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不破の関 投稿者:太田守人 投稿日:11月
3日(土)15時55分01秒
といえば、壬申の乱ですよね。記紀には、富士山がまったく出てきませんが、万葉集には出てきます。富士山は、伊勢や紀州からも見えます。そこで、私は記紀の成立時代は、富士山はまだ大和の勢力圏外の山で、万葉集の頃に大和の勢力圏に入ったのではないかと思っています。
天武の大きな支持勢力は、尾張氏であったと思います。私は、天武は高向王と宝皇女(後の斉明)の間に生まれた、漢皇子でないかと思っています。記紀は、天武の発案で作成されたことになっていますが、その最大のパトロンが曖昧です。私は、高向王は蘇我入鹿のように思います。天武は、入鹿の子供ではなかったでしょうか?壬申の乱当時、関が原には不破の関がありました、私は、ここから東は、蝦夷の支配地のように思います。
関が原というのは、不破の関が語源になったと聞いたことがありますが、本当でしょうか。
きんたろうさん、これって関が原の掲示板の方が良かったでしょうか?
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Toshyさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
3日(土)14時30分56秒
鎌倉武士ではないですが、戦国時代合戦場に出た武士は、5000カロリーくらい取っていたと読んだことがあります。これから類推すると、相当食っていたのでしょうね。鎌倉武士は。おしゃるように、平家武士とは腕力も違っていたでしょう。平家が鎌倉と戦う時に、坂東出身の平家武士に、坂東武士とはどんなものだと、平家武士が聞いて、「親も討たれよ。子も討たれよ。(死骸を)乗り越え、乗り越え、戦うのが(坂東)武者なり。」と聞かされ、ゲッソリしたとありますが、腕力も強く、勇敢であれば敵わないと思います。頼朝が、京都の風に武士が染まるのを嫌っていた理由が分かります。彼自身も、小さい時に京の都にいたのでしょうから。
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腹が減っては… 投稿者:Toshy 投稿日:11月
3日(土)14時02分03秒
太田さん>
関東の武士は、何カロリーくらい食べていたんでしょう。
おそらく3500から4000くらいは、いってたと思いますが・・・・
すると1500カロリーでやせ細った京都人と、
たらふく食べて鍛錬を積んだ関東武士がまともな格闘できるわけないですね。
貴族では、刀を持ったり弓を引く腕にも力が入らなかったでしょう。
西国で義仲が大敗したのは、水に不慣れだっただけではなく、
西国武士がきちんとした食事をとって強い体を持っていたことにもあるのでしょう。
パニックを起こした一の谷・屋島は、平氏の御曹司たちが最初に逃亡したように思います。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
3日(土)13時56分22秒
今高坂さんのHPで、ダイダラボッチ(ダイダラボ)の民話が出ていました。最後は、茨城県のほうに行ったとか。茨城県でも、ダイダラボッチのような民話がありますか?ご存知なら教えてください。私は、ダイダラボッチは、縄文の神様で、蝦夷が大和朝廷に押され、北に移動したことを民話にしたように思います。
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Toshyさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
3日(土)12時33分01秒
当時の天皇を含め、貴族は、鯛など干物が主だったそうですね。まあ、京都は盆地ですから、海産物は、干物か塩物にする以外に、方法はなっかたでしょうが。更に、仏教の影響で肉類をあまり食べないらしいので、京都の大宮人は結構栄養失調だったんでしょうね。応仁の乱直後の、成人男子の1日のカロリーの摂取量というのを見た憶えがありますが、武士は別格としても、一般庶民が1日3,300カロリー平均に対し、貴族は1,500カロリー平均だったそうです。
平家の御曹司の貴族化も原因でしょうね。これに対し、源氏武士は、貴族のような禁忌が余りなかったでしょうから、粗食ながら、栄養をたっぷりとってたのでしょうね。干物と言うのは、栄養学的にも、体内にはいってから吸収が悪いということを聞いたことがあります。
徳川将軍も、朝食は365日キスの焼いたのと煮たのが書く3匹、いわしやさんまという青みの魚は駄目、果物も駄目と相当食べてはいけないものがあったといいます。落語の「目黒のさんま」のように、油が多いからと絞ったとかやっていれば、体にいいはずありません。
また、京都御所は台所から大極殿まで400メートル、江戸城では1キロ位あったそうですが、毒見等をしていれば、冷めてますますまずくなったでしょう。さすがに、江戸城には、将軍に出す前に、再度料理を温める部屋があったという話ですが、夏は刺身等は、なれていたでしょう。
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征夷大将軍 投稿者:高坂英吾 投稿日:11月
2日(金)22時31分07秒
つまり、征夷大将軍とは字の通り、東の野蛮人を倒す将軍で、アテルイや奥州藤原氏がそれにあたるわけですね。。
NHKの大河ドラマを見ていても感じますが、幕府は全盛期とも言える時宗の時代にすでに傾いていたように感じます。
御家人が幕府を守り立てるパターンから、御家人にすぎない北条独裁へ進んだからです。
北条氏は将軍家なきあと、一人勝ちでしたが、徳川家のような強さは最後まで持てなかったように思います。
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征夷大将軍 投稿者:Toshy 投稿日:11月
2日(金)16時27分47秒
「征夷大将軍=武家の棟梁」という考えは、頼朝の時代にはなかったのです。
そして「幕府」という言葉も、もともとは政治的な意味ではなく、
戦闘の場で武将に命令を出す司令室みたいなものでした。
やがて「将軍」が棟梁になり、「幕府」が政権の意味を持つわけです。
なぜ頼朝が征夷大将軍を求めたかというと、奥州藤原氏を倒す「大義名分」のためですね。
しかし「大天狗」と呼ばれた後白河法皇は頼朝の野望を見抜きその地位を与えませんでした。
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/
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富士川の戦い 投稿者:Toshy 投稿日:11月
2日(金)13時48分50秒
太田さん>
戦と食い物の話でしたら、もう一つおもしろい説がありますよ。
西国は貴族化したため、食べ物もやわらかいものが多かったそうです。白米中心。
一方で東国はまだ玄米が主食で、堅いものがほとんどでした。
いったい戦に何の関係があるかというと、「噛む」という動作です。
よく噛むことによってα波が出て冷静になるものですが、
ほとんど物を噛まない西国の食事ではβ波。
そのため富士川・一の谷・屋島などでパニックになり、
戦わずに逃亡したというものです。
ところで徳川将軍の骨格をある人が調べたら、
代を経るごとにあごが細くなっているのだそうです。
現代人にも通じることですが、
食べやすいものばかり食べていると骨格が退化してしまうことが、
過去の歴史からも解かるのですね〜
http://homepage2.nifty.com/snowwolf
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尊氏や家康にもいえますが 投稿者:輔住 投稿日:11月
2日(金)12時15分51秒
征夷大将軍になったときには実質的に幕府は
すでにできていますよね。
そういう意味で初代将軍は事後承諾みたいな
感じがします。
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合戦を体験しました! 投稿者:田中兵部 投稿日:11月
2日(金)09時13分58秒
初めまして!田中兵部と言います。僕は戦国時代にとても関心を持っており、周りにも歴
史好きが多く最近ではそのメンバーが考案した合戦スポーツを楽しんでいます。まさか現
代において、足軽として戦場を駆け巡ったり大将になり人を動かして合戦を体験できると
は思いませんでした!参加されている方も若い方から年輩の方までいるので雰囲気が出て
るんですよ。 こんな感じて゛戦国ファンであることは分かってもらえたでしょか?
戦国好きの皆様はこのようなスポーツどう思いますか!!
