては関東移封に際して100万石以上の加増をしてしまった事が最大の矛盾として挙げられると思っています。



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Toshyさん 投稿者:きんたろう  投稿日:10月13日(土)19時18分38秒

つまり生駒にしても蜂須賀にしても豊臣が天下人になるために今まで貢献したきた功績に対する報酬としては少なすぎるのではないかという事なんです、笑
つまりもっと与えても良かったのではないかと思っている訳です^^
何しろ秀吉の功績とはつまり蜂須賀や黒田の功績と言い換えても言いくらいのものですからね。

もし、これが家康の場合なら「吝嗇」ということで何となく理解できるのですが、秀吉の場合は「バブル」の王者ですからちょっと違ってくるような感じがしています。
何しろ家康に対して「吝嗇」であるが故に天下人にはほど遠い人物だと言っていたのは秀吉です。

要するに後から秀吉に釣られた相手ほど得をしてしまうといった一種の不公平が出来てしまった様な気がします。

この辺の感覚があったからこそ関ヶ原の戦いにおいて自らが豊臣家の設立にあれほど関わったにも拘わらず一歩引いた立場を選択する原因になったように思うのです。

秀吉にしてみれば、自らと互角以上の(心理的に煙たい??)相手よりは子飼いの武将を成長させた方を選んだのだと思います。
これが7武将や三成ですよね。

自らの地位を築いた同僚の影響力を軽減させるために子飼いの武将を促成栽培させようとして評価以上に領地を与える方式を取ったのではないでしょうか??
更にその上を外様の大大名で囲んでいると言えるのかも知れませんね。



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つかささん 投稿者:きんたろう  投稿日:10月13日(土)19時15分18秒

こんばんは^^
こちらこそよく忘れないで来ていただいた事に感謝していますv(^o^)

縄文人と弥生人は別人種であるとも言われているようですが、私はこの意見には懐疑的立場を取っています。
勿論、新たに大陸からやって来た人達との混血があった事は想像しています。
でも弥生人が日本列島から縄文人を駆逐したとはとても思われないのです。

弥生時代に入って骨格などが大きくなっている理由としては日々摂取する栄養の向上によるものであると説明が付くと思っています。
これはハワイの日系二世以下の体位が極端に向上している事実からも説明が付きやすいと思っています。

日本人は歴史的にみていいと思ったものはどん欲に取り入れてきました。
例えば明治維新以後に欧米のものを取り入れた事実などからもこれは当てはまるように思うのです。
(トンデモ説の場合はここで人種そのものがチェンジしてしまうのですが...笑)

2から4までの構想や基本的文章は既に出来上がっています。
でもこれが有機的に上手く繋がらないのです、自爆^^;;
要するに映画監督のような気持ちだと理解してくださいね、笑

縄文についてならリンクを貼らせていただいている大三元さんのページが必読ですよ^^
是非一度ご覧になってみて下さい。
下記のアドレスです。

http://www.dai3gen.net/



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豊臣とバブル? 投稿者:Toshy  投稿日:10月13日(土)10時40分58秒

豊臣政権というと外部の政治顧問とも言うべき五大老と大臣格の五奉行ばかりが取り上げられますけど、実は三中老という役職があって、確か生駒はここに入っています。石高こそは少なくても、実権は与えられていたということになるでしょう。

秀吉の大盤振る舞いが、ちょっと家臣団に目先の景気のよさを植えつけて、関ヶ原が「バブル崩壊」だったのかもしれません。計算の利く石田三成ですら、後先を考えないような行動をとったことがありました。
三成というと島左近の招聘ばかりが有名ですけど、それ以前には渡辺某という勇者を家臣にしています。この人は「10万石でないといやだ」と言う人で、当時の三成はせいぜい500石。
そこで三成は「自分の500石は渡辺に全部与え、自分は渡辺の居候になる」
と、とんでもないことをやっているのです。三成らしいといえばそうですが(わら
それと譜代の一人加藤康光も秀吉に仕えれば先が伸びると期待していたので、過剰に家臣を雇って家来が屋敷に入りきれず、道路にまで人があふれていたという逸話も残っています。

>徳川弱体化作戦
その作戦、一番良いかも! なんといっても敵中に味方を作ることが、相手を弱める最高の作戦ですね。家康はそこに付け入る隙を与えなかったのでしょうか。
司馬遼太郎の小説だと、秀吉は家康を信頼しきっていますが、俺はそうとは思えないです。北政所や三成が家康の野望を見抜いているのに秀吉が気づかないとは、ありえない。



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ご無沙汰しております。 投稿者:つかさ  投稿日:10月13日(土)02時45分19秒

