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天体ショーと一所懸命 投稿者:きんたろう
投稿日:11月21日(水)00時04分01秒
そうか^^
さすがに勇者ロトさんは鋭いですねv(^o^)
Toshyさんもそんな時間に運転をしているとはやはりギャルと一緒だったのですか??^^
私は2時半に目覚ましをかけておいてのですが...全然気が付きませんでした(^^ゞ
天体ショーを見ることが出来なくて本当に残念だったと思っています。
まことさん(久しぶりですね^^)もベギラさんもしっかり見たのですか!!
それは羨ましいです。
太田さん
>国力では、ロシアが数段上だったと思います
私もその通りだと思います。
ユーラシア大陸の両端にある国同士が戦ったわけですよね。
戦場が日本の近くにあったことが補給の面においてずいぶん日本に有利だったように思っています。
第二次世界大戦については「易姓革命史観との戦い」でどのくらいになるか分かりませんが触れようと思っています。
基本的には満州経営にアメリカ資本の参入を拒否したことがアメリカを決定的に敵に回す原因だと思っていますがどうでしょうか??
一言で言えば土地にしがみつく日本人の「百姓根性」の悪い面が全面に出てしまったのかなと思っています、笑
日本人が土地に対して執着するのは「一所懸命」の伝統がありますから根は深いところにあるような気がしています。
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天体ショー 投稿者:ペギラ 投稿日:11月20日(火)22時12分24秒
そうそう
見ていない人にはわからないあの感動!
寒さに耐えて見た人だけの神様の贈り物。
心の中に大切にしまっておきましょう。
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珠玉の天体ショー 投稿者:まこと 投稿日:11月20日(火)20時31分32秒
きんたろうさん、ご無沙汰でした。変わらず歴史の造詣深い議論が続いてまして凄いです。
さてきんたろうさんは夢の中、安部奈亮さんは奈良の山奥でご覧のしし座流星群、私はAM4時過ぎの1分に2,3個を20分ほど拝見。それでもこれまでにない宇宙ロマンの神秘を堪能しました。カミサンと娘は寝ないで待ってて1分に20回以上のピークを見たんですが、毎日言ってます、「花火なんか問題にならない。いつまで見てても飽きない。あんな感動は初めてだった」って。
安部さんの「あんなに美しい光景は見たことがありません。」の感激に私も頷きます。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月20日(火)17時18分42秒
私は、日露戦争は日本が体験した初めての近代戦だと思います。国力では、ロシアが数段上だったと思います。日清戦争は、お見合い戦争とも言われますが・・・。少なくとも、日本がまず勝てる相手ではなかったが、それが勝ってしまった。何故だと考えたら、分からない。そこで、神州日本は不滅だーと言うことになったのだろうと思います。今から考えると、帝政ロシアは組織疲労を起こしていたが、当時の日本人はそうは考えなかったところに、太平洋戦争への道があったように思います。太平洋戦争の戦陣訓の中の「生きて虜囚の辱めを受けず。」ということで、捕虜になった場合の教育を兵士にしていなかった。そこで、日本兵は捕虜になったら、もう日本に帰れないということで、自暴自棄になり、割合すらすらと軍事機密をしゃべる、中にはアメリカの爆撃機に同乗し、爆撃目標を指示したケースもあったそうです。また、太平洋戦争中、日本兵は日記をほとんど全員が付けていた、それがアメリカの情報機関には、兵の配置等が良くわかり、格好の情報源になったそうです。日本陸海軍は、やはり欠陥軍隊であったと思います。
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しし座流星群 投稿者:Toshy 投稿日:11月20日(火)14時14分15秒
運転中に偶然、一つだけ見ました。予想していなかったのでちょっと感動♪
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阿川弘行氏は、 投稿者:太田守人 投稿日:11月20日(火)13時50分17秒
上海で終戦を迎えたそうです。氏は海軍の予備士官でしたが、希望して上海の通信隊に赴任したそうで、その理由が、中国ではたらふく食べれるということだったらしいです。太平洋戦争では、唯一日本有利の戦線でしたから。ただ、氏が赴任した時は、そんないいところではなかったそうです。中国は、アメリカは最初B−29の基地を、中国に設けここから日本を空爆する予定だったそうです。インド経由で物資を補給する予定でしたが、世界の屋根と言われる、エベレスト山系を越えられる輸送機があまりなく、半分ほどのB−29を爆撃機としてではなく、輸送機として常時インドとの補給のために振り向けなければならなくなり、これをあきらめ、サイパンを攻略したそうです。この時に、補給隊のB−29が9,000mで飛行中、海抜10,000mの山を発見したと報告し大騒ぎになったそうです。この山は、アムネスチン山らしいですが、この山は海抜6,000m位で、1機でなく、数機の飛行機の乗員が一斉に、なんで間違えたのかいまでも謎だそうです。
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奈良の山奥 投稿者:勇者ロト 投稿日:11月20日(火)12時02分17秒
もちろん、ギャル(死語?)と一緒に流星群を見たのですよね?>安部さん(^^)
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/bbs/index.shtml
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獅子座流星群 投稿者:きんたろう 投稿日:11月20日(火)01時01分07秒
はものすごかったらしいですね!!
私は残念ながら出現の直前に夢の世界の住人になっていました、笑
安部さんは奈良県まで出かけたのですか!!
奈良の山奥とはずいぶん綺麗な夜空だったのですね、笑
でもかなり寒かったでしょう^^??
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そう言えば 投稿者:きんたろう 投稿日:11月20日(火)00時58分23秒
太平洋戦争の時、中国大陸戦線からアメリカと対峙する太平洋側へ移動になった者で「戦況はどうですか??」などと明るい声で尋ねてきた人もいるそうです。
一方アメリカ軍の強さを身に染みて感じている太平洋側の部隊は当然の事ながらそのギャップに驚いたというかまともに返答できなかったらしいですよね??...
などとと聞いた事があります。
でもこれは実際はどうか分かりませんが^^;;
事実というよりも伝説の一種のような気もします、笑
日本が無条件降伏をする直前には世界中の国々が日本に対して宣戦布告をした状態になりました。
第二次世界大戦の敗戦については日本が負けたのはアメリカに対してでありそれ以外のところに負けたとは大多数の人が思ってはいなかったのではないでしょうか??
