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五色の虹色 投稿者:きんたろう 投稿日:11月12日(月)23時04分08秒
とは知りませんでした。
楊さん、安部さん、高坂さんの書き込みを読んでなるほどと思いました^^
こちらでは寒い雨が降ったのですが夕方には綺麗な虹が大空に架かりましたよ。
目を凝らしてみると七色に見えた(様な気がする??)のですが...笑
ところで綺麗な虹が架かるとその外側にもう一つ少しぼやけた虹が出来るのですがこれはどのような訳なのでしょうか??笑
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信号 投稿者:きんたろう 投稿日:11月12日(月)22時02分47秒
を青色というのは青葉などのように昔使われた表現の名残なのでしょうか??
それとも最初の頃の信号機の色がまさしく「青色」だったからなのでしょうか??
それにしても現在の信号機の「青色」は「緑色」ですからちょっと変な感じがしますよね。
そういえば「動物の鳴き声」も民族によって違うものに聞こえますよね??
「わんわん」が「ばおばお」と私にはとても聞こえないのですがこれは日本人の中だけで通用する基準なのかもしれませんよね、笑
もしくは単に表記上の違いなのかも??^^;;
北条時宗は安部さんが書かれているようにかなりトンデモ度がひどくなってきたように思っています。
時輔や桐子をあれほど活躍させても本来の歴史には何の影響も与えられる訳ではありません。
ですからあのような作り方では作成者サイドがほとんど自己満足の世界に陥っているだけのように受け取られても仕方がないように思います。
大河ドラマは「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」とは違うのですからもう少し史実に従って作って欲しいですよね。
今年のような作り方では大河ドラマの存在意義が失われてしまうように感じています。
尤もこのところ大河ドラマとは言ってもかなりホームドラマ化していましたが...
でもその中でも今年は特にひどいと思っています。
鎌倉時代の付近と言えば源平くらいしかドラマ化していなかったので特に今年は期待をしていたのですが...残念な気持ちです。
>北条氏の,対外問題のブレーンは謝国明なんかではなくて,北条氏が深く帰依していた禅僧であったはずです。そして他の御家人の対外認識に一番影響を与えていたのも多分禅僧でしょう。
このように常識に従って番組を作って欲しいですよね。
全くこの通りだと思います。
鎌倉仏教と言えば即座に禅宗と言うくらいですよね。
ところが前半では日蓮をあれほど活躍させていました。
日蓮本人が時宗や時頼と直にあってあれほど意見を戦わせたなどとはとても史実とは思われません^^;;
>宋が滅んで知識人が大勢日本にボートピープルになって流れてきたでしょう。
大量のボートピープルが押し寄せた場合それをどのように吸収するかという政治的問題が発生します。
また、噂ではなく侵略された体験者が目の前に数多く現れたとすればこの情報は広く深く伝わったであろうと思うのです。
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そう言えば私も^^ 投稿者:きんたろう 投稿日:11月12日(月)21時58分10秒
>旅順要塞が陥落した理由が、ビタミンC不足による壊血病の蔓延で、日本軍が占領後、大量の大豆があり、これをもやしにすればもっと頑張れたのに、ロシアがもやしを知らなかったのは天佑だったという記事を読んだような記憶があります。
この記事??は私も読んだ記憶があります。
ロシア側の無知により日本に勝利の女神が微笑んだのでしょうか??
もっとも当時の日本陸軍の指揮官の無能さはひどかったですよね。
あんなレベルの大将ではもし彼が戦国時代に生きていたら歴史に埋もれてしまったと思います。
>「Peking」は国民党政府、「Beijing」は共産政府の読み方だといいます。
なるほど、これは一種の方言の差(のようなもの)なのかもしれないですね??
漢字の発音も日本に伝わってきた時代や伝えた場所の差によって「呉音」「漢音」「唐音」などありますからね。
ところで中国では北京語を公用語としているのは周知の通りですがこれを「中国語」と現すのはちょっと間違っているように思っています。
北京語以外の広東語や福建語の使用人口をみると億の単位になっています。
これだけのボリュームを持っていると言うことは中国で使われている言葉の「方言」というレベルを遙かに越えているように思っています。
誤解を招くようなこのような中国語という言葉の使い方は中国で使用されている言語が単一であると掲げているようなものだと思います。
これは中国が他民族国家であるという事実を隠蔽するような感じがしています。
(思い過ごしかも??^^;;)
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そうか 投稿者:高坂英吾 投稿日:11月12日(月)21時32分35秒
> 彼らの目が弱い光でも見えるようにできているからだそうです。
知らなかった。
絵にしてもヨーロッパ人に色彩はちょっと独特なのが多い気がしてきた。
人間なら見え方が誰でも同じと思う方がどうかしてますね。(私のこと)
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安部さん 投稿者:太田守人 投稿日:11月12日(月)13時03分57秒
そうですか猿からですか。安部さんありがとうございました。人間の二足歩行も進化論の謎だと聞きました。猿のように樹上生活だと二足歩行はいらない、草原に降りたら四足の方が早いし便利だと聞きました。そこで、雑誌のネーチャーだったかに、人類は水中で進歩し、再上陸したという説があるそうですね。水中に残った人類が、河童や人魚という水生人間だというそうですね。
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そうそう 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月12日(月)12時54分07秒
ヨーロッパの照明は暗いじゃないですか,それは彼らの目が弱い光でも見えるようにできているからだそうです。ですから,北欧の人々が日本に来ると,照明が明るすぎて困るそうです。
それで私は思ったのですが,ヨーロッパ人の目には,白人はものすごい白,国人は同じ人間とは思えないくらいに真っ黒に映っているのではないかな・・・と。黄色人種も道路標識みたいな黄色に見えているのではないでしょうか?