詳細を知りたい方
http://www80.tcup.com/8030/senjinbbs.htmlまで
http://www80.tcup.com/8030/senjinbbs.html
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富士川の合戦 投稿者:太田守人 投稿日:11月
2日(金)07時37分47秒
おもしろい説があります。この年、頼朝の東国だけが大豊作で、その他の地域は大凶作だったため、平家側は、飯を腹いっぱい食べれず、空腹をかかえて布陣していたといいます。空腹で、士気が低下していたところに、水鳥の羽音で、えらいっこちゃということで逃げ出したという説です。
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加賀一向一揆 投稿者:太田守人 投稿日:11月
2日(金)07時26分01秒
きんたろうさん、加賀一向一揆も、今のように族議員や圧力団体がいて、業界代表が、国政の運営にあったていたようです。今の政府・自民党あたりと余り変わらなかったようです。日本の民主主義(?)は、昔も今もあまり変わっていないようですね。
富樫の本拠地は、金沢市の隣にある野々市町で今は本町と言うところに富樫館跡という石碑があります。富樫の滅亡したところは、金沢市高尾というところにあった、高尾城(たこじょうといいます。)です。ここは、私の家から2キロ位の山の中にあります。
ただ、富樫は暴政を引いていたわけでもないようです。富樫は、越前に援軍を頼みますが、間に合わなかったようです。この当時、土民がまさか守護を倒すとは誰も思っていなかったようです。そこで、援軍ものんびり出したようです。
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高坂さん 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
2日(金)06時53分32秒
富士川の戦が1180年ですから実質的に鎌倉幕府(と言うべきか??)が成立したのはこの年だと思います。
もしこの初戦に頼朝が敗れていたらどうだろうか??...という点や平氏に対してこのように対立する兵を大量に集めて戦いを作ることが出来たという点などから見ても、この年を基準にした方が分かりやすいような気がしています。
それにしても時宗の孫の代であれほどあっけなく鎌倉幕府が滅んだのは残念な気持ちがしています。
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Toshyさん 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
2日(金)06時52分15秒
リンク先変更作業が終わりました^^
ものすごくすっきりしたトップページですよね。
コンパクトでとても良いと思います。
ちょっと写真の位置が変わりましたね、笑
御三家という言葉そののものが江戸時代中期において出てきたものであるという安部さんの意見は尤もだと思います。
少なくとも秀忠が征夷大将軍を継いだ時点ではあり得ませんでしたよね、笑
更には両大坂の陣で豊臣家を潰した頃も弟たちはまだ幼少でしたからあり得ないと思います。
紀州家の頼宣と水戸家の頼房は母親まで一緒の兄弟でしたから江戸時代の感覚で言えば頼房は「部屋住み」の身分ですよね、^^;;
11代将軍家斉といえば50年くらい将軍の座にいました。
半世紀もの長期間にわたって将軍だったというのは家斉だけだと思います。
これだけ丈夫な人ですから子供も40人以上いた記憶があります。
何しろ将軍様のお子さま達ですから各大名家に娘が嫁ぐのは当然としても男子の場合は無理矢理養子として押し込んだというところでしょうか??^^
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太田さん 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
2日(金)06時49分38秒
有り難うございました^^
確かに一向宗が支配した時代の加賀はとてもエネルギッシュな印象があります。
あれは国人一揆の超巨大なものであるように思えます。
あれほど長期にわたって広域を支配してきた例などは他の地域にはありませんので、きっと際だった特徴があるのだろうと思っています。
>光圀は何故この圀の字を使ったのでしょうか?
さすがに詳しいですね^^
確かに太田さんの言われるように「圀」の字はあまり良い意味(印象)を持っていませんよね。
元々は光國という漢字が使われていました。
しかし「國」という漢字が自分の諱あるのはおそれ多いという理由で自ら改名したとのことです。
(改名とまで言えるのかは??)
>神田で地回りに喧嘩を売り、徹底的に叩きのめされてから、学問に力をいれるようになったと聞いた事がありますが、
光圀は18歳(くらい)の時に史記を読んで感動した事がその後の生き方を決定づけたといわれています。
特に「伯夷・叔斉」のところに感動したようです。
これをそのまま自分の子供と兄の子供に実践させている程ですから間違いはないと思います。
なお、綱吉との確執も跡継ぎをどうするかという点の意見の相違が原因だったと見られています。
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富み散々使い果たした鎌倉幕府 投稿者:高坂英吾
投稿日:11月 2日(金)02時24分43秒
と教わったのを思い出しました。
何だか悲惨な末路ですね。(^_^;
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水戸といえば 投稿者:太田守人 投稿日:11月
2日(金)01時06分56秒
水戸黄門。水戸黄門の本名徳川光圀の圀は、則天文字で中国唯一人の女帝武則天が作った文字です。私は、この武則天という女性は、中国歴代皇帝の中でも、名君だったと思っています。
ただ、儒教(特に朱子学)では女性ということで、武則天を蛇蠍のごとく嫌っています。中国歴代王朝もそうでした。でも、光圀は何故この圀の字を使ったのでしょうか?あんな学問好きな殿様ですから、知らなかったということはないと思いますが・・・。でも、光圀は18まで不良で、神田で地回りに喧嘩を売り、徹底的に叩きのめされてから、学問に力をいれるようになったと聞いた事がありますが、きんたろうさんご存知ありませんか?
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宋の太祖 投稿者:太田守人 投稿日:11月
1日(木)22時50分30秒
高坂さんの投稿で、宋の太祖を思い出しました。それまで,力を持っていた節度使をお飾りの名誉職したのが、宋の太祖です。彼は、臣下が反対すると、その臣下に直接出向いて説得したそうです。そうすると、その臣下も「皇帝に頭下げられちゃ仕方ないか。」ということで、同意したことが多かったそうです。このやり方で、軍人にとって一番おいしい節度使を、実益の伴わない名誉職にし、退役寸前に与える位にしました。かっての日本軍は、将校や士官は、大過なく過ごせば、大佐で定年になったそうですが、節度使をこの大佐と同じようにしました。
宋は軍事国家というより、文治国家です。宋には、鉄牌の遺訓というものがあり、新しい皇帝が即位するとその前に立ち、必ず守ることを誓わされたそうです。
ただ、この遺訓がどういうものかは謎でしたが、金が宋の首都開封を落とし、皇城になだれ込んだ時、2条からなっていたそうです。それは、禅譲をしてくれた、柴氏を皇族として大切にしろということと、意見が違うからと言って人を死刑にしてはならない。ということだったそうです。
宋は、中国歴代王朝では、軍人の社会的地位が非常に低い国でした。これが、宋滅亡の原因になったとも言います。
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いい国作ろう鎌倉幕府 投稿者:高坂英吾 投稿日:11月
1日(木)22時29分49秒
いい国は何年に出来たんだろう。。。
「鎌倉幕府」という言葉はいつからあるんだろう。。。
1192年は征夷大将軍になった年で、幕府を作った年ではないですよね。
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家斉の子供 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月
1日(木)16時06分33秒
敦之助(清水徳川家へ)
鎮子(尾張藩十代藩主 徳川斉朝室)
家慶
美子(水戸藩八代藩主 徳川斉脩室)・・・水戸にも入っていましたね、
斉順(紀伊)
斉荘(尾張)
操子(毛利斉広室
達子(松平斉承室)
幸子(松平容衆室) 多分会津だと思います
結子(松平頼胤室
斉彊(紀伊)
斉明(清水)
国子(鍋島斉正室)
都子(酒井忠学室)
池田斉衆
松平斉良
蜂須賀斉裕
偕子(前田斉泰室)
貴子(浅野斉粛室)
賢子(一橋徳川家五代当主 徳川斉位室)
斉温(尾張)
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江戸時代の年貢は、 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月
1日(木)15時51分30秒
一番最初の頃の検地の石高にかけていましたから、経営拡大に成功した人にとってはものすごく安かったそうです。渋沢栄一は、「うちは商品作物を植えてもうけていたので、税金は総収入の0.5%に過ぎなかった」と言っています。
紀勢線に乗った感想では、あんな土地で60万石と言うのはちょっと信じられなかったですね。
将軍家、尾張、紀伊で御三家とする見方は、江戸時代の中頃に出てきます。
水戸は尾張と紀伊よりも官位が一ランク下でした。
尾張,紀伊、越前その他の大大名は江戸時代の後半にはほとんど徳川家斉の子供かその子孫が養子に入ってしまうのですが、水戸だけはなぜだか他家から血を入れていません。これも関係あるかもしれませんね。
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アドレス変更 投稿者:Toshy 投稿日:11月
1日(木)14時41分13秒
「芥川龍之介」「津太夫の世界一周」をとりあげている我がページのアドレスが変わります。
リンクしている皆様、お手数ですがなおしておいてください(^^)
太田さんきんたろうさん>
まさか、本当にアテルイの子孫のわけはないですよ(わら
でも、そうだといいですね。
あまり知られていないかもしれませんが、過去に「東北の歴史」という小学生向けの漫画で、坂上田村麻呂のことが問題になったことがあります。
ナレーター(?)の少年が、田村麻呂の登場を喜んでいる絵に対して、東北人の目から見ると侵略されたわけだから、「東北の歴史」が何で中央の立場でかかれないといかんのか、という訳ですね。
太田さんのおっしゃるとおり、アテルイという人を我々東北人はもっと取り上げていくべきと思います。
わしの親戚の地方郷土史作家は、アテルイ、安部頼時など蝦夷の大酋長を題材に作品を書いていました。
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/
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(無題) 投稿者:太田守人 投稿日:11月 1日(木)13時10分55秒
Toshyさん、アテルイのご子孫とは凄いですね。アテルイは郷土独立の立役者でありながら、なんで、悪路王とか鬼とか言われるんでしょうか。一関あたりに、アテルイ饅頭とかアテルイ最中、アテルイ煎餅なんてものがあってもいいように思います。(俗な発想で恐縮です。)
一関あたりの地元で、アテルイをもっと顕彰しても良いと思います。アテルイは、明治維新の志士以上の人物だったと思います。
私の高校の頃は、坂上田村麻呂はありましたが、アテルイは日本史の教科書にもありませんでした。
きんたろうさん、腹の切り方を忘れた加賀藩士という言葉があります。加賀藩士、特に上級武士は責任を取ろうとしない風潮がありました。今でも、石川県人には、自分の考えをはっきり持ち、ものを言う人を嫌う傾向があります。私は、このような、風潮を植え付けたのが、前田の治世化であったと思います。石川県は、全般的に長いものにはまかれろ。という風土です。この辺りが、前田時代が気にくわない大きな理由です。
一向一揆の、あの独立独歩の風潮はどこにいったのだろうと思います。
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紀州藩 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
1日(木)00時00分03秒
といえば水戸藩の本家の様なものなのですね。
でも誰もそんなことを言っていませんが何故なのでしょうか??笑
そう言えばずっと前に井沢先生のところで御三家について誰かが書いていた事を思い出しました。
それらの意見の中で御三家とは元々は将軍家と尾張家と紀州家であるとありました。
これは尤もな意見の様に聞こえますが、本当にそうだったのでしょうか??