きんたろうさん、こんばんは。
忘れられているかも、とびくびくしているつかさでございます。
「易姓革命史観…」拝見しました。

私、中学生の時、修学旅行が北海道で、アイヌの村も見学しました。
アイヌの子孫の人々にふれ、びんびんと何かを感じました。
今、その時の気持ちを翻訳すれば「豊饒」だと思っています。
アイヌの文化、精神性はなんと豊饒であることか。
アイヌを縄文の直系というのは、少々語弊がありますけれども、
縄文時代も歴史で習ったより遙かに豊饒だったのではないか、と思っていました。
(いささか、短絡的な思考ではありますが)

それから時を経て、三内丸山遺跡が発見され、その生活が明らかになって行くに連れ、
あの、中学生の時のインスピレーションは、たしかだったのだな、と思いました。

穏やかな気候に支えられた、自然の恵みを享受し、感謝をささげる精神性。
それは、気候が変わり、社会が変化しても、アイヌに受け継がれていったのだと思います。
こういったものが、21世紀にも受け継がれてもらいたいものです。

きんたろうさんの言葉に、導かれて思ったことを。
続きが楽しみです。それでは、また。

http://www5.justnet.ne.jp/~tsukasa_f/



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妄想(徳川弱体化作戦) 投稿者:輔住  投稿日:10月13日(土)01時26分48秒

>朝鮮出兵なんかしないで徳川を弱める作戦を取るべきでしたね。
確かに!史実から推測するに結城秀康と秀忠の仲が昔から良かったとは
思えないので秀康を重用して御家騒動の種を作るとか!



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Minstrelさん 投稿者:きんたろう  投稿日:10月13日(土)01時08分26秒

勇者ロトさん、スピードチェックを有り難うございました^^
さすがにADSLはものすごいスピードなんですね。
うちとは大違いですね、よく分かりました。
これでますますADSLが待ち遠しくなりましたv(^o^)

ちなみにISDNのLANで16秒と19秒
ネットいばらきのダイヤルアップでは17秒と25秒
ビッグローブのダイヤルアップでは19秒と25秒でした。
(ストップウォッチを使ったわけではないのでかなりいい加減です)

勿論アクセス時間が全然違いますから余り参考にはなりませんが、Minstrelさんのスピードと比べるとずいぶん違うのがよく分かりました^^;;

表示時間がこの程度の差ならgooのミラーネットいばらきを止めた後に本家にしても大丈夫のようですね??

太田さん、秀忠は関ヶ原に間に合わなかった事が大きなマイナス点としていつものし掛かっていたように思っています。



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秀吉 投稿者:kituno_i  投稿日:10月13日(土)00時30分19秒

>蜂須賀と前野、生駒は親戚同士ですからこの独立豪族集団は正に秀吉と一緒に
>天下取りをしてきたと言っても過言ではないように思っています。

そうだ!そうだ!

>更に彼らは秀吉の弱い立場の頃からの知り合いでもありましたから、本心では
>彼らを煙たがっていたのかも知れませんね??^^;;

そうだったのか!!
秀吉の運を開いてあげたのは「吉乃」だぞ!!
確かに秀吉の過去はよ〜く知っていました。



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秀吉の矛盾 投稿者:きんたろう  投稿日:10月12日(金)23時49分59秒

秀吉は外面がいい反面「一度釣った魚に餌を与えない」ようなところがありますよね??

豊臣家を天下一の名家にするために初期の頃から秀吉と一緒になって血を流してきた仲間である蜂須賀や黒田などに対して、もう少し領地を多く与えて報いていれば歴史は変わった可能性があるように思っています??
私は彼らこそが五大老としての価値があるように思えてきます。

もし彼らが50万石級の大大名になっていてスクラムを組んでいれば豊臣家が潰される事は無かったのではないでしょうか??

秀吉は如水に対して「あいつにこれ以上領地を与えたらあっという間に乗っ取られてしまう」と言っらしい??(笑)ですが、これは如水の能力の高さを現しているとともに秀吉の猜疑心の強さも強烈に物語っていると思います^^

>朝鮮出兵なんかしないで徳川を弱める作戦を取るべきでしたね。
秀吉は家康を相当舐めていたのでしょうか??
それとも優秀な武将ではあっても全国を統治する能力は欠けていると判断したのでしょうか??
多分その両方なのでしょうね、笑

この印象を秀吉が持つ理由とは信長との同盟していた20年間の実績が大きくものを言ったのだと思います。

北条を潰した後に家康を関東に移封させるのはいいと思うのですが、何も100万石も加増させる必要は何処にもありませんよね。
家康も伊豆国だろうと思っていたようですね^^



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豊臣における譜代 投稿者:きんたろう  投稿日:10月12日(金)23時45分57秒