またそれが実際にアメリカ以外には負けていなかったと思います。
要するにこれはドラえもんの「のび太」が「ジャイアン」にぼこぼこにされたのようなものなのです。
ですから実はのび太はジャイアンだけに負けたはずなのですが、それを見たクラス中の全員がジャイアン側に立った(勝ち馬に乗った)といったところが真実により近い姿だと思います。
乃木の無能さとは戦国大名と比べてみると明らかだと思います。
武田勝頼にしても父親よりも戦の頻度を高めただけで国内が疲弊してしまったのです
自分の兵力の消耗を考慮せずに投入する事などは戦国時代では下策以外の何ものでもありませんでした。
この方式による強さはナポレオン率いるフランスのそれと共通するところがあると思っていますがそれにしても損害があまりにも大きすぎたように思っています。
もしくは誰が大将でもロシアを打つ破るには必要な被害だったのかもしれません。
でも太田さんが書かれているように乃木の大将としての能力の疑問視は付くと思います。
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楊さん、きんたろうさん 投稿者:太田守人
投稿日:11月19日(月)17時08分37秒
確か司馬遼太郎氏だったと思いますが、世界の陸軍はその国の土俗というか風土を端的に反映していると書いておられました。私もそうかなと思います。
海軍というのは、全世界ともイギリス海軍を基本としています。そのイギリス海軍は、海賊の習慣が基本となっています。艦艇に、将官が乗り降りする時、ボースンパイプという笛を、海軍では吹きますが、これは、かってイギリスの私略船の船長が、乗船する時、大抵酒に酔っ払って、足腰がふらふらになっているので、もっこで担ぎ上げたそうです。その時に、調子を合わせるために、ボースンが笛を吹いた名残だそうです。司馬遼太郎氏は、陸軍の戦車兵でしたが、「坂の上の雲」を書いた時に、呉だったか広島だったかに、日本海海戦の時の軍楽隊だった人が、まだ生存しておられ、その人の元を、当時の海上自衛隊呉音楽隊の隊長が、ほとんど毎日尋ねてきていたことに、驚いたと書いてあったと思います。
日本海軍の最後の稼動戦艦であった、長門をビキニまで回航した、ウィプルというアメリカ海軍大佐(少将で退役)は、100歳近くの長寿で最近死亡したといいますが、最後まで「アメリカ太平洋艦隊旗艦の戦艦ペンシルバニアと、日本の連合艦隊旗艦の戦艦長門で、勤務したのは俺ぐらいだ。」と自慢していたと言います。司馬氏ではなかったと思いますが、かって陸軍で勤務した作家で、「このあたりの気持ちは、陸軍のものには分からん。」と言っていた人がいました。
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しし座流星群見てきました 投稿者:安部奈亮
投稿日:11月19日(月)16時33分38秒
奈良県の山奥まで行って見てきました。
今までに見たこともないような満天の星空の中を,多いときには1秒に1個くらいのペースでびゅんびゅん星が流れていきました。あんなに美しい光景は見たことがありません。
いやあ,すばらしかったです。
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第9師団は、 投稿者:太田守人 投稿日:11月19日(月)13時05分37秒
第3軍の中でも大変戦死者の多い部隊です。乃木はこの旅順攻撃で、息子2人を戦死させますが、第3軍の師団長以下のクラスから、息子の戦死に関して同情論はまったくなく、第9師団長やその他の師団長・連隊長から、「あんな下手な戦をして、陛下の赤子を大量に殺して、息子2人を殺すのは当たり前だ。」という乃木批判が噴出したと言います。乃木は、明治天皇の崩御後、殉死していますが、これは西南戦争の時、連隊旗を取られた責任でということになっていますが、私は、旅順のこのような無言の批判も原因だったように思います。
東郷も、日本海海戦では、大失敗をしています。バルチック艦隊の旗艦戦艦スワロフが、舵故障で左によろけた時、東郷は、バルチック艦隊が左回頭を行うと思い、連合艦隊に一斉回頭の指令を出します。もし、ここで東郷の命令どおりにしていれば、バルチック艦隊は、半分はすりぬけウラジオスットクに逃げ込み、後数年は戦争が継続したであろうといいます。
ところが、第2艦隊司令長官の上村中将と先任参謀の佐藤中佐が、これを見抜き、指揮下の巡洋艦のみでロシア戦艦隊と戦闘を続けます。東郷の幸運は、このような大失敗をしても、1時間半後再び、バルチック艦隊の前面に出れたことです。レーダーや航空機のない時代に、一度水平線のかなたに敵を見失った艦隊が、再度敵艦隊と遭遇すると言うことは、僥倖以外のなにごとでもありません。ここに、バルチック艦隊将兵は、新手の日本艦隊とばかりに戦意を失ったと言います。
バルチック艦隊の航海参謀セミノーリョフ中佐は、その回想録で「日本艦隊将兵は、全員小東郷であった。」と言っています。
ただ、私は日露戦争が、昭和20年8月15日の原点であったと思います。
以後、陸軍の仮想敵国と海軍の仮想敵国がばらばらになってきます。陸軍はロシアの復讐を恐れ、海軍はアメリカを敵とします。ガダルカナル戦で、アメリカの海兵隊という組織を、陸軍は知らず海兵隊と戦うことになった陸軍は、海軍に「海兵隊ってなんですか?」と聞きにきて、「ああ、アメリカの陸戦隊ですね。」と言って帰り、そんなら弱いと勝手に判断し、10分の1の兵力しか投入せず、弱いはずの海兵隊に、全滅させられます。アメリカの海兵隊は、「入浴の時にはタオルなんて軟弱なものは使わせない。奴らは鉄条網で体を洗う。」という最精鋭部隊です。陸軍は、アメリカの戦力をまったく知らずに、太平洋戦争に突入しました。
日本の陸海軍の仲の悪さは、かのヒトラーをして「日本はアメリカと戦争してるのではなく、日本陸海軍で戦争をしている。」と言わしめたほどでした。
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早速やってみました^^ 投稿者:きんたろう
投稿日:11月19日(月)00時06分22秒
ねこだらけになってしまいました、笑
これは面白いですv(^o^)
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変換フィルタ 投稿者:Sin 投稿日:11月19日(月)00時02分46秒
実用性はありません(笑)
http://inva.plaza.gaiax.com/neko/
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続き 投稿者:きんたろう 投稿日:11月18日(日)23時30分02秒
手塚治虫さんのご先祖が茨城出身者だったのですか??!!
思わず身を乗り出してしまいました、笑
適塾からは逸材がずいぶんと出ていますよね。
楊さん
何故太平洋戦争を始めてしまったのかという理由については複数の要因が複雑に絡み合って化学変化を起こしたようなものではないかと思っています。
それらの中でも私は第一には当時の列強による世界支配による植民地化への「恐怖」を第一に挙げたいと思っています。
この要因があまりに強いインパクトを開国以来から与え続けられてために一種のヒステリー状態に日本国民が覆われてしまったように感じています。
しかし矛盾するようですが極東地域において唯一近代化に成功した日本は清、ロシアを破ったことにより一種の安心できる状況を築いたと錯覚したように思うのです。
この錯覚による「太平の夢」のために日本人の支配的資質である「どん百姓」感覚が際だってきたのではないでしょうか??
これは現代風に言えば省益重視とか「仲間内の和」を最優先するとも言い換える事が出来ると思っています。
Toshyさん
はは^^;;
その辺りは愛嬌ということですね、笑
あれを使って英訳する場合には文章を短く区切った方が誤訳も少ない様な感じがします。
いずれにしてもあれをそのままでは笑える英語のままだと思います。
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源さん、笑 投稿者:きんたろう 投稿日:11月18日(日)23時25分34秒
私も源さんのページを見て初めて石川県民が旅順攻略にずいぶんと関わりがある事が分かりました。
私の場合の日露戦争についての知識は正直なところを言えば203高地において乃木が「進め〜」と無策(無謀??^^;;)にも人海戦術にのみ頼って多くの日本兵を犠牲にしてようやく手にした薄氷の勝利といったレベルの知識しかありません。
>今年中くらいに、2年間放っておいた「石川県と戦争(2)第9師団と日露戦争」を、前編(旅順の戦いが主)に引き続き、後編として、奉天の戦いを主としたコンテンツを作成しようと思っています。そのあとは、太平洋戦争、真珠湾の戦いを考えております
それは楽しみにしています。
是非とも今年中にアップできることを願っています。
私もここのところまとまった時間をなかなか作ることが出来ないために更新作業が止まったままになっています。
頭に描いたイメージや言葉をそのままにしておくと色あせてしまうような気がして残念なのですが...^^;;
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あと 投稿者:Toshy 投稿日:11月18日(日)15時50分36秒
kitunoさんが Mr. になってました。女性であることを証明するには
「kituno女史」とでも書かないといけないのかな?