秀忠にしてみたら同じ兄弟と言っても弟達とは親子ほども年が離れているわけですからとても彼らと同格と思ったことは無かったように思うのですが??...
その時(多分??)忠長とか五代将軍誕生時に関わる甲府徳川の子孫が残っていれば水戸家よりも格上であるなどと言っていました。
でもこれは全く論理的ではない意見のように思った記憶があります。
頼房は「神君家康公の子供」であるが故に徳川幕府が支配する世界の中で最上位クラスにランク付けされるのです。
秀忠の次男が家康の11男よりも上位に来るはずたという発想は何処かずれているように思った記憶がありました、笑
安部さん、それにしても紀州藩は確かにえげつないですね^^;;
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Toshyさん 投稿者:きんたろう 投稿日:10月31日(水)23時54分00秒
アテルイとはかなり古いですねv(^o^)
この時代だとわが家の歴史よりも400年も古い事になります。
アテルイとは「あっ、照井さん、笑」と呼んでいたものを聞き間違った事に由来するなんて事はありませんよね、すみません、自爆^^;;
それにしても「テル」という言葉からは「アマテラス」同様の太陽の光を連想させられますよね。
これは単なる偶然なのでしょうか??
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いい国作ろう鎌倉幕府 投稿者:きんたろう
投稿日:10月31日(水)23時50分47秒
懐かしいですね^^
前田利家といえば来年の大河ドラマの主役のようですね??
きっと来年の金沢は大変な賑わいになるように思います。
前田利家は信長の母衣武者出身者であるというよりは信長が腕白坊主だった時代からの子分のようなものですよね??
私は信長の専制体制の根本は子供時代にやっていたものを大人になってから拡大させていったもののように思っています。
一言で言えばゴリラがマウンテンによってボスとなるように信長もまた同じ様な感じでボスとして彼ら=織田軍団の上に君臨していたのではないでしょうか??
これは利家が晩年になっても信長に抱かれた事を誇らしげに語っていたことから連想したものです。
利家といえば戦国時代でも最大級に出世をした人物です。
その彼がこのように信長の絶対的な力の前に組み敷かれた事をこれほど慕っていた事から考えると、その他の武将達も同様の思いを信長に対して抱いていたのではないでしょうか??
>私は、加賀の一向一揆の時代は好きですが、前田の時代は大嫌いです。
大田さん、どうしてなのですか??^^
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年貢 投稿者:太田守人 投稿日:10月31日(水)19時35分40秒
紀州藩は、最後は8公2民だったか、ものすごい酷税だったと聞いた事があります。安部さんのおっしゃるように、全国に出かけていってまで徴税したとはすごいですね。
天領は、幕末まで4公6民だったそうで、石川県内でも、加賀藩の領地よりかっての天領の方が、家も大きく豊かだったといいます。
幕末には、各藩は5公5民か6公4民だったと聞いた事があります。
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侍といっても 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月31日(水)16時54分00秒
武芸ばかりやっていたのではないそうですね。
大半は生活が苦しくて,内職をやっていたそうで,日本中の城下町に残る伝統工芸の中には,下級武士の内職が起源というのが多かったと記憶しています。おもちゃなんかよく作っていたそうですね。それ以外にも多分漆器とか陶器の作業を分担していた人もいたでしょう。江戸時代の工芸品の製作は分業がとても進んでいましたから。
ちょっと上のほうの武士になると,太田さんがおっしゃるように,芸を身に付けるのが必要不可欠だったようです。まあ,中には唄のお師匠さんとか,お師匠さんの娘目当ての人もいたそうですが・・・
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紀州藩はえげつない(笑) 投稿者:安部奈亮
投稿日:10月31日(水)16時43分05秒
江戸時代に紀州の漁師というのは,先進的な技術を持っていて,いろいろと新しい漁法を解決して,日本中の沿岸で漁をしていました。オーストラリアまで行って漁をしてた記録があります。オーストラリアに,日本の猟師が江戸時代に立てた碑というのが残っているそうです。
しかしもっとすごいのが紀州藩で,日本全国に出かけていって彼らから税金を取り立てていたというからすごい!なんと津軽まで紀州藩のマルサ?が出向いていったそうです。
それに嫌気がさして,紀州藩の漁師はそのうち漁に出かけていったままその土地に土着してしまうようになり,江戸時代の後半は紀州の漁業はあまり振るわなくなります。その代わり日本中に先進的な漁法が広がりました。
小笠原諸島の漁師さんが,「戦前はグアムやサイパンまで魚を売りに行った」とテレビで話していたのを見たことがあります。言われてみればすぐ隣だったし,戦前はあそこら辺は日本だったんですよね(グアムは違うけど)。
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お寺は大地主 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月31日(水)16時34分58秒
地元の人に聞いたのですが,京都の土地の3分の1は今でもお寺の持ち物だそうです。
大体お寺というのは,今よりも広い境内を持っていたものですが,京都では明治以降その土地を貸しに出したそうです。
京都では,お寺というのは労働団体とか医師会と同じような強力な圧力団体で事あるごとに市政に口を出してくるのですが,それは観光のためだけではなく,大地主だからなんでしょうね本当は。
お寺以外の地主も,元をたどるとお寺の雑務をやっていた家系で,地租改正や農地解放のときにお寺の隅に作っていた畑が自分のものになって地主になった,という家が多いそうです。
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我が家は 投稿者:Toshy 投稿日:10月31日(水)13時56分17秒
アテルイの子孫です。なんといっても、実家の姓が照井なので。
うちの親が勝手に上のように決めてるのは、よく解かる。(わら
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でもきんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:10月31日(水)12時20分06秒
にはかないません。800年前といったら、頼朝がいい国作ろう(入試で憶えさせられました。なつかしいー。)で鎌倉幕府を開いた年のころでしょう。こんな時代まで、遡れる家なんてあまりないじゃないんでしょうか?
私の家は、60石の加賀藩士でしたが、その先は、戦国時代の一旗組みだったのでしょう。加賀藩士は、長男には飯を食えなくても、茶道、俳句、謡は教えたそうです。この3点セットがないと藩士仲間から爪弾きにされたといいます。私も、長男なので、小さい時に親父にぶん殴られて教えられました。
今でもなんでこんな所に生まれたんだろうと思います。私は、加賀の一向一揆の時代は好きですが、前田の時代は大嫌いです。
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はは^^;; 投稿者:きんたろう 投稿日:10月30日(火)22時47分14秒
太田さんの家系は加賀藩の武士だったのですか!!
それはすごいですね^^
私のところでは江戸時代は百姓をしていたのは間違いがないようです、笑
わが家の言い伝えによると(笑)およそ800年くらい前に現在の場所に定住したようです??
私と同じ苗字を持つ人達は茨城の海沿いに多く分布していますので遙か昔に遡れば血縁関係を持った一族だったのかもしれないと思ったりしています。
でも私の住んでいる場所は海より少し離れていますからきっと数多くいたであろう兄弟の中でも末の方だった様な気がしていますが...自爆^^;;
要するにいい場所を相続出来なかった??笑
動力を持たない船の場合の方が遙かに自然の影響を受けて航海をするわけですから自然の様子に対しては古代人の方が現代人とは比べられないほど細心の注意を持って接していたのではないでしょうか??
それにしても海の航海は私達が想像する以上に過酷だったように思っています。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:10月30日(火)17時19分32秒
ありがとうございました。これで、心置きなくここに書き込みができますので、またよろしくお願いします。きんたろうさんのご先祖は、淡路からいらっしゃったのですか。でも、そんな伝説をお持ちとは・・・。私の家など、江戸時代は加賀藩の下級武士だったようですが、その先はなにをしていたものか。でも、私も勝浦や白浜が、紀州と安房にあることに昔交通があったのではと思っていました。安房と阿波も音が同じですね。本家と分家がもしあるとすれば、紀州の勝浦・白浜が本家かもしれませんね。こっちは、熊野古道や日本書紀にも出てきますから。
ただ、黒潮本流に乗るのは、未熟な航海技術では難しいと思います。今、航海訓練で帆船が見直されているそうです。動力船の練習船では、速成には効果があるが、昔の船乗りのように、潮や風と相談しながらという技術がなく、なお海難事故が増えたそうです。
矢張り黒潮本流に乗っていったとしたら、相当しなやかな航海技術を持っていたのでしょうね。古代人は。反対に,親潮に乗ってくる方が楽だと思います。秋刀魚は親潮に乗り、紀州沖で迄来て産卵するそうです。ただ、古代史を考えると、古代の安曇や安倍氏という航海氏族は、相当海流等に習熟していたのでしょうね。
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太田さん 投稿者:きんたろう 投稿日:10月29日(月)22時32分02秒
ここのログを読んでいただければ分かると思うのですが、掲示板が一気に増えてしまった理由とは私の早とちりに原因があります。
HPを移動するとこの掲示板は消えてしまうものだと思いこんでいたのです、自爆^^;;
ところがそれは私の一方的な誤解だったのでした。
いずれにしても作ってしまった物は有効利用しようと思いましたv(^o^)
関ヶ原については「16世紀のページ」でタイトルだけのままになっていますが色々と参考にしていずれアップしようと考えています。
太田さんの意見も十分参考にさせてもらいますのでよろしくお願いします^^
高坂さんのページを見て来ました。
去年「逆襲のオオクニヌシ(真説!!出雲の新羅経営)」というタイトルのものを軽い気持ちで書いていました。
絶対的に史料が足りないためにかなりの誤差があると思うのですが読んでみてくださいね。
交易とはキャッチボールの様にお互いがあってするものですから、出雲から朝鮮半島へ行く訳がないという理屈は成り立たないように思っています。
また、朝鮮半島は日本よりも小国(と呼べるのかは??)が割拠していましたよね。
その様な中で朝鮮半島三国の中で弱小勢力の一つだった新羅が強大になっていくにはそれなりの理由があるはずだと思うのです。
私はその理由の一つに国譲りに敗れた出雲からの遺民が大量に海を渡ったのではないかと思っています。
出雲は信州へと流れただけではないように思っているのです。
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安部さん 投稿者:きんたろう 投稿日:10月29日(月)22時23分04秒
パレスチナ問題を解決するには「刀狩り」を行わなければ無理かもしれませんね??