そのせいで思わず差別してしまうのではないかと,
私は小さいときにイギリス人住んでいましたが,絵本の虹は確かに5色でした。
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(無題) 投稿者:楊 景順 投稿日:11月12日(月)12時22分11秒
確かにイギリス人の色の表現が赤黒いのを黒と表現するのかもしれません。日本人が褐色と表現する幾分茶色がかったような緑がかったような色を"gray"と表現したのを聞いたことがありますから、彼らには黒を基調に色を感じるのかもしれません。
ちなみに、虹の色も日本人は7色といいますが、欧州人は5色と答えます。これは瞳の色の違いで世間の色の見え方が少し異なるのかもしれません。
歴史には直接関係ありませんが、このようなことは当たり前と思っているので、昔のことを検証する時につい忘れがちになることです。昔の文書にも当たり前のことはかかれていない、というのは井沢先生をはじめ多くの方の言われるところですね。
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「北条時宗」に不満あり! 投稿者:安部奈亮
投稿日:11月12日(月)12時10分51秒
2ヶ月ぶりくらいに見たのですが,禅僧の役割が軽視されているような気がします。
北条氏の,対外問題のブレーンは謝国明なんかではなくて,北条氏が深く帰依していた禅僧であったはずです。そして他の御家人の対外認識に一番影響を与えていたのも多分禅僧でしょう。
禅僧であれば,当時の一流の知識人ですから朱子学を勉強していたはず,だとしたら,モンゴルは夷荻ですし,祖国を滅ぼした不倶戴天の敵ですから,モンゴルの悪口雑言を鎌倉の御家人や京都の公家たちに一生懸命吹き込んでいたはずです。
宋が滅んで知識人が大勢日本にボートピープルになって流れてきたでしょう。そこラ変のところを書かないと,このあと後醍醐天皇が何で朱子学にかぶれて非現実的な政策を進めようとしたのかが理解できない。
北条氏や御家人はそのような偏った意見しか知らなかったはずですから,北条時宗があんなに物分りが良かったはずがない。きっともっともっとわからんちんだったと思います。その点公家のほうが武士に対する差別とか異民族に対する差別とか意味のない優越感とかが描けていて非常に良かった。
第一祖国を滅ぼされた宋人がモンゴルと日本を平和を取り持とうとするというのが信じられない。本来なら復讐心に燃えているはず。
どうも最近の大河ドラマは,復讐心だとか差別心だとか,近親憎悪とかの人間の負の感情を軽視しいるような気がします。そのせいでいまいちリアリズムに欠けている気がします。そういう負の感情に流されそうになりながらも主人公は何とか人間らしく生きた・・・という風に描くのならば感動的だと思いますが,差別はいかんだとか平和にしなきゃいけないだとかそんな甘っちょろいことをぐたぐたとしまりなく言っているのでは全然面白くない。
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人間がビタミンを合成できないわけは 投稿者:安部奈亮
投稿日:11月12日(月)11時46分56秒
先祖のサルは果物からビタミンを摂取できたので,体内で作らなくなったのだとか
もしかしたら違うかもしれませんが,自然界に「ビタミン」というものが存在するのではなくて,
動物が必要とする内分泌物質のうち,人間が体内で合成できるのが,ホルモンで,人間が体内で合成できないけれど人間が生きるためには必要なのがビタミンという分類だったように記憶しています。
ですから,人間がビタミンを合成できないというよりは,人間は体内で合成できる物質が少ないと考えたほうが正確だと思います。
イギリス人がお茶をよく飲むようになったのは,元々イギリスでは今の私たちがお茶をすするような感覚でビールを飲んでいたのですが,近代的な工場で従業員が休憩ごとにビールを飲んでいては仕事にならないので,資本家がお茶を飲むことを奨励したのが理由だということです。清教徒の禁欲主義も関係があると思います。
イギリスはヨーロッパでは水がまだきれいなほうですが,中世と近代のヨーロッパの都市の不清潔さは恐るべきものですから,飲み物といえばビールかワインしかなかったんです。アルコールが入っているので腐りにくいですからね。18世紀くらいまでのイギリスの職工は,昼過ぎまで働いて,その後は休憩にビールを飲んで,3時を過ぎるともうヘベレケで仕事にならなかったという話です。
きんたろうさん,紅茶の中には色が濃くて黒色に見えるのもありますよ。
あるいは我々日本人が何でも色を「あお」と「あか」と表現してしまうのと一緒で,英語の黒には「濃い色」という意味もあるのかもしれません。
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これも聞いた話ですが、 投稿者:太田守人
投稿日:11月12日(月)08時39分29秒
「Peking」は国民党政府、「Beijing」は共産政府の読み方だといいます。北京は、古くは幽、燕等いろいろに変わってきましたが、北京としたのは、明の永楽帝で,南の都南京に対して、こう命名したといいます。明は、首都は北京、副都は南京でした。日中戦争の時、日本陸軍が一番大きな、15センチ榴弾砲を北京と南京の城壁にぶち込んだが、けろっとしていたそうです。この明代の城壁とは強固なものだったのですね。北京には城壁はありませんが、地下鉄が城壁の周りを走っていると聞きました。
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ビタミンC 投稿者:太田守人 投稿日:11月12日(月)08時28分02秒
お茶にも大量のビタミンCが含まれているそうです。今のモンゴルあたりの人は、大量のお茶を飲むそうですね。中国人もそうですがロシア人もロシアンティーてものがありますから、大量にお茶の飲む民族なんでしょう。
でも、動物では体内でビタミン生成を出来ると聞いたことがありますが、人間は何故できないのでしょうか? ビタミン不足は、人間に致命的な結果をもたらします。進化論でも説明のできないことの一つだと思いますが、ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。
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食欲の秋^^ 投稿者:きんたろう 投稿日:11月12日(月)01時43分59秒
さつまいものスナック菓子もあるのですか!!^^
今度コンビニエンス・ストアに行ったときにチェックしてきますね、笑
石焼き芋スナックみたいな名前なのでしょうか??
美味しそうですよね。
ところで、ここのところホットカーペットの上でそのまま寝てしまうパターンが多くなっています。
するとこの時間頃に目が覚めたりしますのであまり体には良くないですね、自爆^^;;
皆さんも風邪には気をつけて下さいね。
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さつまいもの 投稿者:輔住 投稿日:11月11日(日)06時52分19秒
スナック菓子もありますよ。きんたろうさん!
(たまに食べるとおいしい)
なんかたべたくなってきた(爆)。
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楊 景順さん 投稿者:きんたろう 投稿日:11月11日(日)01時02分47秒
こんばんは^^
書き込みを有り難うございます。
>ミルクティーという言い方は私の経験ではきいたことはありませんで、Tea
with milkといっておりました。
なるほど^^
ミルクティーは英語ではなく既に日本語になっていたのですね。
そう言えばコーヒーでもCoffee with milkと言いますよね。
>また、お茶を中国から運んでいるうちに発酵して紅茶になったというのは、眉唾もので、それ以前からあったとの話を聞いたことがあります
そうなのですか^^;;
面白い逸話=眉唾物であるという黄金の方式がここでも当てはまっているのですね、笑
これからもよろしくお願いしますv(^o^)
和平さん、ついにヤフーBBが開通ですね^^
羨ましいです。
何しろヤフーは速くて安いのですから絶対にお勧めですよね。
私も早くブロードバンドを体験してみたいです。
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ここではおひさ! 投稿者:和平 投稿日:11月10日(土)13時59分26秒
待ちにまったYahooBB。やっとメールが届きました。
いつでもOKとの事ですが、まずISDN回線をアナログに
切り替えて下さい、との事。
今月中には高速回線が利用出来そうです。
ワクワク。
http://www.fureai.or.jp/~kyoji-m
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お茶について 投稿者:楊 景順 投稿日:11月10日(土)11時56分00秒
時折楽しく拝見させていただいております。なかなか雰囲気のよいところで、皆様のお人柄が偲ばれます。さて、ささいなことですが、私にもわかることがありましたので、早いもの勝ちで報告させていただきます。
私の記憶では、何も入れない紅茶はストレートティーといっておりました。ミルクティーという言い方は私の経験ではきいたことはありませんで、Tea
with milkといっておりました。
アメリカの独立戦争のきっかけは、紅茶の税金が高く、怒った植民地の市民が港に着いた紅茶を海になげ捨てたティーパーティー事件という話になっております。
また、お茶を中国から運んでいるうちに発酵して紅茶になったというのは、眉唾もので、それ以前からあったとの話を聞いたことがあります。
インドと聞きましたが、たしかではないのですが、南方でお茶をチャーというところがあるそうです。
以上些細な雑学でした。
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源氏と奥州との関わり 投稿者:きんたろう
投稿日:11月10日(土)10時15分58秒
お茶は前九年の役の頃は超高級品でした。
京都の貴族でもなかなか手に入れる事は出来なかったものだと思います。
何しろ国内生産をまだしていない時代ですからお茶は100%輸入だったのです。
当時の交易には最強の世界標準通貨である「金・銀」が使われていました。
これがToshyさんの言われる十三湊辺りから中国大陸へと交易のために輸出されていたのだろうと思っています。
奥州から中国大陸へと流れた大量の金が「日本黄金伝説」の元になっているわけですよね^^
この富を手に入れようとしたのが陸奥の守だった藤原登任でありこれを受け継いだ源頼義だった様な気がしています。
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元 投稿者:きんたろう 投稿日:11月10日(土)10時12分08秒
の衰退の原因についてよく分かっていません^^;;
中国中央部に侵入した民族はほとんどが漢民族に(文化的に)吸収されてしまうというイメージが強いのですがモンゴル人だけは北京から北方へと撤収していくときも整然としていた、と何かで読んだ記憶があります。
モンゴルはあれだけ広大なユーラシア大陸を席巻した程の勢力をもっていたのにどうして敗退する事になったのでしょうか??