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英語のページ 投稿者:Toshy 投稿日:11月18日(日)15時48分52秒
わしの「津太夫」をきんたろうさんのソフトを通じてみたら、
善六が good 6 という名前に!!
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(無題) 投稿者:楊 景順 投稿日:11月18日(日)11時24分52秒
太田さん、安部さんの太平洋戦争前の軍部の話を楽しく読ませていただいております。なかなか皆さんお詳しく、通常の歴史の授業にはない歴史上の人物の通常人としての生活が浮かび上がってきて非常に興味深いお話です。
このあたりの時代の人々の考え方や行動が、後の太平洋戦争に結びついていって敗戦となるわけですが、この流れが日本人の考え方の一つの典型を示唆していると思っております。
司馬遼太郎氏は著作のなかで、「何故、日本は太平洋戦争を始めてしまったのか」が執筆の動機となったと述べておられますし、井沢元彦氏の著作に影響していると思われる山本七平氏も敗戦後の捕虜生活で捕虜として、また戦争犯罪人の準容疑者として通訳をする段階で感じた違和感がその後の著作の動機となったと思われます。このあたりは安部さんが指摘されたとおりと小生も思います。その結果、司馬氏は「昭和十年代の日本だけが異常であった」とし、山本氏は「日本人を支配する”空気”」を発掘し、この”空気”を生み出すのものが、井沢氏では”言霊”として解明の対象となっていると思います。
三氏が追求していることは、日本人を掛け値なしのニュートラルな姿で見つめなおし、これからの時代に日本人が何ができ、何をすべきか考え出そうとしているのだと思います。三氏の追及されることは、日本の組織、地域生活、学校、会社、官公庁のなかで今もおきていることですから。
そういったことを検証するためにも、今皆さんが議論されていることは面白いところをついておられると感じました。
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苦手なものは苦手で・・・・ 投稿者:源さん 投稿日:11月17日(土)15時17分40秒
>安部式部さん、議論に加わってください^^
捕物は得意なんですが、議論は苦手なんで <(^^;;
それに大学で現役で学んでいるような人が相手では、私のような能登の田舎で大きな本屋もなく、
仕事の合間に細々と読書している人間では、結果がしれています(^^;;
ただし、今年中くらいに、2年間放っておいた「石川県と戦争(2)第9師団と日露戦争」を、前編
(旅順の戦いが主)に引き続き、後編として、奉天の戦いを主としたコンテンツを作成しようと思
っています。そのあとは、太平洋戦争、真珠湾の戦いを考えております。
これらの構想は早いんですが、奉天の戦いも、真珠湾の戦いも、身内がかかわっているので、
思いいれが強くなかなか執筆に取り掛かれない状態でした。しかし、ここらでケリをつけようか
と考えています。
それから、前のカキコのまたまたの訂正と、補足!
「陽だまりの樹」の中の主人公の燈一人であるのは、手塚良仙でなくて、手塚良庵でした。手塚
良仙はその父でした。でも手塚治虫氏の先祖であることはかかわりありません。それに良仙も、
江戸で種痘の普及のため尽力というか人々の迷信と闘ったようでなかなかの人物です。
また、手塚氏の先祖ははきんたろうさんと同じ茨城県にあった常州府中藩の医師だったようで
すよ。適塾の名簿順では、359番で福沢諭吉の20人ほど後ですからちょっと後輩といったと
ころではないでしょうか。
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楽しく読んでいます^^ 投稿者:きんたろう
投稿日:11月16日(金)19時04分00秒
>ロシアの全兵力の6分の1は、陸軍のみの話だと思います。海軍は、日露戦争でほぼ壊滅し、第1次大戦中も再建できず、日本海軍から日本海海戦で捕獲した艦艇を同盟国のよしみで、譲渡してもらっているくらいです。
なるほど、そうだったのですか。
ロシアは世界でも最大級の陸軍を有していましたが海軍は違っていたのでしたね。
それにしても遥かバルト海から何ヶ月もかけて日本まで航海してきたのですからそのスタミナには呆れるばかりですよね。
そしてあの広大な領土にもかかわらず命令系統がしっかり繋がっていたという事に驚いています。
>彼は、フランス系貴族の家系で、動作は典雅だったが、特に部下には短気でかんしゃく持ちで、双眼鏡や望遠鏡で部下を殴りつけ、壊したということはしょっちゅうあったそうです。
この部分には思わず笑ってしまいましたよ^^;;
彼はとんでもない性格のようにも見えますね。
皇帝や皇后から信頼される物腰と部下に対する態度はとても同じ人物とは思えないものがありますよね^^;;
でもこれは彼が根っからの「貴族」だった証しなのかもしれませんね。
一般的に言って高貴な身分の人は下々の事などは同じ人間とは思っていないものです。
特に優雅さを持っているような生粋の貴族の場合は「血が冷たい」と言われたりしていますがこの人もその通りなのかもしれませんね??