でもこの場合は「刀狩り」に従うかという別次元の問題が発生します。
民主主義は衆愚政治に陥りやすい欠点(というよりも自由さと言うべきかも??)があります。
これはいかにシステムが素晴らしいものであったとしてもそれを運営していく人物、あるいは国民次第でどのようにも変質する可能性があるという事だと思います。
>徳川家康は「律義者」という評判を取っていました。それが彼の周りに人が流れていった最大の理由ではないかと思います。
その通りだと思います。
何しろ彼は信長を20年間にわたって一度も裏切らなかったという実績を持っていました。
秀吉もこれを身近で見知っていたからこそ、家康の戦闘的実力を十分に認識していながらも自らの陣中に取り込める、あるいは取り込みたい特筆すべき人物であると判断したのではないでしょうか??
もし家康に対して「危険人物」という判断を下したならば秀吉はあのように対処する事は無かったように思っています。
例えば関東への移封にしてもそうだと思います。
二人を比べてより強大な勢力とは誰が見ても秀吉側なのですから「家康を恐れて関東へ移した」という理屈はこれ自体が矛盾した日本語になってしまうのです。
関東へ移ることにより秀吉の強大な勢力の圧力から少しでも離れる事が出来てホッとしたのは家康の方であるはずです。
勿論新たな領地を統治するための障害になるであろう旧勢力の問題などは考えられますが、秀吉との対決を考えれば遙かに易しいものであるという認識だったのではないでしょうか??
まして関東に移るだけで100万石もの領地が増えるのですから...
これは約7割近い増加を意味していますから正に「棚からぼた餅」そのものであると思ったのではないでしょうか??
これほど家康に対して無防備と思える行動をあれほどすごい秀吉がしているその根本理由とは信長に対する家康の20年間の実績にあるとしか考えられないのです。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:10月29日(月)12時46分52秒
こんにちは。久しぶりに開いたら、掲示板が3つも出来ていて驚いてます。そのうち一つは、関が原専用とは。
さっき高坂さんのところにお邪魔したら、出雲が朝鮮南部にまで進出していたと書いてありました。任那の日本府は、古代朝鮮にあった倭人のテリトリーだと考えていましたが、朝鮮半島から出雲や九州に倭人が来ていたのではと私は考えていました。もし、出雲から朝鮮半島に出雲人が渡っていたら、出雲とは当時の日本においては、他国とは比べ物にならない超大国だったのでしょうね。私個人としては、倭国大乱の一因は、出雲の国引き神話にあるように、出雲の拡張政策にあったように思いますが、いかがでしょうか。
でも、この投稿ここでよろしいのでしょうか?
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パレスチナの歴史を見ると 投稿者:安部奈亮
投稿日:10月29日(月)12時15分48秒
宗教に対して淡白な勢力が占領しているときに安定するようです。
ローマ帝国とか,サラディンとか,オスマン・トルコとか
ただしそれども50年に1回くらい大爆発がありますが,上の勢力はそれを鎮圧できる圧倒的な力を持っていました。
いっそのことアメリカがパレスチナを領有してしまえば解決しそうな気もしますが,無理でしょうね。
戦国大名がどうやって発生したかを考えていくと結局「公平な裁定者」だったということに尽きるらしいです。
「今川様のところに話を持っていけばまず間違いがない」「毛利元就は話のわかる男だ」
室町時代にすべての規範が崩壊した後に人と人をつなぐことができたのは,こういった信頼感だけだったらしいです。
もう一つ重要なのは,無法者が現れたときに,それをやめさせる力をもっているかどうかです。
ですから,なにもないところから戦国大名になることはできず,前時代からの価値観を体現していて,力を持っていた守護代や土豪のリーダーでなければ戦国大名になることはできなかった。
徳川家康は「律義者」という評判を取っていました。それが彼の周りに人が流れていった最大の理由ではないかと思います。
織田信長なんかは,旧時代の勢力や大名にとっては「約束を守らない信用できない男」だったのかもしれませんが,新時代を担うべき庶民にとってはむしろ「信用できる人」だったのかもしれないな,などと思っています。
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推敲、笑 投稿者:きんたろう 投稿日:10月28日(日)22時08分56秒
表示に対するレスポンスについては今のところはまだ作ったばかりなので書き込み件数が少ないために問題はありません。
でもいずれ150件近い書き込みになった時にもし全体を1ページで表示するのであれば時間がずいぶんかかるのではないかと思ったのです。
これではちょっとまずいかなと思ったのです。
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Sinさん 投稿者:きんたろう 投稿日:10月28日(日)22時04分06秒
がいわれるような掲示板も掲示板MKUを提供しているサイトにはあるようです??
確かにこの場合はかなり複雑な構造になっているようですね。
ツリー式でありながらレス表示をして、更にレスアップをするとなると使っている方でも何だか分からなくなりそうですよね^^;;
もし、孫レスをしたいときはお手数でも親記事をコピーして作り直してくださいね、笑
Cafeおねーさん、こんぱんは^^
久しぶりです、元気でしたか??
>どっか条件が合わないんだよねー(^_^;).
確かに自分にジャスト・フィットするタイプを見つけるのは難しいですよね(^^ゞ
実は今日フレッシュアイから掲示板のご案内メールが届きました。
こちらもレス式でその上ログ保存が無限だということです。
心惹かれてしまいますよね、自爆^^
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おひさしぶりです 投稿者:Cafeおねーさん 投稿日:10月28日(日)13時05分58秒
きんたろうさん、おひさです〜♪
軽く新しくなった掲示板はここ?・・・ではないですよね。ここは以前からのものだよね。
掲示板って、ホント色々あるよね。でもそのなかなかお気に入りを探すのって結構
大変だったりする。どっか条件が合わないんだよねー(^_^;).
http://www.d1.dion.ne.jp/~forburg/
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掲示板MKUについて 投稿者:Sin 投稿日:10月28日(日)02時04分44秒
親記事に対するレスはできるのですが、孫レスまではできないみたいですね。
孫レスまでできるとツリー巨大化の原因にはなりますがね(笑)
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どうも 投稿者:きんたろう 投稿日:10月28日(日)00時48分49秒
掲示板MKUの表示について誤解していたようです。
ログ保存件数が150件までという事は書いてあったのですが1ページに何処まで表示するのかという点については全く触れていませんでした。
それで今はまだ作ったばかりなので書き込み件数が少ないために問題はないのですが、いずれ150件近い書き込みになった時には表示する時間がずいぶんかかるのではないかと思ったのです。
でもMKUも親記事が10件までの表示である事が分かりました。
そうなるとMKVと変わらない様な気もしますが...
MKVの場合はログ保存が無限という点が大きく違っていますが普段使うところでは差を感じなくなりました。
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紋次郎さん 投稿者:きんたろう 投稿日:10月26日(金)19時16分14秒
久しぶりですね^^
見て来ました。
相変わらず精力的に活動されているようですねv(^o^)
>「ニニギ」はインド・カナンダ語で「陽のひかり」
カナンダ語とはインドに数多くある言葉の一つなのでしょうか??
ひょっとしたら古代において「バベルの塔崩壊」の逸話の基になる事実が有ったのでしょうか??
太陽をイメージする言葉が多いのは自然の恵みに感謝する気持ちを表したものなのでしょうか??^^
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:v(^o^)d@f@y1 投稿者:きんたろう
投稿日:10月26日(金)19時14分57秒
つかささんもティーカップを使っていたのですが??(^o^)
レス機能があるのは確かに便利ですよね。
私も同じように思っていました。
でもティーカップのような基本的な掲示板の方が長文を書き込む場合には適しているのかも??と思ってもいます、笑
ここではある程度の分量の書き込みが主体になっていますからv(^o^)
何はともかく、こちらの掲示板も残すことが出来る事が分かったので嬉しく思っています。
とりあえずこちらでは一般的な話題にしようかなと思っています。
要するに何でもありという事ですね、笑
「仮面の忍者・赤影」はあまり面白くなかったとの情報が入ったために二の足を踏んでいるところです、笑
>人形劇で「伊賀の影丸」をやっていたのを知っていますか?