この理由としてはモンゴル帝国が各地で分離独立したためだと聞いた事があります。
このため鎮圧の兵をスムーズに送る事が出来なくなったために衰退したという理由は尤ものような気がするのですが政権を把握して軍隊を持てばモンゴル人に固執する必要は無かったと思うのですが...??
実際の異民族間の婚姻によるハイブリッド化の比率よりも支配層の風俗などは圧倒的に非支配層に伝わるものだと思います。
このために漢民族が農耕民族であるにも拘わらず遊牧民族的風習や意識がかなりあるように思っています。
この点は日本民族の歴史のDNAには無いところだと思います。
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鄭和 投稿者:きんたろう 投稿日:11月10日(土)10時06分40秒
の大艦隊によって麒麟がもたらされたのですか!!
あんな動物がいるとは思わなかったことでしょうね。
アフリカサバンナの動物と言えばシマウマも不思議な動物ですよね。
あれはどう見ても「シマ模様」が無ければ普通の馬なのですが...^^;;
シマウマにも競馬をさせてみたらどのような結果になるのだろうと思った事がありました、笑
英語で紅茶と言えば(古くは)ブラック・ティーでしたよね。
どうして紅茶がブラックなのだろうと思ったことがあったような気がします、(;^_^A)
現在私達が飲んでいる日本茶は元々伝わってきたお茶の形を保っていると思っています。
とすると当時の中国(宋の頃か??)では日本茶のような発酵させないお茶を飲んでいたとう事になるのだろうと思っています。
紅茶の発生についてもイギリスに向かう途中の紅海付近でお茶の葉が発酵している事に気が付いたのではなかったのでしょうか??^^;;
イギリスに着く頃には完全に発酵したお茶が出来上がっていた!!だったように記憶しています。
(これも限りなく怪しい記憶です、笑)
イギリスの一般庶民の手に届いた紅茶は品質がかなりひどかったのでミルクを入れて誤魔化して飲むようにした事が英国流ミルクティーの起こりでしたよね^^
アメリカが独立するきっかけはコーヒーでしたよね??
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ジャガイモ 投稿者:きんたろう 投稿日:11月10日(土)10時03分03秒
は確かに美味しいですがサツマイモもまた美味しいですよね\(^o^)/
サツマイモでポテトチップの様な物は出来ないのでしょうか??笑
それにしても鄭和が元の貴族出身者だったとは知りませんでした。
>明が政権を取ると、元の貴族の子弟は、若い男は宦官にされ、女は女奴隷とされ恩賞とされたり、売春宿に売られたといいます。
さすがに日本のように共通価値観を持つ同一民族の場合とはかなり違いますね。
生活風習から言語までも別の異民族に政権が移った訳ですから征服された相手の価値感などは紙くずになってしまうという事を明確に表していると思いました。
いずれにしても日本とは戦後処理がずいぶんと違いますね。
中国大陸中原部では元から明、そして清へと国家が移りました。
この事は「易姓革命思想」に「異民族による征服」という要因がプラスされていますからよけいに際立つのだろうと思っています。
ところで日本では北京を「ペキン」と発音していますが確か10年程前に??英語では「Peking」から「Beijing」に表記が変更になりました。
これを見るとペキンではなくベイジンと言った方がいいのかもしれませんね、笑
表記の変更は長年に渡る中国サイドによるねばり強い交渉によるものらしいです??
相手はイギリス(アメリカかな??笑)だと思います。
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安部奈亮さん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
9日(金)16時52分02秒
ロシアが日本に興味を持ったのは、矢張り不凍港の確保でしょう。帝政ロシアの太平洋艦隊は、三国干渉で、山東半島を得るまで、冬季は長崎港で越冬していたそうです。
第2次大戦中、冬季にムルマンスクやアルハゲンスクという、コラ半島の港が援ソ戦略物資の集積港になったのは、この辺りが冬季にも結氷しないからだそうです。
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帝政ロシアでは、 投稿者:太田守人 投稿日:11月
9日(金)16時25分55秒
壊血病対策は、私も良く知りませんが、ノビコフ・プリポイというバルチック艦隊の遠征の時に、戦艦オリョールに乗っていた人の回想録「ツシマ」をみると、塩漬けキャベツやジャガイモをよく食べていたようです。それと、あのあたりは黒パンですので、黒パンは結構栄養があったといいます。まあ、世界の海軍は、ローヤル・ネービー(イギリス海軍)を基にしていますので、ライムやレモン等をとっていたのかもしれません。
第2次大戦中、ドイツ海軍のUボートでは、ビタミン剤の外にレモンをよく齧っていたそうです。
ベーリング海を発見した、ベーリング探検隊の軍医は、アリューシャンでビタミンCが豊富な、野草を発見し、壊血病を予防したと言います。ただ、ベーリングは、性格的欠点で隊員に嫌われていたため、この野草のことを教えてもらえず、壊血病で死亡したそうです。
今でも、アメリカ海軍では、長期行動する艦艇には、ジャガイモとタマネギを大量に積み込むそうです。
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日本の野菜 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月
9日(金)14時54分39秒
新鮮な野菜がシベリアで欠乏していたから,それを日本で調達したかったのも,ロシアが日本に興味を持った理由の一つではありませんでしたっけ?