秀吉の出身母体は蜂須賀であるといってもいいほど秀吉は蜂須賀に依存しています。
何しろ自分の兵力を何一つ持っていなかった秀吉が出世するためには蜂須賀の存在はあまりに大きいものだった筈なのです。
蜂須賀と前野、生駒は親戚同士ですからこの独立豪族集団は正に秀吉と一緒に天下取りをしてきたと言っても過言ではないように思っています。

前日、秀吉は彼らを不当に低く評価していると書きましたが、これは蜂須賀などが譜代というよりは「本家」のようなものだったからではないかと思ったりしています、笑
更に彼らは秀吉の弱い立場の頃からの知り合いでもありましたから、本心では彼らを煙たがっていたのかも知れませんね??^^;;
これは秀吉の冷酷な面(以前に書いた信孝の処遇)から考えてもあり得るような気がしています。

賤ヶ岳の七本槍や三成は15万石程度の領地を得ています。
勿論この時点における各人の能力査定も重要なポイントになりますから評価するのはかなり複雑になるとは思いますが、蜂須賀、如水などがいままでしてきた事と比べればこれなど労働の対価を正当に評価したものとはとても思うことが出来ません。

輔住さん、秀吉にとっての譜代とは三成や七本槍のように思っています。



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秀吉のドミノ倒し的天下統一法 投稿者:きんたろう  投稿日:10月12日(金)23時40分49秒

確かにToshyさんの言われるように秀吉は判断をしたのだろうと思います。
そして統一という成功を収めたわけですよね^^

秀吉が異常なまでのスピードで天下を統一する事が出来た理由に「利」で釣ったからだという人がいますが、それは確かに正鵠を得ていると思っています。
しかし、利を与えるにしても「実力の差」をはっきりと目に見える形で示さないと相手は納得するものではありません。
長宗我部元親にしても島津義久、義弘、さらには上杉景勝にしても秀吉の圧倒的な実力の差を見せつけられた後で「本領安堵」をしてもらったので一気に秀吉シンパになったものだと思っています^^

秀吉は信長の遺産を相続して信長級の兵力を持つようになりました。
この時点において信長の「天下布武」は広く知れ渡っていた様に思います。
つまり信長の対立した勢力は武田のような目に遭う(=潰される)事は容易に想像がついたと思うのです。
ところが秀吉は敵を圧倒する兵力を持ちながら相手を叩き潰さずに本領をそのまま安堵したのですから「敗者半分の法」から判断しても太っ腹の大人物のように見えたのだと思うのです。

つまり信長の「剛」の強力なイメージがあったからこそり秀吉の「柔」の技が生きたのではないでしょうか??^^

この時占領した「外地」は秀吉に奪われています。
でもここはほんの少し前までは自分の物ではなかったのですから実質的なダメージはほとんどありません。

この秀吉の手法は政宗に対しても行われています。
政宗にしても芦名の領地は自分の物では無かったのですから島津などに対する態度と同じように秀吉の行動には公平さを見る事が出来ると思うのです。



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なんか難しいけど(譜代と外様について愚考) 投稿者:輔住  投稿日:10月12日(金)18時49分49秒

譜代の家臣も有力外様大名も敵に廻せば痛いです。
ただ譜代と主君の関係はどこか持ちつ持たれつのような感じが外様より強い感じがします。
「この主人だからこそこの家臣は力が発揮できているというように感じさせると言うか...」
外様大名の場合はやはり譜代より独立心が外に出ていますからやはり土地は
大盤振る舞いせざるを得ない部分はあると思います。

もちろん、一部に例外もあるとは思いますが、全体的にはそんなイメージが私には
あります。



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外様と譜代 投稿者:Toshy  投稿日:10月12日(金)15時46分42秒

>一所懸命、安堵の精神
きんたろうさん、豊臣政権の場合その辺は一概に言えないと思います。
先に、いつ裏切るか解からない連中こそ、恩を与えておくのが安定するやり方だと思います。もし秀吉が譜代を優遇していたら、敵対した諸大名−毛利島津伊達などは秀吉の前に頭を下げなかったのではないでしょうか。

安定してから徐々に譜代家臣に力を与えていく方針、実は徳川氏もやっていまして、三河時代には新参の家臣に過大とも言うべき賞を与えています。譜代は徳川の苦しい台所を理解し、また恩目当てではなく忠誠を誓っているという前提のもとに、それほどの賞をもらっていないのですよ。こうやって見方を増やしながら、だんだん親分が強くなった上で譜代が外様をつぶしていくのです。
秀吉には、残念ながら、それをやるだけの時間と豊臣を守りうる跡取がいなかったことが誤算だったということだと思うのです。朝鮮出兵なんかしないで徳川を弱める作戦を取るべきでしたね。



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何かの本で 投稿者:Toshy  投稿日:10月12日(金)14時12分03秒