残念ながら知りませんでした。
すみません(^^ゞ
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安部さんの 投稿者:きんたろう 投稿日:10月26日(金)19時11分49秒
「私見・パレスチナ問題について」
読んでみて尤もな意見だと思いました。
「人はパンのみに生きるに非ず」とは古い格言として有名ですよね。
これは正しい論理だと思っています。
つまり「人はパンがなければ生きられない」という真理を逆説的に語っているからです。
さらには「衣食足りて礼節を知る」という諺もありましたよね。
現実社会の中では相手との妥協などをお互いに探り合って解決策を模索していく訳ですが、頭の中だけで組み立てられた理論の場合には生活臭が初めから欠如していますからどうしても安部さんの言われるように「教条的になる」のだろうと思います。
パレスチナ問題とは生きるか死ぬかという生存権を賭けた戦いに自らを置いているかのように感じられてしまいます。
でも80カ国以上の一般の市民を殺して自分たちの主張を通すことを正義と呼ぶのは絶対に間違っていると思っています。
彼らは人類のガン細胞のようなものだと思えて仕方がありません。
イスラム教は決してあのような原理主義的ものではないのはこの宗教が世界宗教になったという歴史的事実がはっきりと物語っていると思っています。
あの人達はイスラム教の名を借りたテロリストに過ぎないというのが本当の姿だと思っています。
オウムのようにあんな奴らが敬虔な「仏教徒」であるわけがないのと同じ事です。
それにしても「聖戦」という言葉どうしてあれほど弱いのか不思議な気がしています。
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ニニギのみことの語源が割れましたヨ 投稿者: 焼尻紋次郎
投稿日:10月26日(金)14時00分09秒
ミナシャーン、やっとかめ(名古屋弁; 久しぶり)なも。 気まぐれ風来坊の紋ちゃんだがネ。
ここでいいのかな? わらじィ脱ぐのは……。あちこち通路ができておめでとさん。
古い文献に出てくる神様の名前の意味などがイモヅル式に解明できる方法がみつかったみたいです。
とりあえず「ニニギ」はインド・カナンダ語で「陽のひかり」。
それを、そう言える方法論が固まりつつあるワケ……ですじゃ。
言語で古代開発、日進月歩ぞな http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi
ちょっと裾まくりして読んでちょ なも。
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霧の小次郎です 投稿者:つかさ 投稿日:10月26日(金)01時14分46秒
ギヤマンの鐘、金目教(であっているか?)
赤影とは、懐かしいですね。
他に、人形劇で「伊賀の影丸」をやっていたのを知っていますか?
たしか田辺一角さんが、語りをやっていたと思うのですが。
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こんばんは 投稿者:つかさ 投稿日:10月26日(金)00時14分33秒
こんばんは、きんたろうさん。
いきなり、掲示板が増えていて、驚き桃の木です。
まるで、戦国春秋の世ですな。五胡十六国というか…。
(かろうじて思い出せる歴史用語を使ってみたりする)
当方は、レス機能が使えないのがつらくて、TeaCup
から別の所に変えてしまいました。
(レス機能があると、ぱっと見てわかりやすいので)
どんな風に使っていくかで、好みが別れるようです、TeaCupは。
ところで、こちらの掲示板は、今後どのような用途になるのでしょうね??
http://www5.justnet.ne.jp/~tsukasa_f
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ははは^^;; 投稿者:きんたろう 投稿日:10月25日(木)21時58分42秒
魔異夢さん、実は本人がこれをどうしようと迷っている最中です、笑
それにしても新しく掲示板を作ろうとして調べてみたのですが、その種類があまりにも多いのには驚きましたよ。
背景色がこれだと見やすいでしょう^^
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やほう^^ 投稿者:魔異夢 投稿日:10月25日(木)13時47分08秒
たくさんのサロンに枝分かれして、ますます歴史話が白熱しそうですね。。。
私は、うろうろした結果、ここにきちゃいました^^
お久しぶりのきんたろうさん!水色で統一してあるところがまたいいねーーー
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なんと!!^^ 投稿者:きんたろう 投稿日:10月24日(水)22時39分42秒
そうなのですか!!
高坂さん、ありがとうございましたv(^o^)
ティーカップもなかなかやりますね。
私も裏掲示板として使いたいです。
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ティーカップ掲示板 投稿者:高坂英吾 投稿日:10月24日(水)22時18分50秒
きっと削除されないと思います。
私が最初に作った時のティーカップ掲示板が、何と現在もちゃんと残されているんです。
最後の書き込みは昨年の5月です。
それ以来1年半近くほったらかしなのに、まだ生き残っているのを今日知って驚いたところでした。
↓これがそうです。 (歴史裏掲示板として使おうかな?)(^_^)
http://www60.tcup.com/6006/minstrel.html
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またまた 投稿者:きんたろう 投稿日:10月24日(水)22時06分22秒
新しい掲示板を作ってしまいました^^;;
やはり新しい掲示板にする場合はどうしようかと悩みますよね、笑
現在使っているティーカップ掲示板はネットいばらきのHPスペースが無くなった場合どうなってしまうのかよく分からないのです。
ひょっとしたら掲示板そのものが削除されてしまうのかもしれないと思っています。
この掲示板はこれまでずっと使ってきましたから自分としてはものすごく愛着を感じています。
ティーカップで新しい掲示板を作れば良いような気もしますが...
愛着を持っているのは現在使っているこのシーケンス番号の掲示板なのです。
これはきっと久さんが以前書かれていた感情と同じ様なものだと思っていますv(^o^)
ところで、今日作ったものは昨日作った掲示板とほとんど同じ程度の能力があります。(と思います)
でもログの保管が無限であるという点は圧倒的にこちらの方が優れているように思っています。
その上、iモードなどにも対応しています。
スレッドも1ページに15件までの表示ですから表示時間も一定していると思っています。
ちなみにこちらの方も最新レスに反応して書き込みが上に上がるタイプです。
このような訳で「掲示板MKV」をメインで使っていこうと思いますのでよろしくお願いします
もし使ってみて動きがあまりにも遅いような場合には考え直そうと思っていますが...笑
「掲示板MKU」はこの掲示板が使えないときの非常用に使おうと思っています。
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新装開店 投稿者:雪狼 投稿日:10月24日(水)13時45分06秒
おめでとうございます。
そっちにも書き込みに行きます(^^)
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掲示板 投稿者:きんたろう 投稿日:10月24日(水)02時27分37秒
HPの引っ越しに伴って掲示板も新しくしてみようかなと思っています^^
というわけでとりあえず下記のアドレスに一つ作ってみました。
トップページからも飛べるようにしました。
それにしても、ものすごい数の掲示板があるのには驚きました^^;;
あれではどれを選んだらいいのか迷ってしまいます、笑
実は先ほど気が付いたのですが今度のタイプは全部の書き込みを一ページに表示するタイプらしいのです。
これだとそのうちに表示するだけで時間ばかりかかってしまうのではないかと思ったりしています。
http://www.benricgi.com/bbs/fast/fast.cgi?id=kintaro&subdir=b
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大老を 投稿者:Sin 投稿日:10月24日(水)01時52分41秒
豊臣家の行政組織としてとらえるのは無理があると思います。
織田家の一家臣だった時代の羽柴家において内政担当官として
考えてもよいのは秀長だけだと私は思います。これは羽柴が豊臣
となった後でも基本的には変わっていなかったと私は考えています。
この秀長の状態を表現するには「家宰」というのがふさわしいと思います。
豊臣家が徳川家のように有力諸侯の参加を許さない行政組織を作れるとしたら
秀長以外の誰をもってしても役不足だったと思います。
ただ、三成ならばそれまでの行政面での功績から見て、秀吉の後見があるという
条件付きで可能だったとは思います。しかし、秀吉という人はそのような組織作り
という作業に向いていなかったのではないかと私は思います。
その結果として有力諸侯を「大老」という名目で政権内部に迎え入れて、
大老同士が牽制し合うことで豊臣家の存続を図るというのが秀吉の策
だったと私は思っています。
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私見 パレスチナ問題 投稿者:安部奈亮 投稿日:10月23日(火)16時19分17秒
学会とサークルの仕事で忙しくてご無沙汰していました。
今まで私達はパレスチナ問題をユダヤ教とイスラム教の宗教の問題だと信じてきました。しかしそれは違ったのです。
1947年の国連パレスチナ分割案によると,
ユダヤ人口 アラブ人口 人口合計
ユダヤ国 498,000 497,000 995,000
アラブ国 10,000 725,000 735,000
イェルサレム 100,000 105,000 205,000
(国際都市)
合計 608,000 1,327,000 1,935,000
このようになっています。
パレスチナには,1920年代以降,ヨーロッパから迫害を逃れて多くのユダヤ人が難民となって押し寄せていました。1940年代以前の資料はありませんが,1940〜1060年のイスラエルへの人口流入(ほとんどがヨーロッパからのユダヤ人移民)を見てみると,
1940〜1947 12万人
1948(イスラエル建国) 10万人
1949 24万人
1950 17万人
1951 17万人
1952 〜1960 29万人
合計 約110万人
1947年に,人口100万人であった国に,20年間で100万人入ってきたのです。何も起こらないはずがありません。
そして1987年時点でのパレスチナ難民の人数が220万人です。
つまり,イスラエルはヨーロッパからのユダヤ人難民を100万人以上抱えてしまい,彼等の処置に今なお困っているのです。
難民が来たら何が困るか?住ませる場所がありません。彼らは多分もとからいたパレスチナ人を追い出し住んだのでしょう。
次に何が困るか?仕事がありません。彼らはパレスチナ人の仕事を奪ったでしょう。ユダヤ人としては同胞を守らざるを得ませんから,住居も仕事もユダヤ人に優先的に与えたでしょう。その結果,玉突きのようにパレスチナ人は住む場所と仕事を失って難民となった。
イスラエルは,アラブとの戦争で周辺地域を占領しました。はじめは国防のためだったのでしょうが,そのうちにユダヤ人難民の入植地になってしまって今更撤退できなくなったのでしょう。
それに,もとからパレスチナにいたユダヤ人と違って,ヨーロッパから流れてきたユダヤ人はアラブ人との上手な付き合い方を知らなかったので,余計な衝突はさらに増えたことでしょう。
イスラエルは,ヨーロッパからの難民を抱えていて,そのため絶えず不安定な国に成ってしまったのではないでしょうか?地元にいる人間よりも,遠くにいる人間の方が宗教的に教条的になることは良くあることです。仕事も住む場所もろくにないユダヤ人難民は,宗教をより所にして,国家に対する不満を晴らしているのでしょう。それに難民と言うのはマフィアを作りますから,ヨーロッパからの難民がイスラエルの裏社会を取り仕切っていたりするのではないでしょうか?