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壊血病 投稿者:Toshy 投稿日:11月
9日(金)14時50分17秒
船に詳しい太田さんに質問です。
ロシアでは壊血病対策としてどんな食品を使っていたのでしょう。
18世紀までのオホーツクやカムチャッカからアリューシャン・クリルへの航海程度だったら大したことないと思いますが、その後世界周航をやるなど一大海洋国家になっています。
わしが調べている、クルーゼンシュテルンの世界周航でも、あまりその手の話を聞きません。
「日本人が魚を生で食べている!」と驚いていたくらいだから新鮮な魚で壊血病予防もしなかったでしょうし。
何か知っていることがあったら教えてください。
きんたろうさん>
今でこそ寂れたものの、東北には石巻や十三湊など良港があって、安倍氏や奥州藤原氏は手広く貿易をしていたと聞いていますが、お茶のことまでは…(わら
>安部一族といえばアテルイの次の奥州王ですよね^^
単純に<前九年の役>で有名になっただけという噂も(笑)
朝廷からの独立を目指す思想があればアテルイにつぐ奥州の帝王と認めたいのですが、
どちらかというと荘園を拡大していただけ、というところですから。。
源氏が「いやあ、強い敵だったよ」なんて誇大に宣伝していただけかもしれないです。
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漢民族の引きこもり 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月
9日(金)14時49分25秒
鄭和の遠征の理由の一つに建文帝の捜索があります。
永楽帝は,甥の建文帝を追いやって帝位に就きましたが,南京城を落とした際に建文帝の遺体を見つけることはできませんでした。そこから建文帝は生きて南海に逃げたという伝説ができて,その捜索も目的の一つだったそうです。
永楽帝は,建文帝を追いやって帝位に就いたのがよほど後ろめたかったのか,それを非難した人を何千人も処刑しました(それも残酷な方法で)。父親の朱元章は功臣を何人も殺したり,自分に楯突いた都市の住民を皆殺しにしたりしたことで有名です。朱元章にしろ,永楽帝にしろ,明の皇帝には残酷な人が多いです。宋においてはそんなことはなかったんですけれどね,モンゴルに占領されている間に,中国人は少し変わったのでしょうか?また,朱元章は実は漢人ではなかったのではないか?という話もあります。
永楽帝があれほど外に興味を持っていたのに,それ以後明はなぜか海禁政策を取って国を閉ざしてしまいます。不思議です。しかし,中国は既に宋以来,外国との交易がなくては成り立たない国家になっていました。福建や広東といった華南の海岸部では,農業がまともにできないので,工芸品を作って売ったり,交易をしたりして彼らは生活していました。また,福建や広東以外の地域でも,外国に売ることを目的にして,茶やら絹やらを作っていましたので,交易ができなくなってしまっては,中国の経済全体が破綻してしまいます。中国は外国の経済と密接に結びついていて,国家が管理貿易をできるような次元ではありませんでした。
そのため,そんな解禁製作を守るものなど誰もいなく,中国の貿易業者は海賊とならざるを得ませんでした。これが後期倭寇です。
明が海禁製作などという非現実的な政策を取った理由として,やたらと柵封政策にこだわったことが考えられます。中国は,宋の時代に散々異民族にいじめられて,元の時代にはついに異民族に占領されてしまいました。その屈辱感からか,明は,「漢民族の中華」という姿勢を前面に押し出します。しかしそのため対等な貿易ができなくなってしまいます。外国と貿易をするときは,必ず柵封という形を取りました。柵封は,異民族が中華の徳を慕って献上をして,それに対して中華の皇帝が何倍ものお返しをしてあげるという形を取ります。ですから,しょっちゅう来られると困るんですね。それに,明というのは民衆を全然信用していませんでしたから,交易によって民衆が富を蓄積することに恐れを抱いていたのかもしれません。明というのは何でも国家で統制しようとしました。明では朱子学の重農主義が極端に進められました。明の農業政策はともかく,経済政策は滅茶苦茶です。しかし同じく官僚国家であった宋と違って,明にはどことなく暗さがつきまといます。
私たちが抱いている中国のイメージは,春秋戦国(諸子百家),それと唐(漢詩と仏教),宋(禅・さまざまな農業と工芸の技術)で,明るくて開放的なものですが,今の中国はどうもちがうようです。この辺のギャップは明代に起こったのかもしれません。
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おちゃとティー 投稿者:太田守人 投稿日:11月
9日(金)12時49分38秒
は語源があなじそうですね。北京語はお茶、広東語はティだったとか。そこで、北京から伝わった日本等の地域はおちゃ、広東から伝わったイギリス等はティーだそうですね。
イギリスは、古来から野草をお茶のようにして飲む習慣があったそうで、まず、イギリスには、コーヒーが伝わり、コーヒーショップがたくさん出来たそうですが、そこで政府の悪口をいうので、政府がコーヒーの輸入を禁止したといいます。その代わりが紅茶だったそうですね。
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鄭和の大航海 投稿者:太田守人 投稿日:11月
9日(金)12時28分55秒
で彼は、アフリカの東海岸今のモザンビーク辺りまで行ってたそうです。中国では古来、珍奇な動物が出てくるのは、聖天子の治世だとされていました。この時、彼はダチョウやキリン等を持ち帰っていますが、特にキリンは、伝説上の鳳凰と共にめでたい動物とされていましたが、モザンビーク辺りで鄭和は貰ったらしいですが、現地語でキリンのことをジリンだったか音がそっくりで、しかも伝説上の麒麟と姿が同じということで、明では大歓迎されたそうです。
珍奇な動物といえば、三国志の曹操が象(アジア象?)の献上があった時、誰か重さを量れと命じたが、こんなものを計る計りもなく、一同困っていた所に、三男の曹植が池に舟を浮かべ、象を乗せている時の喫水線と乗せていない時の喫水線の差で計ったといいます。当時曹植は、10歳くらいだったそうで、親の曹操は鼻高々だったといいますが、まあ、神童と見るかこまっしゃくれた餓鬼と見るかは個人によって違いますが。
鄭和は、この航海で7000〜8000トンの船27隻の大艦隊だったといいます。当時のヨーロッパは50トン位の船が標準で、コロンブスのサンタマリア号が、120トンで史上最大の巨船と言われていたので、この艦隊は、島がくるように思われたでしょうね。
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もやし 投稿者:太田守人 投稿日:11月 9日(金)10時55分18秒
については、鄭和の伝記だったかで読んだように思います。ヨーロッパに、もやしがあったかは知りませんが、旅順要塞が陥落した理由が、ビタミンC不足による壊血病の蔓延で、日本軍が占領後、大量の大豆があり、これをもやしにすればもっと頑張れたのに、ロシアがもやしを知らなかったのは天佑だったという記事を読んだような記憶があります。太平洋戦争で、日本の潜水艦でもやしを艦内で栽培していたといいます。日本の潜水艦は、冷房や除湿施設が弱く、南方で長期間潜航していると、気温35度、湿度100パーセントくらいになったそうです。
鄭和は、昆明湖のそばの出身者で、元の貴族の家系で、明が政権を取ると、元の貴族の子弟は、若い男は宦官にされ、女は女奴隷とされ恩賞とされたり、売春宿に売られたといいます。
清も明滅亡時に、明の貴族に同じ事をします。その時、確かヌルハチだったと思いますが、ある臣下が諫言をしますが、「明も元に同じ事をした。自業自得だ。」と言われたといいます。
ただ、鄭和の航海は、永楽帝の独断だったらしく、官僚は大反対で、孫の嘉靖帝が同じことを使用とした時、太尉(国防大臣)始め兵部の官僚が、泡食って鄭和の報告文等を焼却したそうです。
そこで、嘉靖帝もあきらめたと聞いたことがあります。
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ADSL 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
9日(金)05時17分22秒
工事の連絡があまりに来ないのでついにNTTの茨城支店に電話をしてみました。
するとすぐに折り返し連絡をくれると言われたのですが結局相手は電話をするのを忘れてしまったようでした^^;;
NTTはいい加減すぎるような気がしました。
何しろ申し込んだのが10/3ですからもうすぐ40日になるのですが...