安部さんJr(わら)がおっしゃる、
>稲作のモノカルチャーを強制されたから
の話をみたことがありました。
鎌倉の時代には、奥州は完全に北条氏の支配下にあったようですから、
やはり植民地というのが正しいのでしょうね。
なるほど寒冷化ですか。その可能性が高そうですね、ありがとうございました。

松島の瑞巌寺は、晴れた日にぜひ見学なさることをお勧めです。
境内から門を通して見る松島湾の風景は、まるで額縁に入った風景画です。



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自覚しておられるなら 投稿者:勇者ロト  投稿日:10月12日(金)12時50分04秒

>私もよく自覚しております。

自覚しておられるように読めないんですよね>太田さんの文章。
言いたいことだけを投稿せずに、読んだ人がどう思うかをもう少し考えて投稿されたほうがいいと思います。

余計なお世話でした。すいません。m(__)m

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/bbs/index.shtml



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秀忠 投稿者:太田守人  投稿日:10月12日(金)12時31分00秒

>穀物でもなんでもいいのではないでしょうか
ちょっと乱暴な意見のような気がしますが(笑)

私もよく自覚しております。

この頃2代将軍秀忠は、あれでなかなかの名君だったと思うようになりました。参勤交代や武家諸法度、公家諸法度、鎖国令など徳川の政策の柱は、彼が発布してます。基を作ったのは、家康かもしれませんが。少なくとも、3代の家光よりましなように思います。
彼の凄いところは、父家康を認めていたところだと思います。出来る息子は、父が偉大であれば、武田勝頼のように、父を乗り越えようとするものだと思いますが、彼にはそれがありません。私は、このことだけでも秀忠という人は偉いと思いますが。



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うちのは 投稿者:勇者ロト  投稿日:10月12日(金)09時25分34秒

なんと、gooの広告スペースを表示しませんでした!!
広告の枠はあるのですが「×」マーク表示でした>全ページともです。
ということで表示速度はあまりかわらなかったです。
広告を読み込んだら少し違うのかな??

安部さんのお父さんこん@@は。
安部さんにはうちのお店を何度か利用して頂いてお世話になっておりますm(__)m

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/bbs/index.shtml



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比較 投稿者:Minstrel  投稿日:10月12日(金)00時05分22秒

何と、安部さんのお父様が登場されていたとは!!

きんたろうさん、たった今、Yahoo!BBのADSLで2つの表紙を比べてみました。
キャッシュを全てクリアして試してみたところ、、、
net-ibarakiの方は1〜2秒、
Gooの方はプラス1秒くらいで全てが表示されました。
あんまり参考になりませんね。すみません。^_^



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加賀百万石 投稿者:きんたろう  投稿日:10月11日(木)23時04分47秒

という表現については以前から疑問に思っていました^^
どうして「加賀」なのでしょうね??^^;;

大田さん、
>穀物でもなんでもいいのではないでしょうか
ちょっと乱暴な意見のような気がしますが(笑)確かに食糧を安定供給出来る事が一番の問題だと思います。

Toshyさん、確か仙台には大崎神社がありましたよね??

>中世以前の食料はなんだったか?
白い米を誰もが当たり前のように食べるようになってまだ半世紀くらいしか経っていないと思います。
でも「主食」と言うならばやはり米だと思いますよ。
地域によって粟、稗、うどん、そばなどの比重が高くなったりするように思っています。

安部さんのお父さん、よくいらっしゃいましたv(^o^)
こちらこそ逆にお世話になっています。

安部さん(安部君、奈亮君、何と言ったらいいのかな??笑)の鋭い視点にはいつも感心するばかりです。
鋭いばかりではなくて、その上あれだけ詳しい知識を持っている事に対してはただ驚くばかりですよ。
正にオールマイティの知性の持ち主だと思っています。
知性の眩しい輝きを感じています^^



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Sinさん 投稿者:きんたろう  投稿日:10月11日(木)23時00分43秒

黒田如水といえば秀吉のブレーンとしてあまりにも有名ですね。

秀吉は太っ腹だと言われていますがかなり予想を裏切って冷遇している人達がいます。
それは蜂須賀、前野、生駒、更には黒田だと私は思っています。
秀吉が天下人になることが出来たその根本にはこのような人達が周りを固めていたからなのは余りにも明白です。

秀吉は「首一つで10万石」などと言われるくらいの太っ腹のイメージがあります。
でも、もしそうであるならば彼らには最低でも50万石以上の領地を与えて今までの苦労に報いるべきだと思うのです。
それが一所懸命、安堵の精神だと思います。

一方家康には関東に追い払う代償として100万石もの加増をしていますよね。
「本当に脅威だと判断した相手には兵力を持たせない」という大原則から判断すると、秀吉はこの4人には脅威を感じていたように思えてきます。
逆に言えば家康には全然脅威を感じていなかったという事になりますねv(^o^)

ミラー・サイトを何度か試してみたのですが、やはりgooの宣伝画像の分だけ重くなるようです^^;;
これは無料スペースにHPを置いていれば将来プロバイダーを変更するにしても何かと楽かなと思ったからです。
それにgooの容量は50メガもあります^^
と言うわけで勇者ロトさん、ADSLでの確認をよろしくお願いしますね(^O^)W

>ところで、伊達宗光と伊達政宗は関係があるのでしょうか?