パレスチナ問題は宗教問題ではないのです。ヨーロッパからのユダヤ人難民と,そのせいで追い出されたパレスチナの難民をどう食べさせるかの問題だったのでした!(多分)。
アメリカがイスラエルに援助をしているのは,その援助で仕事を作って,ユダヤ人難民を食べさせるためでしょう。アメリカの援助がなくなれば,イスラエル人のうち200万人くらいが仕事を失ってしまい,イスラエルと言う国は一気に消滅してしまうと考えられます。
しかし,イスラエルが消えてしまえば,中東は一気に不安定になって,おそらくイスラエル以外の国も転覆したり消滅したりしてしまうのでしょう。中東は独裁体制の国が多くて,王族や小数の権力者に富が集まっています。彼らは国民の不満をイスラエルに向けることで国を保っている面がありますし,イスラエルを共通の敵にすることでイスラムとして団結していますから,共通の敵イスラエルがいなくなれば,中東は一気に不安定になるでしょう,イスラエルはキーストーン(要の石)なのです。
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七大老 投稿者:雪狼 投稿日:10月23日(火)13時43分28秒
それは二木謙一氏の説ですね(^^)大河ドラマでも時代考証でよく名前を見る方です。
二木さんはちょっと旧式の説を発表する方ですけど、この「七大老」説はもっとものことだと思いました。
結果的に出来上がった「五大老」ですが、やはり徳川家康と前田利家は別格だったみたいですね。
毛利・上杉はまさに外部の政治顧問で国許にいることが多いから政権に深い関わりなし。
宇喜田秀家は若年ということもあって、奉行と大老を兼務しているとはいえ、どちらかというと見習でしょう。
徳川・前田が両巨頭という形になったのも、きんたろうさんの言われるように「結果的」だと思います。もとの構想は、「東国の徳川・西国の毛利一族」でバランスをとろうとするものではなかったでしょうか。あるいは前田氏も加えて鼎立の様相もあったかもしれません。
秀吉が秀次を後継者にせず残ったのが幼い秀頼となった時点で、豊臣は大名を抑えることが出来なくなってしまいました。しかし徳川と毛利を豊臣政権に取り込むことで(それが成功したかどうかは、ここでは問わない)天下を安定させようとしたものではないか。
そして、隆景・利家の死によって、バランスが崩れて豊臣が滅んでいったのではないでしょうか。
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ビバ!!家康^^ 投稿者:きんたろう 投稿日:10月23日(火)00時14分57秒
家康の評価は時代によって激変を続けましたが今日では家康のことを正当に評価できる時代環境にあります。
しかし未だに多くの歴史関係者は「東照大神君史観」から脱却できていないのです。
というのは家康が神でなくなっても現代に伝わる歴史資料の大半が江戸時代に成立したことによるものであるからなのです。
つまり、家康の事績を伝える史料は家康を理想の君主として崇拝する「東照大神君史観」によって描写されている事によるものに他ならないからです、と外川先生は書かれていますが私も全く同意見です。
歴史は偶然の積み上げの結果に存在するという原則に立たって見ることが真実の姿に近づく第一歩だと思っています。
でも家康も真田昌幸も同じ戦国大名として平等に天下人への野望を持っていたなどと考えるのはトンデモ過ぎますが...笑
ところで五大老は有名ですがこれは結果として五大老になったのではないかという説を見つけました。
1595年2月に蒲生氏郷が死ぬ前には七大老の可能性があり、1597年6月に小早川隆景が死んで五大老になったのではないかという説です。
これはとても魅力的に感じました^^
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大阪JF生さん 投稿者:きんたろう 投稿日:10月22日(月)23時09分51秒
久しぶりです^^
忙しいのは何よりだと思います。
>ケメコは、ダイアナのコード進行を意識して作られていたと記憶していますから
なるほど、それで納得しました、笑
類似系のコードを使っているために似ているように感じたという訳なんですね。
実は毎日聴いているニッポン放送で「懐かしのヒット」をここのところよく放送しているのです。
「きのう けめこに あいました 星の綺麗な夜でした〜」と続く歌です^^
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真説 関ヶ原 投稿者:雪狼 投稿日:10月22日(月)15時27分36秒
という文庫本があったので、目を通しました。立ち読みでも大いに勉強になりました。
同様に「大坂の陣」も出ないかな。これは戦闘そのものよりも、
関ヶ原以降の秀頼の官位や徳川家康による朝廷工作に焦点を集めたい。
今、アフガン問題だけでなくパレスチナも緊張してきました…
アラブ諸国が、またイスラエルに攻め込み始めたらどうなるのでしょう。
「たんそ菌」もイラクが糸を引いているという噂もあり、
また湾岸戦争が起こるのではないか・・・と心配です。
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貧乏暇無し 投稿者:大阪JF生 投稿日:10月22日(月)09時47分47秒
きんたろう様、皆様おはようございます。
「貧暇無」でご無沙汰いたしておりました。
いつのまにか隙のない戦国談義になっていて
小生ごときが割り込めそうにもありませんでしたが、
きんたろう様のナツメロ談義にちょっとお邪魔します。
ケメコは、ダイアナのコード進行を意識して作られていたと
記憶していますから、きんたろう様の音楽感覚は鋭いと思います。
その後の海援隊もケメコを意識していたのではないでしょうか。
最初出てきたときは、サザン同様半コミックバンドと
思ってしまいましたから。
ケメコは確か多くの方が歌っていたと思うのですが、
残念ながら小生のメモリに残っていませんでした。
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先日 投稿者:きんたろう 投稿日:10月22日(月)00時33分34秒
ラジオで往年の大ヒット曲「けめこの歌」が流れているのを聴きました。
この歌を聴いていると何故かまたまた大ヒット曲「ダイアナ」を思い出してしまいました。
そうしたら何故か武田鉄也の「母に捧げるバラード」のナレーションの部分の演奏も頭に浮かんで来てしまいました、笑
これらの曲は似ているのでしょうか??
歴史とは全然関係がない話でした。
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あはは(^^ゞ 投稿者:Sin 投稿日:10月21日(日)23時29分30秒
そうそう、秀勝(3番目)を忘れていましたね。
秀吉は秀勝(1番目)への愛着が強かったのでしょうね。
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秀吉の兄弟について 投稿者:きんたろう 投稿日:10月21日(日)00時02分11秒
秀吉には姉が一人に弟、妹がいました。
この4人兄弟の中で子供がいたのは姉の「とも」だけのようですね。
ともには秀次、秀勝、秀保の三人の男の子がいたようです。
Sinさんが書かれているように秀保は秀長の養子になっています。
秀吉は秀勝という名前の子供を3人持っていますから紛らわしいですね^^;;
一人目は実子ですが幼くして亡くなっています。
彼が生きていれば関ヶ原の頃は成年に達していますから関ヶ原そのものが起こらなかったかも知れませんね??