まさかこんなに待たされるとは思いもしませんでした(
^^)ノ ((((((●~*
太田さん、モヤシの逸話は明の鄭和のものでしたか!!(;^_^A)
私の記憶は完全に風化しています。(いくら記憶を絞ってもだめでした、笑)
有り難うございました^^
ところで、鄭和といえば宦官だった筈ですが大航海に耐えられる体力を持っていたのが不思議な気がしています。
大阪JF生さん、久しぶりですね^^
>日本にはオランダ船を通じて、慶長年間にジャカルタ港より長崎に運ばれひろまったので、最初ジャガタライモと呼ばれた話は良く聞きます。
なるほど、ジャガイモとはジャガタライモを短く発音した物なのですね。
長い発音を独自に短くしてしまうのは日本の特徴だとよく分かりました。
Toshyさん、安部一族といえばアテルイの次の奥州王ですよね^^
ひょっとしたらアテルイの子孫なのでしょうか??
まさか阿倍比羅夫の子孫というわけはないですよね??^^;;
安部氏はお茶を宋から輸入していたようですね??
この当時のお茶はまだ緑茶しか無かったのでしょうか??
紅茶の起こりはヨーロッパに運ぶ途中でお茶の葉が偶然発酵してしまったからだとききましたが...??^^
玄武さん、こんばんは^^
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HP宣伝 投稿者:玄武 投稿日:11月 8日(木)21時25分51秒
とつぜんの訪問恐れ入ります!是非私のHPに来てみて下さい!
http://www7.ocn.ne.jp/~senoda
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京都のコンビニ 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月
8日(木)17時18分48秒
ローソンが一番多いですが,ローソンとセブンイレブンとファミリーマートこの3つが大体同じくらいです。見たところ。
東北にはデイリーが多かったですね,北陸はサンクスが多かったように見えました。福島のガソリンスタンドはなぜかENEOS(日石三菱)だらけでした。
京都市は,全国で一番コンビニの密度が高いそうです。学生の町であるのと,中小の商店を守るために,大手のデパートやスーパーが,条例のために出店できないのが理由だそうです。
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大阪JF生さん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
8日(木)16時38分25秒
よろしくお願いします。キャプテンクックは、スペイン無敵艦隊を破った、時の私略船の船長のホーキンスが,ライムジュースを飲ませていたら、壊血病の罹病者がほとんど皆無だったというところから、ヒントを得たといいます。キャプテンクックは、当時イギリス海軍では、士官用の肉やピクルスを豊富に乗員に与えたそうです。
ホーキンスは、奴隷貿易でぼろ儲けをしていたそうです。
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義経 投稿者:太田守人 投稿日:11月 8日(木)15時28分15秒
Toshyさんそのとおりです。時忠の住まいが、今の時国家です。義経は、逃避行の最中にここに寄っていったいいます。
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義経逃避行2 投稿者:Toshy 投稿日:11月
8日(木)14時23分49秒
太田さん>
義経の愛人の父、平時忠(?)は能登に流されていたのでしたか?
能登半島から船を仕立てたという伝説、どこかで聞いたことがありました。
きんたろうさん>
義経に限らず、前九年の役の安部一族にも北方伝説があります。
北海道らしき土地に逃れる話です。これ今昔物語31巻にあって、
義経を主人公にした荒唐無稽な冒険談「御曹司島渡り」とともに、
北海道を舞台とする説話として注目されています。
これらの話が融合して、義経北方伝説が出来上がっていったのでしょうね。
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お昼のひととき 投稿者:大阪JF生 投稿日:11月
8日(木)12時14分51秒
きんたろう様、お邪魔します。太田様、始めまして。
ちょっと懐かしい話題も出ていたので、興味深く拝見しました。
もやしのエピソードは知らなかったのですが、
ジャガイモも海の男たちのビタミンCの大きな供給源だったらしいです。
元々、りんごが北欧で壊血病に効くことは良く知られており、
そのため、ジャガイモは「地のりんご」とも呼ばれているそうです。
その後大航海時代を経て、航海先にどんどんジャガイモがひろめられたとか・・・。
日本にはオランダ船を通じて、慶長年間にジャカルタ港より長崎に運ばれ
ひろまったので、最初ジャガタライモと呼ばれた話は良く聞きます。
(その後寛政年間に、北海道にはサハリン経由で別種が伝わったらしい)
ビタミンC発見のきっかけもいろいろあるようです。
よく言われているのは、英国海軍軍医ジェームス・リンドが1747年に
柑橘類が壊血病に効くことを最初に見つけたとか、
アメリカのマッカラムという研究者自身が幼少時にりんごの皮を食べて
壊血病から助かったことがきっかけだとか言われています。
太田様がおっしゃるように英海軍はライミーとからかわれても、
ビタミンCタップリのジュースを飲まされたとか・・。
それにしても、日本の軍医と違いますね。
安部様、お久しぶりです。
初対面が「森鴎外」だったのを思い出して、懐かしく読ませていただきました。
でも、研究者としても森さんは?だと小生はおもいますが。
それはさておき、いい旅行をされたようでうらやましくもありますね・・・。
それではまた。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
8日(木)10時54分07秒
コロンブスだったかマゼランだったか忘れましたが、外洋航海で大豆が偶然モヤシになったものを食べたためにビタミンC欠乏症を回避することが出来た事を読んだ記憶があります。
これは、明の鄭和でなかったでしょうか?ヨーロッパの大航海時代は、壊血病で何割か死ぬのはあたりまえの話で、キャプテンクックがライムジュースをビーグル号で乗員に飲ませてから壊血病がなくなったと聞いたことがあります。
イギリス海軍では、長期行動をする軍艦につい最近まで、ライムジュースを積み、食事毎に飲ませていたといいます。今では,アメリカ海軍の水兵は、イギリスの水兵を「ライミー」と呼ぶらしいです。
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輔住さんの 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
8日(木)01時01分50秒
言われるように実際はどうであれトップに来る人物が源氏だと名乗る場合の方が長期政権になっているのは面白い現象ですよね^^
日本の現実の政党は自民党もその他も施策にさほど変わりがないのですから「源氏党」とか「平氏党」などと名乗ったらどうでしょうか??笑
このようなネーミングの方が日本には合っている様な気がします、笑
共和党、民主党、もしくは保守党、労働党などという名前は「直訳」過ぎて日本の政党名としてはあまり相応しくないのではと思えたりします(嘘ですよ^^;;)
安部さんは楽しくて充実した週末を過ごされたようですね^^
会津と米沢は別の県ですが13号線で山一つ越えるとすぐの場所にあります。
ですからこの地域の方言はとても近いですよね。
こちらではセブンイレブンが一番目立つのですが、京都では見かけませんでしたよ??