伊達宗光といえば陸奥宗光ですね。
彼は和歌山出身ですから伊達政宗とは関係が無いのように思います。
もっとも伊達家の家臣には伊達を名乗っている者がかなり多くいたはずですから、こちらの繋がりかも知れないですね??^^;;

空さん、「易姓革命史観との衝突1」を読んでいただきまして有り難うございます。
予定では4まで続く事になっていますが全然進んでいません^^;;
思いついた言葉は書き留めてあるのですが上手く繋がらなくて困っています。

>今ここが極楽であるとそう思えるかどうかが肝心だと・。
いい言葉ですね^^
私もこのような満たされた心を得たいと思います。



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日:10月11日(木)22時52分57秒

安部さん、Toshyさんが書かれていた「寺に見せかけた城塞」を読んで、このような「擬態??」の始まりは何なのだろうと考えてみました。
すると聖徳太子の四天王寺に行き着いてしまいました^^
なお、四天王寺の詳細についてはkitunoさんのトピックに詳しくありますのでそちらを見て下さいね、笑

この寺は6世紀末に建てられた訳ですが、その本来の目的は寺院というよりは「迎賓館」だったように思われるのです。
この理由とは難波の港に船が近づいた時に四天王寺の(当時としては)巨大な伽藍がよく見えるように配置されているところにあります。

きっと裴世清なども巨大な建造物を見て日本に対する認識を改めたのではないでしょうか??^^

このように寺、もしくは宗教を隠れ蓑にして本心は別のところにあるというのは戦国時代オリジナルでは無かった様な気がしています??

ところで瑞巌寺と言えば松島ですよね。
松島には数回行ったことがあります。
その時は波が荒くて小舟が沈没するような気がしました^^;;
とても心配したことを思い出しました、笑



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お世話になってます 投稿者:安部奈亮父  投稿日:10月11日(木)18時58分11秒

 安部奈亮の父です。会社で暇にまかせて見つけました。本人は見られることを非常に嫌がっていましたが、親のいないところでの子供の日常を見ることは稀な機会でしたので楽しませてもらいました。皆さんよいお仲間のようで安心しております。メールのアドレスは業務上の秘密でお教えできませんが、息子のことこれからも宜しく御願いします。



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それは多分 投稿者:安部奈亮  投稿日:10月11日(木)16時13分21秒

奥州藤原氏のころは,東北は今よりも暖かかったという話を聞いたことがあります。そのころはグリーンランドも沿岸部は草原が広がっていたとか。ですから水田耕作が広く行われていたのかもしれないですね。

鎌倉時代になってまた寒冷化が起こって,東北地方は水田耕作にはあまり適さなくなったらしいです。

私は東北が貧しくなったのは,江戸時代になって水田耕作には適していないのに,稲作のモノカルチャーを強制されたからではないかと思っています。東北地方の大水田を見ると,あれはプランテーションみたいなもので,植民地経済に近かったのではないかと思います。ブラジルのコーヒーとかインドネシアのゴム園とか。



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東北地方の 投稿者:Toshy  投稿日:10月11日(木)15時03分06秒

中世以前の食料はなんだったか?を少し考えないといけないと、急に思い立ちました。
米作が盛んになったのは江戸時代以降。奥州藤原氏は何を主食にしていたんだろうか。

新田開発などにより、伊達藩中期は実質的な石高100万を超えていたのですが、伊達氏が仙台を本拠地にする前までは多賀城があり東北の要衝だったにもかかわらず、歴史が薄い。

伊達氏の前は大崎氏という小大名が宮城の王者です。この人は豊臣秀吉に対して反乱したため(もちろん反乱というのは中央の見方、大崎氏にしてみれば自己防衛)つぶされてしまいました。
我々は一般に「仙台平野」と呼ばれるところを未だに「大崎平野」と呼びつづけていますけど、それはよそ者の伊達政宗に対するかすかな反感なのかも知れません(笑)