二人目の秀勝は信長の4男でしたので何事もなければ彼が羽柴を継ぐはずの人物だったと思います。
この人は毛利輝元の娘と結婚した翌年に病没という事になっています。
この死亡についてはちょっと怪しい感じがします。
そして三番目の秀勝は朝鮮で亡くなっています。
それにしても秀吉には見事に??血縁者がいないですね。
この辺りが豊臣政権が脆弱であるといわれる所以だと思っています。
しかし、それだからこそ逆に秀吉のすごさが分かると思うのです。
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もちろん 投稿者:雪狼 投稿日:10月20日(土)15時05分39秒
やはり、東軍荷担の大名の多くには、豊臣政権の終焉を望んでいたものもいたのでしょう。
多くの晩年の事件は、豊臣を創立させた大名を「豊臣離れ」させたと考えられますね。
やはり、一概に「“すべての大名が”徳川を豊臣の代理人だとしていた」なんていう思考は、必ずといってよいほど行き詰まってしまう。
以上、自説へのツッコミを長々と失礼いたしました。。。
Sinさん>
>三成は秀吉後見の秀次政権下で行政機構の構築に専念すべき人物だったと
それなんですよね〜今「前野家文書」を解説している本を見ていましたら、まさにその通りでした。
三成、秀次事件の首謀者でもなんでもなく、それどころか「とりなし」をしているのです。
(秀次を糾弾したのは前田玄以・増田長盛・長束正家でした。)
豊臣家が分裂したら、腹黒い外様大名(家康を指すか)が何をするか解からない…と細川・前野と善後策を練っていたことがわかりました。しかし検地の実施などで地方を飛び回っていたため、三成が出来ることはほとんどなかったようですね。三成がやっと役目をおえて伏見に戻った時は、もはや秀次を救うこと不可能だったとのことで、前野長康にわびを入れています。
秀次謀反のきっかけとなったのは、やはり朝鮮出兵でしょう。戦争に多額の金が必要になった諸大名は、秀次から借金していたみたいですね。しかし返済できないため、諸大名が秀次と誼を結んだことを大げさにとりあげ秀吉に報告した。。。。卑怯ナリ、毛利輝元(わら
いや、朝鮮出兵を決行した秀吉が豊臣を滅ぼしたといえる。
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で、整理しますと… 投稿者:雪狼 投稿日:10月20日(土)11時19分31秒
1.秀次はもともと天下人の器量はない、しかし関白になったことで諸大名が秀吉よりも次期天下人の可能性がある秀次に誼を通じようとした。
2.実は、秀吉には、秀次の存在は秀頼を脅かすものにはならない。秀吉自身が長生きするか、北政所・大老・奉行がスクラムを組んで秀次に当たれば、秀次は秀頼が成人するまでの「暫定的な後見人」ではあっても「天下人」ではない。
(これは関ヶ原の戦いの時、小早川秀秋が関白の地位を約束されたのと同じ性質のものであると考えられる)
3.よって、秀次粛清は秀頼の天下とは無関係。秀次という人物が辻斬りをやったり、豊臣にとって悪影響になることを秀吉・北政所は避けようとした。さらには諸大名と誼を通じることで、秀次の「謀反」は明らかである。
4.秀次の粛清から関ヶ原まで時間が経っている以上、秀次問題をこの戦いに直結させるのは短絡的ということになる。もちろん、秀次粛清の実行者である奉行衆に対する恨みはその時に至ってもあったかもしれないが。
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Sinさん 投稿者:雪狼 投稿日:10月20日(土)11時18分50秒
手が痛いところをお手数欠けて申し訳ない…しかし情報ありがとうございます。
うーん。。。しかし文章にしてみると、我ながら思考に破綻しているところが。
>恨みを持つ彼らは、関ヶ原で東軍として戦ったわけで。
これでは、伊達氏・最上氏にとっての関ヶ原が反豊臣みたいな言い方になる。現実には伊達政宗ですら、徳川家康を豊臣の代理人だとしているくらいだから(もしかするとその深層を読んでいた可能性もあるが)、これではいかん。
あげくのはてには、秀頼誕生と関連させてしまえば
東軍=秀次派=反秀頼派=反淀
という構図になってしまうことに気づいた。事実に反するじゃないか。反省。
(これも通説で「西軍=淀派」が唱えられる一要因かな)
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豊臣秀長 投稿者:Sin 投稿日:10月19日(金)23時43分30秒
彼にも子供はいなかったんですよ(奥さんはいたはずですが)。
男系の豊臣一族の中で男子を産んだのは、秀吉・秀長の姉だけです。
たしか二人いたはずで、長男の方が秀次です。
次男の方が秀長の養子になって大和大納言家を継いでいますが、
秀次事件より前に若死にしていたはず・・・と記憶しています。
豊臣一族は見事なまでに子孫に恵まれていないですね。
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Sinさん 投稿者:雪狼 投稿日:10月19日(金)13時36分58秒
>後10日ほどしてもくっつかない場合はやっぱり手術と言うことになりそうです。
あらら〜大変ですね。(><)早く治れば良いですが…
>付け加えるならば「男系の」豊臣を名乗る〜
確かにそうだ(わら
そういえば秀吉よりも先に死んだ弟の秀長の存在も忘れられませんな。
豊臣政権における理想的なbQとは、彼のことを言うのでしょう。
疑問。この人に奥方はいなかったのかな。そしていたとすれば、その子供は…?
秀次を関白にしたのは、朝鮮出兵と関連があるようです。
天皇のもとに勤めなければならない関白職にいる限りは、半島に行って戦闘を指導することが不可能ということです。そこで関白を秀次に譲り、自分はいつでも戦えるような体制にしたのだと。
豊臣政権が崩壊したのはすべて朝鮮出兵から始まっていますが、諸大名の不満・国の疲弊だけではなく、豊臣家の内訌の種をまいたのも朝鮮出兵だったのですね。
秀次が関白になったため、その将来を期待して秀次と姻戚関係を求めたものは大勢いました。関白粛清の時に彼らも巻き込まれてしまい、恨みを持つ彼らは、関ヶ原で東軍として戦ったわけで。
ちなみに関白粛清の時、豊臣氏を創立当時(木下藤吉郎の時代)から支えてきた前野長康も死んでしまった。これは痛いよな〜
最後に、前野氏粛清は三成の罪にあらずです。
三成は前野氏を庇い、連座を免れるよう努力していました。その恩義を感じてか、前野氏は三成のために戦いました。島左近・蒲生郷舎と共に奮戦した舞兵庫は、その一族でした。
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急に 投稿者:きんたろう 投稿日:10月19日(金)02時12分40秒
寒くなってきました。
このような時は風邪を引きやすいですから皆さんも気をつけて下さいね^^
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雪狼さん 投稿者:Sin 投稿日:10月19日(金)02時02分22秒
骨折、あまり大丈夫じゃないみたいです。
後10日ほどしてもくっつかない場合はやっぱり手術と言うことになりそうです。
>「豊臣」を名乗る成人男子がいれば、関ヶ原の戦いは起こりえませんでした。
まったく同感ですね。ただ、付け加えるならば「男系の」豊臣を名乗る〜
とすべきかと思います。
「豊臣」を名乗ってもよい成人男子はいますから(笑)
(上の一文は半分以上冗談ですよ、念のため)
>秀次がいれば、別の意味で関ヶ原と大坂の陣に相当する戦いがあったことは想像できるのではないでしょうか。
戦いは起こる可能性はかなり高いとは思います。
しかし、豊臣政権の存続する可能性は高かったかもしれませんね。
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太田さんへ 投稿者:Sin 投稿日:10月19日(金)01時35分25秒
>秀次を後継指名した時点で、全てを秀次に任せれば良かったと思います。
それができなかったのは秀次自身にも問題があると思いますね。
秀次はそれまでの実績から見て、明らかにトップに立つ器ではないことを自ら示しています。
小牧・長久手の戦いあたりが一番わかりやすい例示ではないでしょうか?
それでも、当時としては秀次しか豊臣の男系の男子がいない状況では彼を後継者としておく
しかしょうがないという状況だったと私は思いますね。
>江戸幕府のように、誰が、トップにたっても困らないような
>官僚組織を作っとけば良かったと思います。
そのような組織作りをするために必要なものが豊臣家には不足していたように思います。
私は不足していたものは人材と意志だったと思います。
本来ならば三成は秀吉後見の秀次政権下で行政機構の構築に専念すべき人物だったと思います。
確かにゆきおおかみさんと太田さんの話、かみ合ってないですね〜(笑)
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確かに 投稿者:輔住 投稿日:10月18日(木)22時54分01秒
話がかみ合ってないです。
「宇喜多」秀家でなく「豊臣」秀家ならというIFで雪狼さんは話していると思うのですが、
それに三成は秀家のことだって立ててますよ。
秀家にへそを曲げられたら関ヶ原の戦いより消極的な策になったでしょう。
>ここに家康の凄さがあると思います。
誰も家康が凡将とはいってないと思います。(個人的に好きではないけど(爆))
家康のことは前提条件の上でみなさん話していると思いますが?
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話が 投稿者:雪狼 投稿日:10月18日(木)17時47分17秒
かみ合ってないね(わら
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雪狼さん 投稿者:太田守人 投稿日:10月18日(木)17時16分45秒
私も三成の能力は認めています。小田原攻めにしても朝鮮出兵にしても、三成の計画性というか、彼の能力がなければ無理だったでしょう。関が原にしてもそうです。家康の向こうをはれた人物は、三成しか居なかったでしょう。ただ、関が原の布陣を見ると家康が不利だと思います。それでも家康が勝ちました。私は、ここに家康の凄さがあると思います。絵は三成が書き、毛利輝元なり宇喜田秀家に後は任せたというのも方法だったと思います。
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宇喜田秀家 投稿者:雪狼 投稿日:10月18日(木)14時21分59秒
Sinさん>
腕の怪我は大丈夫ですか・・・・?