そう言えば徳川慶喜も「冷たい」と言われていたような記憶があります。
現代史に繋がる部分については一応読んではいるはずなのですが全然頭に残っていませんでした、自爆^^;;
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安部奈亮さん 投稿者:太田守人 投稿日:11月16日(金)16時46分01秒
の投稿で、東郷の息のかかった派閥というのは、加藤寛治、小笠原長生らです。小笠原長生は、唐津藩主の家系で、秋山真之とは同期で彼の家にあった古文書から、日本海海戦のヒントを得たと言います。東郷の息のかかった派閥というより、年老いた東郷を、加藤寛治、小笠原長生ら艦隊派と言う連中が、変な注射をして東郷を引っ張り込んだという形です。日露戦争で、頭脳をすり減らしたのは秋山真之、命をすり減らしたのは児玉源太郎と言われてますが、日露戦争後、秋山は奇矯な言動が増えたと聞きました。彼は、第1次大戦の経過をあて、流石秋山と言われたそうです。東郷は、ロンドン会議の時に、当時の海軍大臣谷口尚美が、「航空機を中心とした海軍にしようと思います。」と話したときに、「女日照りを、男で解消するようなものだ。わしが、今まで陛下に奏上していたことを全てうそにするのか。」と激怒したと言います。前に「神様と宮様。」と書きましたが、このコンビが伏見宮もくどき落し、太平洋戦争へと持っていきます。山本五十六など、先輩の加藤寛治が大嫌いで、「夜中権門を叩く奴にろくな奴はいない。」と人に言っていたそうです。
真珠湾を指揮した、第1航空艦隊司令長官の南雲忠一中将は、この艦隊派の提督で、山本はあまり好きでなかったようです。
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北浜の適塾には 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月16日(金)15時54分09秒
「陽だまりの樹」のモデルの手塚治虫さんのご先祖様の入学証だったか出席簿だったかが展示されていました。
しかし適塾はあんなに狭いのによくまあ何十人も塾生が勉強できたものです。よっぽど暑苦しかったに違いない(笑)
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日露戦争後の秋山真之は 投稿者:安部奈亮
投稿日:11月16日(金)15時12分51秒
「坂の上の雲」では,廃人になってしまったかのように書いていますが,実は海軍内部で中国進出を進める中心人物になって,謀略や政治耕作を行います。東郷元帥も,1920年代の軍縮に強硬に反対しつづけます。1930年代になって東郷の息のかかった派閥のほうが実権を握り,伏見宮を頭目に祭り上げて,軍拡を推し進めます。
「坂の上の雲」の登場人物のその後はあまり爽やかとは行かなかったようです。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月16日(金)13時07分17秒
ロシアの全兵力の6分の1は、陸軍のみの話だと思います。海軍は、日露戦争でほぼ壊滅し、第1次大戦中も再建できず、日本海軍から日本海海戦で捕獲した艦艇を同盟国のよしみで、譲渡してもらっているくらいです。この海軍の壊滅には、ロシアのアレクサンドラ皇后の口出しがあったようです。極東艦隊が壊滅したことを聞いた皇后は、皇帝にバルチック艦隊の極東回航を言い出します。
皇后に頭のあがらない皇帝は、バルチック艦隊の極東回航を命じますが、官僚達は抵抗します。
最終的には、勅令で官僚の反対を封じます。これが、第二太平洋艦隊と呼ばれ、司令長官にはロジャストウインスキー中将が任じられます。この人は、侍従武官等を歴任しており、皇帝の信任が扱ったため、皇帝自身が任命したと言います。ただ、ロシア海軍部内でも、海上勤務がほとんどなかったため、観艦式の司令長官と陰口を叩かれますが、私は彼の能力は高かったと思っています。
驚くべきことに、この回航のための物資を官僚達が出し渋り、司令長官自身がピストルで担当者を脅しつけて、必要物資を調達したこともあったそうです。彼は、フランス系貴族の家系で、動作は典雅だったが、特に部下には短気でかんしゃく持ちで、双眼鏡や望遠鏡で部下を殴りつけ、壊したということはしょっちゅうあったそうです。この性格が災いし、ドッカーバンクでイギリスの漁船を多数砲撃撃沈し、イギリス・ロシア戦争寸前まで外交をこじれさせ、解任寸前までいきます。
ただ、典雅な行儀作法は、皇后にも好感があり、リバウ軍港から出港する時に、皇帝・皇后が見送りにきますが、その時皇后がまたいらない口を出し、ロジャストウインスキーが、わざと残していった老朽艦で、第三太平洋艦隊を組織させ、ネボガトフ少将がこれを指揮し、極東へ向かいます。
第二太平洋艦隊は、イギリスが同盟国として、陰に日向に邪魔をし回航を遅らせ、日本が充分準備ができるようにします。ロジャストウインスキーの性格もありますが、イギリスの邪魔のため、各地で摩擦を引き起こし、特にマダカスカルのノシベという漁港に、2ヶ月近く足止めされます。
ところがロシア外務省は、問題を起こしてるのは俺でないとばかりに、一切外交交渉をしません。
ロジャストウインスキー個人が、問題解決に、当たらねばならないようになり、彼の短気な性格に拍車をかけます。信濃丸という仮装巡洋艦が、バルチック艦隊を発見しますが、これはこの艦隊附属の病院船を臨検しようとし,偶然見つけます。この海域を203海域と呼ばれており、203高地と同じなので、関係者は偶然に驚いたそうです。この後、三等巡洋艦和泉という船が、バルチック艦隊に張り付き、進路を報告したため、連合艦隊はその方向に舵をとるだけでよく、非常に楽だったと言います。この時、和泉艦長の石田大佐は、危険だから逃げようという部下に、「和泉1隻で、日本が勝てるなら安いものだ。」といって張り付くのをやめなかったそうです。
この後、第4駆逐隊の4隻の駆逐艦が、和泉の応援にきますが、この時の司令鈴木貫太郎中佐(終戦時の首相)は、敵艦隊の構成等を調べるため、バルチック艦隊の前面を横切るという非常識な行動に出ます。ロジャストウインスキーは、機雷を前面に撒かれたと思い、進路変更を命じますが、およそ、先進海軍国では考えられないミスを起こします。4番艦オスラビアが信号を誤認し、違う方向に向かい、各艦が衝突を避けるため、艦隊の陣形がばらばらになります。この時、東郷平八郎指揮の連合艦隊が現れ、海戦が始まります。以降の経過は、歴史の教科書どうりです。ロジャストウインスキーは、終戦で帰国後暫くは、英雄とされていましたが、旗艦スワロフに乗っていた造船官のポリャンスキーという人(この戦いで戦死します。)が、妻に充てた手紙をこの妻が出版したことから、風向きが変わり卑怯者とののしられ、海軍を追放されます。ただ、皇帝の口添えで年金だけは保証されます。第三太平洋艦隊司令官ネボガトフ提督は、ウラジオストックに向けて逃走中、連合艦隊に囲まれ、「若い者をこれ以上殺すわけにいかない。」といい降伏しますが、これにより、戦後海軍を追放され、シベリアで紅茶の行商で露命を繋いでいたが、最後はどうなったか誰にも分からないそうです。
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楊さん 投稿者:きんたろう 投稿日:11月16日(金)00時50分15秒
>一見理論的で、矛盾がなく、反論ができない。だけど、常識の直感では間違っているのではないかなと感じるようなところです。
>本物は、素人の意見に根気よく耳を傾けるものです。専従者にはない大胆な発想が得られますから。
なるほどと思いましたv(^o^)
「アキレスと亀」の問題のような感じがしました。
確かに現実的に見ればノット・グッドであることは明らかなのに与えれた条件の中だけで判断した場合はグッドに変わってしまうというような事はあるように思っています。
それにしても太田さん、安部さんは近代史も詳しいですねv(^o^)
驚きましたよ。
安部式部さん、議論に加わってください^^
ところで日露戦争とは世界帝国主義国同士が正面からぶつかり合った戦いとされていますよね。
総合的な国力では圧倒的にロシアの方が上でしたがロシアは国内に農奴制の矛盾??のような大きな不安定要因を抱えていました。
そのためにロシアは国内治安維持のために精鋭部隊を日本との決戦に向ける事が出来ませんでした。
確かロシア側は確か全兵力の6分の1くらい??で日本と戦ったような記憶があります。
それでも徐々に日本側が押されていったわけですからさすがに「大国ロシア」の実力は侮れないと思います。
しかし、そのロシアにしても対日本戦に6分の1の兵力を向けたために第一次革命が起きてしまうほど深刻な国内事情を抱えていたと言えるのだと思います。
この様に日露戦争とは全力を出しきった日本と全力を出しきれなかったロシアがそれぞれもてる条件の中で最大限の努力をした戦いであったように思っています。
当時の社会主義者といえば非戦論を唱えた幸徳秋水とか堺利彦あたりが有名です。
日露戦争については内村鑑三もキリスト教の立場から反戦を唱えていたように思います。
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イザベラ 投稿者:きんたろう 投稿日:11月16日(金)00時44分55秒
C・L・コバーチュ先生が書かれた「眠れる美女・茨城」という本を見ていたら野口雨情について書かれている部分がありました。
この方は数年前まで筑波大学の先生をされていたそうです。
その彼女が茨城全県を歩いて感じた歴史的な印象を本にしたものです。
私は野口雨情については素晴らしい童謡を幾つも発表された事くらいしか知らなかったのですが何と彼の家系とは楠家だったのです。
彼の家系とは楠正成の弟の正李の直系の子孫に当たるのだそうです。
正李は尊氏との戦いに敗れた後、名前を変えて三河の野口村に逃げたとありました。
更には関東へと移ったようです??