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日:10月11日(木)12時49分43秒

のおっしゃるとおり、肥沃な土地が昔寂れていたのは「何故」というのは現代人の感覚だと思います。日本人の主食は米ですが、あんな熱帯植物を、北海道なんていう寒帯でも栽培している国は、日本くらいだと思います。食料なんてものは、安定供給できれば、穀物でもなんでもいいのではないでしょうか。東北で水田跡が見つかり、その後衰退したのも、米を寒帯で安定供給できず、木の実とか動物の肉の方が安定して供給できたのでしょう。
私は金沢に住んでますが、加賀百万石の半分くらいは、富山県の米に依存していたそうです。富山に10万石の分家を前田は作りますが、その時中新川二郡(今の富山市周辺)でこの石高ですから、富山平野の肥沃さがわかろうというものです。私は、加賀百万石でなく、越中百万石だと思っています。



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返事遅れました(__) 投稿者:空  投稿日:10月11日(木)11時04分37秒

こんにちは
御訪問あんどレス感謝です(__)

「易姓革命史観との衝突」読みました。
面白い切り口で一気に読めました。
続きが待ち遠しいです。

仏教で極楽といいますが
この意味は自然・・天気がよいとゆうような意味だと
山本空外上人が書かれていたことをふと思い出しました。
彼岸などといってどこかに渡っていくのではなく
今ここが極楽であるとそう思えるかどうかが
肝心だと・。


この狭い国土一億2千万人?もの人が住み
その中の平野部(20%)に集中してすんでいるとなると・。
他の国からみれば、国自体がラッシュアワーですね(^^;



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じゃけち 投稿者:勇者ロト  投稿日:10月11日(木)10時19分15秒

調査ありがとうございました!
ここ数日、バタバタしておりまして、お返事が遅れましたm(__)m

>ミラーサイト

仕事場はまだダイアルアップなのですが、ネット茨城のページより若干表示が遅いですね?
帰宅してからADSLでも確認してみますね(^^)

ところで、伊達宗光と伊達政宗は関係があるのでしょうか?

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/bbs/index.shtml



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ミラーサイトを作りました^^ 投稿者:きんたろう  投稿日:10月11日(木)04時56分52秒

下記のアドレスにミラーサイトを作りました。
HPの引っ越し先を考えているためです。
とりあえずgooに作ってみました。
動きがどの程度か皆さんも確かめてもらえれば有り難いですv(^o^)

なお、ミラーのアドレスはトップページにも載せてあります。

http://203.174.72.111/kintaro2_2001/



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伊達政宗 投稿者:きんたろう  投稿日:10月11日(木)04時54分30秒

太田さん、伊達政宗についての説明を有り難うございました^^
確かに伊達政宗には領土的野心がかなりあったような印象がありますよね。
戦闘力も芦名を滅ぼしている事実から判断すればなかなかのものだと思います。

でも伊達も逆に何度か滅ぼされかかっていますよ。
佐竹を筆頭にした反伊達連合軍は2度ほど伊達の息の根を止める寸前まで行っています。
この連合軍がどうして伊達を叩きつぶさなかったのかは諸説言われています。
その理由とは、多分相手を潰した場合の統治に不安があるためにお互いに一気に相手を滅ぼさないという暗黙の了解があったからのように思っています。
と言うよりも領土を少しずつ拡大する発想はあっても、相手を滅ぼすまでの発想は無かったのではないでしょうか??

私たちは戦国時代というと織田信長を中心に歴史を見てしまいますから信長の廻りで行われた歴史がスタンダードだとつい思いがちです。
でも信長のように正面切って相手と戦うなどとは戦国時代でもレアケースなのです。
特に東北地方はお互いに婚姻関係を何十にも重ね合わせてきていましたから徹底的に戦う事からはずいぶんと離れた意識を持っていたように思っています。

この様な環境の中で見ると確かに正宗は特殊な感覚の持ち主だったように思います。
政宗もまた信長の「弟子」だったのかもしれませんね??v(^o^)

Toshyさん、仙台平野は政宗が本拠地を移す前は寂れていましたよね??
あれだけ肥沃なところなのに「何故」と不思議な感じがしますが、これは現代の感覚ですね、笑



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伊達政宗考 投稿者:Sin  投稿日:10月11日(木)00時20分40秒

天下を狙えるだけの器量があったかどうかと言うことについては、
実際に天下を取っていないだけにわかりません(爆)
・・・と言ってしまうと話が終わってしまいますので(笑)
私なりの正宗の評価は「黒田如水並」です(超一流ではないが一流の人物)。
私は仮に正宗が10年早く生まれていても、彼が天下を取れる可能性は
ほとんど無かったと思っています。



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蛇穴 投稿者:kituno_i  投稿日:10月10日(水)23時12分08秒

「じゃけつ」と読むのですか。
大子にそのような地名があるなんて知りませんでした。

あの辺りはきっと蛇はたくさんいますよね。
kitunoの住んでいるところにも、たくさんいます。^^;
ちょっと奥の村では、まむし酒やまむしの蒲焼きを食べるそうです。