太田さん、肉じゃがは私の好きな料理の一つです^^
東郷平八郎が肉じゃがの発明者だとはまさか思いもしませんでした。
そう言えばジャガイモはいつ頃から日本にあるのでしょうか??
サツマイモは青木昆陽ですよね^^
コロンブスだったかマゼランだったか忘れましたが、外洋航海で大豆が偶然モヤシになったものを食べたためにビタミンC欠乏症を回避することが出来た事を読んだ記憶があります。
Toshyさん、義経伝説についての詳しい説明を有り難うございますv(^o^)
経伝説は平泉以北に多いのではないかと思っていましたが北陸にも多かったのですね^^
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義経逃避行 投稿者:太田守人 投稿日:11月
7日(水)17時38分28秒
は、石川県に結構義経の舟隠しという伝説を持っている場所があります。私は、敦賀周辺から船で海上を逃げたのではと思っています。
舟弁慶という伝説がありますが、私は、あれは死水といはれる現象でないかと思っています。今でも、海に雨や雪解け水等の大量の淡水が海水に入ると、船のスピードが落ちたり、止まったりすることがあるそうです。この現象を、死水と言うそうです。特に、春先の大河の河口でおきやすいそうです。
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安部奈亮さん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
7日(水)16時04分30秒
当時の陸軍はプロシアを模範としていました。プロシア医学は、実験で証明できない事は間違いであるということだったそうです。プロシア医学は,経験則は一切認めていなかったそうです。
児玉源太郎という、乃木希介の代わりに旅順攻略の指揮を取った人が、この203高地攻略戦中、派が痛くなり、軍医のところにいったが、歯医者がいないので治療が出来ずに、その理由をたずねたところ、プロシア陸軍の軍医団にも歯科医がいないからだと答えられて呆れたという話があります。海軍は、歯科医も軍医として軍艦に乗っていたそうです。
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森鴎外の態度は 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月
7日(水)15時38分31秒
学者としてはいいのかもしれないですが,軍医としては駄目ですよね,
軍医は病人を減らすのが目的です。だから経験則に基づく療法や,泥縄的な対処療法でOKだと思います。脚気の原因が栄養であるか細菌であるかどうかは,戦争が終わってから,研究室で考えればよいことであって,戦場でこだわるべきことではありません。
陸軍は太平洋戦争のときにニューギニアの奥地でも白米を炊いていたそうですから,結局何も改善されなかったということでしょうね。
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義経逃避行 投稿者:Toshy 投稿日:11月
7日(水)14時17分09秒
「義経記」はもちろん後代(室町時代?)の作り物ですが、安宅関にいたってはさらに後、江戸時代の歌舞伎です。「義経記」そのものにすらありません。
安宅関の勧進帳は、「義経記」のいくつかの物語から様々な要素を取り入れたものです。
・安宅関では、弁慶が勧進帳を読む(これだけ)
・平泉寺と2箇所の関で、義経一行を通す通さないと押し問答。(正体は、ばれていない)
・川の渡し舟(富山?)で義経が嫌疑をかけられ弁慶が義経を殴る。
・番人が義経を見逃すのも2箇所。そのうち、街道で出会い見逃した井上が勧進帳に出てくる。
義経のボディガードだった伊豆有綱・佐藤忠信・堀弥太郎は、平泉に逃げる前に皆捕まりました。一人残った弁慶は実在ですが、義経の参謀として弁慶の役割を実際に果たしていたのは、比叡山の俊章という僧侶のようです。
義経が山伏に扮したのは、周りには金剛峰寺や延暦寺の荒法師しか残っていなかったためで、また北陸道を進むにはその姿が一番適していたこともあるのでしょう。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
7日(水)12時49分26秒
すいません。もう一寸無駄話をさせてください。皆さんは、肉ジャガという料理をご存知でしょうが、あれは海軍の料理で、東郷平八郎の発明だそうです。東郷平八郎は、連合艦隊司令長官の前は、舞鶴鎮守府司令長官、その前は呉鎮守府司令長官だったそうで、そこで、舞鶴市と呉市で肉ジャガの本家争いをやっています。海軍では、馬鈴薯の甘煮という献立で、海軍の調理の教科書にレシピが載っているそうです。カレーライスも海軍の兵員食が広がったといいますし、日本海海戦に向かう連合艦隊の各艦の昼食は、赤飯に鯛のおかしら付きというメニューが多かったそうですが、
旗艦三笠では、白パン(乾パン?)にコーンビーフの缶詰だったといいます。
コーンビーフの缶詰は、関東大震災の時、アメリカが援助物資として大量に贈ってくれ、それ以来日本人になじみになったと言います。
海軍は、イギリスから学んだこともありますが、北清事変に出動した軍艦の中で、脚気が大流行し、乗員の9割が脚気にかかり行動不能艦が続出した時に、イギリスを始め欧米の海軍にない病気なので、始めは海軍は食事を全て洋食とし、のりきったそうですが、兵員から米や漬物を食い、味噌汁を飲みたいという希望が出たとともに、洋食にすると食料費(兵員の食事はすべて無料)がかさみ、外の予算を圧迫するということで、麦めしになったそうです。
今度は、日露戦争時に、旅順攻撃の日本陸軍の兵員に、脚気が蔓延し、陸軍も麦飯を食わせようという話になりますが、陸軍軍医総監が猛反対し、この話は流れ、203高地攻撃に失敗した原因の最大のものは、乃木希介以下の第3軍首脳の馬鹿さ加減ですが、脚気で多くの兵士が倒れていたことも原因とされています。その時、猛反対した陸軍軍医総監が森鴎外でした。
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週末に 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月 7日(水)12時18分19秒
友達と一緒に米沢と奥会津と只見に行ってきました。紅葉がとてもきれいでした。いい絵がいっぱい描けました。
磐越西線ではSLの雄姿を見てきました,SLはやはり迫力があっていいですね。
しかしあんな山奥でもコンビニはちゃんとあった,すごいことです。
しかし風邪を引いて帰ってきてしまいました,だから今日のゼミは散々でした。
今日は早く帰って寝よう。
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平氏政権と源氏政権 投稿者:輔住 投稿日:11月
6日(火)22時21分09秒
平氏を名乗った政権(清盛、北条、織田)などは絶頂期と思ったその後、
すぐに没落してしまう。
源氏を名乗った政権は絶頂期を過ぎた後、四苦八苦しながらも
しばらく持つことが多い。頼朝の場合は死後20年だが、足利は応仁の乱以後、幕府滅亡まで
100年間ぐらいあるし、徳川も何度も財政危機に襲われながら260年続いている。
面白いものですね。
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北条氏 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
6日(火)21時33分46秒
による鎌倉幕府要職の独占体制が偵時の時に絶頂に達します。
この時、全国の守護や地頭はほとんど北条一門で占められていた筈ですから討幕運動とは一種の下克上のようなものだったのでしょうか??