そして茨城の北部に来てようやく安住の地を見つけたのでしょうか??
光圀はこの家系が自分が尊敬する「楠家」を伝える事を確認して野口家を保護したようなのです。
現在ある家は光圀が野口家に与えたものであり、そのために光圀以降の水戸藩主の本陣にも使われたとの事です。
更には光圀は身籠もっていた自分の愛妾の一人を野口家の長男に嫁がせているとありました^^;;
ひょっとすると野口雨情とは光圀の血を受け継いでいるのでしょうか??
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下記訂正他 投稿者:安部式部 投稿日:11月15日(木)21時35分29秒
故手塚氏のマンガは、×「陽だまりの」→○「陽だまりの樹」
それから星新一氏ももう亡くなっていますから、手塚氏と
同様、故星新一氏と書くべきだったかもしれません。
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皆さん、お熱い議論をされているようで・・・・・ 投稿者:安部式部
投稿日:11月15日(木)21時30分56秒
私は、とても議論には口を挟めるような博識な者でも論が立つ者でもないので、幕末明治
を知る手軽なマンガと本の紹介したいと思います。
1つは、故手塚治虫氏の「陽だまりの」です(今、読んでいるところです)。
適塾の塾生である手塚良仙を一人の主人公としたマンガです。手塚良仙は、実在の人物で
、手塚治虫氏の曾祖父にあたるそうです。
いま1つ(というか同一著者の2作)は、星新一著の@「明治の人物誌」とA「人民は弱し官吏
は強し」です。@は星新一の父・星一が関わった歴史的人物の伝記、Aは星一が星製薬会社
を興し、官僚組織と闘うことになった話しを書いたものです。
手塚氏の場合も、星氏の場合も、自分の先祖が関わったという話しでもあり(勿論、手塚氏
の場合はマンガですから虚構もかなりあるでしょうが)、作家自身の思いが非常に現れてお
り、その人の歴史観・人生観のようなもの他の作品より色濃く出ており、読んでいて自分
の胸に響いてくるものがあります。具体的事件・人生の闘争を当事者の血縁者が描いている
だけに幕末や明治の状況がより深く理解できるのではないかと思います。
いや、このように私が書くのは、私は、高度な考証力を必要とする学術的な方面には向いて
いないのでしょう。私としては、このような自己の人生を闘争する姿などから、つまり小説
や伝記、自伝のようなものなどから、一番、歴史のダイナミズムや過去の状況を知ることが
できるような気がします。
でも自分はこの程度でいいと思っている源さん、いや安倍式部でした (^^;;
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戦死者 投稿者:太田守人 投稿日:11月15日(木)17時56分58秒
については、日清と日露では比べ物になりません。旅順にしても、日清戦争では、半日くらいで落ちたそうです。日本海軍は、徴兵と志願兵を交互に取っていたそうです。どこの国でも徴兵制度のあるところでは、陸軍より海軍の方が服務は長いものです。これは、海軍は機械を相手にするということもありますが。旅順の第3軍も日清の頭で作戦計画を立てたのがそもそもの原因です。
日本海軍では、同じ士官でも軍令継承規則というものがあり、機関科士官は、兵科士官の下におかれ、艦長が戦死すると、副長、後は兵科士官の階級順にいき、兵科少尉が戦死後、機関長(普通は大佐・中佐あたり)がやっと指揮をとれるとなっていました。これは、イギリス海軍では、機関科士官には中産階級の出身者が多く、兵科士官は貴族がなっていたことに由来しているらしいです。
ただ、アメリカ海軍のみは、昔からこのような士官間の差別はなく、特に軍事機密にスクリューをつけたら潜水艦なると言われる、潜水艦の艦長は機関長を経験していない者は、潜水艦の艦長にさせないというほどでした。ただ、半年くらいで海軍も、新兵を乗艦させ戦闘に参加させています。
日本海海戦は、日本海軍がまだ進取の気概があった時で、それまで軍艦の砲戦は、各砲で距離や狙いを定め打つというものでしたが、日本海軍では、旗艦のマストの上(その軍艦の一番高い所)で、射撃指揮をし一つの大砲だけ打ち、距離を測りそれを各艦に信号で知らせ、一斉射撃をするという方法を採用していました。このため、ロシア艦隊は、自分の大砲が当たっているかはずれているか、まるきっり分からなかったそうです。この日本海海戦の戦法は、秋山真之という参謀が考えたものですが、これは村上水軍の戦法をまねしたそうです。
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太田さん、 投稿者:楊 景順 投稿日:11月15日(木)17時12分20秒
私も寡聞にして、日清戦争と日露戦争の間にそのような変化があったとは知りませんでした。当時の刊行物を調べてみなければなりませんが、日清戦争に比べると日露戦争は戦死者が多いようですから、厭戦気分が高まったのではないでしょうか。日清戦争での陸戦は日露の陸戦と比べてどの程度ひどかったのでしょうか。個人的な感想では、海戦は専門家の戦いのような気がしますが、陸戦は徴兵されるとすぐに参加させられる気がしますから、もともと、他人事だったはずの戦いが身近になってきたということはないですかね。
その上、戦争なんていうのはリアルタイムで実態は分からないわけでしょうから、政争とか新聞の部数争いとか絡んでくると、すぐ、実態を離れてデマがとびかうでしょうから。踊らされることはあるのでしょうね。
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日露戦争のときは反戦? 投稿者:安部奈亮
投稿日:11月15日(木)17時05分01秒
これは戦後に作り出された誤ったイメージだと思いますよ。
ただし,損害は日清戦争のときと比べ物にならず(戦死者は日清は数千人でしたが日露は数万),日露戦争の末期には厭戦気分が広がりつつあったのは確かだと思いますが。
日露戦争のときは社会主義者が反戦運動を行っていましたが,少数でした。むしろ「この非常時に」ということで白い目で見られていました。太平洋戦争後,彼らの再評価が行われましたが,実際はそれほどの影響を与えていたとは思えません。これもまた戦後に行われた歴史の書き換えだと思います。
新聞は右も左も戦争賛美でした。日中戦争のときなどは,社会党系の議員のほうが国家総動員体制を作るのに熱心でした。社会党系の議員が,近衛首相をスターリンとムッソリーニになぞらえて褒め称えて,他の議員(後の自民党系)に「共産主義国の独裁者とわが国の首相を並べるとは何事か!」とたしなめられたという笑えない話もあります。
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楊 景順さん 投稿者:太田守人 投稿日:11月15日(木)13時16分57秒
その通りです。私も、戦争とは外交交渉の一変形であると思います。ただ、明治の日本人が約10年位の間に、反戦気運が出てきたことが、非常に不思議に思っています。例えば、日清の時代と日露の時代を生きた人々が、まったく違う人だったら分かりますが。更に、この「正義の戦争」といった文化人が、名前は失念しましたが、左翼系のひとだったような記憶があります。
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(無題) 投稿者:楊 景順 投稿日:11月15日(木)12時46分39秒
太田さん、太田さんの趣旨とは違ってしまいますが、正義の戦争なんてあるのでしょうか。大体そのような言葉を使う文化人が怪しいという気もしますが。戦争は外交の一手段にして最後の手段だと勝手に解釈し、よっていいも悪いもなく、単に物理的な問題だと考えています。
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楊 景順さん 投稿者:太田守人 投稿日:11月15日(木)12時30分52秒
そうですか。あれは反戦歌ではないのですか。ありがとうございます。日清戦争の時は、あまり反戦がなかったそうで、誰だったか失念しましたが、日清は全然正義のための戦いだったが、日露戦争は違うと言った文化人がいたように記憶しています。この落差はなんだったのでしょう?日本人の教育水準があがったのでしょうか?