前の勤め先には青大将が住みついていました。
でも「主様(ぬしさま)」と呼んで、丁重に扱っていましたよ。^^;;
蛇の住むところは、綺麗な水があるのかもしれませんね。

しかし、皆さん本当に詳しいですね。
いつもとっても勉強になります。



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伊達政宗 投稿者:Toshy  投稿日:10月10日(水)18時39分50秒

太田さん>
徳川が勝った途端、伊達は東軍寄りの姿勢を明確にしていますが、もし関ヶ原の主力戦で結果が違えば、上杉と連合して東北地方を自分のものにしようと暴れる可能性は充分あったでしょう。ただ天下を取れるかどうか、まではなんとも言いがたいですが・・・

とかく政宗は不穏な人物で、秀吉に対してもその傘下に入りながらもたびたび反旗を翻しました。
>このような政宗を傘下に治めた、家康という人物もなかなかのものだと思います。
家康が秀吉を評した言葉に、
「政宗のような悍馬を制御する太閤殿の器量は政宗に100倍する」とかいうものがありました。まさに「英雄、よく英雄を知る」ですね。当然徳川家康もまた、政宗を100倍…かどうか知らないけど、やっぱりそれだけの器量人だということなのでしょう。。

秀吉があれほどのスピードで天下を治めなければ、政宗も徳川・北条との連携で東国に強大な基盤を作りえたと思っています。しかも年齢的に若いから、家康の死後も天下が固まっていなければ何をしでかすかわからなかった。
しかし、政宗が天下人の器量ありといわれることは、我々東北の人間(米沢と仙台は、特に)にとってはうれしいことに違いないのですが、
自分たちがそう発言する時は、地元贔屓かなと思ってしまいますね(わら



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勇者ロトさん 投稿者:きんたろう  投稿日:10月10日(水)18時35分41秒

蛇穴について地元の人に確認してみました\(^o^)/

「蛇穴」は「じゃけち」と発音しているとの事でした。
これは多分「じゃけつ」が訛ったものだと思われます。
ちなみにこの場所は八溝山(やみぞさん)の麓にあります。
でも大蛇の伝説などは聞いたことがないと言ってましたが。。。。笑
恐らくはこの付近では蛇は当たり前過ぎるのではないかと思います??^^;;

この付近の私の友達は蛇の蒲焼きを食べると言っていたのを思い出しましたよ、笑



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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日:10月10日(水)18時03分27秒

そうですか。伊達と上杉が和睦したのが理由ですか。ありがとうございました。
ただ、もし家康が不利になれば、政宗は南下し天下を伺ったでしょうね。もし,政宗が関東か10年位早く生まれていれば、あるいは家康あたりと天下を争ったかもしれませんね。
私は、伊達政宗は天下を狙える器量があった人物だと思います。少なくとも、前田利家などより数段上の人物だと思います。
このような政宗を傘下に治めた、家康という人物もなかなかのものだと思います。



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支倉常長 投稿者:Toshy  投稿日:10月10日(水)17時40分59秒

今日は比較的暇な日なので、とりあえずまたネットにつないでいるぞ。

安部さん>
支倉常長は、表向きは政宗が殺したと幕府に報告しているんですが、実際には山村で長生きしたようです。常長の墓だと伝えられているところが、W会場の近くにありました。
やはり政治的犠牲になった人物に対して、政宗は後ろめたいところを感じていたのかな……ただし半幽閉生活ですから、決して幸せな人ではないですね。

ところで瑞願寺の隣にあるなんとかいう重要文化財、見た目は仏教のつくりですが、内部のあちらこちらに洋風のデザインが施されています。
政宗は異国への憧憬みたいなものを持っていたのかなあと思います。



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京都の知恩院も 投稿者:安部奈亮  投稿日:10月10日(水)17時20分17秒

お寺と言うよりは城塞ですね。
知恩院と言うのは浄土宗の本山の一つで、徳川氏が浄土宗であったことから徳川氏に保護されました。今でも葵の御紋の垂れ幕を飾っています。場所は東山です。
北政所が晩年を過ごした高台寺は知恩院のすぐ近くにあります。多分徳川氏の息のかかった僧侶の監視下に置かれていたのであろう事が分かります。
二条城は儀礼用の城で、城塞は知恩院だったのだろうと私は思います。

また私の下宿の裏山は吉田山で、吉田山の南には黒谷の金戒光明寺があります。これも浄土宗の本山です。これも京都の町を見下ろす位置にあり、幕末には会津藩の本陣が置かれました。会津藩の戦死者の墓もあり、会津高校の修学旅行生が献花していたのが印象的でした。

銀閣寺の裏山から、北陸にかけて、足利幕府は山城をいくつも作っていたそうです。京都を攻められた時の防衛線にするつもりだったのでしょう。

寺に見せかけた城塞と言うのは他にもいくつかありそうですね。


そう言えば遠藤周作さんの「侍」では支倉常長は最後は切腹させられていましたが、実際はどうだったのですか?