室町時代の守護にしても実状は荘園と何ら変わるところがなかったような気がしています。
地域に根ざした直接的支配による自治(のようなもの)は戦国時代になって初めて現れたと言える様な気がしています??^^
それ以前の状態とは現地豪族の上に中央からの管轄者が乗っているという関係だったように思っています。
ですから現地豪族はある程度の規模までしか自分の勢力を拡大できなかったのではないでしょうか??
中央(政府)は彼らが一致団結して対抗してこない限り大きな勢力にはならないので脅威とは認識しなかったのだろうと思っています。
Toshyさん、例のトピックを最初から読んでみました。
130くらいまで読んでから全体のレス数を確認してみたらあまりの多さに目眩がしてしまいましたよ^^;;
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なんとそうだったのですかv(^o^) 投稿者:きんたろう
投稿日:11月 6日(火)21時28分21秒
太田さん、それは知りませんでした、笑
安宅の関と言えば弁慶の勧進帳で有名ですね。
言われるとおり確かにあの話は後世の作り物なのかもしれませんね。
あの時の義経主従一行は10人程度でしたよね。
一騎当千の強者ばかりで構成された10人程度のグループなのですから関所のある街道を通る必要など何処にもなように思われます。
奥州藤原氏も常勝将軍義経を先頭にして先手を打って関東に攻めていればあのようにあっけなく滅ぶ事はなかったように思っています。
関東源氏、京都平氏、そして奥州藤原氏の三国志の状態にあの時代はなっていました。
この均衡が壇ノ浦で平氏が破れた事により一気に崩れてしまいました。
平氏滅亡により鎌倉は全勢力を奥州にぶつける事が可能になったのですよね。
この奥州攻めには遥か九州の島津までも参加していますから秀吉の小田原征伐のような意味合いを持っていたように思っています。
そう言えば島津といえば頼朝の妾の子供を始祖にしていると聞いた事がありますが...笑
この時の島津の娘なのでしょうか??
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北条氏 投稿者:Toshy 投稿日:11月
6日(火)14時23分55秒
を名乗ったもの、一人残っています。その名は北条時行。
「中先代の乱」と呼ばれる戦いの時は幼少でしたが、
その後南朝について、新田と共に関東の足利氏勢力をさんざん苦しめました。
新田と北条、本来なら不倶戴天のはずが…
しかし1353年、捕らえられて処刑。
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実はきんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
6日(火)12時32分31秒
天皇に勿来を蹴られて、次に持っていったのが、安宅だそうです。これは、御裁可になって、砲艦安宅になったそうです。この船は、非常に長寿で、大正4年に完成し、終戦時に上海で、国府海軍に接収されますが、国共内戦で中国最大の軍艦である、巡洋艦重慶(元イギリス軽巡洋艦オーロラ)と共に共産側に寝返ります。この時は、国府海軍の半分ぐらいの艦艇が一遍に寝返ったといいます。以後人民海軍として行動し、1970年代にスクラップにされたといいます。
安宅関は、歌舞伎の世界だけだという説もあるそうですね。安宅関跡という石碑は、海岸の砂浜にあります。私も、北陸道でなく、なんで海岸にあったんだと思っています。個人的には、安宅関は、歌舞伎の世界だけだろうと思っています。
ただ、安宅がある小松市は、海岸が侵食され海の中にあるといってますが。
義経の逃避路を見ると、頼朝は奥州に逃げるようにしたように思います。頼朝の目的は、義経より奥州だったように思います。
北条氏については、「中先代の乱」もありますので、矢張り、北条を名乗りにくくなったのではないでしょうか?有名な司馬遷の子孫も、宮刑を受けた家ということで、2人の息子は、同と馮だったと思いますが,改姓せざるを得なくなったと聞きました。
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高尾城址 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
6日(火)01時20分21秒
を破壊したのが他ならぬ石川県だったのですか!!
無知とはいえそれは惜しいことをしたと思います。
>当時、マスコミでも全国的に馬鹿野郎と言われて、当時の県知事とかが汗をかいて言い訳していました。
確かに石川県土木部は大馬鹿者と言われても仕方がないですよね、笑
尤も土木部には石川県に限らず大馬鹿者が多いような気がします。
太田さん
軍艦に「勿来」と命名しようとした話は笑えました。
まるで落語の小咄のようですね^^
この海軍大臣は「勿来」を大和とか武蔵のように「字」の固有名詞としてしか認識していなかったのでしょうね??
関所といえば「安宅の関」も有名ですね。
鎌倉幕府が滅んだ原因は恩賞地不足によるものだと思います。
元寇を撃退するためとはいえ、やはり命を賭けて必死に働いた御家人に対して恩賞が少なかった事が幕府に対する求心力を失わせたのだろうと思います。
でも領地を新たにゲットした訳ではないですから御家人の要求に応えるのは難しかったと思いますが...
西国に多く残っていたと言われる荘園を侵略してでも恩賞として与えれば良かった様な気もしますが...
なかなか難しいですよね^^;;
それにしても「北条氏」が跡形もなく滅んでしまったのは何となく不自然な気がしています。
これは敗者となったために北条を名乗らなくなったからなのでしょうか??
政治的敗者はここでも「平家の落人」になったのでしょうか??
Toshyさん、面白いトピックのようですね^^
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ダイダラボッチ 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
6日(火)01時17分27秒
について考えてみました、笑
発音からするとダイは漢音のように思われますが実のところどうなのでしょうか??
和語(縄文語)でこのように発音するのであればダイの意味が大きいになるのは偶然以外の何ものでもない様な気がしますが...??
ダラは恐らく「たらり」とか「だらり」の変形したもので意味は水・油などのしたたりおちるさまでしょうか??