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(無題) 投稿者:楊 景順 投稿日:11月15日(木)12時25分23秒
与謝野晶子女史の弟の行方については分かりませんが、この歌に関しては、山本夏彦氏が面白いことを書いておりました。
この歌は反戦歌として紹介されているが、反戦歌ではなく、当時の庶民の率直な気持ちを歌ったものだ。反戦的だという批判もあったが、掲載した明星は発行禁止になっていない。与謝野晶子は堺の商家の娘で、当時の庶民の気分としては、戦争は武士の仕事で庶民には関係のないこと。それを徴兵制で巻き込むのは迷惑なことだという気分が一般的だったそうです。このため、国も長男は徴兵しないという制度にしており、これを庶民は利用して、子供のいない家庭の養子にさせる親がおおかったとか。さらには、戦争が終わってから離縁して元どうりにしたそうです。
これを反戦歌だとあおったのは誰なのかしら。
また、大山元帥の奥さんは確かに美人でした(私は陸奥宗光の奥さんの方が趣味ですが)。ただ、彼女は会津藩の士族の娘で、維新後斗南に移住して苦労しております。津田塾大学を創設した津田梅子女史を助けたそうです。
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Toshyさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月15日(木)12時07分45秒
私も司馬小説が好きになれないのは、感情的なものもあります。家康という人は、ひどいどもりで爪を噛むくせがあったと聞いたことがありました。私も、中学校まではひどいどもり(高校で幸い直りましたが。)で、それでいじめにあっていました。更に私は爪を噛むくせがあります。まあそこで家康には、非常に親近感を感じるわけです。心理学の本で、爪を噛む癖のある人間は、戦場ではきちがいになれるそうです。家康が、三方が原で武田信玄に負けるのも分かっていても、立ち向かっていったのも、家康がきちがいになったいたのかなーと思っています。
私は、司馬小説を読むたびに、彼も関西人だなーと思います。ただ、彼に古代史の小説を書かせたらどう書いたかなーと思うことがあります。
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こんなにも早く 投稿者:きんたろう 投稿日:11月15日(木)00時04分14秒
笑いを取れるとは思いもしませんでした。
高坂さん、large 3 yuanさん有り難うございました^^
ろう がWAXとはストレートな訳し方ですね、笑
でも無料サービスなので仕方がないですね、大目に見て下さいね(;^_^A
Mrは自動的に付けるようにしてあるようですね??
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きんた wax さま 投稿者:large 3 yuan 投稿日:11月14日(水)23時27分57秒
笑えます(^^)
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驚いた! 投稿者:高坂英吾 投稿日:11月14日(水)23時23分34秒
> トップページの画面真ん中左に「English
here」を付けました。
こんなサービスがあるとは!!これは画期的ですね!
「きんた wax」とか「Mr.kituno」とか、爆笑ものも結構ありますが、(^_^)
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英語版のページ 投稿者:きんたろう 投稿日:11月14日(水)23時18分50秒
トップページの画面真ん中左に「English here」を付けました。
これをクリックしてもらうとエキサイトの翻訳ページによりきんたろうのホームページの英語版へと飛ぶことが出来ます。
英語版も是非ご覧になってみて下さいね^^
英語版のトップページからだとこの掲示板も英語版になっているから不思議ですv(^o^)
日本語で作ったページが英語へと自動的に翻訳されて表示されるのですから、これはものすごい発明だと思いました。
確かに翻訳が適当ではない部分も多いのですがそれは仕方がないと思いました、笑
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タリバン 投稿者:きんたろう 投稿日:11月14日(水)23時16分17秒
とはバーミヤンの石仏破壊を行ったり女性にベールをかぶせて社会生活を奪ったりと現代の常識からは到底容認出来ない蛮行をずいぶんしてきました。
イスラム教は確かに偶像崇拝を禁止していますがイスラム教以外の宗教を認めないなどという偏狭な事は歴史的に見てもしていませんでした。
普通に考えれば、あまりに他に対して排他的で偏屈な規律を持った宗教が世界宗教として広まるわけがありませんよね。
タリバンのやっていることは幕末から明治維新初期に行われた一種の廃仏毀釈であり尊王攘夷運動なのだろうと思います。
>勧善懲悪大臣
>勧善懲悪次官
それにしても外務省もナイスというよりもさぞや我が身を振り返った事でしょうね、笑
山県有朋といえば明治の元勲ですが彼が華族制度を作ったのでしたよね??^^
山県は太っ腹ですが金に汚いと読んだ記憶があります^^;;
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太田さん 投稿者:Toshy 投稿日:11月14日(水)18時11分49秒
司馬遼太郎は関西人でしたね、だから徳川嫌いはなるほど、と感じました。
俺は明治以降の歴史に全く暗いので、陸軍などの話はわからなくて申し訳ないです(わら
あべさん>
そうでしたか。
俺は「関ヶ原」「城塞」などから司馬を一時期読んでいましたが、
「菜の花」だけで評価が変わってしまったのだから、
感情的になっているだけといわれてもしかたなかったりして(わら
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Toshyさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月14日(水)17時16分27秒
私も司馬小説というのは好きになれません。私は、徳川家康を彼は蛇蠍の如く嫌っているように思います。また、戦史研究家の中で、旧日本陸・海軍の公式記録ほどあてにならないものはないということが常識だそうです。
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逆に私は 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月14日(水)16時59分56秒
「菜の花の沖」はまだ読んでいないんですよ。
ちなみに,乃木が山縣のスパイだった,明石元二郎が山縣の引きで出世した,というのは「日本の参謀本部」という本に書かれていたことで,司馬さんとは関係はありません。
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あいや安部さん 投稿者:Toshy 投稿日:11月14日(水)16時45分23秒
俺が司馬批判をするのは、そのようなことではなくて、もっと感情的なものなのです。
(そもそも氏の幕末小説など読んだことないので、批判のしようがありません。)
氏は「菜の花の沖」では宮城県を辺鄙扱いし、また津太夫らを想像で馬鹿者扱いしています。
つまり、史実にないことまで書いて必要以上に若宮丸の乗組を貶めているわけです。
ただの東北人差別であって、司馬に弁明の余地はないですよ。
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第3軍で 投稿者:太田守人 投稿日:11月14日(水)16時24分20秒