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うーん。。。。 投稿者:Toshy  投稿日:10月10日(水)14時30分48秒

きんたろうさんのその解釈はなるほど、と思います。(^^)
しかし徳川と武田の戦いは、兵力が1対3ですから、徳川が敗れて当然だといえば当然だと思うわけですが……
もちろん家康は信玄のやり方を学んでますから、やはりきんたろうさんのお考えが正しいかもしれませんね。

太田さん>
わしは伊達の地元ゆえ、詳しくないけど少し補足させてください。

>家康の空手形
の理由は、実際に伊達が上杉と和睦しているからなんですよ(わら)
上杉としては伊達を味方に引き込むか中立にすることで、最上攻略に集中できるというわけです。当時の上杉の領土は会津、米沢、庄内、佐渡で、佐渡はともかく庄内は「飛び地」になっているため、山形を手にしないと防御が難しいのです。最上が東軍についたため上杉は苦戦を強いられることになるのですが、上杉が最上を攻撃した時、伊達は動きませんでした。

>支倉使節団の遣欧
これは伊達個人のアイディアではなく、実は徳川幕府が裏で荷担しているものらしい。
目的は、太平洋航路の発見ですね。朱印船貿易が盛んだった時代ですから、当初は一大貿易国家を目指す江戸の意向が支倉使節団の渡海に大きく影響しています。あれだけの大船団ですから、伊達一人の財力で出来るものではないし。

>瑞願寺
そのとおり、あれは城砦です。伊達家には「対幕府軍防衛計画」と呼ばれる作戦があって、
1.白石市・伊具郡を第一次防衛ラインとする、地形を利用しての防衛構想
2.石巻に海軍が攻めてくることを想定した防衛構想
3.仙台城で迎え撃つ構想
4.最終の戦いは瑞願寺
というものなのですよ。ただし瑞願寺は守りには良いけど、天下を目指す場所としては難しいと思います。上のような戦いをしても、伊達家は得るものはありませんね。
ちなみに幕府役人は瑞願寺を見て、「良いところに城を作ったなあ」と発言していますから、伊達の構想はバレバレだったということで(わら

このような計画が残り今に伝わっているところから考えても、
・決して徳川氏は伊達氏に心を許していなかったこと
・伊達としても徳川が言いがかりをつけて藩をつぶしに来ることを警戒していたこと
がわかるかと思いますが、天下を狙っていたと見るには少し弱いといえば弱いですね。。。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日:10月10日(水)12時47分52秒

伊達政宗が天下人の可能性をどの付近に感じていますか??

1.結城秀康を関が原の時に、東の押さえとしておいています。その当時、最も徳川方で戦闘能力のあった者は、家康、秀康の順だと思います。秀康は、上杉の押さえとともに,伊達への押さえの意味もあったと思います。もし、家康が負けたら伊達・上杉の同盟もあったと思います。
もし、政宗がどうでもいい人物なら、後継ぎの秀忠を残したと思います。猛将秀康を残さざるをえなかったのだと思います。家康としては、後顧の憂いがなければ初陣の秀忠より、歴戦の秀康を中仙道軍の司令官にしたかったのではないでしょうか?
これは私の想像ですが、もし信康が生きていれば、江戸の押さえは家康、東海道は信康、中山道は秀康、秀忠は見習として東海道をいったように思います。もし、江戸の押さえが信康なら、家康は東海道かもしれませんが。
2.家康の空手形。信夫等を政宗に与えるという空手形も、政宗を味方にしたいというように思います。そして、戦後政宗がこれ以上強大になっては困るということで空手形にしたように思います。
3.支倉使節団の遣欧も、貿易が出来て経済力をつけ、あわよくば天下が欲しいということのように思います。
4.瑞願寺はあれは城砦のように思います。私の住む金沢でもそうですが、忍者寺等の寺院は城砦です。金沢には、寺町や東山・小立野という金沢郊外に寺院群があります。これなども、出城として設けられたといいます。つまり、城を作るのをはばかられたので、大寺院を作ったと思います。
毛利元就も、戦国武将としてはベストテン位にははいると思いますが、「天下を望んではならない。」と言っていますので、あえてはずしましたがいかがでしょう。



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Toshyさん 投稿者:輔住  投稿日:10月10日(水)12時02分02秒

>自分は戦死してもせめて奥方は北条に帰したいという気持ちも働いたのかも
これは事実らしいです。
だが婦人は実家に帰ることを拒否して勝頼と共に死んでいます。

>「甲州」にこだわらず新天地で再起を図ったかもしれません。
史実で数ヵ月後に信長が死んでいるため、その可能性も想像してしまいます。



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