ボウは坊で区画かな??^^;;
でも「だら」を辞書を引いてみたら(東北・関東・中部地方、熊本県で)
人糞肥料、とありました、笑
結局何のことかよく分かりませんでした、自爆^^;;
大三元さん、代田について教えていただいて有り難うございました。
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Yahoo板で 投稿者:Toshy 投稿日:11月
5日(月)16時14分03秒
あばれています(わら
ぜひ皆様も来てね。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=nrbbkbb3bcjc0fea52a1aa5e0&sid=1835208&mid=1&type=date&first=1
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鎌倉幕府 投稿者:太田守人 投稿日:11月
5日(月)13時04分17秒
北条が滅びたのはつまるところ恩賞に不満があったからでしょうね。鎌倉幕府は、武士が安穏に食えることを保証した政権のように思います。高時が、いくら猿楽に狂っていても、武士が安穏に食えたら倒れなかったと思います。鎌倉幕府は、その絶頂期に倒れたように思います。
このことから、尊氏は恩賞を厚くしたんでしょうね。戦国時代までは、武士も西洋のナイトと一緒で、自分を高く買ってくれる人に付くといのが、倫理観だったように思います。
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勿来の関 投稿者:太田守人 投稿日:11月
5日(月)12時40分22秒
不破の関もそうですが、勿来の関もすごいネーミングですね。まあ、反対にこれは、蝦夷からもそう思われていたようにもおもいますがね。
勿来の関でおもしろい話があります。かって、日本海軍の軍艦の命名は、天皇の大権に属していました。駆逐艦以下の小型艦は、天皇の依頼により海軍大臣がつけても良いということになっていたそうですが、ある時、長江で活動する砲艦に名前をつけることになり、海軍大臣が、勿来という艦名を候補とし、宮中へ参内したところ、軍艦の大好きな明治天皇から、一蹴されたといいます。
その理由は、勿来は、中国人は「来るなかれ。」と呼ぶということでした。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
5日(月)12時03分29秒
高尾はいまは「たかお」といいますが、この当時は、「たこ」といっていたようです。
この高尾城址は、昭和40年ごろに、石川県土木部が、土砂を取る許可を出し、教育委員会の文化財保護課が気付いて、止めてた時は、9割がた遺構が壊されていました。当時、マスコミでも全国的に馬鹿野郎と言われて、当時の県知事とかが汗をかいて言い訳していました。
ここは、壊されるまでは、この時代の城址遺構としては完全に近く、全国から非難を浴びていました。
今は、これ以上壊されたらたまらんということで、この遺構のうえに、県の社教センターが立っています。
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安部式部さん 投稿者:太田守人 投稿日:11月
5日(月)11時52分48秒
ダラは、私の友人が大阪の大学にいた時通じたそうです。あそこは、「アホンダラ。」といいますからね。
ちなみに、アホは秦の始皇帝が作った阿房宮が語源で、馬鹿は秦の二世皇帝が、鹿を馬と言いくるめられたことが語源だという説もあります。まあ、別の説もあり真偽は不明ですが。
シナもチャイナも秦が語源だと言いますし、秦という国があたえた影響というかインパクトは大きかったのですね。
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東京のダイダラボッチ 投稿者:dai3gen 投稿日:11月
5日(月)09時07分58秒
きんたろうさん
こんな情報がありました。御参考に。(代田とダイダラボッチ関連)
http://www.ksky.ne.jp/~hideki/timei/setagaya.htm
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何と 投稿者:きんたろう 投稿日:11月 5日(月)00時08分08秒
東京にもダイダラボッチがいたのですか!!
代田という漢字からは田んぼにならない場所なので畑にしたのかなと思っていました、笑
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方言と神様について 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
4日(日)22時55分39秒
安部式部さん、久しぶりですね^^
元気でしたか??
>石川県富山県ではダラとはアホやバカのことです。
そうなんですか!!笑
こちらではダラという言葉はないですね。
使っている人を見たことがありません。
ひょっとしたら縄文対弥生の熾烈な戦いが北陸地方ではあったのかもしれませんね??
その名残なのかも??
信州の○○ズラという使い方は○○ですという意味ですから、ダラと音的には似ていますが全然別のものなんですね。
ところでふと思いついたのですが「神主」は変な言葉だと思いました。
神の主ということは神様よりも上位に来るという意味になってしまいますよね??笑
「神主」だと「神様」より偉くなってしまいますから言葉として矛盾しているように思いました。
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ダイダラボッチは北陸弁で・・・・ 投稿者:安部式部
投稿日:11月 4日(日)18時02分50秒
石川県富山県ではダラとはアホやバカのことです。
よってダイダラとは大馬鹿者と訳せます。
さらに、ダイダラボッチとは「大馬鹿者のボッチ」ということになります
ほんじゃ、まったねー (^Q^)/^
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東京のダイダラボッチ 投稿者:dai3gen 投稿日:11月
3日(土)21時31分18秒
世田谷区の地名「代田」もダイダラボッチから来ている、という話を聞いたことがあります。
あのあたりは、そういえば、大きなお尻の窪みのような盆地のような気がします。
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不破の関 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
3日(土)19時01分25秒
というくらいですから絶対の防御をするという強い意思をこの名前からは感じますよね。
ここは三関の一つとして有名ですが元々は国境(のようなもの)だったのでしょうか??
太田さん、掲示板の差別化といっても実状はかなりファジーですから気になさらないで下さい^^
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ダイダラボッチ 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
3日(土)18時52分41秒
については常陸風土記那賀郡のところに「大櫛の岡の巨人??」として書かれています。
この場所は現在の水戸市の大洗寄りにあります。
そしてここはまた大串貝塚として有名です^^
貝塚について書かれた記録としては常陸風土記が世界最古のものであると思います。
(多分??^^)
安房、上総、下総、常陸と国名は別れていますがそれは後から誰かが名付けたものです。
高坂さんのところに書かれているダイダラボウの伝説も距離的近さを考えるとこちらにある伝説に深く結びついているような気がしています。
田中兵部さん、よくいらっしゃいました^^
まさか合戦を体験されている人がいるとは思いもしませんでした、笑
これはサバイバルゲームの戦国版なのでしょうか??
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初代征夷大将軍 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
3日(土)18時49分44秒
と幕府の成立については輔住さんが言われるとおりだと思います。
何しろ朝廷の不敗の奥義(=究極奥義)といえば「事後承諾」ですからね、笑
Toshyさんの言われるように征夷大将軍が武家の統領として政権を持つ者になったのは頼朝の功績だと思います。
以下は蛇足です^^;;
ちなみに幕府とは中国では出征中の将軍の幕営をいいます。
日本では近衛府の唐名なのです。
ここから近衛大将やその居館を幕府と言うようになったようですね??
頼朝が右近衛大将に任ぜられてその居館が幕府と呼ばれました。
そしてこれ以後は武家政治の首長の居館は近衛大将の官と関係なく幕府と称されるようになったのです。
高坂さん
>北条氏は将軍家なきあと、一人勝ちでしたが、徳川家のような強さは最後まで持てなかったように思います。
将軍、関白、執権と武家政権における実質的権力者はそれぞれ違いますがやはり執権というのは「代行者」という意味合いがどうしても強いように感じています。
尤も関白も朝廷の代行者であるという点では全く一緒ですよね。
これが院政の開始によって急速に藤原氏の勢力が減少していく原因だと思います。
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太田さん 投稿者:きんたろう 投稿日:11月
3日(土)18時46分24秒
>加賀一向一揆も、今のように族議員や圧力団体がいて、業界代表が、国政の運営にあったていたようです
なるほど、これは納得しやすいですね、笑
一揆を起こすこと自体が利権の対立というべきものですよね。
恐らくは多様な構成者からなる一揆側内部の利害をうまく調整出来た事こそが長期にわたる一国の支配にまで繋がった様な気がします。
>高尾城(たこじょうといいます。)
「たかお」と呼ぶものとばかり思っていました。
固有名詞は難しいです^^;;
金沢にも5回くらい行ったことがありますよ。
小京都と呼ばれる街は日本全国に数多くありますが金沢は北陸の京都のような感じがしますね^^
市内を流れる川の感じをもう少し大きくすると仙台にも似てくる様な気がしますv(^o^)
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大三元さんの本の宣伝v(^o^) 投稿者:きんたろう
投稿日:11月 3日(土)18時43分10秒
大三元さんの渾身の一冊^^はアマゾン・ドット・コムで購入する事が出来ます。
下記のアドレスに「知ってびっくり!古代日本史と縄文語の謎に迫る」が出ていますでご覧になってみて下さいね。
カスタマーレビューとして読者の感想などもありますし感想を送ることが出来ます。
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