与謝野晶子の弟も、第3軍の兵士として旅順攻撃に参加していたはずですが、どうなったのでしょうか?戦死したのか、それとも凱旋できたのかご存知の方はいらっしゃいませんか。
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乃木が軍旗を 投稿者:太田守人 投稿日:11月14日(水)15時41分11秒
西南戦争の時に、西郷軍に取られたという事件がありました。帝国陸軍では、陸軍がなくなるまで、軍旗は命より大事で、この時も乃木に対し避難轟々で、切腹寸前まで行きますが、その人柄を明治天皇が愛していたこともありますが、天皇の一声と山県がかばったため事なきを得てます。
児玉源太郎と乃木希介は大親友で、児玉は満州軍総司令官の大山巌の指揮官交代の命令書を懐にもっていましたが、これを見せると乃木は自殺すると思い説得に努めます。乃木の長所は、人の言うことを聞くということですが、この時も親友の説得に応じます。児玉は、第3軍の指揮をとりますが、最後のおいしいところは、すべて乃木に譲ります。
203高地は、最初まったくロシア軍も無視し、防御陣地も置いていませんでした。ここに目をつけたのは、海軍の方で、海軍が陸軍に攻撃を依頼します。第3軍は、参謀長の伊知地少将始め、参謀達が海軍が僭越だといきり立ちますが、陸軍省の要請を無視するわけにもいかず、しぶしぶ1個中隊でここを占領しますが、ここの戦略的重要性にきずいたロシア軍が大軍を送り込み、この部隊は敗退し、以後ロシアはここに大要塞を築きます。乃木第3軍は、ここに1列縦隊で突撃を繰り返し、当時の新兵器機関砲に損害が大きくなります。
児玉源太郎は、当時日本陸軍最大の28センチ榴弾砲を観音崎・函館・対馬等の要塞からはずし、旅順に運び込みます。当時の戦艦の主砲は30センチですから、それに匹敵する大砲です。
この時も、第3軍の参謀たちは猛反対しますが、児玉が強引に命令でことを進めます。
この大砲のお陰で、旅順要塞は大損害を蒙るとともに、児玉は兵糧封鎖をはじめます。このため、ロシア軍には壊血病が蔓延します。
児玉源太郎という人は、陸軍部内でも戦場のにおいが分かるという評判があったそうです。ここまでして、児玉は乃木に第3軍の指揮権を返還します。
乃木という人物は、軍人には好人物すぎて不向きだったのでしょう。第3軍に関しては、彼1人の責めというより参謀と連帯責任ということも出来るかもしれませんが、司令官のリーダーシップと
点では問題でしょう。乃木の精神主義は、旧陸軍に脈々と受け継がれます。乃木は、ナスのからし漬けが大好物だったといいます。そこで、旧陸軍では、よくおかずにナスのからし漬けがでたそうです。
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司馬さんの小説は 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月14日(水)15時31分00秒
昭和前期の日本の失敗をどう理解するべきか、という視点から出発しています。
そのことを頭に入れてから読むといろいろと理解できるところがあるのですが、歴史を出来るだけ再現しているかと言うと、ちょっと問題が残るのかもしれないですね。
ただ、司馬さんは江戸時代の庶民の生活を非常に良く調べていますから、Toshyさんの司馬さん非難は一部あたらないのではないかと私は思っています。当時の社会状況や、生活習慣を頭に入れてから資料を読み解くとまた違ってくるのではないかと思います。つまり戦後に生まれ育った私たちが忘れてしまった生活習慣だとか、社会通念だとか差別だとかも司馬さんは頭に入れて資料を読んでいます。Toshyさんの司馬さんの非難を聞いていると、そこらへんが抜けている気がするんですよ。
「坂の上の雲」では乃木大将が無能であることはそんなには書いてありません。司馬さんの非難はむしろ乃木の副官に向けられています。参謀が権限も無いのに軍隊を指揮する、それを止められない指揮官、この日本陸軍の組織的な欠陥、この典型を司馬さんは旅順に見たのではないでしょうか。
「昭和と言う時代」と言う司馬さんの本がありますが、これを読んでからでないと、人によっては司馬さんの小説と言うのはいらぬバイアスがかかっているように見えるかもしれないですね。
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乃木は無能という評価 投稿者:Toshy
投稿日:11月14日(水)14時22分13秒
は司馬遼太郎の小説の影響がかなり強いようです。
俺自身は日露戦争のことを何も知らないため発言できませんが、逆に「では自分が乃木の立場だったらどうする?」と質問されて答えられる人はほとんどいないのだと。
203高地を陥落させたのは乃木将軍の力であると認めている人も相当いるようです。
(司馬は結果論から歴史上の人物を非難するのが気に入らない。だから俺は司馬嫌いだけで「乃木は無能ではない」と決め付けています:わら)
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:11月14日(水)13時00分47秒
恐れ入ります。大山巌という人物は、従兄弟の西郷隆盛と同じ大人物で、夜寝てる時に近くに砲弾が落ち、部下が青い顔をして入っていくと、「何かごわしたか?」と聞いたそうです。兎に角、近くにいるだけで、皆暖かい気持ちになったそうです。これも、西郷のもう一人の従兄弟であった、海軍大臣の西郷従道もそのような人物だったといいます。西郷従道が海軍大臣だった時に、部下の山本権兵衛が決裁をある時持って行き、忙しそうなので、後でご覧ください。とおいて来ます。
ところが、1週間たっても10日たっても決裁が降りてこないので、文句をいいに行くと、涼しい顔で、「あなたがいいと思ったらそうしてください。ただし、責任は私が取ります。」といって、判子を預け、後日問題が出たら、自分から泥を被ってくれたので、カミソリ次官といはれた、山本権兵衛も一遍にペシャンコになったといいます。
この大山巌の奥さんが捨夫人といい、明治始めに、岩倉具視と一緒にアメリカに渡った少女の一人で、絶世の美女だったそうです。
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(無題) 投稿者:楊 景順 投稿日:11月14日(水)12時53分20秒
アルカイダの素敵なネーミングは、本年殿ユーモアー大賞とすべきだと思います。受賞者はアルカイダと外務省ちなみに、勧善懲悪省もあるのでしょうか。
太田さんの山縣有朋が線路を建設するさいの話は、技術者、専門家と呼ばれている人のよく陥る欠陥です。一見理論的で、矛盾がなく、反論ができない。だけど、常識の直感では間違っているのではないかなと感じるようなところです。こういった思考をするから、偉大な発明発見は専門家にはできなくて、門外漢が実現することが多いのだと思います。パラダイムの転換を促すような発明発見はタブーのない素人の素朴な発想が重要だと感じます。だから、「素人が何をいうか」といった論調をする専門家あるいは擬似専門家は、よく分かっていない、ただの受け売り講釈師とみなして間違いありません。本物は、素人の意見に根気よく耳を傾けるものです。専従者にはない大胆な発想が得られますから。
ここで皆さんが歴史をテーマにいろいろ推論されていることが、いつか歴史学の転換を呼び起こすようなことがあるかもしれませんね。
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聖将乃木は 投稿者:太田守人 投稿日:11月14日(水)12時30分33秒
東郷平八郎が聖将にされた時、山県有朋がなんで海軍だけだと文句をいい、陸軍も誰かいないかということで、児玉源太郎がどうだという話になりますが、彼が死んでいたので、山県有朋の引きで乃木ということになったそうです。