>秀家後継は現実的には難しいと思います。
>それに、私は秀家の器量自体にも疑念をいだいております。
もちろんこの人が後継者になるのは難しいし、能力も卓越したものだとは思っていませんが、秀吉の養子の中では一番出来ているのが秀家だったでしょうね。
秀頼に限らず、少なくとも「豊臣」を名乗る成人男子がいれば、関ヶ原の戦いは起こりえませんでした。徳川家康は秀吉の遺命違反により謹慎処分。前田利家の死後三成がその地位を追われたことによって、家康が政権の中核に入り込んできたのです。
もしこの場に、豊臣の言葉として意思表示できる人物があれば、三成を呼び戻し家康をブロックすることは可能だったというのがわしの見解なのです。
秀次ですが、この人の娘と秀頼との婚姻が決まっていて、予定では秀吉−秀次−秀頼の順に後継者となるはずだったのではないでしょうか。しかし秀次にも当然男子がいますから、その後継にひびか入るのを恐れて秀次を葬ったというわけですね。
秀次がいれば、別の意味で関ヶ原と大坂の陣に相当する戦いがあったことは想像できるのではないでしょうか。
太田さん>
徳川家康にまともに対峙しえたのは、秀家の兵力よりむしろ三成の戦略眼ですよ。何度も言いますが、三成が西軍を組織したのは確かですけど、司令官は毛利と宇喜田です。
では逆に、毛利・宇喜田が三成に代わって作戦を立てたとして、いったいどのような構想がありえたでしょうか?
きんたろうさん>
サイボーグ009のことは、知らないです(わら
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秀吉の後継 投稿者:太田守人 投稿日:10月18日(木)12時57分54秒
三成は基本的に黒子に徹している予定でしたが、家康にとって三成を西軍の総大将に仕立て上げることで福島正則らの感情を煽ることに便利だっただけだったと思われ。
この戦い、旧説はもう意味をなさなくなっているから、司馬小説などから離れたほうが良いですよ
私は、司馬小説に関しては、一方的に豊臣に肩入れしすぎで、家康を評価していません。まあ、彼が関西人だから、仕方のないことかもしれませんが。司馬小説を基にしてるのではありません。
三成が表に出るようにしたのは、家康であったこと、そのほうが彼に便利であったことも認めます。ならば、関が原の総帥に輝元を担ぎ出したように、秀家を関が原の司令官にし、彼を前面にだせばよいわけで、そうすれば、徳川についた豊臣恩顧の大名も、あんな雪崩を打ったようにならなかったと思います。三成の性格もあるかもしれませんが。この件に関しては、家康が一枚も二枚も三成より上だったと思います。
私は、豊臣家を潰したのは、秀吉自身だと思います。秀次を後継指名した時点で、全てを秀次に任せれば良かったと思います。秀次は優秀だとは思いませんが、その場合は、江戸幕府のように、誰が、トップにたっても困らないような官僚組織を作っとけば良かったと思います。そうすれば、輔住さんのおっしゃるように、足利義持、義嗣のようになったと思います。
ただ、宇喜田秀家も秀次等よりましと思う程度です。私は、秀頼が、もしもっと早く生まれていたら、家康もそう簡単に手はだせなかったのではと思います。秀吉の後継者で、もっと優秀だったのは、秀頼だったと思います。それで、家康も事を急いだのではと思っています。(例えば、鐘銘事件等)秀次が、後継の場合は、豊臣家は大名としてでも存続したかも知れません。家康は、秀吉が信雄や有楽斎を残したように、秀次も捨扶持で残したのではないでしょうか。
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秀次の器量は 投稿者:輔住 投稿日:10月18日(木)12時12分10秒
あまりわかりませんが、もし生きていたら
彼は子供ではないので家康もあそこまで
好き勝手はできなかったでしょう。
ただ秀次派、秀頼派に別れて争うことになるでしょうね。
最初は秀頼を養子にするでしょうが、実子に継がせたくなるのが
人情ですし。
多分、足利義満の死後の
義持と義嗣みたいな関係になったと思います。
(こちらは2人とも義満の実子ですが弟の方を溺愛したので)
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雪狼さん(笑) 投稿者:きんたろう 投稿日:10月18日(木)01時34分44秒
どうしても仮面ライダーを思い出してしまいますね^^
そう言えばサイボーグ009が始まったのを知っていますか??笑
私は秀次にそのまま引き継がせれば豊臣家の天下は続いたように思っています。
ひょっとしたらこれは応仁の乱の別パターンなのでしょうか??
>当然彼らを家康は煽ったでしょう。
家康としては三成が首謀者であるとしたほうが都合が良かったのは間違いがありません。
ましてあの時点では徳川の本隊と言うべき秀忠率いる3万の兵が到着していませんでしたからね。
Sinさん、骨折はずいぶんひどい状態のようですね。
直るまでにあとどのくらいかかるのですか??
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古代の世界2 投稿者:きんたろう 投稿日:10月18日(木)01時28分17秒
>古代日本は朝鮮半島を筆頭に各地からの移住民で構成されていることに関して、
>その移住民たちがなぜ出身地を強くあらわさなかったのか、
日本人が形成されたのは恐らく1万年くらい前だと思っています。
この時代はベギラさんの質問の移民団の時期よりも遙かに古い時代ですよね。
高坂さんの考えに繋がる部分が多いと思うのですが私は「部族」とは要するに血縁関係に見せかけた集団(=疑似血縁集団)だと思うのです。
要するに「秦氏」の様なものだと思っています^^
もしくは関東の藤原氏や平氏、源氏のようなものではないのでしょうか??
また、例えば何処の地方は○○氏というと戦国時代のようにその地方を全て把握した「存在」のようなイメージを抱きがちです。
でも実際は◎◎銀座商店街のようにA商店、B商店、C商店が隣り合っているようなものなのではないでしょうか??
要するに書かれている集団の及ぼした範囲は局地的なもののように思っているのですが...??
天皇家を織りなす長い歴史の中では朝鮮半島からの血筋が入っている事は間違いがないと思われるます。
でも、天皇家の元をなす集団が初めから海を越えてやって来たとするには根拠が少なすぎる様な気がしています。
そう言えば「おばら」が変化して「うばら」になったという説があります。
このバリエーションとしては大風を「うかぜ」、大潮を「うしお」と呼称している例が全国に見られるとのことです。
すると「多臣」も「おおおみ」ではなく「うおみ」、もしくは「うみ」と読むことが出来るのかも知れません??
(トンデモです、すみません^^;;)
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古代の世界 投稿者:きんたろう 投稿日:10月18日(木)01時18分12秒
では今よりも移動に関してハードルが高いものであった事に異論がある人はいないと思います。
人間のやることは強力な意思と運と行動力があれば大体は実行できるはずなのですが、そこまでして一般の人が「旅行」をする事は普通は考えられませんよね^^;;
軍団による征服とは一種の消耗戦です。
ですからここで使われる船の数は交易によるものとは比較になるものではありません。
このようなコストを考えても実行できる組織とはフビライ率いる元くらいのものだったのでしょうね。
朝鮮半島についてのベギラさんの疑問に対しては、高坂さん、太田さんが書かれていますが、私も大体同じ様な考えを持っています。
玄界灘を中心として地図を見たときにこの一帯は地中海世界のミニチュア版だったように思っています。
古代においてはこのエリアで活動する人を総称して「倭人」と言われた可能性があると思っています
。
馬の文化というのは北方遊牧民族のものですから朝鮮半島北部に関係があるとみられているツングース系とは違っているように思っています。
また、馬の文化を形成するには「半島」では狭すぎるように思っています、笑
勿論、純粋に農耕型だけとか遊牧型だけなどの文化はありません。(と思う)
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下の文章の打ち込みに 投稿者:Sin 投稿日:10月18日(木)00時11分28秒
30分以上かかっている(^^ゞ
片手しか使えないのはかなり不便です。
骨が少しずれてしまっているので、今以上ずれると手術になるとのことなので
左手の使用を完全禁止されておりますので、仕事も休んで自宅療養中です。
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秀吉後継問題 投稿者:Sin 投稿日:10月18日(木)00時07分36秒
太田さん
>後継者を秀次と決めておいたのを、秀頼に秀吉が挿げ替えた時点で、
>豊臣家は弱体化したと思います。
おおむね同意見です。
豊臣家は血縁者に不思議なほど恵まれてないですね。
その貴重な血縁者を自ら葬り去った事件は結果的に豊臣家の弱体化を
招きました。
しかし、私は秀次という人物をまったく評価していません。
あの事件は秀吉の判断ミスと言うより、秀次の不甲斐なさが招いたものだと
思います。
ゆきおおかみさん
>秀家を豊臣家の後継者にしてしまえば、豊臣はおそらく安泰だったと思うのですよ。
秀家後継は現実的には難しいと思います。
秀次を葬った時点で、男系の秀吉の血縁者は秀頼以外存在しません。
それに、私は秀家の器量自体にも疑念をいだいております。
輔住さん
>当然彼らを家康は煽ったでしょう。
三成を「君側の奸」と決めつけないと、秀吉の残した五大老のうち
三人を敵に回している状況では自軍の士気に関わるでしょう。
特に秀家はかつて秀吉の養子扱いであった人物ですので、豊臣政権内での
カリスマ力は家康を上回るものがあるでしょう。
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関ヶ原での東軍は 投稿者:輔住 投稿日:10月17日(水)22時28分07秒
福島、黒田、細川など豊臣家の反三成派が主戦力でしたからね。
当然彼らを家康は煽ったでしょう。
もちろん、三成が西軍の中心人物であることは事実ですが、
大老である毛利輝元や宇喜多秀家をかなり立ててました。
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