この山県有朋は、東海道線を建設する時も川上操六と共に、艦砲射撃を受けたらどうする、もっと山の中に作れとごり押しをし、頭に来た伊藤博文が、山県の胸倉をつかみ、「貴様。陸軍さえ無事なら、日本はどうなってもいいのか。」と詰問したといいます。ただ、山県の死後、あまりにもえこひいきがすごいので、外の派閥の反発を買い、陸軍では長州閥であれば反対に出世できない時期もあったそうです。
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とあるところに書いてあったのですが 投稿者:安部奈亮
投稿日:11月14日(水)11時45分44秒
アメリカ同時テロが起きて,テロの資金源を根絶するために,アメリカがアルカイダやタリバンの主要人物の口座を閉鎖するように,世界各国にテロリストのリストを作って金融機関へ警戒を呼びかけました。
で,日本の外務省がアメリカから送られてきたリストを日本語に訳して国内の金融機関に配ったのですが,アルカイダの閣僚の中にこういうのが混じっていたそうです
勧善懲悪大臣
勧善懲悪次官
こんな政府機関を作ったタリバンを誉めるべきか,ナイスな邦訳をつけた外務省を誉めるべきか。
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太田さん 投稿者:きんたろう 投稿日:11月14日(水)02時43分12秒
詳しい説明を有り難うございました。
さすがですね^^
>きんたろうさん、私は児玉源太郎と大山巌と第1軍司令官の黒木(名前失念)は別格だと思います。
>黒木司令官は、ロシアからも「クロキ」といって恐れられたそうです。
大山巌といえば西郷さんの従兄弟でしたよね??^^
かろうじてロシアに勝ったとはいえ203高地の損害はものすごいものでしたよね。
これは乃木が無能であったからだと結論付けられても仕方がないと思っています。
旧日本陸軍がこのように将軍としての能力に欠ける人物が出世をする事が出来る組織であったのは一般兵士のみならず日本全体にとっても不幸だったと思っています。
>むしろ無能な彼を対象に選んだ人物の方が責任があると私は思います。
安部さん、言われてみれば正に確かにその通りだと思いました。
それにしてもすごいと思ったのは今度引退を表明したマグワイアです。
彼は2年契約にサインをしさえすれば30何億円を手にすることが出来たのですが自ら報酬に見合うだけの働きが出来ないと言って引退したのですから...
恐るべし人物だと思いました。
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第3軍の参謀長 投稿者:太田守人 投稿日:11月13日(火)17時23分23秒
は薩摩出身だったそうで、陸軍は、軍司令官が長州なら参謀長は薩摩(反対もある。)という人事をしていたそうです。海軍は、山本権兵衛が薩摩という派閥をぶっ壊していましたが。海軍のおもしろい教育方針として、大尉や少佐という海軍大学校を卒業した、エリート士官が、艦長や司令官という上司の再教育にあたるというシステムがあったそうです。これも、山本権兵衛の発明だそうです。私は、東郷平八郎という人の晩年はまったく評価していません。海軍をあの太平洋戦争の持っていったのは、「神様と宮様。」といいいます。神様は東郷平八郎、宮様は伏見宮という海軍の重鎮でした。元帥になると、死ぬまで定年がなく現役だったそうです。
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何で乃木が指揮官になってしまったかというと 投稿者:安部奈亮
投稿日:11月13日(火)17時21分19秒
山県有朋というのは,自分のために働いてくれた人物には必ず報いました。そのせいでしょう。
明石元太郎という,日露戦争のときにロシアで後方かく乱をやった情報将校がいますが,この人も山県の部下です。明石は,実戦の指揮は全くしたことがないのに,譲歩畑いっぽん槍で大将にまで上りました。そして台湾総督にまでなりますが,これも山県の引きです。
山県有朋はスパイやかく乱などの情報戦術を上手に使いましたが,日露戦争以後の陸軍は山県がこのときに作り上げた情報収集の組織と参謀本部による陸軍支配を悪用してしまいます。山県有朋は政治家,特に政党が自分の官僚組織に口を出すのを極度に嫌いました。この性格が彼の死後も生き残ります。更に山県が自分の部下にポストを分け与えてしまったことも,能力によらない人材登用という悪しき前例を作ってしまいました。
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「北条時宗」は 投稿者:安部奈亮 投稿日:11月13日(火)17時10分55秒
前半の主人公は父親の北条時頼,後半の主人公が平頼綱と安達安盛と思って見ればそれなりに見られると思います。せめて平秀禅師の乱まではやるべきですよね。時宗の死で終わりじゃ尻切れトンボになります。
そろそろ一遍上人が出てきてもいいはずなのですが出てこないですね。なんだか最後まで出てこなさそうだ。踊念仏のサイケな雰囲気は不安定な世相を表現するにはもってこいだと思うのですが。
日露戦争の第三軍の苦戦は,派閥人事で大将の乃木と副官の誰だったか忘れたけれど無能な奴を選んでしまったのが失敗の元ですね。旅順の失敗は、の乃木大将の無能も去ることならが,むしろ無能な彼を対象に選んだ人物の方が責任があると私は思います。
乃木希介は,元々吉田松陰の甥という立場を山形有朋に買われて,秋月の乱の時に政府側のスパイとして働いていました。このように乃木は元々情報将校ですので,戦闘に訓練は受けていませんし,実戦経験も浅いので,彼に大軍の指揮官を任せることのほうが元々おかしいのです。
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時宗が 投稿者:太田守人 投稿日:11月13日(火)16時52分17秒
来日していた、無学祖元を知らず、謝国明だったかの紹介で会うという所があったと思いますが、あの人物って、時宗が招聘したんじゃなかったですか?まあ、今年の大河は滅茶苦茶です。期待していた私が馬鹿だったのか、もう見る気しません。「北条時宗」でなく「暴れん坊執権」てタイトル替えたらどうかと思います。
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(無題) 投稿者:太田守人 投稿日:11月13日(火)11時05分00秒
もっとも当時の日本陸軍の指揮官の無能さはひどかったですよね。
あんなレベルの大将ではもし彼が戦国時代に生きていたら歴史に埋もれてしまったと思います。
きんたろうさん、私は児玉源太郎と大山巌と第1軍司令官の黒木(名前失念)は別格だと思います。
黒木司令官は、ロシアからも「クロキ」といって恐れられたそうです。ただ、彼は上層部の作戦方針に文句をいったため、外の司令官が大将まで昇進したのに、中将でクビになったそうです。
乃木以下第3軍の司令部は、無能だったようで、児玉源太郎が第3軍の損害が余りにひどいので、指揮権を交代しますが、その時の参謀の立てた作戦計画に、同じ連隊を2方面に配置してあったそうです。また,児玉源太郎は、当時の大本営次長の長岡外史が東京駅に出迎えに来た時、「馬鹿。火をつけて、消すことを忘れる奴があるか。」と一喝し、終戦処理をいそがせたそうです。
この児玉源太郎は、兵からたたき上げの将軍で、旅順もこの人のおかげで落ちたようなものです。
ただ、日露戦争終了後すぐに病死したため有名ではありませんが。
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時宗に関しては 投稿者:輔住 投稿日:11月13日(火)07時38分54秒
言いたいことがたくさんあるし、(実際少しここでも書いたし)
史実とは違うところがありすぎるし、(多少はいいけど)
宗尊親王と桔梗いなくなってからつまらなくなったなあ。
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